ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

ムジカのキオク。♪note:https://note.com/ryoushitsumusica ◆YouTube: https://www.youtube.com/channel/UCWvTBOe1O9GICLtyreUu-6Q

なぜ今、週休3日を政府は言い出したの? 経済学者も先のわからない時代に、選ぶべき仕事とは | Business Insider Japan

 

社会が変化していく中で実は最も変わらないといけないのは自分自身である。

変化と聞くとイノベーションとか、革命とか、なにか自分とは別の何かの力が働いて物事が動くとか変化するイメージを持っている人が多いように思う。分かりやすくいえば、Appleが生み出したiPhoneが私たちの生活を豊かにしたように。Googleのサービスが私たちの生活を便利に変えたように。この週休3日制はそういう話ではない。誰かはわたしを変えてはくれない。変えるのは自分自身だ。それを実現できるのは自分だけである。学び直しというテーマは、わたしにもかなり身に覚えのある言葉だ。2019年の夏に私が思ったテーマがまさに学び直しである。この先まだ長く働くにはスキルが足らない。そのスキルを磨くべくわたしは転職を決意。本当なら転職せずにスキルアップできる方が賢いと思う。むしろそれが出来る方が幸せに違いない。だがわたしは残念なことに自分に甘かった。そしてもう一度一念発起するなら、環境を変えねばならないと強く思った。たとえそれが自分自身の苦難の道筋の始まりだったとしても。実際にそれは苦難そのものだった。けれども、それは間違いなく私がやりたいことであり、やりがいのある分野であったと同時に、わたしに決定的に足らなかった分野であった。コミュニケーション能力しかり。営業力しかり。それらの足らなかった分野の知識をわたしはどんよくに吸収することにしたのである。なぜか?この先もずっと働き続けるために。せっかく頑張らなければならないのであれば好きな分野で頑張りたい。そう思ったのである。そしてわたしは当社比約3倍の働きを強いられた。いや、今も強いられている。大分、慣れてきた感じはするけれど。人間、どんな辛い試練も1年もやってれば慣れてしまう。それが新しい基準となって私の血肉に確実になって成長させてくれるのだから、願ったり叶ったりではある。もちろんいまだ道半ばではあるが、私のやりたいことは確実に1つずつできるようになってきた。わたしは組織の中でのし上がっていきたいという欲はまるでない。それを向上心のなさと決めつける人もいるだろう。しかしそれはわたしの長年の自己分析によるものだ。わたしは人の上に立つような人間ではないし、それをしたいわけでもサラサラない。それよりも、経験したことの無いことを経験することで私の内部に新たな知識を蓄えさせ、私自身のバージョンアップをすることに主眼を置いている。マネージャーという仕事も知識や経験になるのでは?という質問は受け付けない。何度も言うが私はその手の知識はあっても使いかたが分からないので宝の持ち腐れになってしまう確率の方が高いのだ。結論からいえばわたしはマネジメントの知識はゼロである上に、生来のコミュ障が祟って、長く長期的な関係性を維持することはとんでもなく苦手なのである。苦手分野で勝負するほどわたしは愚かではないつもりだ。苦手を克服して成長を期待できるのはせいぜい20代までである。残念なことにその年代をふた周りも超えそうな歳のわたしなのだ。無理を言っでも仕方がないというのがわたしの結論である。週休3日があればわたしはどうしたいか?と言われればやはり副業兼業に乗り出したい。それは流行りのなにかというよりは、わたしの住んでいるコミュニティにおいて必要とされる分野。そのくせ中々担い手の居ないような、そんな仕事である。今ぱっと思いつくのは街の観光案内PRの仕事だったり。そんな類のものだろう。または、ゴーストライターでもいい。別に私個人が世の中に出ていく必要はないのである。街に人を呼び込むというよりは、何らかの課金システムを用意してそこに誘導するような仕事が理想である。考えるだけならタダである。言葉にして発しておくと、夢が現実になることもあるということを知っているのでわたしは妄想を言葉にすることを自分に課している。余談だがドリームMAPも好きで、もう3回ほど先の未来を描いている。最新のMAPは2024年なのでまだだいぶ先まであるがもう既にある程度叶ってしまっているのだから本当にすごいと我ながら思ったりする。この記事にあるような考え方は理想論に聞こえるかもしれない。理想論と言うとなんだか、無駄な論議に思えてくるかもしれないが、理想論でも語っておくと夢が実現する可能性は高まると私は思っている。仮に政府が週休3日制を導入したとするとこの話は絵空事ではなくなる。まあすぐには導入されはしないだろうが、今まで週5日でやっていたことを4日でやろうというのだ。そのハードルは低くはないだろうが出来なくもないだろう。わたしが去年に約3倍の働きをして1年でそのことに慣れてしまったように。慣れた、というよりは、力の抜き所を覚えたという方が正しいのかも知れないけれど。いつも気を張っていればいいというものでもないし、結局のところ、自分のペースでやるのが1番効率がいいのであって、自分の精神や肉体とも相談しながら無理なく進めていくことこそ、1人の会社員として守るべき最低限のルールだと私は思っている。目標達成など二の次だ。なんて言うと世のマネージャー職の人に怒られてしまいそうだけれど。しかし、達成させるためにどうするかを考えるのがマネージャーの仕事であり、我々のような平社員が背負うことでもあるまい。それは分不相応というものである。我々平社員は言われたことをただやると言うのではなく、言われたゴールに対していかに少ない労力で最大の効果を発揮するかである。労働力とはコストパフォーマンスに優れていなければならない。週休3日制の話に戻そう。週休3日制、大いに結構じゃないか。まぁ、この記事が指摘するように給料は減るだろう。減らしてはならない!といくら政府が言ったところでそれは無理と思った方が自然だ。給料が減るので逆にそこは大手を振って兼業副業に邁進できるというものである。ただまぁ、兼業副業については時間給のような仕事ではやりたくはない。そうではなくて、コンテンツを生み出していくら、とか。空いた時間にサッとできるような分野が望ましい。私なら広告やコピーライト、取材やポスター、映像コンテンツなどである。趣味に毛が生えた様なものかもしれない。けれどわたしには勝算がある。コンテンツを生み出すときに最も重要なものは、客観的な視点である。それをわたしは持っているし、それを表現する力もある。あとはチャンスが来るのを待つだけ……と思いたいが、まぁせいぜいアンテナを張っておくとしよう。いますぐにどうにかなるようなものでもないのだ。少しずつ夢の実現に向けて準備を進めていこう。

