ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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最強通貨・ドル、じつは間もなく「紙くず」になるかもしれないワケ…!(大原 浩) | マネー現代 | 講談社(1/5)



難しいことは分からない。だが、不安を不安として指摘することは間違いではない。

ドルの価値が薄まっているという指摘は前から確かにあった。それは無制限の金融緩和と無関係ではない。バフェット氏のコモディティはそれを指しているわけだが、それは日本も例外ではない。日々巨額のお金が動いている現状を未来永劫維持できる訳ではない。いま私たちに配られているさまざまな給付金は、魔法で生み出されたマネーではない。借金である。いくら万年筆マネーだと言われようがそれを帳消しにできる法はないのである。それは端的に言えばそうしてしまうと結局は円の価値を失墜させてしまうからだ。円の暴落…となるのか、国債の価値が暴落するのか…それは「誰にも分からない」。その危険性がある以上、借金は借金として計上しなければならないし、借金を回収するためにすることと言えば、税率を上げること。そして、日銀は金利を上げることである。それはインフレを防ぐための施策であるが、同時にいまの金融のあり方の終了を意味する。だから本来は金利を上げたい。しかし上げられないというのが大方の本音だろう。FRBアメリカの長期国債金利に、内心計り知れない恐怖を感じているという。長期国債は需要が下がると金利が上がる。逆に言えば需要が高いうちは下がったままだ。なぜ下がっているのかという指摘に答えられるほどわたしは詳しくはないけれど、長期国債金利がある程度高ければ株価は大荒れとなる。保有すれば確実に金利の着く長期国債のほうが、価格変動の激しい株価よりも安全な資産になるということらしい。株の価格を維持することで経済を下支えしているFRBである。その意味が無意味となり株価暴落という事態になればどうなるのか想像もできない。以前からあらゆる識者が指摘するリーマンショック以上の衝撃、はあるだろう。それは私が指摘するまでもないし、そうなのだろうけれど、それを起こしたくて起こす人など一人もいないだろう。〜ショックというのは想定しないきっかけによって連鎖的に起きるということもある。アメリカドルが紙くずに…となるかどうかはもちろん誰にも分からない。なるかもしれないし、ならないかもしれない。そうならないようにアメリカは必死に動くだろう。デジタルドルもそれに無関係ではないだろう。だがこれまで指摘されている恐れはいまに指摘されたことではない。前から言われていた。それがいつ起きるのか。それはわからない。また、危機がコロナ禍だけで終わるという保証もない。もっと大きな…、それは例えば経済不安から来る、戦争…世界戦争のような危機。それを今言っても仕方がないのかもしれない。起きるかわからないことを心配して身動きが取れなくなること以上に無駄なことは無いだろう。だからと言ってなにも対策をしないでいるのもよくない。つまり、リスクについて考慮しつつ、今できることを全力で取り組む姿勢だ。そして同時に未来に対する投資を惜しまないこと。現在かかってる不要な出費を抑えることもその中に含まれる。お金の流れを見直して単に控えるのではなく、使途を見直してより未来に向けて選択肢が増える道を選ぶこと。そこに負担増を伴わないこと。よりスマートに、より上向きに。諦めるのではなく、諦めない。未来を見据えてしっかりと行動できるかどうか。そこにこそ、これからの生き方を考える意味がある。わたしは今回のドルショック、金融ショックが教えてくれるのはそういうところだと思っている。コロナ禍で世界が混乱する中、コロナ禍は世界を最悪の方向に導いていると考えるより、世界の変化のスピードを促進させ、世の中の人にどうあるべきか、どうするべきかを考えさせることに繋がったと考えるべきである。わたしはそう、思っている。

 

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今月卒業なのに…内定ゼロ コロナで「売り手市場」一変(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース



