ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

ムジカのキオク。♪note:https://note.com/ryoushitsumusica ◆YouTube: https://www.youtube.com/channel/UCWvTBOe1O9GICLtyreUu-6Q

先日、精神病院に行きました。

 何が正しいのかを判断することは、相対的判断である。自らの体験を判断するには他の似たような経験が比較対象である。だが今回初めての体験を判断しようとすれば比較する情報に乏しくなるわけで、相対的判断も困難だ。

 そこで、今回の経緯を説明する。時系列で。わたしは先週の土曜日。予約していた病院(精神科だ)に向かうべく支度していた。15時予約だったが、名古屋にあるその病院に行くのには、自動車で1時間はかかる。また、当日はかなり久しぶりの大雪に見舞われたため、当初、自動車で行くことが躊く躇われた。つまり、大雪の天候に見舞われた結果、名古屋高速を使う事は不可能となり、当然一般道も激混の様相を呈する。それならば、ちょうど名古屋駅近くにあることもあり、電車で行くことも検討したほうがよさそうだった。しかし、どうしても気が乗らない。なぜか。寒いからだ。寒い中に電車に乗るという行為があまりにも今の自分には負担に感じられた。例え電車の中が暖房完備で暖かいとはいえ、駅から徒歩であるくその道中は寒さにさらされるだろうし、もっといえば、帰り道にとぼとぼと歩いて帰りたくない。なにせ、病院だ。ただでさえ気が重いというのに、なぜ、終わってからもまた重い気持ちを引きずって歩かねばならないのか。嫌だ。

 そうやっていつものごとく頭の中をぐるぐるとしていた。行きたくない。でも行けばなんとかなるかもしれない。でも行きたくない。その繰り返しである。そうしてグダグダとしていたがやっぱり車で行くことにした。それは、最近、移動中にYouTubeを聞くことがとても心安らぐので、こういった緊張した雰囲気のときにはYouTubeを聞きたいと思ったからだ。このチャンネルの長嶋さんめちゃくちゃ声が癒されます。よければ↓のバナーから見てみて下さい。

長嶋 修の「日本と世界を読む」政治・経済・金融・歴史・哲学・宗教・科学等広域カバー。 1999年に業界初の個人向け不動産コンサルティング会社である、不www.youtube.com 

 何言ってるかわからないとおもうけど、そういう奥行のある話はぼくを攻撃しないので安心して聞けるし、奥行きの先に何があるのかを考えながら聞いていれば、悩まずに済みますのでHSP持ちにお勧めです。

 さて、そうして車を走らせたぼく。もちろん一人。家族についてきてもらおうと思ったこともあったけどやめた。一人じゃないといろいろやきもきするだろうから。一人で孤軍奮闘しているほうがまだ気が楽だから。そうして向かった名古屋駅。スムーズに運転して現場近くに来た。再開発が進んでいる。見たことないような開放感のある東口だった。あれ、ここ、大名古屋ビルヂングあったところじゃなかったっけ。見通しが良すぎてわからないや。

「駐車場を探さなきゃ」

 駐車場探しのために15分前につくようにきたぼく。病院の入っているビルの横の名鉄パーキングは15分300円。うーん。高いな。ちょっと離れたところは?こっちは10分300円。もっと高い。ちょっと離れたところはここも10分300円。高い。この辺はこのぐらいが相場なのか。いやまてよ、このあたりは打ち止めがないが、さっきの2個目のところは打ち止め3000円だったな。うーん。高いけど、打ち止めがあるほうが安心だからそっちにするか。

 そうして駐車。これがもし電車なら行き来でも800円ぐらいで行ける。やはり車で来るんじゃなかったと少し後悔。そこから歩こうと思ったときにはもう15時だった。やばい遅刻だ。いそいそと歩く道中で、ガタイのいい男の人2人が大きな買い物袋を運んでいた。これぜったい転売ヤーじゃん。こういうのがいるから世の中ほんと生きづらいんだよ。

 そうして病院の前に行く。途中隣のビルと間違えそうになった。エレベーターで3階に行き、降りる。予想通り雑居ビルの1室だ。予想通りの手狭なスペース。なのに、受付がずらっと並んでいて驚いた。なんで4人もいるの。。。いや、6人か。多すぎる。しかもなんだこの入ってすぐに注目浴びるという最悪なシチュエーションは。この病院だいじょうぶか?

 精神科に来るのは初めてなのであまり悪態をついてもよくない。別に対応が悪いとか、怪しいとか感じないのでまあ精神科というものはこういうもので、ぼくみたいなメンドクサイ人を対応するところなのだ。これくらい分厚い防御をしたほうがよいのだろう(と一人ごちた)。

 

 初診はアンケートを答えるらしい。いたって普通のアンケートだ。これまでにどういう病院に通ってきたか?とかそういうの。2枚目もある。2枚目はなんていうか。。。考え方の診断みたいなもの。4問ぐらいの。丸を付ける。そして受付に戻して番号札をもらい、待合室へ。う。この待合室、何もない。あるのは本棚(少し)だけ。あとは病院にあるような長椅子が、12ぐらい?これ、ずっと壁を見ながら待てというのか。。。これはかなりつらい。せめてテレビとか、水槽とか、なんかないのかな。院内のBGMはひたすら癒し系のBGMだけれど。

 ほどなくして呼ばれる。そして狭い部屋に案内される。そこには小さいテーブルと、イスが2個。広さで言えば、たたみ2畳ぐらい?奥に座らされる。そしてカウンセリングが始まった。「今日はどういう目的で来院しましたか」「どんな症状でお困りですか」とかそういうの。あまり覚えてない。でも、今日あったばかりの人とこんな狭い部屋に押し込まれて(HSP的にはすごく嫌だ)、身の上話をさせられるって結構なストレス。ぼくは1対1で話すことに抵抗はないのでスラスラと答えた。子どもの頃の話、家族の話、仕事の話、、、最近の話。悩みとか。辛いこととか。あれ、見ず知らずの初対面の人にこういう話をするのって初めてだ。しかも向こうは否定せずにただ聞いてくれる。あれ、これがカウンセリングか。なるほど。