 

それじゃぁまたね(了)


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「FFXIV」クリスタルブレイブのIF話や「NieR」レイドで吹っ飛んでくるビルの話題も!「漆黒のヴィランズ」までの物語を吉田直樹氏にインタビュー|ゲーム情報サイト Gamer



改めてFF14について語ろう。

ファイナルファンタジー14MMORPGである。MMORPGとはたくさんのプレーヤーがひとつの世界を共有しつつも、同時に存在できる奇妙な世界だ。それぞれに共通のメインストーリーが存在する。キャラクターごとに固有のストーリーがあるわけではない。楽しみ方で言えば世界中から集まったプレーヤーたちとの一期一会が1番の醍醐味だろう。思わず異性と気軽に交流することもあるだろうし、突如外国圏のプレーヤーと繋がることもある。そんな驚きを家にいながらにして味わえるのが、MMORPGの素晴らしいところだし、わたしも好きな理由の一つだ。わたしはファイナルファンタジー14が初めてのMMORPGなのでほかと比較することはできないが、わたしがこの世界に降り立つことを決意した1番のきっかけは、ソロでも楽しめるという懐の広さだろう。マッチングシステムでダンジョンを攻略していく部分はあっても、それを除けばソロプレーヤーでもストーリーを進めることが出来る。MMORPG初心者の私にとって、見ず知らずの誰かとマッチングしてダンジョンに突入することは、二重の意味で難問だった。ひとつはネット上で知らない人と遊ぶことの恐怖。もうひとつは、知らないダンジョンを初見でプレイしていいのかという不安だ。後者については予習という文化があるので、予習すればある程度は軽減される。しかし、予習はあくまで予習。本番とはまるで違う。同行したプレーヤーが予想に反する動きをることもありわたしは混乱させられた。あとは画面を広く表示させ続けることで俯瞰Viewで見れればいいがそれも初心者には酷く難易度が高い。自分が今どこにいて何をしているのか?どの敵を叩いているのか?といった至極基本的なことすら、わたしは理解するのにかなりの時間を要した。はっきりと言ってしまえば、ダンジョンを完全に覚えてしまうまで、それは出来なかったと言っていい。今思えばチャットを打つ余裕すらなかった。挨拶をマクロでしていたので1部のプレーヤーからは話せないのかとイラつかれたりもした。あまりの不安と恐怖に、ダンジョンを攻略することは1日1個と決めていたし、音楽があると焦ってミスるので、音楽も全て消していたほどだ。もちろん今ではそんなことはしない。だが、知らない人達に怒られないようにするためには無難な動きをしなくてはならず、初心者のわたしは何が無難な動きなのかもわからないままに、ひたすらほかのプレーヤーについて行く……いや、タンクだったので、誰かに教えてもらわなければ進むことすらできなかったのである。初心者はタンクとヒーラーを選んではいけない。そんな今となっては当たり前の感覚すら、当時の私には微塵も備わっていなかったのである。新生、蒼天、紅蓮と全てタンクで駆け抜けた私。途中、新生の1部の初見殺しなダンジョンに遭遇して挫折しかけたわたしだが、何度かやるうちに出来るようになった。不安でしか無かったわたしを不安の縁から救ったのは当時の私を拾ってくれたとあるFCの人達の温かさである。MMORPGでは色んな人がいる。だが、ソロで参戦したわたしには友人はいない。誰かに教わるという機会もない。そんなないない尽くしのわたしにとって、当時のFCのみなさんの気さくなトークや雰囲気はとてつもなく暖かく感じられた。それまで都会に1人で上京した田舎者という立ち位置だったわたしが、仲間という心温まる存在に助けられ、ようやくMMORPGの面白さを理解することが出来た頃、わたしにとある事件が起きる。それまで仲良しに見えたFCのメンバーが、2つのグルーブに分裂してしまったのだ。つまり、FCの人気者だったサブリーダーが、リーダーと決別し、仲良しメンバーを何人か連れてFCを脱退したのである。そしてFCハウスの目の前に別のFCハウスを建てたのだ。その時は仲違いではないことをアピールしていたが、やはりというか当然FCはギクシャクし出した。そして新しいFCの名前は初期メンバーの数をなぞったものとなり、その初期メンだけが重要であるかのようなFCが出来てしまった。そしてわたしは誘われなかったので最初のFCに残留した訳だが、居心地は最悪であった。リーダーもろくにログインしなくなり、メンバーも次々に脱退。ついにわたしも脱退することにした。もちろん、新しいFCに参加することもしなかった。わたしはこの事件を通じて、仲間がこうもあっさりと分裂してしまうことを知った。顔を知らない他人同士だからこそ大切にすべき人と人との絆はそこにはなく、ネット特有のドライな関係性だけがそこにはあったように感じた。とたんに怖くなったわたしは別のサーバーにキャラクターを作成して逃げるようにその世界を閉じたのである。もう嫌な思いをするのはたくさんだ。人を信じるから裏切られるんだ。それならひとりがいい。これまでもそうして来たんだからこれからも1人で生きていく。そう思った。そこでふと思う。1人なら好きな性別も自由に好きなキャラクターを作ればいいのではないか?誰かに言われるわけじゃない。誰かを求めるくらいなら、自分自身を理想の自分にしてしまえ。例えリアルの自分と勘違いされたとしてもそこはゲームなのだから、最悪の最悪、また逃げればいい。そんなふうにわたしは思った。結論から言うと、逃げる必要はなかった。そればかりか、理想の私は多くの人に愛され、その存在を認識されることとなった。もちろんわたしにとっての多く、はそれほど多くはない。わかっている。けれど、わたしにとってはとても多くの人たちに認識された。リアルの私が体験した事のないような大多数の人達に愛されるわたし。最初こそ罪悪感や違和感が拭えなかったりもしたが、しばらくするとそれもなくなった。それよりも、わたしは私が好き!という感情はたくさんのひとの好きに繋がっていく感覚を覚えたのである。好きは好き。好きはじゆうだ。好きと言ってくれるから好き。好きはありがとう。好きだという言葉は響きあい、広がっていく心の輪だ。結論を言う。ファイナルファンタジー14MMORPGである。そして、MMORPGの醍醐味はたくさんの人と出会えること。それはわたしを見つけることである。好きな私を見つけることである。今日も好きだよわたし。好きと言ってくれるあなたも好き。好きの輪を広げて私の周りをすべて好きで埋めて行こう。それがいまのわたしの願いです。好きです。ファイナルファンタジー14

