ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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「40以上はやる気なし」会社のホンネと消滅するおじ社員:日経ビジネス電子版



やる気はあるが失敗も多い若手か。やる気はないが無難な中年か。

会社の本音を分かりやすく言えばできる人を伸ばして、やる気のない中年社員を削減したい、である(給与も高いし)。なぜ40代の社員はやる気がないのか。特に男性。それは会社の出世争いから外れ、特にやりたいことも無くなってくると、もはや頑張るだけ無駄という雰囲気が漂ってくるからだろう。頑張ったところで出世しない。出世しなければ給与も上がらない。やりたいことをやろうにも、さまざまなしがらみが足枷となる。それならいっそ自分を殺して押し黙って過ごす方が賢いのではないか、と思うのだ。しかしそれは安易な選択であると同時に自らを腐らせていくもっとも悪い選択である。心が病んでしまえば、もはや再び這い上がることなどできない。ただ、死を待つだけの、存在に成り下がる。それも人生さと諦めがつくならまだマシかもしれない。しかし、ある時ふと、このまま死ぬのか……となんだか途方もない不安に苛まれるときがある。あれは、独り身だった時に急に誰かと一緒に生きていきたくなったあの感覚と同じだ。あの時私はとにかくこのままではダメだと自分にムチを打ち、片っ端からやれることをすべてやって、自分磨きと恋人探しを同時並行で進めて行った。確かにそれなりに傷つきはしたが、最終的には目標を達成できたので、あの時私は頑張って正解だったのだと、今になって思う。わたしがこの記事が指摘するようか虚無感に40になる前に襲われ、このままじゃダメだという強い意志のもと、新たなチャレンジとして再び転職の扉を叩いたこともまさに同じ流れであった。そうして1年が経過してみると、確かに私の中にまだ残っていたやる気スイッチなるものを自分なりに押せている感じがしている。若い頃のような がむしゃらさはないにせよ、ローテンションでやるべき事をひたすらやり尽くすようなマシーンのような働き方を出来ているのは、もしかすると、今の歳に転職したからこそのメリットなのかもしれない。とにもかくにも、どんな人でも(まあ、社長職などの一部の例外は除いて)、40歳という節目を迎える前後にはやる気を無くすものだし、改めて自分が走ってきた30年ちょっとを振り返ってみたりするものだ。それは必要な通過儀礼であり、そこでくすぶる事もまた、次に進むための必要な足踏み行動だと私は思う。みんなが皆、勇気と希望と前向きさでもって人生をサヴァイヴできるほど人間できてはいない。そんな人間、出会ったことはない。確かに一部例外的にまるで若さを保ち続けて走れるスーパーマンのような会社員がいるがそれは今の世の中絶滅危惧種だろう。誰もが等しく悩み、等しく挫けそうになりつつ、どうしようもなく続く消耗戦を続けていく。そこに嫌気がさしてドロップアウトしてみればもっと悲惨な世界が待っていると思う人々は、今日もまた自分を慰めながら明日を平穏無事に終えることだけを夢見るのだ。それを日和見主義だとか言うのだろう。ある程度社会で色んな生き方をする人を傍目で見ているとそのどれもがどうでも良く感じられてくる。それもまた、事実である。そう言って周りを見られるだけまだマシという見方もあるだろう。人は現状維持で精一杯の時は他を見る余裕などなく、余裕が出来た途端に不平不満を漏らすのだから、どちらも等しく救いようがない。わたしはそうやってある種の迷いに囚われた人が半ば強制的に会社を退社させられ、その後ここでは語れないような凄まじい人生の転落劇を見せてくれた人を何人も見てきた(中には某有名都市銀行の支店長もいた。彼は今何をしているのか……)。強制退社させられる、と言う状況はなかなかにレアかもしれない。しかし、いまや役に立たなければ即リストラ対象である。希望退職もある。もはやあの頃のような、牧歌的な世界ではない。退社させられる、退社するという選択肢がすぐそこにチラつくような社会だ。そんな社会でいつ自分が望まない人生の選択を迫られるのかとヒヤヒヤするくらいなら、わたしはこちらからスパッと退社したいと思うタイプである。そうして自分の大きくはないが確かに存在する矜恃を守るのだ。それが次の職場でのやる気のスイッチに繋がると信じて。わたしは今何を思って仕事をするのか?と尋ねられたら、それはいかに与えられたことをひたすらこなすだけのマシーンになれるかしか考えていないと答えよう。そこに創意工夫とか、自分なりのやり方とかはあまりない。それを言い出せば一気に不平不満が噴出して、今の場所に居られなくなることが明白だからだ。どんなに惨めで、どんなに理解できなくても、わたしはここでこの先の数十年を過ごすと決めたのだ。そこにやる気とかモチベーションとかいう言葉は存在しない。やるべき事をやる。ただそれだけである。もちろん、若くはないので体や心を壊さないように細心の注意を払いつつ。そうだな。唯一この記事で言いたいのは、40代の社員を約立たずでと断ずるのはいささか早計であるということだ。どんな人でもそこまで生きてきた歴史があり、そこには目に見えないスキル、技術の宝庫である。それを1人で持ったまま定年ないし、退職させてしまうのはあまりにももったいない。それは40代の社員の頭の中には若い人たちが知りたくても分からなかった真理の一つや二つが、普通に混じっていたりするのだから。それを伝えることもまた、彼ら私たちの責務なのだと思う。