リスクとどう向き合うか、だと思う。

ここで言うリスクとは、新卒で就職先が見つからないリスクであり、職場の業務が180ど転換するかもしれないというリスクだ。社会の構造がガラリと変わり、仕事のやり方、進め方が変わる中、そもそもの業務そのものが変わってしまった。その兆候があったにもかかわらず、目の前に提示される選択肢が嫌だからドロップアウトする。ないし、あるだろうと予測していた入社説明会が無くなったから就職できませんでした。というのでは、本当にリスクと向き合ってきたのか?という疑問が浮かぶ。この記事の言うように当初の目論見から外れることは、何も、コロナ禍だからという訳ではなく、これまでも、そしてこれからも頻繁に起きうる。つまり、そこまでのリスクを想定していないから、二の矢、三の矢が撃てなくなり、結果、離脱してしまう。そうして、自分がやりたいことは何だったのかという哲学にも似た思想に頭を支配されていつしか身動きができなくなる…。それこそが最悪のシナリオである。その事は誰の目にも明らかだし、自分がそうならないという保証など、そもそも存在しない。何度も言うがこれはコロナ禍だから生まれた特別なケースという訳では無い。想定しうるリスクをいかに回避していくかという行動ができているのか、そうでないのかという単純な準備不足であると言わざるを得ないのではないか。ただ、その準備不足について、努力が足らないと言うつもりは無い。努力では解決しないからだ。努力、というより、想像力である。もしもこのまま会社説明会が全てなくなってしまったら?今はあっても今後限りなくゼロになってしまったら?という最悪から逆算することは努力ではない。あくまで想像力。言うなれば、「だろう運転」ではなく、「かもしれない運転」をせよ、という運転免許試験でよく言われるアレである。もしかすると、若い人は免許も持っていない人も少なくないのかもしれない。そうすると、この名言にたどり着く機会すらないことも有り得る。知らない人は今知っておくべき名言だ。具体的に表現するならば「いつか会社説明会は開催されるたまろう」ではダメだ。「会社説明会は開催されないかもしれない」と想像力を働かせるべきだ。また、「広報や企画の仕事はいつか復活するだろう」ではなく、「広報や企画の仕事はなくなるのかもしれない」と想定する。それは諦めよという意味ではない。そうなった時に自分はどうしたいのか。どうすれば満足できるのかという疑問符を常に内向きに、自分の内面に問い続けることが求められる。それは自虐的になれという意味ではない。人生におけるあらゆるターニングポイントは、そのほとんどが、突如やってくる。そして、その場で選択せよと、迫ってくるのだ。であるならば、予め、そうなることを想定して答えを準備しておく。そうすると、いざ、そういった状況に陥ってしまった時、すぐに判断することができる。判断のスピードが早く、また、その決断に迷いがなければないほど、鋭く、そして力強く次の1歩を踏み出せるのだ。それはスタートダッシュの成功を意味する。そうなれば、逆にピンチをチャンスに捉え直すことすら、できるかもしれない。そんな心の余裕を与えてくれるのが、まさに、「かもしれない運転」であり、リスクマネジメントである。繰り返すが、そこは努力ではない。当たり前のように実行し、その答えが自分にとって、本当に正しい選択なのか?という検証が常に必要とされる行為だ。思考のメカニズムとしてはシンプルで、そして、リスクマネジメントの観点からはとても優秀な方法である。ただし、常にマイナス面に目を向けることになるので、心にかかる負担が大きくなってしまい、不安に押しつぶされそうになってしまうケースも少なくない。リスクマネジメントは最悪からの逆算であるからだ。誰しも最悪を想定したくはないはずである。自分だけは大丈夫、自分だけはきっと上手くいく。そう思って前向きに行動している方が、とんでもなく楽だし、前向きである。一方のこの、かもしれない運転という考え方は後ろ向きの極地である。否定から入る思考法でもあるからだ。しかし、これだけ、世の中が、阿鼻叫喚の最中、使わない✋はないのである。時には甘いものでも食べながらコーヒーブレイクしたり、ね?