 

それじゃぁまたね(了)


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「いい悩み方」と精神を消耗させる「悪い悩み方」をわける重要なポイント | 独学大全 | ダイヤモンド・オンライン



悩みとの付き合い方を間違えてはならない。

悩みとどうやって付き合うか。言い換えれば、いかにして悩みを軽くするか?であると思うが、どうだろう。悩みを無くすことはできないことは誰もが理解している。そもそも悩みとは①したいことがあり、それが出来ない状況である。または②した方がいいという方法を、何らかの理由で選択できない状況である。①はやりたいことがあるだけ幸せである。主に、夢や、恋愛等に多く見られる悩みだろう。夢はあるがお金が無い。夢はあるが時間が無い。夢はあるがチャンスがない。好きな人がいるが告白する勇気がない。好きな人がいるが相手にはすでに恋人がいる。好きな人がいるが遠くに行ってしまったなどだ。夢については棚上げして考えると楽になる。お金や時間やチャンスは運と割り切り、今は出来なくてもいつかできると信じることだ。そうして諦めずに努力を続けるスタンスをとればいい。叶わなくとも別の何かに繋がればそれは夢を実現したことに含まれる。恋愛で言えばそれは縁で考えるといい。好きでも縁がなければ成就しない。好きでも上手くいかないという事実は、逆をいえば好きでなくても上手くいくことがあることを示唆する。好きになることが辛ければ、好きになってくれる人を好きになる方が楽である。遠くの理想を追いかけるから不幸になるのであって、目の前にあるチャンスを迷わず手にする方が、幸せになれることの方が断然多いと知るべきだ。せっかく目の前にあっても、それすら手に出来ない人の方が圧倒的に多い。②は痛いほどよくわかる。私にもよくある悩みだ。した方がいいという言い方は、〜すべきというその人にとってあるべき姿についての思想が大きく絡む。男なら〜すべき。女なら〜あるべき。オトナなら〜すべき。とか。それは主に常識と呼ばれたり、社会人としてのコモンセンスと呼ばれるある種の強迫観念であることが多い。私はこの手の考え方に酷く悩まされてきた人のひとりだ。記憶を遡ればそれは親の言うことは聞くべきだ、とか、学校の先生の言うことは聞くべきだ、という子どもの頃の強迫観念から来ていると今は思っている。社会に出てからも様々な思想から来る押し付けともいうべき意見の数々に翻弄されて来たわたしだが、結局はどんなに正しそうな意見でも、自分の人生を決める理由にはならないという結論が私にはある。簡単に言ってしまえば私の人生を決定付けるのは、私の中にある直感である。こむづかしい論理や過去のセオリーや、先人の知恵に少し力を借りたりすることはいいが、最後の最後に頼りになるのは自分の中の直感でいい。それは絶対に後悔しないという自身の過去の経験に基づいた自信から来るものだ。直感で決めると言うと適当すぎると言われそうだが、直感を侮ってはいけない。悩んだ時に鉛筆やサイコロを振るような直感ではない。過去のあらゆる選択時に取ってきた自分の選択がどんな結果をもたらしてきたか?という直感である。過去の自分の経験との検証、または、自分らしい選択方法の検索と言っていい。それをわたしは直感、と呼んでいる。直感は回を重ねるこどに研ぎ澄まされていく素晴らしい感覚だ。それが研ぎ澄まされていく理由には、その都度本気で考え、本気で悩み、選択した結果に満足するというルーティンを怠っていないという事実が存在する。そこに絶対の自信を持つ。例え失敗したとして、そこから知見を得てきたという自信を持つことだ。失敗は失敗ではなく経験だ。本当の失敗とは失敗から何も学ばなかった時のことを言う。つまり、すべての失敗は失敗ではない。失敗で終わらせなければ勝ちなのである。諦めなければいいだけだ。そうれば例え勝負に負けても、ある意味でそれは勝ち続けることができていると言っていい。それこそが成功である。誰かの成功と比べてはいけない。まして、今よりもっとお金があれば……等と無いものを考えはじめると勝てなくなる。お金やチャンスや人間力というのはある日突然生まれるのであって、〜だといいのにという羨望から生まれるものではない。その悩みは不要だ。そんなことを考えても無駄である。そう思えて仕方ないのなら、この記事があるように「書き出して」しまえばいい。まさにわたしがこうしてブログで悩みを書き出すことで「スッキリ」していることと大して変わらない。書けば楽になれる。それだけでいい。何も変わらない?確かにそうだ。だが、心の負担を軽減することはできる。心の負担が軽くなれば考える余地が生まれる。考える余地が生まれることで人は明日を夢見ることが出来るようになる。明日を夢見ること。それこそが夢だ。夢を見るだけの余力が生まれるのだ。それを人は希望と言うのであり、夢を実現させる原動力である。つまり悩みをコントロールすることはすなわち夢を実現させる第1歩であると同時に夢を育むエネルギー源である。なーんてね。