 そろそろ結論。病院に行った感想としては、これでおしまい。実際はこのあと、先生にバトンタッチして話を聞いてもらうフェーズがあったけれど、それはほとんどここの話の焼き直しというか確認だった。口コミなんかにも書いてあったけど、こちらの症状や病名を明確に答えない方針らしい。いろいろはぐらかされているような雰囲気が少し気になったが、結論から言えば別にそれでよかったと思う。通常の病気のように悪いところに薬を塗ったり(この病院も処方箋は出していない)、手術で切り取ったり、栄養を注射するようなことはしないものなのだ。治療は何か?といえば、「話を聞いてもらう」。つまり、すでに治療は終わっていたのである。

 先生の存在意義は最後のダメ押しという感じ。病院が押したいQEEG検査をさせるための最後のダメ押しという感じだ。だが、僕はその検査については最初の段階で断った。「そういうのはいいです」と。そして、「正直、信用してません」とハッキリ伝えた。そこで病院側からすれば「この人は話をしたいだけなんだな」と伝わったと思う。そして「この人から利益は少ないな」とも。だから、僕は手短に話ができればそれでよかった。先生がいようが、そうでない人だろうが、話ができればそれでいい。つまり、ぼくは答え合わせをしに来ただけである。答えは僕の中にあるのだ。

 そろそろ終わり。精神病院に来て良かったかと言われれば、ぼくは良かったと答えたい。なぜなら、最悪ここに逃げてこればいいという安心感を得ることに成功したからだ。信用できるできないじゃなく、最悪、ここにきて不安に思っていることを「しゃべればいい」。それこそがここの存在意義である。病院はこうあるべきだ。病院は最後困ったらここに行けばいいという安心感こそもっとも重要な要素である。それを宗教や、その他の何かにゆだねることの方がよほど恐ろしい。

 ぼくは今回、病院を訪ねることで自分自身が何で迷っているかについて、確認することができた。それは迷いに名前を与える行為だと言っていい。それこそが僕がやりたかったことである。また、こういった経験をすることで「ぼくはまだ大丈夫だ」と思えることが重要である。そういう意味で、今回の診断料だけの請求は妥当である。ちなみに診断料は3,300円であった。駐車場が2,700円(500円の割引を使ったから実際は2,200円)だから、合計6,000円。安くはないが、納得の金額である。だが、最後に、もし6,000円払うのなら、ぼくは、さっきのYouTubeの動画の長嶋先生のメンバーシップに加入するほうがよいと思う。あれはほんとうに精神的に落ち着く。料金は月に6,000円だ。なにもずっと払い続ける必要はない。新作動画がある程度溜まったところでダーッと見ればいい。1ヵ月使ってまるっと見終わったら解約すればいい。そしてまた心のデトックスが必要になれば、また長嶋先生の動画を見ればいいのだ。それは悟りだ。まさに見ているときは無心になれるから。

ココロが風邪をひく、をなぜ自己申告しないといけないのか。

    人間、風邪をひいたら熱がでる。それは風邪を治そうとするカラダの防衛反応であり生理現象だ。つまり当たり前である。そして、咳が出たりする。これも防衛反応だ。体の中にあるいろんなウィルスを体の外に出そうとするときに起きる。それは当然の反応である。にも関わらず、薬局に行けば、咳止め薬、解熱剤が売られている。そしてそれを買おうとする。なぜだ。それだけを見れば、咳がでることや、熱が悪で、それを退治することが風邪を治す特効薬のような見え方をしている。なぜだ。

    つまり、風邪をひいたときにしなくてはいけないことは、しっかり栄養と水分を取って休むことである。熱をむりやり下げたり、咳をむりやりとめたりすることは健康になろうとする体の反応を阻害するようなものではないだろうか。つまり、頑張って体の健康を維持しようとする人たちを除外する行為に見えなくもない(こういう言い方なのは、もしかしたら医学的に意味があるかもしれないから)。ぼくは、表面的な事実だけを切り取って最短ルートを選択するような癖がある人だ(った。今も割とそうだけど)。だから、その事実だけを考えるとどうもそういう理解になりがちである。

 世間で騒がれているニュースや、世間体と呼ばれる意識、もしくは常識と呼ばれる知識を扱う際も同じことを思っていた(節がある。最近ではだいぶ薄れてきた)。僕はニュースをつぶさにチェックしていたし、有識者と呼ばれる人たちの意見を半ば鵜呑みにしてきた。今思えばそれはかなり危険な行為だったと思える。だが、それはいうなれば、学校で教わった処世術だったりするからこれも恐ろしい。つまり、有識者(この場合は大人や先生)の言うことをそのまま受け取り(まるで問題集の答えを見て回答を覚えるように)、その答えをいち早く察知(覚えて)して、アウトプットするスピードこそ、教育の本質だったからである。それをそっくりそのまま現代社会に応用すれば、有識者(先輩や上司)の言うことをなるべく早く覚えて(習得して)、その通りにアウトプットすることだけが上司に認められ、出世するという社会人としてのルールそのものである。

 いや、別にそれをダメだとか、時代遅れだとか言いたいわけじゃない(そう思ってはいるけど)、今回僕がいいたいことの一つは、なぜ、風邪の諸症状に対しては、分かりやすく体調を崩すので周りは心配するのに、ココロの風邪においては、「仮病ではないか」と後ろ指を指されなくてはならないのか、という点についてだ。

 ココロの病気は、本人の感じ方次第。だから、うつ病と言われても、それがうつ病なのかどうかは極論を言えば、本人にしかわからない。だから、もし仮にココロの風邪にかかったとしても、それを周りは察することができない。そればかりか、「サボっているのではないか」と疑いの眼を向けたり、「努力が足らないのではないか」と思ってしまう人が少なからずいる。いや、正直言ってしまえば、僕自身もそういう感覚はある。だからこそ、僕は自分自身がココロの風邪にかかっていたとしても自己申告できない。つまり、「ココロの持ちよう」なのであれば、「自分でなんとかする」ほうが、誰かに打ち明けて変に心配されたり、病人扱いされるよりは、ずっとましだからだ。