 

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「中小企業の生産性向上」が日本を救う根本理由



日本の経済の底上げをするに最適な答えは中小企業の生産性向上だが、できないのではなく、誰もやらないのだ。

まさにその通りだと思う。デービッドアトキンソンさんは中小企業を潰そうとしている、そんな論調で話をするビジネスYouTuberの動画を見た事があるので、わたしは特に調べもせずそうなのかとぼんやり思っていた。確かに中小企業は様々な問題点を抱えている。デービッド氏が指摘しているように、小さい。会社と呼んでいいのかと不思議になるくらいに。それは家族経営の会社だったり、仲良し友達数人で始めたベンチャー企業だったり。または、奥さんが始めたような趣味の会社だったり……。仕事柄、そういった中小企業と取引することが多いので、大抵がそういった、ある種の「隙」があるのを、なかば呆れたような気持ちで思うことがある。もちろん中にはしっかりとした、会社もある。だが大半はよくそんな感じで会社してるなあと素直に感心してしまうようなユルさだ。きっと、大企業で疲れた末のやりたい事をやるという反動だったり、好きなことだけをしたいという結果だったりするのだろう。それで生活できるのだからそれはある意味で羨ましい生活である。いや、嫌味で言ってないです。好きなことを仕事に。そして好きなことで生きていく。それはすべての人の夢だ。なにも、大金持ちになる!だけが、夢では無いのだ。そういう意味でいえばわたしも、そうかもしれない。給与面で恵まれていた環境で何不自由なく過ごした10年。しかしある時に疑問が浮かぶ。このまま人生を終えていいのか。やりたい事をやるべきではないのか。そんな疑問を何度も拭いさろうとしたが結局、日に日に募るばかりで、結局その思いを捨て去ることはできなかった。結局、給与は前職の約半分。地位も新入社員に逆戻りした。それは、ある意味で中小企業を渡り歩く私にとって、冒険のそれであると同時に、その中小企業独特のユルさを体感していたいという願いが少なからず影響している。それはなんというか、未熟であるがゆえの居心地の良さと言っていい。自分らしく働ける上、ノルマもきつ過ぎない。やりたいことをやろうと決めた私にとって、この上ない環境である。もちろん生活苦にならないギリギリのラインというさじ加減はかなり際どく、実際、半減した収入に合わせて生活レベルを低く抑える努力をすることとなったわけだが。それにしたってなんとかトントンで暮らせるほどのミニマムな暮らしにサイズダウンすることができたことは、ある意味で幸福であった。人間、何かを手にするためには何かを失わなくてはならない。それに今給与が安いからと言って、この先上がらないとも限らない。今が最低、というだけだ。こう言うと、やや自分に言い聞かせているような気分にもなるけれど。話を中小企業に戻そう。日本社会に中小企業が多いことはとてもその通りだ。そしてその生産性向上を狙ったとして、それが難しいこともわかる。出来ないと言うよりも、やらないのだ。なにせ、今のサイズに満足してしまっている。または最低の生産性で回せるだけのダウンサイジングが徹底してしまっているのだ。中小企業に広報担当や求人担当がいないのはまさにそのいい例である。宣伝してまで商品を売ろうだとか、いい人材を確保しようとか、まるで考えていないのだ。今あるものがそれなりに売れればいいと考える中小企業に、生産性向上という大命題を与えたところで、猫に小判、馬に念仏……、と、これはやや言い過ぎだろうか。向上心がないと言っているわけではない。何をどうしたらいいのかわからないのだ。そして、言われるがままに新しい技術や新しい働き方を導入したところで、1ヶ月もすればまた元に戻ってしまう。昔のやり方がいい。そんな声が聞こえてくる。新しいやり方や効率的な仕事の進め方よりも、安心感を優先するがあまり、中小企業の、それも地方にあるような中小企業はどんどんと凝り固まっていく。そこに救いの手を差し伸べる会社など、いない。誰もいない。いや、いる。わたしの所属するような会社だ。私たちのような会社が地域の声をつぶさに聞き、そして利益を循環させることができればあるいは。デービッド氏が言うような生産性向上を手助けできるかもしれない。そんな大げさなことは出来はしないのだけれど、少なくとも何をどうすればいいのか?という空を舞うような疑問に、一筋の光を与えることくらいは出来ると思っている。ま、経営者がワンマンだったりするからそれはそれで変わらないものなんだけど。