 

それじゃぁまたね(了)


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【FF14】『暁月のフィナーレ』新要素のアートまとめ。新ジョブ、新規フィールド・都市、新たな脅威などをチェック!【随時更新】 - ファミ通.com



あらためて思う。FFとドラクエ

よくよく考えて、ファイナルファンタジー14の新パッチの発売まで約5ヶ月はある。だいぶ先だ。それまで何をして待っていようか。そんな矢先、わたしはドラゴンクエスト11Sをプレイしていないことに気づいた。そして体験版があることも知らなかった。それならやってみようと久しぶりにPS4を起動した私。それからドラゴンクエスト11Sにドハマリしてしまった。わたしはファイナルファンタジーを好きになる前はドラクエ派だった。と言うより、ドラクエしか知らなかった。ドラクエの良さは誤解を恐れず言えばわかり易さだと思う。どこに行って何をすればいいかという指示が的確で無駄がない。ストーリーも凝っていてとにかく安心して楽しめる。シナリオ、ゲームデザイン堀井雄二さん、キャラクターデザインの鳥山明さん、音楽のすぎやまこういちさん。御三方の素晴らしいセンスに彩られ、ゲームとしての完成度が高い。隙がない。特にわたしがいまハマっているドラゴンクエスト11Sはビジュアル面でのクオリティが素晴らしい。ストーリーもいままでにありそうでなかった展開だ。キャラクターデザインも過去の作品を踏襲しつつも新しい試みをしていて好感が持てる。エニックスらしい中身の良さと、スクウェアの美麗なグラフィックスがベストマッチした作品だと感じる。音楽も素晴らしい。ドラゴンクエスト8から始まったスクウェア・エニックス体制による新しいドラゴンクエストの最高到達点ではないだろうか。今まだ最序盤ではあるがとても面白い。特にファイナルファンタジー15をプレイした私からすると、キャンプが出来たり、仲間と楽しく会話しながら冒険したり、写真を撮ったりできるのは、ファイナルファンタジー15で楽しくプレイしていた私からするとすんなり入り込めた。そういう意味からすると、ファイナルファンタジー15で成しえなかった数々の惜しい点を、ドラゴンクエスト11Sでは見事にクリアしていると思う。ストーリーの面白さ、バトルシーンの軽快さ、仲間との冒険の奥深さ、どれをとってもファイナルファンタジー15では実現できなかった魅力に満ちている。比べるのも変な話だが同じスクウェア・エニックスが作っている作品であることを考えると、ちゃんと反省と改善が生きていると感じるのはどちらのブランドのファンだとしても純粋に喜ぶべきだろう。よくドラゴンクエストファンはファイナルファンタジーファンを嫌っているという話を聞くが、わたしのようにどちらも好きだというファンもいる。確かにドラゴンクエスト10は残念なことに楽しめなかったわたしではあるが、このドラゴンクエスト11Sは素晴らしい作品だと断言したい。特にベロニカが可愛い。ララフェル好きとしてはたまらない。見た目は子供ながら中身は大人という私好みドンピシャのキャラクターで、しかも着せ替えを楽しめるうえ、記念撮影も楽しめるのだ。わたしは両手を腰に当ててふんぞり返るベロニカを見る度に「あぁ、ララフェルだ」と感じ入るのである。ベロニカのコスプレでもしようかしら。ファイナルファンタジー14で。とにかく可愛くて私好みなベロニカを育てたくてまんまと製品版を購入したと言っていい。それは過去に好きだったドラゴンクエスト6のバーバラのデザインを見て6を買うことを決めた時と同じだ。また、ドラゴンクエスト8ゼシカもかなり私好みではあったが、いかんせん、ゼシカのあざと過ぎる体つきにややコレジャナイ感を感じてしまい、さらにドラゴンクエストの迷走ぶりを感じてしまった当時の私は結局初めてクリアせずにやめてしまったドラゴンクエスト作品になってしまった(10もクリアしていない)。あれから10数年。ドラゴンクエストは進化した。ドラゴンクエストらしい表現を残しつつグラフィックを向上させたのだ。そしてフルボイスという豪華な仕様。ファイナルファンタジーの最新作があれだけ豪華な仕様だったにも関わらず駄作のレッテルを貼られてしまったのに対して、ドラゴンクエスト11Sは素晴らしい作品となったと言えそうだ。1部でSwitch版を買ったコアなファンからPS4版のSは酷評されているという声も耳にするが、これまで頑なにドラゴンクエスト11をスルーしてきたわたしがこの、ファイナルファンタジー14の最新パッチまで5ヶ月あるというナギ節にこのドラゴンクエスト11Sを選んだことはまさに正解であった。存分に楽しむことにしよう。ここでふと思うのが、ドラゴンクエストファイナルファンタジーのふたつの作品群の辿ってきた軌跡の違いだろう。ドラゴンクエスト堀井雄二さんという生みの親が今も手がけている。ドラゴンクエストは回を重ねる事により深く成熟し、まるでワインのような見事な芸術作品となっている。伝統をしっかりと守りながらも、新しい表現、違った試みを少しずつ取り入れ進化してきた。12ではまたダークな世界観で大人なドラゴンクエストに挑戦するらしい。