 あらかじめ断っておく。これは独白である。この行き場のないもやもやした気持ちを誰に話せるわけでもないので、ここに書いているだけだ。書きなぐっている、だけだ。つい先日も「心がチクチクする」というタイトルで記事をあげたが全く同じ理由だ。そのほんの数日前のブログを見て自分自身がどう考えてもココロがおかしい状態であることを客観視することができたので、こうして今またnoteを書いている。これは昼休憩中なのでサボっているわけではないことは付け加えたい。

 ちなみに午前ももやもやした気持ちを抱えながら必死になってデスクワークをこなしていた。最近のわたしにとって、このもやもやは危険だ。それでもデスクワークをこなした。そう思えば、わたしはちゃんと仕事をしている。ちゃんと仕事の質を落とさずにきっちりと仕事をしているといえなくもない。質は落ちていないのだ。だが、どうしても無理をする格好になるので、少なからずココロにダメージが残る。蓄積されていく。この蓄積、という表現が一番しっくりくる。

 ココロのダメージは、いろんな形で消化できる。その一つが「食べること」だ。好きなものをお腹いっぱいに食べて満足すれば一定数以上の幸福感を得ることができる。または、好きな音楽を聴いたり、YouTubeなどでショート動画を見たりして現世の悩みを忘れることもいいだろう。だが、ここで一番大切なことはそれらはすべて「悩みを消化していない」という事実だ。

 どういうことかと言えば、それらは「忘れる」に近い。悩みを頭の中から一時的に「消す」。つまり、頭のストレージから悩みというキャッシュを一時的に削除した状態である。スマホが当たり前の現代社会に生きるあなたならわかるだろう。キャッシュは消しても消しても「また復活する」。

 キャッシュ(ここでは悩みとする)は、行動によって蓄積される。つまり、一時的にキャッシュを削除したところで、行動が同じであれば、また「溜まる」。そう、なくならないのだ。「消化する」というとなんだかきれいさっぱりなくなるイメージがあるがそうではない。つまり、僕の勘違いのもとはここにある。悩みは、消えない。

 ならば、行動を変えれば悩みは消えると思うだろうが、そう簡単に行動を変えることはできない。それが、思考パターンならなおさらだ。ぼくがいま僕自身を悩ませている元凶こそ、この思考パターンである。

 世にいう、HSPという体質、気質である。HSS型HSPと呼ばれる気質が自分自身を表現するのに適している。まさに、ぼくだ。

好奇心旺盛、活動的で周りの人に気を配ることができる人です。 マルチタスクも得意でリーダーシップも発揮できますが、後から疲れてぐったりしてしまうことも。 周りからはアクティブに見られますが、その裏で疲れたり傷ついたりしている自分の二面性に悩むことが多くなります。
Googleで検索した文から引用)

https://coelog.chuden.jp/child-rearing/high-sensation-seeking-hsp/

 これは気質である。病気ではない。病気ではないから、治療などない。そういう記述をたくさん見てきた。ああ、これが精神病のひとつなら、どんなに気が休まる事か。。。そんな詮無い事言っても仕方がないが、つまり、この思考パターンこそが、長年僕を苦しめているわけだ。

 冒頭に戻る。ココロの風邪は、目に見えない。どうやって知る?その傾向は?治療方法は?そうやって自分自身に問うてみたが、答えは返ってこない。なぜなら、これがどんな気質の持ち主かはわかった。ほぼわたしのことである。だが、病気ではない。気質だ。考え方を変えることで、もっと生きやすくなるとどこかに書いてあった。だが、思考パターンを変えるとはどういうことだろう。思考パターンを変えたら、明日もやってくるかもしれない「恐怖」を消去できるのか。ココロに溜まったキャッシュはどこかへきれいさっぱり消えてなくなるのだろうか。

 結論から言えば、そんなことはないだろう。だが、もう、一人で悩んで、「なかったこと」にする努力はし尽くした。もう「なかったこと」にはできない段階にまできている。つまり限界だ。もうどんな手を使ってもこのココロの風邪(みたいな気質)は、治せそうにない。だったら、どうするか。専門家に相談するしかないだろう。そして、ぼくは今週末、専門の精神科に行くことにした。もう、ぼくの苦し紛れの方法ではなんともならない。どんな気晴らしをしてもこの「恐怖」は取り除かれそうにない。病院に行って何とかなるのか?それはわからないが、なにもしないよりは。またその結果などはここで記しておこうと思います。同じことで悩んでいる誰かに届くように。

 


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備忘録:または墓標としての記録。FINAL FANTASY XIV ORCHESTRA CONCERT 2022 -Eorzean Symphony-

 オーケストラコンサートに12月17日の土曜日昼に参加してきました。その気持ちが消えないうちにnoteに書き記します。なお、コンサートがどういうものだったかを端的に表現するなら↓の記事が正しいので概要を知りたい人はこちら見てね。

 みましたか?はい。おかえりなさい。ぼくは、このコンサートからもらった気持ちを記してみたいと思います。

 【注意】率直な意見を述べている場所なので、あまり褒めてません。褒めてないけど悪かったとは思ってません。でも褒めるばかりが感想じゃないと思ってます。だから、あの感動を穢すようなこといわないで!と少しでも思う人がいたら、ここから下は読まない方がいいと思います。それでもいいよという方だけ、読み進めて下さい。なお、個人的な感想なのでご了承ください。

 でははじめます。



 
 個人的にぼくのコンサートの楽しみ方は、昔から変わらない。それは「会場の音に身を任せる」この一点に尽きる。会場から発せられるあらゆる楽器の音、音の響き、人々の話し声、歩く時の足音、人の口から漏れた息遣いまたは独り言。もしくは、開園前の会場で流れる導入動画の音。ぼくは、音に興味がある。音が発するメッセージに一番の関心がある。それはある意味でとりつかれていると言っていい。なんせ、本来一番メッセージ性を含むはずの歌詞のストーリーの考察にはなんら興味がないからだ。歌詞は大切だが、それ以上にその歌詞がそこで鳴る、もしくは発せられる「意味」のほうに意味があると思っている。

