ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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ビットコイン投資で"資産5倍"と"半減"──2人の投資家の明暗を分けた「確証バイアス」【投資で勝つ心理学・第1回】 | coindesk JAPAN | コインデスク・ジャパン



チャートの性質を知り、上昇ポイントで買いを入れる。そんなのできるか?

この記事はとてもリアルに感じられた。まさに失敗者の中村さんに近い経験をした人は多いと思う。わたしも中村さんみたいに全額をかけた訳では無いが近い恐怖を感じて株から即退場した経験を持つ。いや、株とビットコインは違う。ビットコインの上がり方は凄まじい。その分下がる時も凄まじい。乱高下を繰り返す暗号資産は初心者にはとてもじゃないがハイリスクだ。そのぶんハイリターンと言ってもいい。最初に言っておくけれど、わたしはビットコインは手を出すべきではないと思っている。なんの裏付けもないビットコインに投資するのは投機と何ら変わらない。バイ&ホールドすること。それもロングにホールドする株とは全く違う。ビットコインがまだ数ドルの頃に手を出している人なら話は違うだろうがいまは1ビット600万円前後もする高額商品だ。たとえ、数100円から参加出来ると言っても、ハイリスクであることには変わりがない。本題に戻るが、成功例として挙げられている人と中村さんは何が違うのか?リスクにも目を向けている、と記事にはあるがそれはリスクを知っていればよかったのか?それとも、チャートをつぶさに観察して高騰し始めたタイミングで買えたからよかったのか?いや、そもそも高騰し始めたタイミングって何?そんなの、チャートから読めるの?読めるなら皆儲かるんじゃないですか?そうならないのは読みが間違ってるから?いや、それよりも、この成功した人は1.5倍に増やせたとする。その後、同じようにもっと増やしてやろうと思わないの?もっと増やしてやろうと思ってまた投機して、また1.5倍、それ以上に資産を増やせるの?丁半博打なのに、確実に増えるという保証がある?…とまあこんな所か。つまり、この2人の明暗を分けたのはリスクに対する情報ではない。それはただの運である。丁か半か博打を打ったのだ。上がるのか、下がるのかを賭けたのである。勝つか、負けるかという尺度はその二択にしかならないから賭けとして成立する。賭け、すなわち、ギャンブルである。株だってそうだと思う人もいる。わたしもそう思った。特にデイトレはそうだろう。FXも同じと感じている。(違うという意見ももちろん認めます、個人の意見)だから株は安全だとは言わないけれど、株には歴史があり、会社という実態がある。景気という目に見えないものも関係するし、人気や、流行にも影響される。しかし、歴史があるということは研究されているということだ。研究されているということはリスクにもそれは言えるということだと思っている。リスクがないとは言わない。だが、リスクがあるからリターンがあるのは株だけに限ったことではない。仕事はすべてリスクに対するリターンで成り立っている。そのことに気づいた時、リスクとの付き合い方を理解すればいいと分かるだろう。リスクをどうやって分散するか。その付き合い方を学ぶには株は優しいと感じている。積立NISAやiDeCoを始めたいと思ったわたし。けれど、その前に株とは何かを学ぶべきと感じた。だからiDeCoは選択肢から外した。積立NISAは魅力的でデメリットはないと感じたが、それよりもリスク単体との付き合い方を知りたいと思った。リスク単体と向き合うにはルールはシンプルな方がいい。タイムリミットがあることは知っている。けれど私にはそのタイミングが大事なので、理解力が追いつくまでは今のやり方で株と付き合っていくつもりだ。あなたはどう思いますか?…あれ?記事のタイトル間違ってませんか?1.5倍じゃなくて?

