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大ヒットで見えた鬼滅の刃「定番化」の可能性 | 映画・音楽 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準



鬼滅の刃の映画版は予想以上のヒットとなった。

このことについてわたしはずっと疑問に思っていた。まず鬼滅の刃という作品に対する人気の疑問。漫画版、およびアニメ版のそれぞれに人気がつくという不思議。ジャンプ本誌では連載が終了し、今年の年末ないし年明けに最後の単行本が発売されるというタイミングでの映画化。そしてその内容は、単行本でいうところの序盤であるという事実。つまり、初期からのファンからすればあまりにも知りすぎている内容のはずの映画化。それがファンを失望させることなく逆に熱狂させた。あの、無限列車編が、映画になるらしい……!そんな言い方でファンに好意的に迎えられたのである。そして、そこに間に合わせるようにテレビで放送された、兄妹の絆編(1話~5話の総集編。本編開始前に期間限定で劇場化された映画)、そして、翌週に、TVシリーズで人気の高い、那田蜘蛛山編を再編集した特別版を放送。それがダメ押しとなってライトなファン、ないし、人気であることは知りつつもなんとなく蚊帳の外で分からなかった層が鬼滅の刃の魅力に触れ、感化された。そこからTVシリーズを全部制覇する猛者もいただろうし、単行本に至っては1億冊を突破するほど爆発的に売れた。そして満を持して封切りとなった映画、無限列車編。たった3日間で40億円以上を売り上げたモンスター映画となったのである。それは単に映画館側に、他に上映する作品がなかったことや、ライバルとなる作品がそもそもないということで、必然的に鬼滅の刃の、上映本数を増やしたという理由も当てはまる。そこに、熱狂的なファンと、ライトなファンがごった返し、そもそも多めに用意されていた上映本数がそのまま生かされることととなり、売上に結びついた。そして、従来のファンを納得させうるだけの素晴らしい出来であったことからSNSを中心にクチコミでその噂が広がり、中には映画を見ることを「乗車する」と呼ぶ独特な言い回しもSNSではいくつも散見されたように思う。私自身もTikTokを開けば外国人コスプレイヤーの禰豆子を見ない日はないくらいに海外でもその人気ぶりを感じることがある。ジャパニメーションとしての表現力と、大正ロマンを思わせるハイカラなデザイン。そして、ファンタジックな世界観が、世界中で受け入れられた。そこにはどう生きるか?という哲学的問いかけが含まれており、善と悪、生と死、そして、人として生きることの意味など、深いテーマに彩られている。そこに仏教的な普遍性を感じさせたり、今の時代に不足しがちな、文学的、かつ、真実味を持って生きることのつらさ、理不尽さ、そして、努力と感謝と、絆の大切さを物語る一大エンターテインメントとなったのである。わたしは総集編を見て、ふむふむとその魅力を解き明かそうとTVシリーズをすこしずつ消化しているくらいのものだが、それでも、確かに、なんというか、心の奥底に眠っていた勇気や希望、そして絶望や怒りや悲しみと言った人間らしい感情が激しく揺さぶられていることに気がついている。作品自体に惚れ込む、またはハマるといった要素は今のところないが、それでもこれだけフラットに見ている私でも心が動かされる瞬間を何度も体験していることからこの作品が持つメッセージ性というものがいまの不安定な令和の時代にびったりとあっているのだろう。もしかすると、大正という時代と似通っている部分もあるのかもしれない。華々しい明治から、大正、そして重々しい昭和へ。戦後から高度経済成長の昭和末期、平成、そして令和。ここから何かが大きく変わる。そんな時代の変化に敏感に反応した作品なのだとしたら、私たちはすでに令和という時代が過渡期であることを予見している。次にくる時代こそが重々しい昭和初期がそうだったように、新しい時代に向けた大きな転換期となることを、人々はまるで肌で感じているかのようだ。わたしはその辺の知識は疎いのだけれど、少なくともいまの令和が腰掛け程度で終わるのだろうということくらいは何となくわかる。次の元号がなんであれ、この令和は短いだろう。だからこそ大正ロマンに思いを馳せることは私たちが歩んでこなかった昭和のもうひとつの可能性に舵を切るというチャンスなのかもしれない。そのことを指し示す、とても恣意的な作品、それが、大正時代を活躍する鬼滅の刃という作品の持つ時代性なのだろうとも思うのだ。

 

それじゃあ、またね(了)