 どういうことかというと、なるべく多くの音を逃すまいとしている姿勢で、その時に鳴ったあらゆる音が僕にとって「音楽」なのだ。だから、そこに込められた歌詞を考察するという行為は文学のそれであると理解している。つまり、コンサートでは不要だ。前もって歌詞カードを眺めて「これはどういう意味だろう?」と考えることをまったく無意味だと言いたくはないが、僕個人にとって言えば、それは別の楽しみ方なので、音を楽しみに来ている身としては、コンサート会場における言葉はほとんど意味をなさない。むしろその言葉がどのような音程や強度や息遣いによって発せられ、僕の耳に届くのか?というその瞬間こそが最大の醍醐味であり、ここの体験はその時、その場所でなければ体験できないものなのである。そこにこそ、LIVE体験というものの真の価値があるとぼくは思う。

 前置きはこのくらいにして、今回のコンサートについて。上記の事から、ぼくはまず、会場の雰囲気に圧倒されてしまった。これまで体験したことのあるオーケストラコンサートとは違った雰囲気があったからである。それは「いい意味でオーケストラコンサートらしくない」会場だということだ。オーケストラコンサートらしい雰囲気はどういうものかを定義すると、ステージ上のグランドピアノが似合うステージである。もっといえば、お住まいの市町村が持つ大きめの文化会館がそれにあたる。それはどういうものか?と端的に言えば、「厳か(おごそか)」であり、「学校や市町村にありがちなダサさ」があるものである。だが、今回のコンサート会場はとてもじゃないが、「ダサくない」。いい例えが思い浮かばないので思い付いたまま言うと、「bluenote」みたいな、livebarみたいな雰囲気。お酒でも飲めそうなカジュアルさがある雰囲気である。また、ステージ上に吊り下げられた大型スクリーン×3台もまたなんだかダサさからは程遠く、なんというか、オシャレであった。佇まいが。(ほめ過ぎ?いえいえ、褒めてません)

 会場に11時30分過ぎに到着したぼくは、所在ないこともあいまって、早速会場入りし、指定された席に座っていた。13時開始を思えば1時間30分もその場で待つことになったわけだが。しかし、12時になった頃ぐらいから、その大型スクリーンに映し出されるこれまでのパッチトレーラーが僕の耳を楽しませた。新生のエオルゼア蒼天のイシュガルド、紅蓮のリベレーター、漆黒のヴィランズ、そして、曉月のフィナーレ。そのどれもなぜか初見のものだったこともあり(YouTubeにあるとおもうけど僕はふれてこなかった)、その映像から漏れ聞こえるキャラクターボイスにいやおうなしに感動させられてしまった。これはここに1時間30分いて正解だ。早く来てよかったと思った。

 先ほども言ったように、「音を楽しみに来ている」僕としては、こういう響きの一つ一つがすでにいいのである。むしろ、ここで「良さ」を感じてしまったら、本番がかすむのではないか?と心配したほどだ。いや、こういう感覚の人僕以外にもいますよね?朝起きてから初めて聞く音の響きを楽しみたい人なので、ここである程度の音楽の「響き」を体感してしまうと、コンサートのそれがかすむんだって。

 実際、一曲目に披露されたバトル曲は、音圧がトレーラーのそれを下回って聞こえてしまい(つまり、自分の耳がトレーラーのボイスに調整されてしまい)、音声のないオケ(それにしたってすさまじい演奏だったが)に物足りなさを感じてしまった。どこかでキャラクターボイスがSEとして入らないかなあと思って(もちろんそれはなかった)。

 ライブコンサートの音声という「音楽」は、それが仮に音楽とはほどとおいMCであったとしても、「響き」という意味では同じ。同じかそれ以上の価値がある。つまり、会場でいかにして響くか?が大切なのであって、そこに至るまでの過程(例えば、生演奏なのか、CD等の音源の再生なのか、はたまたDTMなどの合成音なのか)は、まったくの同列扱い。もちろんこれは僕にとってという注釈付き。ぼくはそう思う人なのです。
 
 そういう意味で言えば、トレーラーのそれが僕の求めていた「響き」に近かったので、そこから耳を「生演奏」に合わせるのに時間がかかった。具体的には「dragonsong」でトレーラーの声を超える、高いキーの生の歌声にようやく出会うことができ、LIVEコンサートの醍醐味をやっと体感したのである。あ、MCの吉田直樹さんの声にも感動したよ?ああ、同じ空間で同じ空気を吸っているんだあ。みんな、LIVEでアイドルを見る時はそう思いますよね?

 あれはよかった。あれはとにかくアマンダさんののびやかな歌声が、ゲームの中で聞くそれを大きく凌駕していた。音質がいい。音の厚みがすごい。耳に迫ってくる「響き」としての甘美さがしっかり耳に届いた。そして、その力強くも物悲しいメロディラインがぼくの涙腺を刺激し、すぐに決壊した。オルシュファンが守りたかった英雄の笑顔は貴方の、貴方の犠牲のおかげで守られています。でも時々泣いてしまうけれど(それが今だ)。僕はそういう気持ちになった。そういう意味では、前半の新生編はほとんど心に響かなかった。もっとやったことない曲が聞きたかったかも。同じ理由で紅蓮変もほとんど何も感じなかった。クガネの曲か、ドマの街の曲が聞きたかったなあ(FF6のカイエンの曲ね)。

 後半は漆黒のOP曲でしびれた。トレーラーのときに同じ曲を聞いて、自分の好きな悠久の風が入っていることも含めて、すでに「体感済」なのにである。つまり、ボーカルのジェイソンさんの声がとんでもなく、哀愁を帯びた、力強く透き通った男性ボーカルだったので、僕の耳が未体験の響きに打ち震えたのである。あれは本当によかった。だが、その後の戦闘曲「to the edge」はそれを超えることはなかった。あと、その後の「tomorrow and tomorrow」とか「Your Anser」はまたしても、僕の未体験の「響き」により、またしても僕の涙腺を大きく刺激してとんでもないことになった。
 