楽しみである。一方のファイナルファンタジーはどうか。ファイナルファンタジー9を最後に、坂口博信さんはファイナルファンタジーから引退。10からは別の人が引き継いできた。北瀬さん、野村さん……様々な挑戦的なクリエイター達がファイナルファンタジーという作品に挑み、新しいファイナルファンタジーを模索してきた。映画を見るような感動的な10、オンラインゲームとして船出をした11、タクティクスの世界観を取り入れたひと味違う12、野村さんらしい近未来感に彩られた13、我らがよしPが海外のオンラインゲームを超えるために海外目線で再構築した14、13の派生作品から脱皮して旅をテーマにオープンワールドに挑んだ15……。ファイナルファンタジーとは挑戦の歴史だと言える。最新のグラフィックを駆使しつつ、新しいゲーム体験を生み出そうとする日本のクリエイター達の血と汗の戦いの跡である。だから時に歪だし、未完成である。ファイナルファンタジーとは何かに挑んだ結果、空中分解しそうになりながらも、作品性と売上とを両立させることを期待されるビッグタイトル。ドラゴンクエストのように決まった見せ方などない。ドラゴンクエストのようにトップクリエイターが最初から構えている訳でも、ない。いつもあらゆる制約とせめぎあいに押しつぶされそうになりながら、1歩ずつ歩んでいく戦いの歴史。それがファイナルファンタジーであるかのようだ。先日のファイナルファンタジーオリジンもそうだった。面白いかどうか?は未知数。方向性もあやふや。誰もわからない。荒削りな仕上がりになることの方が多い。なぜなら、過去にファイナルファンタジー挑戦したクリエイター達は皆、ファイナルファンタジーから卒業していくからだ。1度きりの大勝負。ファイナルファンタジーに関わるということはまさにそういう覚悟を求められるのかもしれない。刺し違えてでも、ファイナルファンタジーを、自分自身の力を出し切って自分のものにする。そんな覚悟を求められているのではないだろうか。坂口博信さんはミストウォーカー社で、話題作となった新作「ファンタジアン」をAppleアーケードで発表した。あれは紛れもないファイナルファンタジーだった。あれをフルボイス付きの完成版としてPS5で発表出来れば、間違いなく名作となるだろう。わたしがドラゴンクエスト11Sで感じたこの安心感をきっとファンタジアンでも感じることが出来るに違いない。わたしはファンタジアンは残念ながら途中でプレイすることを辞めてしまった。それはスマホで遊ぶというプレイ環境の悪さが際立ったからである。具体的には大きな画面に写し出せないというデメリットである。ミラーリングでやればいいかもしれない。しかし、起動できるか?カクツいたりしないか不安になりながらプレイするのはいちゲーマーとして耐えられなかった。やはりゲームはハードに対する安心感が先ず必要なのである。その点において、ファンタジアンを動かすiPhoneというハードは決定的に能力が足らなかったのだ。PS5を手に入れてプレイしてみて、ますますそう思う。ファイナルファンタジーとは何か。ドラゴンクエストとは何か。一言で言えばそれぞれ日本が誇るゲームタイトルである。と同時に、ドラゴンクエストは日本国内向けであるのに対して、ファイナルファンタジーはどこまでも海外向けである。ドラゴンクエストを好きな海外勢もいるだろうが、どうしても子どもっぽい。ゲーマーの年齢層は子どもか、または私たちのような社会人だ。そうすると子ども向けに作られたドラゴンクエストはどうしても日本的な目線が目立つ。海外の子どもが楽しめる内容か?と言われればその答えは懐疑的だ。一方のファイナルファンタジーはオトナ向けか?と言われればそれもまた懐疑的である。しかし、HDゲームとしてファイナルファンタジー15は日本のゲームの底力を世界中に知らしめた。その結果としてファイナルファンタジー7リメイクの期待感がある。今はまだファイナルファンタジーとして最高レベルの最新作を世に出せていないかもしれない。しかし、そのポテンシャルはある。ファイナルファンタジー7リメイクで分かるように、圧倒的に時間とお金と才能が足らない。世界のゲームと対等に肩を並べるには余りにも足らないものが多すぎる。世界一のゲームを目指す必要があるのか?ニーアオートマタのようにニッチなオトナ向けアニメ風ゲームの大ヒットがその答えになるのかもしれない。オトナ向けのゲーム。それはドラゴンクエストファイナルファンタジーも次の作品で提案してくるだろう。これからはオトナ向けに作らなくては世界に通用しない。任天堂のゲーム作りが素晴らしいのは、子ども向けに特化しているからだ。PS5はそうではない。もちろん、ドラゴンクエスト任天堂でも発売されるだろう。だが、子ども向けゲームデザインで世界に通用させようと思ったら、どうぶつの森であったような、世界共通の世界観でなければならない。それは、ドラゴンクエストでも、ファイナルファンタジーでも出来ないだろう。だからこそ、その世界を好きになってくれる往年のファン。すなわちオトナ向けのゲームとしての挑戦をせざるを得ない。次のふたつの作品こそガチンコバトルとなる。私はそのふたつの作品をどちらも心から楽しみで仕方ないのだ。