 

それじゃぁまたね(了)

堀江貴文「コロナ不況でも儲かる飲食店と潰れる飲食店の決定的な違い」 飲食業界の「常識」を徹底的に疑え (3ページ目)



理想をいえばそうだろう。だが現実はそうとも限らない。

では、何が正解か?私にわかるわけもない。けれど、上手くいっているお店、会社は物凄く研究しているということだ。それは誰かのメソッドをどれだけ勉強し、模倣しているかという視点ではないように思う。いかに自分のしてきた過ちに真摯に向き合い、それでいて人を愛し、仲間を信じて問題の芽を摘み取ってきたか?ということだと思う。経営は人情でするものではないが、ドラスティックにやれば上手くいくというものでもない。結局、そこで働く人達をつぶさに観察していい所はのばし、悪いところは改善していく。そのジャッジをいかに公平に、冷静に下すことができるか?である。もちろん、露骨にやれという意味ではないのはさっき言った通りだろう。問題を直視する姿勢と言うのは特殊なスキルを要するように思えるかもしれないが、私からすると、見えているものを見えたままに捉えるという至極当然の姿勢であるように思える。問題なのは見ても見たままに判断できる人は少ないのではないかと思う。理由として、そこにプライドや、馬鹿と思われたくないという見栄だったり、知ったかぶりだったり、素直になれない素直さだったり。そう言った人間くささが邪魔をして、視界を曇らせているのではないか、と。堀江貴文氏が指摘する勝ちパターンは確かにそうだと思う。しかし前提条件がありそうなのも確かだ。行列の例でいけばそれは都心部特有の審美眼に長けた人達のコミュニティが前提である。ホットペッパーや、各種フリーマガジンは確かに新規客を得るための施策だ。客単価を下げてしまうことは経営的にダメージは大きい。リピート率を稼ぐ事も難しいだろう。新規顧客を取り込むことと、リピート客を確保していくことは、プロモーションの方向性がまるで違うと思っている。リピート客を得るには確かに次回の予約をしてもらえることが大きい。それはお店と顧客とのコミュニケーションであり、そこに不特定多数の人が読むフリーマガジンは付け入るべきではない。店頭で渡すクーポン券であったり、自宅へ送るDMだったり。スマートフォンのLINE経由で送られる情報であったり。FacebookTwitterInstagramは不特定多数を対象としている点でフリーマガジンと同じである。検索出来ればすぐに見つけられるからネットのほうがよい?それはテレビや雑誌で頻繁に取り上げられるようなひと握りの超人気店だけである。地方にあるお店で超人気店はたまにある程度でそれらはもはや新規顧客をとる必要がない。リピート客が新規顧客を連れてきてくれるからだ。その信頼関係が揺るがない限り繁栄は約束される。だが、信頼関係を結ぶのは並大抵の努力ではできない上に、あっという間に崩れてしまうこともある脆いものだ。だから飲食店に限らず新規客を取り込む施策は常に張っておくべきものである。ラーメン屋の一蘭を例にとっていたが、あそこまで特異性のある商売を地方の企業や、個人店に期待する方が間違っていると思う。それをやれと言うのも確かに戦略だが、最先端を突き進むということは勉強とリサーチの為せる結果であることから、その難易度はとんでもなく高いと言わざるを得ない。各お店がそれぞれにSNSや、LINEなどのツールを駆使して何とか無料で集客しようと試みるがどれも失敗に終わっているのはそのためだ。やらない方がいいとまでは言わないがあまりにもコスパが悪いと言わざるを得ない。フリーマガジンは新聞広告より狭い範囲で打てる広告だ。但し、発行日が指定される。それならポスティングの方が良いと考えるだろうか。エリアも絞れる上にタイミングも自由自在だ。しかし、それもまた、かなりの勉強とリサーチを要求される。しかも1度打ったからと言ってすぐに効果が出る訳ではなく、その反応についても情報が蓄積されていくわけではない。当たればいいが、当たらなければ無駄金になる。フリーマガジンにもそれは言えるけれど、そこに関わる人が沢山いるということは、失敗例と同じくらい成功例が集まっていると考えるべきだ。しかも地域ごとの特異性まで網羅している。大手の広告代理店では掴めないような地域性、タイムリー性までそのフリーマガジンには集約される。クオリティという意味では相応ではあるがやり方さえ間違えなければある程度の確度で反応を見込める上に安く抑えることが出来るフリーマガジンこそ、地域社会の発展という意味ではGAFAより上だろう。効率性という意味でGAFAが提供する広告枠に適うものは少ないが、顔も住んでいる地域も知らない人に間違いなく情報を伝える難しさを考えれば、地域限定のメディアの存在意義を理解して貰えると思う。堀江貴文氏が最後に指摘したスナック最強説も、西野亮廣氏が指定している話と酷似している。サービスにお金を払うのではなく、この人だからお金をはらいたいというニーズは確かに存在する。安ければなんでもいいという考え方は淘汰され、高くても質の良いものを求める傾向は今後益々強くなっていくだろう。付け加えるとすれば、大手だから、大企業だから高くて質が良い訳では無い。大手でも利益を得るために質を落とすケースもある。逆も然り。中小企業だからきめ細やかな対応をするかというとそうでもなかったりする。要は当たり外れが大きいのだ。しかし、中にはとんでもなく素晴らしいサービスを低価格で提供するお店もある。それは往々にして口コミで支えられたクローズドな世界に終始するが、その情報に翼を与え、大空に羽ばたく…ほどでもなく、せいぜい隣町までの範囲にその情報を広げることが出来れば重畳である。それこそが地域限定メディアの意義であり、他の誰もできなかった地方経済の活性化のひとつの成功事例といいたい。わたしはそう信じて明日も地域のお店に足を運ぶのだ。