 このコンサートで一番楽しみにしていた「響き」は、「Close in the Distance」である。僕はこれを聞きに来た。だが、その冒頭。違和感があった。ギターのリード音がない。いや、あったかもしれない。でもぼくはわからなかった。そのため、そのギターの音に合わせて歌い出すはずのあの「響き」を感じ取ることができなかった。そして、それはそのまま「違和感」となってぼくに「響いた」。あれ、リズム合ってる?ずれてない?そういう違和感ばかりがぼくを支配して、結局、この僕の大好きな名曲を楽しむことができなかった。あれだけ楽しみにしていたのに。ここが今回のコンサートにおける最大の残念な点だ。

 あとは、よく覚えていない。途中、祖堅さんのいつものステージ(おもしろかったです)があったけど、音を楽しみにきた僕としてはどうしても「音外し」をしている演奏はつらかった。あれはあれで、音外しという演出なのだろうが、それでも。

 つまり、僕のオーケストラコンサートは、「Close in the Distance」で終わった。その後のあらゆる演奏は、僕の耳を震わせることはなかった。もちろん、東京フィルハーモニーオーケストラの演奏は見事だった。コーラスも素晴らしい。アマンダさん、ジェイソンさんの声、素晴らしい。そこを聞くだけの価値はあった。後悔はないだろう。だが、もう一度こういったコンサートに行きたいか?と言われれば、よほどの名曲がなければ、ぼくは首を縦に振ることはないかもしれない。それは誰かの失敗や、何かの演出ミスがそうさせたわけでは決してない。さきほどの「違和感」ももしかしたら僕個人的なものかもしれない。けれども、東京まで新幹線でわざわざいくほどの「響き」や「体験」があったか?といえば、それはかなり難しい質問になる。実は2回目のコンサートをスルーした理由がここにある。

 今回は3年ぶりの開催だ。それも曉月のフィナーレを終えて初の、である。しかも、僕にとっての名曲がどんな響きをするのか聞いてみたかった。ただそれだけである。ただそれだけであるなら、わざわざ実際に足を運んで聞く必要はなかったのかもしれない。それこそ、後日リリースされるブルーレイDISCで事足りてしまうのである。費用は今回の旅費+チケット代の4分の1程度だ。それで十分にその価値にあった体験ができてしまう。

 つまり、これは、お祭りだったのだ。オーケストラコンサートに行ったことが無い人に向けた入門編としての。だから1回目で体験済のぼくとしては、2回目に価値を見出すことができなかった。1回目を超える何かがあると信じて今回は参戦したが、やはり音を楽しむという一点においては、1回でよいものである。もしこれが、FCメンバーとのオフ会を兼ねてたり、仲の良いフレとのオフ会をセッティングするなら、これほどわかりやすい目印はないのだが(僕にはその予定はないし、今後もない)。

 現に、女性の参加者はとくにコンサート後のディナーを一番の楽しみにしている人も多くいたように感じられた。つまり、コンサートはきっかけなのであり、音を楽しむ場ではないのである。いや、それ自体は全然いいことだよ。そこから始まるラブストーリーもあるわけだから。

 なんというか、音を楽しむ場であるはずのオーケストラコンサートが、それをきっかけとした、巨大なオフ会の開始の合図だったように思えた。これは運営もどこかで意識していることだと思う。プレイヤー同士が付きあったり、結婚したりすることは、これだけ少子化や晩婚化が叫ばれている現代における、わかりやすい「出会いの場」であるし、その意味を考えれば、そいう利用方法のほうがむしろ正しいとすら思える。

 そういう意味で考えると、ぼくはその目的を持っていないのであるから、オーケストラコンサートに参加する意味の半分は失われていると言っていい。だからこそ、これは、これまで体験したことが無い人がオーケストラコンサートに触れる場所であり、巨大なオフ会の会場なのである。

 最後に。オーケストラコンサートは今後も続いてほしいと思う。僕は参加しないかもしれない。よほど僕の琴線に触れる名曲が今後のパッチで生まれるようならその限りではないけど。


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植松伸夫氏のアレンジアルバム『Modulation』発売記念イベントリポート。「いまの自分の感覚で作り直した」『FF』楽曲を植松氏みずから演奏 | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com

 

   それは白い箱だった。真っ白な箱に入ったそれは、透明のプラスチックのケースに収まっていた。プラスチックのケースに納められ、アルファベットで5を示す「V」を冠するそれは、数ページの小さな説明書の下にある。それを目にするためにはその説明書を丁寧に横に置き、さらにビニールの袋を丁寧に広げなければならない。それはどこか異国の宗教の儀式のそれを思わせた。それは祈りに似ていた。謎に包まれた宝石のようなそれは謎に包まれている。これから起きるあらゆる冒険、苦難、悲しみ、そして胸を焦がすような戦いの日々を暗示する不思議な宝石に。

 

   すでにそれが何なのか?それをわたしは知っている。知り尽くしている。私はその箱を近くのお店で手に入れた瞬間から、それを起動するまでの間、抑えがたい昂りを、胸の中に蠢く戦いの意志を、わたしはむしろ膨らむ期待の心で、強く強く感じていた。なぜなら、その戦いはわたしを異世界に召喚する。見知らぬ土地、見知らぬ人々、そして。聞いた事のない異国の音楽。それは、田舎暮らしの代わり映えのしない日々に辟易してばかりだった少年にとって、現実を否定し、夢を肯定し、遠い彼方への希望を信じ切るために必要な理想の答えだった。少年は思った。ここではないどこかへいきたい。この限りなく広がる空の向こうには、もっと、もっと私の心を満たす理想の世界があるのだ、と。

 

    その白い箱に収められたそれは、わたしにとって、遠い未来を引き寄せる旅路だ。彼方の誰かがわたしを呼ぶ声であった。それは小学校6年生のときに友人から勧められて知った。それまで遊んでいたドラゴンクエストを急に子ども向けの世界へと追いやった。見知らぬ世界への羨望。それは少年が子どもから大人に成長する家庭におけるジュブナイルそのものであった。ファイナルファンタジーである。わたしの心は常に植松伸夫氏の「悠久の風」に、魅せられ続けていた。

 