 

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ひろゆきが語る「日本企業の残念すぎる病」 | 1%の努力 | ダイヤモンド・オンライン



数を得ること。それが勝利の近道。

わかり易すぎて納得してしまった。ひろゆき氏の語りは答えを最短で導くところにあると思っているが、その内容はさておき、どちらかと言えば、どんな答えも「納得させてしまう」能力に長けていると思う。時に理論的に、時に感覚的に、ひろゆき氏は使い分けることで説得力のあるトークをこちらに投げかけ、それを「それもありかもな」と思わせてしまう。数を抑えてしまえばもはやそれは安定した強みであるという論理はとても理解できるものだった。例えサービスとして未完成であっても、そもそもが犯罪すれすれのグレーゾーンであっても、それを使う人の総数が多ければそれは勝ちへと繋がっていく。ある程度の数字が用意出来ればあとはクオリティを上げていけば良い。NintendoSwitchという本体は決して優れた性能のゲーム機本体ではなかった。少なくともPS4と同等、ないし、画質についてはローテクですらあった。しかし、それを治すことはせず、ただひたすらに面白いと思えるソフトをリリースしていき、圧倒的なユーザー数を確保することが出来たいま、PS4とNintendoSwitchでは、明らかに後者に勢いがある。まずは自社の人気タイトルを次々にリリースし、時にリメイク作品を織りまぜながら、パリエーションを強化。そして満を持して発表された「あつまれどうぶつの森」はコロナ禍におけるステイホーム需要を大きく取り込むことに成功した。それはソフトの魅力だけでなく、NintendoSwitchという本体が数の暴力で世界中の家庭に進出していたという強みが根底にある。NintendoSwitch以外では、日本におけるiPhoneユーザー数もそのいい例だろう。圧倒的なユーザー数を確保出来ているiPhoneは、当初決して多機能とは言えないにもかかわらず安くはない高級品であったのだが、いまや揺るぎない地位を誇っている。まずリリースして数を増やし、そこからアップデートを重ねてクオリティアップさせた好例だろう。わたしの愛してやまないファイナルファンタジー14も数を押さえているという意味で同じである。フリートライアルという武器を用意し、35レベルまで無料で遊べてしまう環境を作ってアカウント数を増やした。いまはさらに拡張されて60レベルまで無料で遊べてしまう。4本ある拡張のうち、前半2本がまるまる無料という凄まじさだ。それによって得られた膨大なアカウント数によっていまのエオルゼアは安定した強みを保持している。話は少し変わるが、わたしが本業としているフリーマガジンも同様に感じることがある。それはフリーマガジンが無料の情報誌であり、それを可能な限り広範囲に各家庭に半ば強制的に直接配ってしまう事で、膨大な数を確保出来ている点だ。それはどこの会社も同様だが、総発行部数の多さがイコールでその媒体の強さを意味するという特徴がある。中身が面白いから、いいデザインをしているからという理由では決してない。もちろんそれはおざなりにしていい要素では決してないのだけれど、まずは数を押さえていることが大切である。それはテレビというマスメディアが、国民の大多数の家で視聴できるという意味でも機能する。テレビを見なくなったという令和の時代でもそれはかわらない。ひろゆき氏が指摘するように、出過ぎた杭は打たれない。同時にいかに奇抜な異端児であっても複数になれば否定することが出来ず、結局は共存するしかなくなる。それこそが数の力である。しかもその数の力は年々勢力を増している。インターネットで数を増やして勢力を拡大したYouTuberのように、また、フォロワー数によって力を得たツィッターや、TikTokのように。数は信用を産み、信用は発信力となる。私もそうありたい。それはRPGゲームのレベリングのように日々の鍛錬を必要とする。毎日の1歩は少しでも1年後には大きな距離になるような。そんな事を最近は感じていたり。

 

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『ファンタジアン』のバトルシステムは“狙い”が鍵を握る! 特別企画番組で明かされたゲームシステムや開発秘話をリポート【GAME LIVE JAPAN】 - ファミ通.com