 

それじゃあまたね(了)

「好きなことは仕事にしちゃだめ」「いい学校、いい企業」…… “古い価値観”の呪いにかかっていた人の漫画に大きな反響(1/2 ページ) - ねとらぼ



古い価値観を打破することと、やりたい事をやることは同列ではない。

「いい大学に入っていい会社に」「やりたいことを仕事にしてはいけない」この2つはわたしも小さい頃に言われた。これを「古い価値観」と呼ぶべきものなのか?は、わからない。けれど、私の小さい頃の教えだ。たぶん、「古い」のだろう。この漫画で描かれている主人公の女性も、そんな「古い価値観」に囚われていた。そしてその価値こそ正しいと思って暮らしていた。つい最近までは。価値観が変化するきっかけは姉の存在。姉がやりたい事を仕事にしたことで自分の中に価値観に対する疑問が生まれた。やりたい事を仕事にしてもいいのではないか?そんな疑問が頭から離れない主人公は、ついにイラストというやりたい事を仕事にする第1歩を踏み出す……というストーリーである。起承転結。なるほどわかりやすい話だ。だがわたしはこれを見てそのまま、その通りだ!と思う部分と、世の中そんなに甘くないよ、と思う部分の両方があるなと思う。前者から説明すると、やりたい事をしない世界は確かに味気ない。やりたい事を仕事にしたいと思うのはごく自然である。ただし、やりたい事を仕事にするということは、やりたくない事をしないということと同義語で語られてはいけないのではないかと思ったりもする。やりたい事が絵を仕事にすることであるなら、絵に関わる仕事をするだけで生きていけるのか?例えば、絵を売る営業だったり、経理、指導、管理、様々な要素が関係して、ようやく絵を描くことを仕事にできる。そして仕事になれば納期があり、締切がある。やりたい事を仕事にしたつもりが、やりたくない事を強要されることもあるだろう。理不尽な要求ばかりされて、描くことが嫌になってしまうこともあるかもしれない。それがまさに「好きな事を仕事にしてはないけない」という格言であり、好きな事を仕事にするといういわば覚悟である。好きな事を仕事にできて幸せになれる人はどれくらいいるのだろう。ひと握りの天才?いやいや、天才ですら、苦悩の日々に悩まされている。果たしてそれは幸せなのか?ぼちぼち働き、ぼちぼち絵を描くことの方が幸せではないのか?そうやって主人公もそこそそ働き、伴侶を得て結婚した。子育てに追われる中、私の本当にやりたかった事は何か?という疑問をぬぐい去ることが出来ず、イラストの道をあゆみ出す。それは美談だろうか?確かに自問自答の中で自分の本心に気づき、道を進んでゆく様は勇ましく、見るものを勇気づけるだろう。だが考えてみて欲しい。それで仕事になるのか?たまに売れてラッキー程度ならいいが、それで生計を立られるほど、今の令和の世の中は甘くはない。旦那さんがフルタイムで働いて、奥さんである主人公がやりたい事を仕事にする、という構図はよく見かけるものだ。男性は仕事に追われ、最低限の生活をするのがやっと。そんな中で奥様は専業主婦をしながらやりたい事を仕事にしようと努力している。なんとなく。なんとなくだけど、それは美談か?男性側にもやりたい事を仕事にしたいという夢はあるだろう。だがどこかで現実と折り合いを付けて、我慢して働いているかもしれない。その気持ちはわかる。いや、少しでもやりたいことが含まれているのならいいのだが。私個人的にもこの話は胸に刺さる。まさに一昨年のわたしだからだ。やりたい事を仕事にしたいと思ったわたしは一念発起。4度目の転職を心に決めた。そして転職活動を開始。初めは意気揚々と面接を複数社受けたが、どれも残念ながらお祈りメール。焦り始めた時、不意に目に止まったフリーマガジンを作る営業という仕事に応募。そして今に至るわたしだ。本当にやりたかったことはゲーム制作だった。けれどそれは専門知識が必要な専門職でありかなりの門前払いを食らった形となった。結論を言おう。やりたい事を仕事にするなら、早いうちからその道に関する勉強をするべきだ。進路にも大きく影響する。その進路を進めなかったのなら、趣味で留めて置くほうが無難だろう。人生をハードモードにしくないのだとしたら選ぶべき道は他にあるはずだ。誰もが自分の才能を過大評価しがちである。それは私にも言える。結局は現実と折り合いをつけて行かなければ幸せな人生とは程遠いものとなるだろう。人はいつからでも何にでもなれる?というキャッチコピーは、ただし1部の人間に限るとか、ただし相当の勉強と努力を継続してできる仕組みを作れる人に限るという注釈を明記すべきである。なんてね。わたしは夢は夢のままにしておく方がいいなーなんて思うので根っからの「古い価値観」の持ち主なんでしょうね。スマホがこれだけ普及した便利な世の中では正解もすぐに書き換えられる。その点にさえ気をつけながらアンテナを高くして敏感に情報をキャッチさえすれば出来なくはないだろう。それこそが「新しい価値観」であるように思う。中田敦彦さんがシンガポールに移住した話もおそらくその文脈上にあるに違いない。