   わたしは子どもの頃、耳に入る音に興味を持つ子どもだった。それはラジオや子ども向け番組からふいに流れるイギリス音楽であった。私が生まれた79年はまさに洋楽が花開いていた。テレビの音楽番組を見れば、ディスコミュージックが流れ、ラジオからは、ソウルミュージックがわたしの心を掴んだ。わたしにとって音楽とは、知らない世界への呼び水。知らなければ知らないほどに興味をそそられた。それは、ゲーム音楽が画面の中の異世界をイメージさせることに、殊更強くリンクした。

 

    わたしが植松伸夫氏の音楽に期待するもの。それは異世界への旅である。わたしを知らない世界へ誘う。知らなくて、魅惑的で、異国の世界。それをわたしは求めた。そこに、植松伸夫氏は、さらに別の要素を刻む。それこそが「愛」。男女の愛、人間愛、そして、博愛。友を思う愛。仲間を思う愛。私にそれを教えたのはまぎれもなく、植松伸夫氏の音楽の功績である。いまわたしがもっともあなたに伝えたいことは、この1点に尽きる。ゲーム音楽を作ってくれてありがとう。ゲーム音楽を教えてくれてありがとう。ファイナルファンタジーの世界を、魅力的な世界にしたのは、間違いなくあなたの音楽です。あなたの音楽があったから、わたしは1度も挫けることなく旅を続けられました。それは、あの頃の私の希望の光。クリスタルの光。そしてそれは今も。

 

   わたしはいま、久しぶりにゲームを楽しんでいます。それは、ファイナルファンタジー14吉田直樹氏の作るオンラインゲームという新たな地平線を彩る祖堅正慶氏の音楽も素晴らしい。だけれど、やっぱりあなたの音楽が持つ愛には、叶いません。いまもファイナルファンタジー14の世界にはあなたの音楽が息づいています。それは、これからも続くでしょう。わたしは、終わらない世界(un-final fantasy)で、あなたの音楽を聞くことが出来ることに、無上の喜びを感じています。ファイナルファンタジーの唯一嫌いなところ、それが、クリアすると僕の好きな植松伸夫さんの音楽の世界を閉じてしまうことだったから。

 

長文、駄文失礼しました。

どうしてもあなたにこの気持ちを伝えたくて

筆を取りました。あなたの常に楽しむ姿勢が好きです。これからもあなたらしく、笑顔で、楽しそうに過ごして、時々音楽を作ってください。

わたしはあなたの世界に出会えて本当に幸せです。これからもファイナルファンタジーで旅を続けます。くれぐれもお体に気をつけてお過ごしください。今日はわざわざ名古屋にお越しくださりありがとうございました。

 

2022.11.13

 


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『りんごの木を植えて』|本のあらすじ・感想・レビュー - 読書メーター



大人の読書感想文を書こうと思う。

 

    結論から言おう。この本は、生きることの意味、死ぬことの意味を読み手にわかりやすく、そして肯定的に語りかける人生賛歌だ。しかも、この話はシンプルである。つまり、読み手を選ばない。大人が読めばいつか自分が向かう未来を。子どもが読めば、いつか自分が体験しうる家族との死別を予習できる。予習できるというところがミソで、大抵の場合、家族との別れは突然だからだ。そして慌ただしく時が過ぎる中で、その本来の意味を噛み締めることなく、事実だけをそれぞれが咀嚼していく。それは必要なプロセスである。

 

    死=別れを回避することなど誰もできない。そして、いずれ自分の身にも起こる。そう思うと、つい別れのつらさを軽減するためだけの方法論として、葬儀をごく淡々とこなしてしまう自分がいたことに気がついた。わたしも、祖父、祖母を数年前に亡くしている。だが振り返るとそのどちらも悲しみを抑えることにばかり終始していた。それは誰もが経験するイベントであり、別段悲しむことでは無いのだと。それをなぜしたかと言えば、そのどうしようもない死という事実を悲しむだけ無駄な行為に思えたからだ。その理由は、悲しもうと悲しまなかろうと死を回避することはできないからである。それは祖父や祖母との別れだけを意味しているのではない。実の父や母、そして自分のパートナーの死をも悲しまないようにするための予防策、または処世術として私の中に確実に存在しているからだ。そうは言っても、私の人生でもっとも死を悲しんだのは、昔飼っていた、ペットの犬の死だったのだけれど。

 

   逆を言えば、若かりし頃のわたし(確か中学生)が経験したペットの死という事実は、わたしに少なからず死ぬとはなにかを痛烈に刻み込んだ。そのおかげで、わたしは死に対する耐性を付けなければならないと痛感し、今に至るのである。そういう意味では淡白で非情な人格であると指摘されても文句は言えないだろう。だが、むかしからわたしは、悲劇や苦痛に対していかにそれを感じなくて済むようにするか?を命題に生きてきた。つまり、裏を返せば、それは家族の死という悲しむべき出来事が、わたしの心の奥底を深く傷つけ、悲しみのどん底に追いやった証拠である。とはいえ、何も悲しむことだけが故人に対する弔(とむらい)では無いと思うのだ。

 

 

   そういう意味で、この作品における死生観は、私に似ている。死とはそこで終わりではないという意味だ。作中の中で幾度となく説明された命に関する記述だ。命は終わりが来る。それはひとつの終わりだけれど、それはある意味でバトンタッチである。次の命に受け継がれ、長い長い命の旅が続いていくことになんら変化はない。つまり、自分はマラソンランナーの1人である。一人で出来ることはそれほど多くはない。人生にどんな意味があるのかについて悩むこともあるけれど、その最大の意味は「引継ぎ」にある。それをこの作品はおじいちゃんという存在を通じて強く、そして愛おしいほどに伝えてくれている。

 

   人間は一人で生きていないと言われる。しかし、今の若い人にそれを言うと「そうかなあ」と言うだろう。SNSで繋がった人達の情報、ネットに無数にちらばった知識を駆使すれば、目の前にいる誰かに頼らずとも生きていけると感じてしまうからだ。あえてぼっちにいることを自らに課している現代の人達に、この作品の家族はどう映るのか。めんどくさくて古めかしい家族か。もしくは年上を敬うことを強いる儒教的な教えか。それは間違ってはいない。いや、もしかすると、こう思うかもしれない。「こんな家族はいねぇよ」と。