 

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オリラジの吉本退社、小林賢太郎の引退から考える「テレビ芸能界」の終焉。“テレビからネットの時代”の行く末とは?(QJWeb クイック・ジャパン ウェブ) - Yahoo!ニュース


 

トランスローカルという真実に近づく未来へ。

 

寡聞にして知らない言葉だ。全く初耳である。だから調べた。それで雲をつかむような言葉であるという認識が変わった。これは、私が感じていたひとつの真実であるように思う。トランスローカルとは何か?という問については各自で調べてもらいたい。ここでわたしがなにか答えを持っていると思われてもやや困惑してしまう。今知ったばかりなのだ。許してほしい。けれどローカルメディアを愛し、ローカルこそこれからの生きる道だと信じている、というとやや大袈裟だろうか。わたしは都会的なカルチャーに憧れを持つわかりやすい人間だった。都会には全てがある。感度の高い人達が集まり、先進的なサービスがあちこちにある。すべての革命的な出来事は都会で行われる、そう思っていた。そう言うと今でもそうだと言う人もいるだろう。今住んでいる田舎では何も生まれないから、と。確かにそういう側面もある。というか、目に見えて衰退している田舎社会にどんな希望や未来が残っているというのだと嘆く人もいるだろう。その通りだ。何度も言うがわたしは何か確信的な証拠を持っている訳では無い。ただ、なんというか、そう、一言で言えば、「感じる。」のだ。都会的な魅力というのはさらに都会的な何かに影響されている。さらに都会的な何かは、かつて、外国にあった。アメリカであり、西海岸であった。現地の人からすればそれこそが都会的な何かであり、それ以外の街、例えばかつての都会的な何か。ニューヨークシティは都会であった。つまり都会的な何かはさらに別の都会的な何かに強く影響された存在でしかなく、それ自体に魅力がある訳では無いのではないか?という仮説だ。それは人であったり、カルチャーであったりする。何となく、ブームと呼ばれるようなものだ。それはかつて街に依存していた。ところが今はネットに依存している。そうなると、街や地域に特定の都会的な何かがあるのではなく、概念的な都会的な何かがネット空間に存在するようになる。そうなると、逆に巨大なネットワークからある意味で距離を置いている、ローカルネットワークに価値が生まれる。そこに希少性があるからだ。特異性と言ってもいい。ローカルに根ざす人は頭ではネットワークに繋がりつつも、敢えてローカルネットワークであろうとする傾向にある。かつてそれはなんらかの弱みや金銭的な弱小チームであるが故の選択であったが今は違う。あらゆる選択肢の中から選ばれた強烈な意味を持ったひとつの答えなのだ。そこに意味があってローカルであろうとする姿勢だ。トランスローカルとは、そういう側面を指摘したものであるとわたしは理解した。違うかもしれないけれど、このふたつの記事を見た時。わたしはあぁやはりそうかと思った。トランスローカルであろうとして作る現代の最新ムラ社会。そして、オンラインサロン。その2つは本当の意味で救世主となり得るか。……わからない。しかし、興味はある。ローカルメディアとして、媒体化されるひとつの答えとして。それは雑誌や、新聞、フリーマガジンといったオールドメディアの復権(というと急にチープに聞こえるだろうけど)を意味している?わからない。でも。無くなりはしないだろう。トランスローカルとはまさに、そういうものだと私は思う。技術やテクノロジーが発達したところで、変わらないものはある。そのひとつにローカルという存在が必ずあると信じている。