ファンタジアンと、ブレイブリーデフォルトは共に古き良きFFを踏襲する。

元祖FFの生みの親が放つ正統派RPG、ファンタジアン。わたしもこの作品に期待している1人である。この放送は楽しく拝見させてもらった。ゲームの新作情報が知りたくてファミ通を隅から隅まで読みふけったあの頃を思い出す。ゲームとは期待も含めて体験であると改めて感じさせてくれる。一方で、先月26日に発売されたNintendoSwitch専用ソフト「ブレイブリーデフォルトⅡ」の評判がいい。わたしもYouTubeでいくつか解説動画を見て感化され、昨日、体験版をインストールして小一時間プレイしてみた。たしかに面白い。この手触りはまさにファミコン時代のファイナルファンタジーそのものだと感じる。戦闘が終わってもHPが減ったままだし、状態異常も治らない。MPも全回復しない。セーブもオートでしているのかわからない。体験版だからかもしれないが手動でセーブした。敵の弱点を探って一気に叩く戦術に特化した戦闘はたしかにファイナルファンタジーのそれだ。火に弱い、氷に弱い、雷に弱い、斧に耐性がある等、攻撃方法を間違えるとそれだけで一気に戦況は不利となる。ブレイブという機能を使えばBPの数だけ連続攻撃ができる。デフォルトはいわゆる防御。敵の攻撃を防ぐ時に使えば、ダメージを抑えられるだけでなく、BPが溜まるので、ターンが回ってきた時にブレイブで一気に反撃できる。魔法を連続使用して敵全体を殲滅してもいいし、回復しつつ攻撃して戦況を有利に進めてもいい。攻撃方法も多彩で、魔法の他、剣技のような技があり、体力を消耗して使うものや、MPを消費するものもあったりと様々。また、ある一定の条件下では必殺技も用意されており中々に多彩な戦いができる。ジョブ固有のアビリティを組み合わせればより複雑な戦いが出来そうだ。体験版なのでその辺はまだ分からなかったが、手触りとしては戦闘シーンのそれは、ファイナルファンタジー5という感じ。ストーリーは12みたいな王道ファンタジーと感じた。そして、マップ移動の感覚や街の中の探索の感じはまるで1枚の絵画の中を歩いているように魅力的で、ファイナルファンタジー7を思い出させるほど、冒険感に溢れていると感じた。そして、忘れてはいけないのが音楽の魅力。エモーショナルで、どこかゴージャスな印象のアレンジで、否応なしに興奮させられる戦闘曲。イントロにおや?と思わせられるほどにファイナルファンタジー愛を感じたのはわたしだけだろうか。REV氏の楽曲に触れたのは初めてだが、ファイナルファンタジーや、ロマンシングサガ等のスクウェア作品に対するオマージュのようなものを感じつつ、それでいて、しっかりと情感を伝えようとする熱量がこもっていてとてもスリリングで、軽快で、アップテンポな曲調から、妖しく響くダンジョン曲、ミステリアスな不思議な世界観を演出するフィールド曲など、どれを聴いてもおや?これは!と思わせてくれる名曲と感じた。これはおそらく長くプレイすればするほど好きになるタイプだ。また、昨今のゲームでは当たり前だがフルボイスというのもまたアニメや映画を見ているようで楽しい。スクエニにありがちな豪華なムービーはなくても、声優さえしっかりしていればちゃんとゲームとして成り立つということを実感できた。以前、このブログでも書いた、5つの要素「映像美」「ストーリー」「バトルシステム」「RPGとしての魅力」「新しいゲーム体験」という面白いRPGゲームの必須条件だが、このブレイブリーデフォルトⅡは、PS5のような映像美こそないけれど、そのほかの全ての要素を兼ね備えているかもしれない。最近、巷の評判は本当に当たると思っている私だけれど、今回もそれに当たるらしい。ファンタジアンこそ、ファイナルファンタジーの正当な続篇と思っていた私だが、ブレイブリーデフォルトⅡこそ、その可能性に最も近づいた名作かもしれない。ファンタジアンを下げるつもりはないが、ApplearcadeというハードがいくらPS4コントーローラーとリンクしているとはいえ、その映像をテレビに映すためのノウハウに大きな不安がある以上、NintendoSwitchのテレビへの出力方法の安定感の方が断然軍配が上がってしまう。さらに、売り切りのブレイブリーデフォルトⅡに対して、サブスクリプションとしてのファンタジアンである。前者が全年齢対象で間口を広げて来たのに対して、後者は間口が広いとは決して言えない。これは、ファンタジアンではなく、ブレイブリーデフォルトⅡをやるべきなのかもしれないと思った私です。うーん、いまNintendoSwitchはあつまれどうぶつの森でいっぱいいっぱいだからなあ!家族みんなでNintendoSwitchの取り合いになるのだけは避けたいのだけれど…。