 

   祖父や祖母と拡大家族を形成することがめっきり無くなった令和。私自身も父や母と同居しない。娘からすれば祖父や祖母だが、たまに会うだけの遠い存在だ。私自身、自分の祖父や祖母の死に目にあっていない。その理由は先に述べた通りだが、わたしは家族の死を無意識的にも有意識的にもなるべく無機質に感じていたいと思っていたらしい。つまり作中における死の瞬間を、実体験としてなんら持っていないのだ。

 

   そのことについて、この作品はまるで目の前で起きているようなリアルさで読者に突きつける。人が衰弱し、死に近づいてゆく様を描く。もちろん、作品のように衰弱していく死に方だけではない。事故などで突然亡くなったり、病気で苦しむようにして亡くなるケースもある。いずれにせよ、伴侶はその事実を避けて通れないようである。その事だけでもこの作品を読んでよかったと思える感想のひとつだったりする。

 

   作中のみずほは、おじいちゃんが好きだ。おじいちゃんの生き方がかっこよくて好きだ。色んなことを知っていて、優しく教えてくれるおじいちゃんが好きだ。そんな年の離れた友人のような存在、それがみずほにとってのおじいちゃんである。そして、家族みんなから慕われ、おばあちゃんとも相思相愛。親友の林さんとも良好。そして絵もうまい。完璧すぎる。こんな完璧な存在なんているのだろうか。いや、いないだろう。ここはファンタジーである。だが、こんなかっこよすぎるおじいちゃんがいてもいい。そんな存在を家族に持つことの幸せをみずほは感じたはずだ。そして、治療をせず、人間らしく最期を迎えることの潔さを感じたはずだ。死とは悲しむべきものではない。形が変わるだけである。唯一、おばあちゃんだけがおじいちゃんのカタチを残したいと靴を玄関に残したシーンは、泣けた。おじいちゃんのカタチという表現は、死を経験した人だけが理解出来る表現に違いない。死は悲しむべき出来事である。だが、悲しむことだけが弔ではない。そのことをみずほは頭ではわからなくとも感覚で理解した。そして悲しみよりも誇らしい気持ちで未来を見つめることができるようになった。それは、りんごの木を植えるように、未来に希望を持つことであった。ぼくも死と向き合う時は、常にそうありたい。

 

以上。

 

それじゃあまたね*˙︶˙*)ノ"


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不登校の息子が「オンラインゲーム」で友達と話していた「ひとこと」に母「目頭が熱くなった」「こ、これは泣ける」グッときた - いまトピライフ

 

オンラインゲームだから悪いのではない。居場所がないことが悪いのだ。

 

   オンラインゲームに触れることは悪では無い。オンラインゲームでは必ず相手がいる。相手はすなわち人間だ。それも趣味の合う人間である。それを一般的には友達と呼ぶのだ。

 

   長らくゲームは時間の無駄と言われてきた。確かに一人でAIと向かうようなゲームは正解があり、その正解を探すだけの無駄な時間である。だが、テクノロジーが発展した現代では、オンラインゲームが発達し、人間を相手にするようになった。最初は、顔の見えない相手を軽視した対応が多かったように思う。しかし、時代が流つにつれ、リテラシーが高まり、マナーを体得した。それはもはや対面のそれとなんら変わらないコミュニケーションのそれである。

 

    この話は美談である。圧倒的な美談だ。引きこもりの友同士、交流を深めた結果、引きこもりを卒業するという話だ。これは成功例であるが、これで話が終わる訳では無い。もしかしてまたいじめやトラブルに逢い、またも引きこもりに逆戻りするかもしれない。だが、それでいいのだ。そうやって逃げたり戻ったり、時に自分を守ったりしながら進めばいい。それこそが人生なのだから。

 

それじゃあまたね*˙︶˙*)ノ" 


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「独身おじさん友達いない」問題が意外に深刻 「会社以外ではいつも一人ぼっち」の中年男性はどうすればいいのか〈dot.〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース



友達は要らない、そう思っていたけど。

 

   ぼくがおっさんかどうかはともかく、つい歳をとってくると友達はこういう物だ。友達ならこうするものだ。そう決めつけてしまう。そしてつい肩身が狭くなる。会社の人と友達のように付き合っていたこともある。だがそれは転職してしまえばあわとなり消える。つまりそれは友達でも何でもなかったのである。そのことに気がついた時、僕は気づいた。友達とはこういうものだと決めつけていたのは紛れもなく僕自身だったのである。

 

   「友達を探そう」そう思ったのはかれこれ10年くらい前になるか。そしてぼくは思い立った。そうだ僕の好きなことに関係するジャンルに触れていれば友達ができるのではないか?と。その昔、ボイストレーニングに通っていた時期がある。それは、本気でプロを目指すというわけではない。ではなぜそんなトレーニングを行っていたか?と言えば、それは友達が欲しかったのだ。当時はカラオケが流行っていたこともあり、誘われても上手く歌えるようにというトレーニングでもあった。

 

   そうしてぼくは当時色んな人達に構ってもらうことができた。そう友達である。あのころの人達と疎遠になってしまった人たちもいるけれど、その後の人生を見るになかなかエキサイティングではある(Facebookだけの関係もあるけどそれでもいい)。

 

   しかし、あれから数年。ぼくは改めてボイストレーニングに通うという選択肢はないと思った。それはあらためて何かに通うだけの時間的金銭的余裕がなかったからである。なるべく家にいながらにして交流できるほうがいい。そうしてかつて手を出したmixiやらYahooブログやらの経験を手に、SNS大航海時代に突入した。いまはTwitterだけでなく、InstagramYouTubeTikTokも手を出しているぼくです。で、それらは全てぼくの友達探しの一環だったりするのだから僕自身目的を持って行動出来ていると自分を褒めたい。

 