 

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「失われた40年になりかねない」2度目の緊急事態宣言が残す禍根 「貯蓄が正義」で日本経済が凍り付く (2ページ目)



貯蓄こそが正義は攻め手としては最悪だ。

コロナに勝つ、ということではないが、現状を打破するという意味で考えた時、それをもっとも成功させる手段のひとつが、あらゆる手を尽くす、である。決して籠城戦をせよというわけではない。私の知る限り、籠城戦で勝利を収めるケースというのはないと思っている。それは時限装置付きの策だからだ。つまりある一定の期間を潰す、ないし、いなすために、敢えて自分自身を苦境に立たせることで相手の油断を誘う戦法だ。もうお分かりだろう。油断を誘ったのち反撃に出る。それがセオリーである。今回のコロナに打ち勝つ方法に置き換えて考える。先程の籠城戦は、つまるところ、貯蓄である。お金の支出を極限まで抑え、耐え忍ぶということを指す。それは時限装置付きの策だ。それはいつまでのことなのか?2月7日か?それが延長されたらどうなる?もはや打つ手なしか?そうなのだ。あくまで籠城戦(ここでは貯蓄に専念する)は、相手(つまり人間が相手だ)が居て、虚を衝くための戦法である。ここで言うコロナとは人間では無いので、一体なんのどの部分に対して虚を衝くのだろうか。そんな物は全くもって意味をなさない。闇雲に浪費せよとは言っていない。しかし必要な策を講じるのに際し、必要な経費が伴うのは当然のことだ。攻撃こそが最大の防御である。この言葉こそいまの私たちが心に刻まなければならないワードそのものだ。あらゆる手を尽くし、あらゆる可能性を考慮してどちらに転んでも大丈夫なように先手を打つこと。それは貯蓄で賄えることでは決してない。無賃乗車(ネットでいえば無料ダウンロード)で乗り越えられるほど、この荒波は優しくはないのだ。そのことはもう去年嫌というほど理解してきたはず。だからこそ、今回の第2の緊急事態宣言を受けても人々はもう自粛など無意味だということを理解した。自粛によってコロナは抑え込むことは出来ない。いまピークを迎えている感染者数はもう止められはしないだろう。それを無視して自由に過ごすべきと言うつもりはない。可能な限り対策をし、なるべく外出は控える。その上でなにもせずダラダラと部屋の中で過ごしていればいいのではなく、ある意味で外出していた頃の2倍、3倍は危機意識を持って、あらゆる可能性や対策に気を配っていくことが大切だ。ここでものを言うのは危機意識である。もしも〜になってしまったら。例えばもしも自分が感染してしまったらという最悪のケースを想定し、そうなったとしてもなんとか生活できるだけの危機感を生活レベルにまで落とし込む。怖がれという意味ではない。怖がってもなにも進まない。事実として。感染者が増えており、病院は針のむしろのような危機的状況だ。いま病院にかかることは得策ではないし、万が一入院となってしまえば、受け入れ先が見つかることはほぼ絶望的と思ってほぼ間違いないだろう。少なくとも私の親戚にも、病院でコロナにかかり、亡くなったという事例がある。これはニュースにもなったわたしの身内の話だ。実際にどう防げばいいか。まずはマスク。そして、なるべく一人で行動すること。最後は手洗いうがいである。この3つを遵守していくこと。飲み会?キャンセルしかない。新年会?同じことだ。友人との約束?それも取りやめ。家族会?万が一を考えればそれもすべて取りやめる。それほど危機意識を持って臨む。そのことであらゆるお店が窮地に立たされているだろう。仕事上とても身近に感じる。しかしだからもいってそれを変更することはできない。お互いにメリットのりデメリットのほうが遥かに大きくなってしまうからだ。地域のお店、贔屓の店が窮地に立たされていることに対して私たちがすべきことは、必要な物資(食糧など含む)をちゃんと地元のお店で買うということ。そして、飲食店を利用する際はいつも寝食を共にする家族単位で行う。その他の家族との交流は全て断る。それが万が一に備えた対応である。話は戻って貯蓄だ。貯蓄こそが正義とは、お金をかけずにできる対策のみをすること、または一切何も対策をしないという選択に見える。そう出ない場合もある?アイディアを駆使してお金をかけずにこの危機を乗り越えられる?それこそ傲慢な考えだ。いまこそ持てる力を結集し、使える予算はしっかりと無駄なく使い、この難局を乗り越えなくてはならない。そこに費用削減とか、ましてや貯蓄という名の無策に陥ってしまっては、籠城戦を無期限に行うことと同じくらいに無謀なことだ。貯金を全て使い果たせと言っていない。ただ必要な経費は惜しんではないけない。もちろん最悪を考えて予備費として整えておくことは必要なリスクヘッジである。だがそれはあらゆる手を尽くした上でなお、余る費用に対してどれだけ余裕を残せるかという考え方であって、嵐を凌ぐのに傘もカッパもなしでどうやってできるというのか。そんなことができるのなら、こんなにも世の中が大混乱に陥ることはなかったのである。そのことが、この問題の難しさを表している。つまり判断を行う経営陣にこのコロナ禍の本当のスピード感や危機感は理解し難いのである。これまでもなんとかやってきた偉い人たちはこれからもなんとかやってゆけるという楽観論があり、それだけで頭の中はほぼ占められていると言っていい。ソースは私だ。そうでも考えないと、これだけ過去にロールモデルを見出すことが難しい環境になかったからではないだろうか。全てを調べた訳では無いため1部不明瞭な箇所があるかもしれないがそれでも、私たちは明日を信じてできることからやらねばならない。それは時間との戦い?いや寧ろ自分自身を改造することを躊躇しない勇気が試されている。わたしはそう毎日感じている。自分を信じてなにか重要な選択をする。まさに。これです。