 

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GAFAの天敵が「反独占」の棍棒を手に政権入りする(平和博) - 個人 - Yahoo!ニュース



2021年はGAFA規制元年となるか。

ひたひたと、そして確実にその牙城を崩さんとして狙うウー氏が、バイデン政権に参加すると発表されたのは3月5日。先週の金曜日だ。最近、ニュースはその時の最新の情報を発信しているというより、むしろ、その後に来る展開を示唆する情報だと感じることが多くなってきたように思う。そう思えるだけで確実にそうだとは言えないが、昨今の株価暴落、暗号資産の暴落についても、その前にニュースで予告されていた。私も含め、ほとんどの人がまだバブル崩壊はしないだろうと予測したがそれは大きな思惑の前ではただの希望的観測であったのかもしれない。前の記事でも言ったが、それを引き起こすのは国際金融資本家達であるから、わたしたちの意志などどうでもよいはずであるし、起こそうと思えばたやすいはずである。だからという訳では無いが、それはいつ起きてもおかしくはないのだろう。その話とこのGAFAの規制の話は繋がっているのかどうかは知らないし、分からないけれど、ニュースがその後の展開を示唆する重要なヒントになっているという意味では共通している。いくら口ではそんなことは無いと否定しても、無意味な人選であるわけが無いし、ホワイトハウスともなれば、その本気度は言うまでもないだろうと思う。その規制の目的とするところは平等を目指すというわかりやすい大義名分を掲げつつも、恐らくは、国という旧支配体制と、もはや国家に匹敵する巨大IT企業との、新たな覇権を巡る争いのそれであることは疑いようがなさそうである。新たな覇権なのか、そもそもの国や世界の有り様なのかそれはよく分からないが、いずれにせよ、巨大IT企業は力を持っていることは事実であるし、その気になれば世界を変えることも出来てしまうほどの資産を持ち合わせているのも事実だ。その軸とは別に、石油を発端とする世界のエネルギー秩序も、有り様を変えようとする動きが加速している。それもまた、産油国と、それ以外の国との覇権争いであるとい言う意味では一致している。これを争いと呼ぶか、世界戦争と呼ぶのかは後世の人が決めるだろう。だが、あらゆる情報を見ていると、それはもう外堀から埋められていくような既定路線のそれであるように動いている。最後までどうなるかは、やってみないと分からないだろうけれど、自動車産業が迎える大きなパラダイムシフト、ガソリン自動車の廃止と完全EV車両への転換というビッグイベントがもはや議論の段階を過ぎており、それが実行の段階であることと決して無関係ではないのだろうと思う。また、昨今の株式市場でよく取り上げられる、アメリカの長期国債金利上昇という動かない事実は、まるでボディーブローのようにジワジワと効き始め、株式市場の現場を日に日に脅かしている。詳しいことは私もよく知らないけれどおそらくその事実もまたどこかで予め予告された状況であろうと思う。だからどうするか?という解決策で言えば一般人がどうにか出来るレベルの話では無い上に、この状況が好転するとと思えないので、やはり長嶋先生や、つばさの党の代表が言うように、株に手を出しているときでは無いのであろうと思う。どんな状況になったとして自分の身の回りの家族を守り、自分を守り、しっかりと世の中を生き残っていくのか。そういう視点に立ち、あらゆるリスクを考慮しつつも、選択肢を狭めることなくむしろ広げる行動をこれからはより一層取ることが重要なのだなあと思う記事でしたとさ。小並感。あなたはどう思う?