 

それじゃあまたね(了)

郊外に移住したリモートワーカーの給与はカットすべきか? アメリカで議論深まる在宅勤務の待遇(AMP[アンプ]) - Yahoo!ニュース



リモートワークは、しわ寄せか。新たな希望か。

リモートワークで郊外に住みながら働く人は、都心で働く人と同じ給料ではない、らしい。記事によると、住む町の物価によって、10%~20%減額される。都心部の生活レベルの給料をもらいながら郊外に住む夢は、実現しなかった。都心部に住むメリットは給料が高い仕事が多い。郊外には安い給料の仕事しかない。しかし、郊外は都心部に比べて物価は安い。そのため、安くてもなんとか働くことが出来る。わたしはその点について納得しているひとりだ。都会は一流企業が多く、給料も高くなる反面、家賃や物価が高く、とてもじゃないが裕福な生活を送ることなどできはしない。郊外なら給料は安くとも、生活費は少なくて住むため裕福な生活を送れるとは言わないまでもかなりのんびり暮らすことが出来る。それはインターネットが可能にした世界である。現に今の仕事も半分リモートワークという環境だ。素晴らしい。都会にいるよりも郊外にいた方がいいと思う理由はここにある。しかし、この記事でもっと気になるのはその部分ではない。次のところだ。Facebookなどの大手がアメリカ全土から求人を探すことが出来れば、それはいいことなのか?という論点だ。いや、Facebookにしてみればいいことだろう。都心部に来れはしないけれど有能なスタッフがいた場合、それを採用することができる。ところが、その郊外にある地方の企業からすれば?給料はそこそこ。福利厚生もまあまあ。やるべき仕事に将来性は……あまりない。そこにFacebookだ。世界規模の企業である。給料こそそこそこかもしれないが、夢がある。上手く行けば出世して世界をまたに掛けた活躍をすることができる。そんな夢が。そんな夢に若者が胸ときめかないわけがない。となるとどうなる?郊外の企業はFacebookと求人を取り合うこととなる、というのだ。それって……と思ったわたし。だがそれもどうだ。もともとFacebookに入れるような人材じゃ無ければ?それは同じ話である。結局、地方の企業とFacebookが人材を取り合うようなこともなく、むしろ、郊外から若者が居なくならないことは、地方にとってメリットではなかろうか。イメージとしては、ユニクロの地方社員のイメージに近い。ユニクロが地方社員を導入したことで、地方の企業が人材不足になってるか?と言われれば、結論。それは関係ないと言える。結局、ユニクロに行きたい人はそれなりに優秀な人だろうし、その人材がなにかどこかで諦めて地方のショップで我慢する、というケースはあまりないように思う。地方のショップで働く人は……都心部から転勤してきた人だったりするだろう。なのか?わからないけれど。それって不幸なのかな。イメージは……ドラッグストアとか?確かに社員は転勤しまくってるイメージある。いやいや待て待て。このリモートワークのメリットを教授できるのは、IT企業、エンジニアとかだけだった。そんな仕事、そもそも郊外にはないや。皆無。あなたの地方にFacebookの社員募集来るとかイメージできる?いやわたしはできません。というか、かなり怪しむ可能性すらある。どうなんだろう。でも、郊外に住むという理由だけで給料が下げられるのであればそれは十分に転職理由にはなりそうだ。逆に下げないと宣言している企業は魅力的ではある。もしも、もしもだよ。いまのわたしの地域にAmazonの求人があったら?あなたはどうする?わたしなら。絶対に……応募しません。なら。話はこれで終わり。つまり、そんな未来は来ないってこと。まぁ、アメリカ全土だけなんだろーな。それか、東京近郊だけ?この話はこれでおわり。

 

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平均年収600万円…日本で「金持ちになる人」の切ないリアル(幻冬舎ゴールドオンライン) - Yahoo!ニュース