 

それじゃぁまたね(了)


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雨が降れば「傘」をさせるエオルゼアの世界──『FFXIV』リードアイテムデザイナー林洋介氏インタビュー – PlayStation.Blog



なんて素敵なんだろう。

雨が降れば傘を差す。現実ならそうだろう。だがこれはゲームの話だ。ゲームの中の話だ。ゲームは現実ではないので、雨が降っても濡れないし、大して困らない(景色はどんよりするが)。雨になることで得られる特別なステータスもない。せいぜい限定のモンスターや魚なんかのアイテムが登場するくらいである。ではそもそも何故エオルゼアに雨が存在するのか?現実に近づけるためという理由ではまだ浅い。なぜ現実に近づける必要があるのか?まで考えないといけないだろう。現実に近づければ近づくほど、気候や天候の揺らぎが生まれ、その世界に何度も足を運ぶプレーヤーが新たな発見と出会いやすくなる。それは分かりやすくいえばゲームを続ける理由になるだろうし、まだまだ知らない世界があるという事実を教えてくれることは、そこに行く理由になる。つまり、何となくでもログインさせる大きな理由になるのだ。わたしはメインクエストの物語の先が気になって最初は意気揚々と続けていたものの、ついに最新の物語まで駆け足で進んでしまったとき、あれだけ未知と冒険に溢れていたエオルゼアがふと気づけば色あせてしまったような感覚に襲われた。そこで辞めてしまおうかと思ったぐらいにわたしは喪失感に襲われたのである(辞めなかったけど)。では、なぜ辞めなかったのか?と言われれば、わたしは、まだ知らない世界があるという事実を知ったからに他ならない。それは大きくわけて3つ。1つ目は女性キャラクターでおもいっきりオシャレをしてみたいという世界。2つ目は3ヶ月ごとに更新される新パッチやシーズナルイベントのお誘い。そして3つ目が、スクリーンショットである。むしろこの3つ目がいちばん長く、そして強く私をエオルゼアに引き止めた。いや、1つ目と3つ目、だろうけど。つまり、自分好みのキャラクターメイキングを施し、その上で自分の好みのど真ん中を突いてくる服装に着替えて撮るスクリーンショットは、まさに人形遊び。いや、アクションフィギュアを好みのポーズにして写真を撮る興奮に似ていた。いやいや、アクションフィギュアであっても、背景まで凝ることはなかなかできまい。それがエオルゼアなら好きな風景をバックに好きなだけ撮れるのだ。現実でそれをやろうものなら、まずモデルさんが必要だ。しかも、自分好みの顔やスタイルでなければならないし、都合もある。そしてファッションを私好みにしていいという心の広いモデルさんはそうそういまい。いやいや、そんな奇跡的に優しいモデルさんが万が一居たとしても、衣装を揃えるにはお金がいくらあっても足らない。作る?そんな技術もなければ、時間もない……。それが、エオルゼアなら全てが叶うのだ。ロケーションも選べる。天気は……コントロールはできないが、心配はいらない。雨でもすぐ天気は変わるし、夜でもしばらく経てば朝はすぐやってくる。つまり、それまで何重にも不可能だったものがエオルゼアというたったひとつのソリューションによっていとも簡単に単なる時間の問題にすり変わってしまったのだ。これこそがわたしがエオルゼアを辞められない理由であり、辞める理由を見事に消し去った主な要因でもある。わたしは私の中の「好き」を追求する世界を手に入れたも同然なのだ。わたしの「好き」を諦めずにいていい世界は現実にはなかった。しかし、手を伸ばせばエオルゼアにある。それも無限に広がり、終わることの無いオンラインゲームという名の生きた理想の世界である。つまり、天気というのはそれだけ大きな要素であるということだ。だから、エオルゼアには雨がある。雨があれば傘を差す。それは雨が楽しくなるアイテムであると同時に、ほかのプレイヤーが差している傘を見て「なんかいいな」と思わせ、それを手に入れようとする動機づけにも一役買っている。ファッションアイテムとして。エオルゼアの手に入れようとさせる動機づけに、ファッションアイテムがあるのだが、そのトリガーとなるのが、天気。それは晴天の清々しさであり、雨天時のアンニュイな空模様なのである。まるで1枚の絵画を眺めるように、空を見上げよう。現実では?わたしはやらない。雨は雨だからだ。濡れてしまうし、雨は気分が沈む。雨は好きではない。だが、エオルゼアでは違う。雨を肯定するほど好きではないにせよ、雨があるから晴れを待ち望むし、夜が来るから、朝を期待する。人の一生とは本来、表と裏を行ったり来たりするだけの単純動作こそ幸せが詰まっているのかもしれない。そんなふうに思うのだ。