 

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コロナバブルでお金の本当の価値は減っている(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース



ひろゆき氏が話していた生活レベルの話でもあるけれど。

どんな話か。1度生活レベルを上げてしまうと、下げるのは難しくなる。だから今の生活を下げようとするのではなく(そうせざるを得ない場合は除く)、生活水準を上げないように生活すること。サブスクリプションサービスをなるべく契約しないということもそこに含まれる。例え、1000円とか。500円とかでも。うう。頭が痛い。わたしは、AppleMusicとエオルゼアの月額、PlayStationNOW、Nintendoオンライン……まあこれくらいだろう。動画サービスのサブスクをやってはいない。私の話はここのくらいに……あ。そういえば今思い出した。転職する時、明らかに収入が減少することを心配した今の会社の社長が「生活していけるの?」という質問をしてきた。そのとき、わたしは「はい、問題ありません」と答えた。内心はだいぶ焦ってはいたのではある。だがわたしは確信があった。やってやれないことはない、と。同時に自分のリスクヘッジの下準備があったことに感謝した。というのも、わたしは普段から固定費を極力嫌う。そして、ストレスによる散財についても。わたしは昔からお金があると買い物をしてストレスを発散していた。CDとか、服とか、ゲームとか。だからそれらを封じ込めるためにAppleMusicを契約し、服はゲーム内だけの服に限定(それも上限を決めた)、ゲームはMMORPGにして月額制。PlayStationNOWも追加したわたしに死角はない。減らせる出費は主に携帯料金、無駄な買い物全般。そして保険の解約だった。お小遣い制をしいている(わたしが額を決める)が、その額を思い切リ減らした。車のローンも終わっている。なんとか収支のダウンサイジングをすることができた。それは今思えば前からやっていればその分貯蓄できたのでは……と思えなくもないがそれは言うまい。終わってしまったことだ。少なくとも今の生活水準をほぼ下げることなく出費のスリム化になんとか成功した。驚くのは、驚くほどにいまの生活には無駄な買い物ができない状況になっているということだ。少し前ならちょっと外食でも、とか、ウィンドウショッピングついでに無駄な買い物……とかしていたわけだが、それはすべて贅沢品。いまのステイホームによってそれは完全にシャットアウトされた形になった。有難いと思う。無駄を省くことが出来たから。その分、その手の産業にお金が回らないのだから、申し訳ない気持ちもあるのだけれど。話を戻そう。この筆者の分析はいつも分かりやすくて好き。コロナバブルによってお金の価値が相対的に下がっているという指摘は私も感じていた。一般人が数千万、数億円……とか手にしているのは明らかにインフレしてる。それはその人が素晴らしい才能を発揮してとんでもなく儲かったというより、お金の価値が下がっていると考える方がずっとしっくりくる。私はそうなれないことに対する僻みはまったくない。先程も言ったけれどわたしは生活レベルを下げた人間である。そしてそのことにとても満足している。もらうお金を増やすことと、使うお金を減らすことは同義である。もらうお金を増やしても使うお金が増えてしまえばそれは意味が無い。同時に、もらうお金が減っても、それを上回るほどに使うお金を減らすことが出来れば実質的に残るお金は変わらない。むしろ、多く手元に残すことも不可能ではないはずだ。そう考えれば、コロナバブルによって相対的にお金の価値が下がってしまうことは恐ろしい事態であることに変わりがない。私たちが持っているお金で買えるものはどんどんと減っていく。100円で買えるものが300円出さないと買えなくなるようなものか。3個が1個になる。それで満足出来ればいいが満足できないと問題だ。そこに、生活レベルの縮小の難しさがある。話があっちこっちしているね、ごめんなさい。この手の記事は好き。特にこの筆者はわかりやすくて好き。そして最後に競馬の話になるオチもめちゃくちゃ好き。読まないけど。この記事に対する感想はこれ以上でもこれ以下でもない。好き。以上だ。これまで世界を動かしてきたあらゆるシステムが崩壊し、新たな価値に移行する。その流れはもはや誰にも止められない。それはいまのお金持ちが振るいにかけられ、あるものはさらに富み、あるものは貧するという、経済的世界戦争のそれである。そこに少額のお金で投資するのは、ハイテク技術で戦う世界戦争に竹槍で参戦するようなものだ。無謀すぎる。だからわたしは紛争や戦争には参加しないと決めている。早期リタイアといってもらってもいい。その代わり、この先どうなるか?という展望については見極めたい。その一端を話すと、中東地域に端を発する世界の富豪たちVSアメリカやイギリスなどの西側諸国の飽くなき経済的戦争だ。その決着はすでに終わりが見えつつある。破壊と創造。そして迎えるのは新たな秩序。その秩序を作るのは誰か。そのメンバーはおそらく変わらない。変わるのは世代交代だからだ。本質的には変わらない。だがそこに群がる人には相当なクライシスが待っているだろう。だからこそ、どんなに貧していようが、衰退しようが、この国、日本に留まりたいと思う。それは他国よりはマシという感覚だし、なにより、この国に生まれたという基本的な「国籍」は何よりも得がたい素晴らしい権利だと思うからだ。あと、日本語を使えるってほんとに素晴らしいスキルだよね。あれ?なんの話しをしてたんだっけ。ま、いっか。