結論。お金を持てば使ってしまう。持たなければそれなり。

収入が増えれば支出も増える。収入を増やしつつ支出を抑えることなどできるのだろうか。ひろゆき氏は「生活レベルを下げるのは難しい。だから生活レベルを上げないことが大切だ」と言う。その結果がスペイン移住なのだとしたらそれは本当に幸せなのだろうか。誰しも老後がある。これは変わらない。老後は体力も気力も衰え、収入源も少なくなる。変わらない人もいる?しがらみが老後まで続く人の間違えではないだろうか。少なくともわたしは老後は誰かやなにかに縛られたくない。それは自由に世界旅行がしたいとか、裕福な生活を送りたいとかそういうことでは無い。個人的な話ではあるが、わたしは老後はそれなりに働きつつ、帰ってきてちびちび炭酸水でも飲みながらゲームを楽しむくらいの生活レベルで満足だ。わたしが重視したいのは社会との関わりの濃度であり、Twitterやそれに準ずるSNSのおかげでそれは担保されていると信じている。同年代と話せなくていいのか?という疑問についてはわたしはYESと答えよう。同年代はFacebookに少しいればいい。会いたいと思ったこともない。それよりも今の世をもがく若い人たちを観察する方がよほど刺激的だ。だからではないが、SNSとゲーム、そして音楽だけは老後も楽しめるようにしていきたいと思う。つまり生きがいという意味での準備は既に終わっているということだ。そして次に考えるべきは、あらゆるリスクに対する備えだ。リスクはおもに、①経済的、②健康的、③災害、④その他のトラブルが考えられるだろう。①は、仕事がなくなったり、働き口が無くなるというリスクだ。そこは持ち前のバイタリティで攻め込むしかない。その点、わたしは4回という少なくない転職を経験させてもらい、あらゆるケースを自らの糧とすることができた。最後は恥を忍んで仕えるという精神さえあれば何とか行けると思っている。次に②だが、これは普段の生活を改めて行かねばならない。暴飲暴食はご法度。お酒、タバコ、辛いものなど、体に毒とされるものはすべて控える。そして、定期的なメンテナンスも大切だ。特にわたしは歯が弱いらしく(ほぼすべて虫歯治療済だ)、これは半年に一度のペースで通うこととした。そして長年の悩みであった肌トラブルも最近は克服しつつある。あとは運動だが、これについては老後は時間を作ってウォーキングなどをルーティン化する予定だ。次に③だが、昨日も東北で地震があった。これからの時代、いつ巨大地震があってもおかしくないだろう。そう思って私は築45年を超える古い分譲マンションを中古で2つ所有している。ひとつは私の住まい、もうひとつは親の家だがわたしの名義だ。そしてそれは別の地域にあり、セーフハウスの意味もある。つまり、巨大地震で壊滅しても地域が分けてあるのでリスクを分散できるという考えだ。さらにどちらも高層階にあるので津波の心配はない。強いて言うなら停電時のエレベーターの問題だろうが、5階、9階程度、何とかなるだろう。そして④を考える。これは様々あるが、ひとつは先程の分譲マンションのローンについてだ。支払いの問題である。現在、2つ所有しているがローンを2つ走らせている状態である。これがややリスキーと思っている。現在は1つを両親が肩代わりしているが、父親が癌になってしまったことで、今後治療費の高騰が懸念される。すると最悪、両親のマンションの支払いがわたしにのしかかっできてしまう。それはあと10年健康でいてくれればわたしの住まいのほうが終わるのでギリギリ行けるという目論見であったのだが、予想より早く父親の体調が早く崩れた格好になっている。そして、娘の学費もある。これからお金がかかってくる時期に父親の体調不良、そしてマンションのローンと重なることはとてもハイリスクである。ここは両親の体調を注視しつつ、最悪は姉夫婦にマンションを譲渡することも視野にいれねばならない。生活はリスクとの戦いである。私は常に最悪を想定しつつ、無理のないプランを常に用意するようにしている。そしてそのプランもなるべく複数用意する。そうすることで選択肢の無さに苦境に立たされることもなければ、頭を悩まして苦悶の日々を過ごさずに済むと考えるからだ。すべてを順調に成功させることなどできはしないが、なるべく平穏に、そして、最後は一人ぼっちになってもいいようにあらゆる保険を(生命保険はきらい)掛けておくことはとても大切だよね。うん。おわり。

 

それじゃあまたね(了)