 

それじゃあまたね(了)


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ひろゆき氏の電話不要論に大賛成、電話は「不愉快で不適切」な5つの理由(ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo!ニュース

 

電話は好きか?答えはNoだ。

電話を好きな人は少ない。私もそのひとりだ。まず電話がかかってくるタイミングが悪い。なぜならかける方の一方的な都合でかかって来るからだ。そしてかけられた方はなぜかかけてきた方に気を使い、半ば強制的に時間を割くことになる。また、かかってきた電話の大半はメールやLINEで済むようなことであり、それなのになぜ電話をかけてくるのかと言えば、それはかけてくる方にメリットがあるからだ。それは相手の時間を確保出来るうえに判断を迫ることが出来る。つまり、投げかけと返事回収を同時にできるのだ。やはりかけている方にメリットがある。だが、忘れてはいけないのは、かけられている方の優しさで成り立っているということである。かけられている人がわざわざ電話に出てくれたことでその返事回収を短時間でできたのだ。それを文字にしてメールやLINEにしていたら返事がいつ来るか分からない。そのために電話をかける側は相変わらず電話に頼るのである。しかし、わたしは電話をよく活用する。もちろん、掛けられるほうではなく、かける方だ。それはどういう理屈かというと、最も顕著なのは、電話は情報の伝達手段ではないということである。つまり親密感、親近感、信頼性を表現するためのツールだ。つまり声を聞かせる、またはわざわざ電話をかけてアプローチをすることで手間をかけてまで声を聞きに来てくれたと思わせるというテクニックだ。もちろんこれは双方の同意の元に成り立っている。つまり、忙しいのに電話してくるな、というクライアントには通用しない。もちろんそれはケースバイケースで、人によるのだが、それでもわたしは基本的に電話は好きではない。時間の無駄であることに変わりはないと思っている。しかし、人とのコミュニケーションのツールとして、カンフル剤として活用するのであれば、これほど強いツールはないのではないかと思っている。また、どんなにLINEやSNSなどの文字ベースのコミュニケーションが発達しても、音声メディアが無くならないことと同じく、電話、つまり会話をベースとしたコミュニケーションは決して無くならないということだ。ビデオ通話はまた別の話ではあるが。つまり、結論を言ってしまえば、電話不要論はナンセンスである。強いて言うなら、電話もコミュニケーションの手段のひとつであって、なくならないし、なくてはならないものの一つだ。だからいくら時間の無駄であっても、相手の貴重な時間をさく行為であっても、ビジネスの世界から電話が無くなることは無いだろう。いくら不要論を唱えたところで、電話は無くならない。電話は好きではない。出来れば電話をしなくていい仕事がしたいとすら、思う。実際にアポイントをとる電話は半ば機械のように行うので好きとか嫌いとかという次元の話ではなくなっている。どうせ電話しないといけないならなるべく気持ちよくお互いに電話したいと思う。ただそれだけだ。結局は人と人のコミュニケーションである。それ忘れずになるべく穏やかな日々を過ごしたい。そのためにLINEを活用しているし、メールを活用する。そしてたまに電話する。直接逢いに行くこともあれば、面と向かって話をすることもある。ビジネスとは相手がある仕事だ。相手は人間である。それならば相手の都合や心理的状況に合わせてツールをチョイスすべきであって、電話を無くせ!ということではないはずである。相手が望む方法でコミュニケーションをとる。これがコミュニケーションを円滑に行うことの大前提である。わたしはそう思う。個人的には電話は好きではないし、会って話すことも好きでは無いので、ゲームではチャットで会話することが好きだし、SNSで文字で会話することに安心感を覚える人である。だが、全ての人がそうとは限らない。だからわたしは電話をしないといけないときは、必ずAirPodsを使う。電話機を持って耳に当てて会話することのストレスは計り知れない。せめてそのストレスからは開放されたいので必ずそうする。そうすると、目の前で話しているときとさほど変わらない状況で、両手も使えてわたしはハッビーである。繰り返すが、電話はなくならないし、電話は悪手ではない。人の心と心を結ぶ目に見えない握手。それがphonecall。電話であるとわたしは心からそう思っている。これは私の感想だけど。

 

それじゃあまたね(了)


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[E3 2021]「STRANGER OF PARADISE FINAL FANTASY ORIGIN」が発表。本日6:00から体験版が配信へ。FFの新たな方向性を示すアクションRPG