 

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職人が作ったジオラマの世界を冒険。FF生みの親・坂口博信の新作RPG「FANTASIAN」がすごすぎる



RPGとはなにか。を再定義できるか。

とある記事で(いや?誰かの動画だったか?)ファイナルファンタジー16に求められているものは、なにか?という議論があった。それは端的に言えば、16はファイナルファンタジーシリーズの中で名作を競うのではもう古く、JRPG、ひいてはRPGを再定義できるか?という大命題にあるという。それは、ファイナルファンタジーが目指してきた高クオリティな映像美を維持しながらも、高水準なゲームを作るというかなりの高難易度に挑戦することとなっている。高い芸術性と技術力を維持しながらも、セールスとして、ビジネスとしても成功しなくてはならない。それは相反する2つの属性を同時にクリアせよという無理難題であり、例えるなら、アクション好きを唸らせつつ、アクション苦手なユーザーにも配慮というバランス感覚だし、光と闇、水と油というぶつかり合う属性を同時に満たす魔法でしか成しえないほどのミラクルであるように思う。常々、1ファンであるところのわたしも、高画質HDゲームとしてのファイナルファンタジーは、RPGとしての魅力の中心にあるストーリーを追求する時間が足らないのではないか?という疑問を持つ。ファミコン時代ならむしろ映像美がそこそこなだけに、ストーリーを拘ることで成り立たせてしまえた。映像美に限界があることで、逆に音楽を追求できたり、ストーリーを凝ったものにしたりできたわけだ。しかし、いま。ファイナルファンタジーが担うものは、高画質HDゲームとしてのそれである。そこに凄まじいコストが掛けられ、それまで凝った作りでファンを唸らせたバトルシステムや、ストーリーについてはなぜか後回しとなった印象すらある。それについては、ファイナルファンタジー12、13、15に辿る、計画変更といういわばスクウェア・エニックスお家芸とも言うべき負の伝統が雄弁に物語っている。ファイナルファンタジー12は別のゲームを12に昇華させたゲームである。13は高画質とストーリーの奥深さに主眼を起きすぎた結果、RPG性はかなりの部分で犠牲となった。バトルシステムは秀逸だっただけに残念ではある。そう考えれば、次の要素が面白いゲームに必要な条件となるのではないだろうか。「映像美」「ストーリー」「バトルシステム」「RPGとしての魅力」。この4つだ。13は、この4つのうち、最後の「RPGとしての魅力」が欠けてしまった。そういう意味でいえば、12は全て揃っているにも関わらずセールス的に決して成功とは言えない結果となってしまっている(いま再評価されてるけどね)。私個人的にはかなり好きなファイナルファンタジーだ。まあ、ややキャラクターが海外ドラマっぽくて当時は馴染みがなかったのが要因かな。そして我らが故郷のファイナルファンタジー14はどうだろう。個人的には4つのうち「映像美」が欠けていると感じなくはない。だが、それはMMORPGだから、ランニングコストを調整する必要があるジャンルだからと言えばそれまでだけれど。そこはよしPもいつもコスト、コストと言っている。つまり、そういう事なのだ。全てを網羅しても売れない。かと言ってどれがひとつは諦めなければならない。