ビットコインは2022年に死す?この先最大の危機は国が法定通貨との交換を止める時=今市太郎 | マネーボイス



投資をせよ。だがその原資は主に生活費であり、すなわち実体経済の衰退を意味する。

そんな記事?論調?をどこかで見かけた。

つまりこれから給料は目減りする一方であり

税金は高くなり続けている。手取りが減る分、どこかで補わなくてはならないと考えるのが自然だ。補うために副業を考える人も少なくないだろう。だが副業とてハードルは高い。会社の規定で禁止されていればアウトだ。ではどうするか?そこで出てくるのが金融資産を購入するという選択肢である。それはお金でお金を買うことでお金を働かせ、仕入れ値と売値の差額で利益を稼ぐという考え方である。または配当金で稼ぐことである。するとどうなるか。お金を稼ぐためにある程度のまとまったお金が必要という結論に至る。そして、まとまったお金をどこから調達するかという議論に発展する。そうすると、大抵の場合、貯蓄から切り崩していくことになる。貯蓄とはすなわち生活費である。例えそれを、直ぐに使う予定のない貯金であったとしても、それは大抵の場合、生活費として消費される予定だったものであるから、生活費と言っていい。それを使おうと言うのだから、やはり生活は厳しくなる。場合によっては節約生活しなくてはならなくなるだろう。節約とは、つまり、可処分所得額の減少を意味する。可処分所得の行先は、外食費、交友費、エンタメ……もっと分かりやすくいえば、本やゲームや映画やレジャー全般、旅行もそこに含まれる。つまり、現実世界でこれまで当たり前に消費されてきたあらゆる産業が使われなくなることを意味する。それは確実な消費の減少であり、不況をさらに輪をかけて不況にする悪循環である。少し前まで、高齢者が1番のお金持ちであった。シニアブームと呼ばれ、多くの高齢者があらゆる産業にお金を落として行った。ところが。コロナ禍によってそれも皆無となって久しい。次にお金を落としてくれる層はファミリー層である。子ども需要を中心とした、外食、ゲーム、服、家具、その他。ありとあらゆる子ども向けの商品はプレミアム価格となり、大人顔負けの高級品も少なくなかった。そこに少子化が拍車をかけ、あらゆる高額商品が「子どものため」という大義名分を持って消費されてきたのである。ところが、コロナ禍によって、その需要にも陰りが忍び寄る。聞くところによると、どこか出かけて遊びたいと思う子どもが減っているという。外に出かけるよりはお家でゲームしていた方がいい、というのだ。そうして家庭用ゲーム機は爆発的に売れた。それはいい。だが一方で家族連れをメインターゲットとする産業は廃れた。アミューズメント施設、子ども向けアトラクション、外食も含めてありとあらゆる産業が大打撃となっている。高齢者もだめ。ファミリー層もだめ。若者はそもそもお金を持っていないし、節約生活を徹底している。学生も無料に慣れていて期待できない。するとどうだろう。お金を使ってくれそうな層がどこにも見当たらないのだ。これこそが、これから世界中で起こる大不況の始まりである気がしてならない。そして、21日の緊急事態宣言の解除。これはオリンピック開催を前に既定路線であるのだけれど、それは同時に時短営業要請に伴う補助金の終了を意味する。