 

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『あつまれ どうぶつの森』を介して知り合い結婚したカップル現る。夜中ぶっ続けで遊び愛を育む | AUTOMATON



あつまれどうぶつの森はコミュニケーションゲームだったのか。

去年のクリスマスにようやく手にしたNintendoSwitch。そして唯一持っているゲームタイトルが、あつまれどうぶつの森だったわたし。娘がプレイしているのを脇で見るだけなのでこのゲームがどういうものかと聞かれても的確に答えることが出来ない。少なくともわたしは、ゲーム内で誰かと知り合い、コミュニケーションを取るようなゲームという認識はなかった。ひたすらにのんびりするだけの、生活系シュミレーションゲームという認識がわたしのあつまれどうぶつの森に対するそれである。知り合いの島に遊びに行くことはできることを最近知ったわたし。夢番地なるものを入力することで、他のユーザーが作った島に遊びに行けるというものだが、それはあくまで夢の中という設定。ゲームの中で交流するわけではない。だが、この投稿者の場合のように、Facebookや、Twitterなどの他のSNSサービスを活用することで、交流の幅を広げることは出来る。そして知り合った男女がお互いに結婚を意識するような年齢で(また、お互いに異性であり、異性愛者であった)、その決断に至ったことはまあ素敵なことのように思う。少なくとも、コロナ禍において、他人、それもよく知らない異性と趣味を通じて交流することはリアルの現場では壊滅的になっている。あったとしてマスク越し、ソーシャルディスタンス越しでは、育まれるものも育まれない。そのことはもしかすると世界的に少子化を加速させる要因となるのだろうなとも思う。出会いがなければ結婚しない。結婚しなければ子どもを作ろうという人も少数派である。わたしはファイナルファンタジー14というオンラインゲームで出会い、結婚したというケースが稀に(いやごく頻繁に)あるという事実を知っている。そしてそれは出会いの場がオンラインに移っただけで、結局はモテる人がモテるだけという残酷な現実がそこにあるということも理解している。だが出会いがあるだけまだマシという言い方もできる。そして、ゲーム内だけで完結しようと思えば、リアルに発展させないという条件を設けることも容易だ。それはリアルで恋人がいたり伴侶がいたりして、ゲームとリアルを分けて考えたい層にもフィットしている。同時に安全圏から恋愛市場に参加出来るという意味でも有益である。そしてわたしのような一人ぼっちが板についてしまった人間でさえ、オンラインゲームというのは友達を授けてくれるのだ。ここにおいて、わたしは大変大きなギフトをもらっているという実感値がある。その事がもたらす精神的安定感や多幸感はもはや言葉にするまでもないだろう。この世の中にわたしというキャラクターを理解し、そして存在を認めてくれるという優しさが私の心にどれだけ深い感情をもたらしてくれているのか。たまに考えてみるのだが本当に得がたく、ありがたい事実としてここ数年の私を支え続けてくれている。あつまれどうぶつの森だけにとどまらず、あらゆるゲームで他人と知り合い、そして存在を認め会えるのであればもはや趣味で外に出かけることすら不要である。家の中でぬくぬくとボッチを決めながらも、心はネットの友人たちと交流する。そういう意味だけで言えばいい時代になったと言えそうだ。お金を儲けるというタスクもそうやってオンラインで完結できる時代になってくれればなぁと改めて思う今日この頃である。(今でもできなくはないけどリスキー過ぎる)

 

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心が折れやすい人が感じる「無力感」との向き合い方 | ニュース3面鏡 | ダイヤモンド・オンライン