ファイナルファンタジーオリジンとはなにか。

何かと話題を振りまいている作品だ。ストレンジャーオブパラダイス ファイナルファンタジーオリジン。2021年のE3で発表されたばかりのファイナルファンタジー派生作品である。あるのはトレーラーが1本だけ。内容はまだよく分からない。公式サイトも、公式Twitterも覗いたがよく分からなかった。なにをもってオリジンと呼ぶのか。亜種ではないのか。ファイナルファンタジーらしくないファイナルファンタジーを目指すのならば、それはオリジンではない。再定義であり、挑戦であり、Remixである。トレーラーに登場するキャラクターはおよそ光の戦士らしくない悪者感に満ちている。ぎりぎり規制されない汚い言葉を吐き捨てながら、目の前のモンスターを完膚なきまでに叩き潰す。飛び散る血。潰されて肉塊と化す敵。いや、クリスタルか。そのクリスタルは青ではない。赤である。まるで血だ。あまりにもダーク。あまりにもグロテスク。タイトルにパラダイスとか入っているのは違和感しかない。ストレンジャーと言うのはまあ百歩譲って良いとしよう。それなら、ザ・ストレンジャーファイナルファンタジー オブ ザ・ダークネス〜とでも名付けた方がまだ分かりやすかったのではと思う。少なくともパラダイスではない。ファイナルファンタジーには勇者はいない。あるのは冒険者だけだ。そこに無慈悲に現れるモンスター。そしてそれらを駆逐するうちにいつしか光の戦士としての役割を与えられるようになる。それは伝説の戦士ではあるが、正義の味方では本来ない。光と闇の均衡が崩れる時、闇の氾濫を抑えるために光の戦士が闇の力を抑えるために闇の力を駆逐する。そうして光と闇の均衡を保つのだ。善と悪ではない。その逆が、ファイナルファンタジー14 漆黒のヴィランズである。つまり、光の戦士には闇の力を抑えるという目的がある。闇の戦士にも、光の力を抑えるという目的がある。ではガーランドはどうか。のちにカオスとなって立ち塞がる彼は闇の勢力である。ガーランドとして戦った時は単なるガーランドである。しかし2000年前にタイムスリップして力を蓄えたガーランドは、カオスと名乗り、闇の帝王として現代に蘇る。それがファイナルファンタジーである。オリジンと言うのはファイナルファンタジーの原点としての作品という意味だろう。それはすなわちナンバリングタイトル第1号である、ファミコン版のファイナルファンタジーを意味する。逆をいえばただそれだけだ。そこにバイオレンスさやダークさは含まれていない。つまり、ファイナルファンタジーオリジンという作品の中にあとから追加されたエッセンスである。その部分を言い表す言葉として、ストレンジャーという言葉がある。だが、パラダイスは理解できない。パラダイスは直訳すれば、楽園である。しかしその楽園は何処の、何に対する楽園なのかサッパリわからない。エデンの園という意味なのかもしれない。知恵の実を食べたアダムとイブが楽園から追放されてしまうあの話か。それならば、楽園にいるストレンジャーとは何なのか。本来居るはずのないストレンジャー。それがあのむさくるしい男たちだとするならば、ガーランドもまた、ストレンジャーである。楽園とは地上にある場所ではない。地上の楽園は幻想である。すなわちファンタジーだ。最後の楽園をファイナルファンタジーと訳すならば、その楽園にあってその秩序を乱すもの。それをストレンジャーと呼ぶのであれば、ガーランド同様、彼ら主人公たちもまた、ストレンジャーであり、異端者である。異端者同士の醜い争いを描こうとするならばなるほど合点がいく。ナレーションでいかにも女神のような女性の声。恐らくコーネリアの王女なのだろうが、その声に代表される楽園の住人からすると異端中の異端。ガーランド。やがてカオスとして地上に君臨する彼に対峙する彼らもまた異端者である。異端者の目的は何なのか。自分たちの好きなように生きることを目的とするなら、そこにあるのは考え方の相違である。カオスとなって世界を破壊し尽くそうとするガーランド。それに対して、冒険者として何にも縛られず、好き勝手に生きるために楽園から追放され、冒険者として流浪の旅を続ける3人。誰か1人のエゴによって世界のルールを変えようとすることに反発する勢力。カオスが闇の力を得て増幅するのであれば、その逆の力を得て対抗する。それこそが、光の戦士としての力。記憶の中に眠る力。その世界観を現代のオリジンとして、再構築しようとするのであれば。確かに新しいファイナルファンタジーという物語をつむぎ出すことができるだろう。ガーランド、コーネリア王女。そして、一介の冒険者。その手にはクリスタルが握られている。クリスタルが持つ記憶の力。英雄の力。それは光の戦士と呼ばれる光の力。ガーランドが闇の戦士としてカオスとなるなら光の戦士として光の力を増幅させるクリスタルを使用することは理にかなっている。そこに、世界を救おうとか、コーネリアの王女のためにとか、そんなヒーローとしての目的は本来はない。単に、ガーランドのやり方が気に食わなかった。それだけである。だからガーランドを完膚なきまでに叩き潰すために1番手っ取り早く、効率的な力を求めただけに過ぎない。彼ら主人公たちがやたらと現代風な髪型や立ち振る舞いをしているのは、もしかすると異世界転生ものかもしれない。現代のニューヨークあたりで暮らしていた3人が突如、ファイナルファンタジーの世界に飛ばされてしまった。そんな洋画にありがちな設定だとしたら。これは案外化けるかもしれない。少なくとも面白そうである。体験版がデータ破損によってプレイ出来ないことはとても残念だ。スクウェア・エニックスの株価も今日だけで5%程度下落したらしい。何とも恥ずかしい失敗を晒してしまった。それも全世界にである。来年の発売を目指すゲームなのだからここは冷静になってまずは期待して集まってくれたファンにお詫びのコメントを出すべきではないだろうか。今やるべきことは1秒でも早く改善することではあるが、それ以上に、プロデューサーが、お詫びをして、今後の見通しを示すことである。ファイナルファンタジーというブランドイメージを損なってしまう前に、まずそこを速やかに対処して欲しい。私の好きなファイナルファンタジーをこれ以上非難の対象にしてほしくはないのである。はやく公式に謝罪したのほうがいいよ?

 

それじゃあまたね(了)


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