それはつまり一切の補助金なしで、荒野に放たれることと同義だ。途方に暮れてしまい、ただ崩壊の一途を辿るお店も少なくないだろう。いま、どこのターゲットに向けて訴求すればいいのかを読むのは難しいと言わざるを得ない。ただひとつ言えるのは地方都市では相変わらず高齢者が地域経済を回す原動力であることに変わりはないので、そこをどれだけ採り入れられるかは大切である。その上で遠方に行きがちだった若い人たちを地域のお店にいかに呼び込むことができるか?が重要になるだろう。遠方からの客は望めない。1度や2度は来てくれるかもしれないが一見さんでまわせる観光地は軒並み苦戦を強いられるだろう。上顧客をファン化させるというのも必要な戦略だ。そのためには店主のキャラクタを全面にうちだす必要がある。それは全世界に向けたYouTubeTwitterでやるのもいいがそれではライバルが多すぎる。同時進行でいいので、地域コミュニティに訴求する媒体を併用すべきだ。地域の高齢者に好かれてはじめて回るからだ。その上でYouTubeTwitterなどで若い人にも訴求する。しかし、それを検索してもらうために、アカウントへの誘導を図る必要がある。それをGoogleにお金を払って広告とするのもいいがよほどコンテンツに自信がなければ無意味だろう。であるならばまず顔を売るという意味で地域フリーマガジンは有益である。顔を覚えてもらえさえすればその後のプロモーションは格段にやりやすくなるからだ。これからのプロモーションは地域限定で行うべきである。そうすればほっておいてもSNSで火がつき、いつしか広範囲で人気を集めるお店になれる。私はそう思う。あなたはどう思う?

 

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営業で「御社の課題は?」と聞く人が残念なワケ | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準



真実である。タイトルはどうかと思うけれど。

営業とは物を売ることだ。人は信用できる人から買いたいと思っている。そして、営業パーソンは信用が第一である。そして、その信用の上に成り立つのがヒアリング。日本語では雑談と訳されるその技術だ。雑談、と聞くと無駄な話、と考えられがちだ。しかし、本質は雑談という皮を被った営業トークである。その心はクライアントの趣味趣向から、考え方などを探ることで、その後に続く営業活動をスムーズに(いやはっきり言えばこちらのペースでやれるように)するための、いわば前菜である。相手には単なる雑談という体裁でいくわけだが、内心は確固たる目的を持っている。その二面性に、営業パーソンはしたたかさを要求されるわけである。嘘を言って相手を騙せばいい営業ができるわけではない。そう思っている若い人もいるかもしれないが実際にやってみるとそれはそれで難しくてできないことが分かる。出来ないというか、無理が出てくる。そのクオリティを高めたものが、いわゆる詐欺であるのだけれど。相手のニーズを探っていき、相手の気づかなかったウォンツまでも掘り下げていく。この記事の指摘する様なことは言葉にすると簡単そうに見えるがとても難しい。あらゆる心理テクニックや、トークスクリプトの習得、そして、鍛錬が必要だからだ。