無力感。それは現代に生きる私たちの宿命である。特にコロナ禍においてそれは顕著だ。

心が折れやすい人というのは何も特別な人ではない。むしろ、一般的に心が強いと思われがちな頑固者こそ、ポキッといくこともある。折れる折れないで言えば、やはり柔軟性に富んでいる方が良い。しなやかに曲がるイメージ。そのためにすべき考え方として(またはストレッチとして)、あらゆる事態を受け入れる柔軟な考え方と、何に対しても執着しないおおらかさが必要と説いているのがこの記事だ。結論的には深く考えない、としている記事であるが、この指摘するところはいまや日常的に私たちに襲いかかってくる悩みとなった。まず無気力。これは私は何も出来ないのではないかというものだが、これはほとんどの場合、思うように行かないときに起きる。逆に言えば思うように行くことなどまるでない現代においてそれは空気を吸うように頻繁にやって来るからやっかいだ。それにいちいち一喜一憂していてはそりゃ誰しも感情に左右されることに疲れ、無気力になることだろう。わたしもそのひとりである。あらゆる感情に振り回されるがあまり疲れてしまって何も感じない自分を許容するようになる。初めはそれでもよかったりするが、3ヶ月、いや、半年もそれを続けていると、もはやなにも楽しめない、何も感じられなくなってしまう自分に気づく。それを週末に取り戻そうとするのだが、自分の内面に正直になればなるほど、何もしたくないという感情に囚われ、結局何も出来なくなる。そしてようやく自分の気持ちを取り戻したとき、翌日は月曜日という事実にまた打ちのめされ、またもや、無感情の仮面を被ることになる……。それは去年の私に顕著であった。新しい職場。新しい職場環境。そして、コロナ禍による新しい生活様式……。どれもが未体験のもので、いちいち悩んでいられなかったので、とりあえずわたしは私の感情を脇に置き、目の前のタスクをこなすマシーンのような存在と化した。それはある意味で楽であった。しかし、本当の自分とはどんどんと遠ざかるような感覚に苛まれる。本来の自分を再認識したのは、年末年始だったと記憶する。そして、年が明けていま。またもや緊急事態宣言と言う。そのことにもはや驚かない程度には新しい生活様式に慣れた私ではあるが、無気力さで乗り越えられるほどに短期間ではなく、見通しが立たないままではいつまで続くのか疑心暗鬼も手伝って、もはや簡単では無いことも分かってしまった。そしてこの記事にある種の救いを見いだしたわけである。気にしなくていいという解決法はある意味で困難である。それは私たちが普段からSNSで他人との違いをまざまざと見せつけられる環境にあるからだ。どうしたって自分はこれでいいと思いたくても他人がそれを上手く許容している様を見てしまえばそれは恥ずかしくなってしまう。なんとか自分も上手く波に乗らなくてはと躍起になり、結局は上手く乗りこなすことが出来ずに落胆。そして、やはり無気力のループに陥るのだ。結局のところ、危機意識と無気力との間には中庸が無く、危機意識を高く持たなくてはならない今の世の中で疲れきって無気力になるか、もしくは無気力さに気づいて高度な危機意識を持つに至るかの2択しか残されていないのである。そこに、私たちの生きづらさがある。一人ぼっちという従来は悪いイメージのあった境遇こそが心の安定からも、コロナ禍からも自分自身を守る最善の策となった現代。もはや他人と連れあうことは害でしかないのだろうか。心通わせることで学んだり、高めあったりしてきた私たちは今後この点についてネットの友達と高め合うことはあっても、リアルの他人から影響を受けることは百害あって一利なしと言える時代に来ている。その認識を改めて強く感じることができた記事だった。若干、寂しいのは寂しいのだけれど。ま、私の場合、リアルの友達とはなんとなく生きてるという情報が分かればそれでよかったりするのだから、根っからの一人ぼっちなんだなぁ。あ、家族は別として。