  続き。それらのSNSのなかでまずTwitterを始めた僕だったが話すネタがないことに気づく。ブログも続けたが(これも続けてるけど)、どうも固い印象。時事ネタを上手く扱えている訳でもない僕のただ徒然なるブログは僕自身の本音を吐露するだけの場所となっている。ここで交流などできるはずもない。わかっている。これは僕の独白だ。それでいい。それでいいのだ。だが、外界との接点は必要である。歳を取ればとるほど、その必要性は高まっていることを肌で感じていた。僕は元々若い人たちと会話することか苦ではない。なぜなら新しい感覚を持つ人達との会話は驚きに満ちている。別に若い人たちが好き!というつもりは無い。だが、同年代に対して苦言はある。それは考え方が凝り固まってしまっていることだ。そしてもっと深刻なことは、そのことに本人が全く気がついていないという事実である。ぼくも凝り固まっていることは理解している。これは仕方ないことだ。だが、なるべくそうならないようにあらゆる考え方を柔軟に取り入れることは脳の硬化を防ぐのではないだろうか。

 

   この考えに至った理由に、ぼくの祖母の存在がある。彼女はかなりたくさんの友達に囲まれ幸せな老後を送っている人だったように思う。10年近く縛られた祖父の介護から解放され、その後はあらゆる趣味に没頭した。日舞、書道、俳句、イラスト…様々。それらを通じて知り合い、友達になる人達もいた。だがその晩年。彼女はひとりぼっちになってゆく。それは疎遠になったわけではない。単に周りの人達が次々に亡くなってしまったのだ。そうしてほどなくして彼女はボケてしまった。その時の彼女のかわいそうすぎる状況を目の当たりにしたぼくは悟った。これはよいロールモデルになるぞ、と。

 

   つまり、どんなに趣味を多くして交流を維持したところで、年齢を重ねるとどうしても周りの人達は歳をとってしまう。そうして1人、また1人と居なくなってしまう。一人でも欠けるとコミュニティは維持できなくなる。それではそれまでの努力も水の泡。せっかく作りあげた関係性も一瞬にして消えてしまう。それは良くない。幸せな老後を目指すなら、コミュニティは必要だ。1番の重要な要素は自分より若い世代であること。それらの若い世代との複数の接点を持つこと。それがこのケースから学ぶべき教訓なのである。

 

   そして冒頭の話に戻そう。友達ゼロになってしまったおっさんの末路の話だ。これは回避できるリスクである。つまり再現性が高い。それならどうするか?という視点は今から持っておくべきだ。趣味を突き詰めてセミプロになるという道もあるだろう。実はぼくの父がそれである。趣味がたくさんあり、そのどれもがプロ級の腕前だ。それで友達はいるのか?という質問には…ゼロだと答えよう。強いて言うなら、姉の旦那が尊敬している雰囲気を出しているけれど。つまり、プロ級の腕前になったところで、友達を得ることは出来なかったのである。

 

   プロ級の腕前になってお金を稼ぐ、がゴールならいいかもしれない。しかしそうとするならば遅すぎる話だ。つまり、趣味はあくまで趣味であって、老後を豊かにするのはスキルではなく(そうかもしれないが1部だろう。プロのサッカー選手や野球選手になりたいと同じことだ)であるならば、ある程度の知識やスキルに留めておき、もっとも重要なことは、そのスキルや知識で友達を得るというゴールのほうなのである。世のおっさんはそこを目指すべきだ。いや、若い人にちやほやされてあわよくば…とかではなくて。

 

   ここをよく勘違いされるのだが、ぼくの例で言えば、若い人は異性である必要はまるでない。むしろ、間違いがあったりするので、なるべく同性が望ましいくらいだ。だが、ぼくの場合は可愛いものが特に好きだということと、同世代の同性特有のマウンティングがどうも苦手なので、あえて若い人と交流を深めたいという欲求が高い。若い人の中の多くはマウンティングを避ける傾向にあるからだ。そして、可愛いものが好きな若い人が望ましい。ただそれだけである。

 

   別に友達が欲しいからと言ってリアルに会う必要すらない。要は交流さえできればよいのだ。むしろ、リアルに予定を入れられるとそれはそれで煩わしさが目立ってくる。今のポジションを考えるに、それはあまりよろしくない。なるべくなら身動きの取りやすい状態をキープしたまま、友達をゲットできることが望ましい。そしてその友達は特定の人ではあるけれど、万が一欠けたとしてもすぐにリカバリーできる状態でなければならないのだ。

   

   欠員を前提に構成するゆるい友達コミュニティがベストである。回りくどい言い方をしてしまってすまない。つまり、ぼくが言いたいのは、ネット上の友達がいいという話だ。ネット上の友達は性別を気にしない。仮に異性であってもそれ以上なにもないのだから(そう心に決めてるから)問題ない。会いたいといわれたらそれは友達なのか?それ以上なのか分からないので避けてゆくスタイル。つまり、交流だけをやりとりして、それ以上の面倒な関係は避けてゆくスタイルだ。同性かどうかを気にしたことは正直ないが、やはり心優しい人を選んでゆくと、やはり女性(精神的な女性も含む)となることは自然である。

 

   それらのゆるく薄い繋がりをなんとなくキープし続けてゆく。もしも切れてしまったらそこはあっさり諦める。そして、もっと薄い関係の誰かをイマジナリーフレンドとすればいい。そうやって都合の良い関係(言い方変だな)を続けてゆくこと。それらをSNSは可能にする。するとどうだ。もし自分の関わりのある人たちがいなくなった所で話せる場所は担保され、孤独を感じる危険性をずいぶんと下げることができるのでは無いだろうか。

 

   つまり、接点を多くすること。そして、あまり1人に深入りし過ぎないこと。そして柔軟な価値観を受け入れること。これら3つの掟を守りつつ、来るべき孤独に備えるのだ。今は友達がいて幸せな日々を過ごしている人でもいつか孤独になるかもしれないという危険性を意識しながらリスクヘッジとしての予備装置を仕掛けてゆく。そんな生き方こそが、この記事にあるような孤独なおっさん的生き方を回避しうるもっとも賢いやり方だと個人的には思っている。交際費もかからないし。あなたはどう思う?

 

それじゃぁまたね*˙︶˙*)ノ"


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