記事をそのまま引用させてもらうと、

「顧客が求めるもの」は、大きく3つの種類に分類できます。①顧客が自覚しており、それを公言できるもの。②顧客は自覚しているものの、それを公言したくはないもの。そして、③顧客自身が自覚していないものです。

ここの部分である。この、自覚していながらも公言したくないもの、そして、自覚していないものを掘り起こす作業である。

自覚していながら公言したくないもの、そこには言えないからこそ強烈なニーズが存在する。それは、課題は何ですか?と質問して答えられるものでは無いだろう。だが、間違っては行けないと思うのが、課題は何ですか?という質問がタブーではないということだ。私が思うに、相手をある意味で試すような質問として、この問いを投げかけてみるのも、わたしはツールとしてありでは無いかと思う。本心から聞くと「それを考えるのがあなたでしょ」とイヤミを言われてしまう危険性もあるフレーズなので、できるクライアントが相手の場合は差し控えたい。できないクライアントになら言っていいというわけではないが、ある種の搦手(からめて)として、意外性を持って会話のトーンを引き締めることが出来ると思う。全く無完成の無駄話が好きなクライアントだっている。それを一緒に楽しんでみるのも営業パーソンとしてわたしは好きな時間ではあるが、それはあくまで信用を得るためのステップであって、それ以上でも、それ以下でも無い。その雑談ムードを断ち切る意味での、課題は何ですか?なら、それは切り込みワードとしては秀逸である。

つまり、この課題は何ですか?を最初にしては恥ずかしいだけであって、雑談を踏まえて切り込むときの、返し刀であれば切れ味は相当のものとなるからだ。とまぁ、営業パーソンとしてキャリアをそれほど積んできている訳では無いわたしが力んで話したところで大した話にはなりはしない。ただ、感じるのは確固たる目的を営業パーソンは持つべきだし、雑談はそのためのツールに過ぎない。また、手元資料や、予め用意されたデータなどと同じレベルで、どんな雑談を振るかというのも重要度が高いということなのだと思う。あとつけ加えるなら、提案する時の語尾だろう。「〜さんのところは、〜だと思うんです」というと外した時に大ダメージを受けてしまうが、外してもいい言い方がある。それが、「〜さんのところは、〜で、一般的に考えると〜じゃないですか?」という同意を求める言い方である。そうすると多少違うなと思われたとしても、確かにね、とワンクッションのYESを引き出すことが出来る。営業で行う全ての行為はツールである。YESを繰り返せば契約のYESももらいやすくなる。それも有名なテクニックのひとつ。我々営業パーソンは、それら先人の知恵をそのまま丸パクリしながら、どこかで自分自身の本心から来る興味本位と、知らないことを知りたい好奇心を心の中に忍ばせながら、時に契約をとりたいという本音をグッと堪えつつ相手の話を根気よく聞き続ける忍耐力。そして、その場に足を運ぶフットワーク。嫌味にならない程度に連絡するテレマーケティング。それらが三位一体となったとき、思わずこぼれる相手が自分で気づかなかったウォンツを、掴み取る事ができ、なおかつそれを提案するサービスで実現ないし、進展させることが出来るという確信を得た時、とてつもない喜びが生まれる。それは売上以上に個人にとってのスキルアップに繋がる貴重な経験であり、人生の財産となってゆく部分である。わたしは学び直しを考えた時、もっと広い世界を見て、もっと人と深く付き合うことで、私の中のわたしを、磨き上げ、これからまだ数十年という仕事人生を続けていくだけの基礎体力、発展的スキルを手に入れることの需要性に気がついた。そしてそれこそがこれから訪れる激動の時代を生き抜くための、必要スキルだと感じている今日この頃でございます。どうやら最近のくしゃみ連発は風邪を引いたらしいので早めに寝まぁす。おやすみなさい。

 

それじゃあまたね(了)