 

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9位【かに座】与えられるものが多い1年に | AdverTimes(アドタイ) by 宣伝会議



与えられるものが多い1年。

占いを100パーセント信じている訳では無い。しかし占いを信じることで救われることもある。信じて得することは精神面での安定。損することは逆になんだろう。無理やり自分自身を当てはめてしまう事で可能性を狭めることだろうか。占いがこういっているからこれでいい、というような……。わたしは悩むのが嫌いだ。苦手である。悩むくらいならどちらかに決めてしまいたい。例えそれがとんでもなく間違いだったとしても。それを選んだ時点での私にとってのそれが正解なのだからそれは致し方ない。成功もあれば失敗もある。しかし選ばなければどちらも無いのだ。まごまごして何も手にしないくらいなら、失敗という果実を無理やりにでもほうばってやる。分かりやすくいえばそれがわたしである。

この占い記事はなかなかどうして興味深い。仕事運を軸にした占いは好きだ。恋愛運とか、金運とかは当たった試しがない……。しかし仕事運はというと、これが当たってる!ということがとても多いと感じている。それは仕事をしていく上で感じている不安や実感値のようなものだ。それは形にはならないのだけれど、それに形を与えてくれるもの、それが占いだ。今回の記事はその点素晴らしい。わたしが何を与えてもらうのか?はおそらく今の時点ではわからない。だが、おそらくそれは誰かから譲り受けるものだ。それを継承して発展させよ、というのだろう。既にこの時点でまさにわたしのことだとわかる。わたしは何かをゆずりうけるに違いない。そして私に訪れる変化は、戸惑いや理解できない事柄等だろう。私が全て知り、理解できるほど世の中は単純ではないことはわかる。そのことはわかってはいても、そうだと言いきれないのだ。だから迷うし不安に苛まれる。そんなことを続けていたらわたしはわたしを維持することは難しいだろう。わたしのなかのわたしを認識し、それを守り、世の中と照らし合わせてはじめてわたしは浮かび上がってくる。それは明確な私という軸があるからに他ならない。わたしは明確な私という軸を持ち、それをあらゆる方向に振り回しつつ、この、改革期である2021年を過ごしていきたい。このblogが1年後どうなっているのか?それがなにより雄弁に物語っていることだろう。今日は新年1日目。すでにその機運は痛いほど感じているのだから。

 

それじゃあまたね(了)