それならばと、ファイナルファンタジーの代名詞である「映像美」をかなぐり捨てた英断は素晴らしいと思う。いや?綺麗じゃないとは言ってないよ?ファイナルファンタジー15のように、無駄な描写をしなかったおかげで、ストーリーやバトルシステム、RPGとしての魅力に全ステータスを振れたと思えば納得である。では15はどうか。4つのうち、3つが欠けてしまった。それは「ストーリー」と「RPGとしての魅力」「バトルシステム」だ。その代わりに「映像美(音楽)」は際立っている。前置きが長くなってしまった。ファイナルファンタジーの生みの親、坂口氏が放つ、新作「ファンタジアン」である。定額サブスクリプションサービス「Apple arcade」専用タイトルとして開発された新作RPGだ。わたしはミストウォーカー社のゲームをプレイしたことがない。きっと面白いものもあるだろうが任天堂のハードはスーパーファミコンで止まっていたのでやろうにもやれなかったのが正直なところだ。最近、ようやくNintendoSwitchを手に入れることができたのだけれど。そんなわたしにとって、「Applearcade」は魅力的である。Apple製品を持っていればプレイできる。月額600円程度を払えばいい。そうして、坂口氏の最新RPGをプレイできるのだからそんな嬉しいことは無い。しかも、音楽は私の愛してやまない、植松伸夫先生。これはプレイしなくては死ねないタイトルである。やる。わたしは絶対にこれはやると決めた。坂口氏はこの記事の中で大きくわけてふたつ印象的な言葉を残している。ひとつは、映像にこだわったこと。リアリティを追求するのではなく、ジオラマをゲーム内に取り込んで、手触りを追求した。例えるなら、NintendoSwitchの、ヨッシーアイランドみたいな感じか。あれはダンボールのような、厚紙のような世界観である。そしてもうひとつは、シンプルなランダムエンカウント&ターン制バトルシステムではあるものの、細かな改善点を追加した点だ。それはまるっと一から作り上げたバトルシステムではない。目新しさを捨てたかわりに、スマホタブレットでプレイすることを想定した直感操作。そして、敵をある空間に集めて纏めて敵を倒せるという、聞いただけでワクワクするような夢のシステム。新しいシステムを高水準で組み上げるのではなく、従来のシステムを踏襲する潔さと、そこにありそうでなかった手触りを加える玄人志向の職人芸。それらが上手にミックスされているのだとしたら。それはまさに、ファイナルファンタジーが担ってきた、新しいゲーム体験に挑戦することになる。先程の4つで言えば「映像美」「ストーリー」「バトルシステム」「RPGとしての魅力」。この4つにさらに「新しいゲーム体験」を追加した形になる。これこそが、RPGとはなにか。を再定義する事にならないだろうか。ファイナルファンタジーが忘れてしまった5つ目の要素を体現しているのなら。わたしは大いに期待をしてしまう。名前こそ「ファンタジアン」と、似てるような類似品のような名前ではあるが、これこそが、ファミコンファイナルファンタジーを現代風に蘇らせた作品となりうるのではないか、と。ブレイブリーデフォルトはやや子供向けになっていていまいち興味がそそられないわたし。オクトパストラベラーも魅力的だがNintendoSwitchでRPGをやりたくない。そんなわたしの我儘に(ごめんなさい。でも本音だよ)しっかり応える作品になっていることを期待したい。

 

それじゃぁまたね(了)