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大ヒット『鬼滅の刃』、若者に刺さりまくった「炭治郎の一言」をご存じか?(森島 豊) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)



どうでもいい世の中で生きる私たち。

という視点が共感を呼んでいるという指摘。どうでもいい。世の中も自分自身も。だから何も決めたくない。決められない。それはカナヲというキャラクターが何を決めるのにもコインを投げて決めている様子に現れている。何も感じない何も。常に笑顔でありながら、感情を殺して一言もはっしないのは、どうでもいいから。人形になりたい、そうすれば何も傷つかずに済むから、と言ったのは誰だったか。あらゆる裏切り、あらゆる期待はずれ、あらゆる絶望感、あらゆる徒労感、先行きの不透明さからくる不安。それらに打ち勝つためにハートを鋼のように鍛え上げた人から、引き裂かれてしまう。心がずたずたになって。弱ければ即アウト。強くてもアウト。ならば無関心、無感情でいることが答えだ。自分自身を守る術(すべ)として、敢えて何も考えない。何も話さない。何も感じない。それをカナヲというキャラクターは演じている。それは現代人の代表格である。誰もが希望を持てず、信頼する友もいない。何も考えたくない。何も話したくない。何も感じない人形になりたい。傷つくのはもうゴメンだ。そういう閉塞感がベースにある中で、どうでもいい世の中は続く。自分すらどうでもいい。この共通意識を鬼殺隊も、鬼になってしまった人々も持っている。グロテスクな展開に魅力を感じている人は少数だという。そればかりか、いまの時代とマッチしたどうでも良さが自らの気持ちの代弁者となって魅力的に映っているというのだ。その視点は確かにもっともらしい。わたしも人気だからと見てみたものの、グロテスクな描写が多く、途中で見るのをやめようかと何度も挫折しかけた。それでも続きを見ようと思えたのは、善逸や、伊之助の底抜けな明るさだったり、思わずクスッと笑えてしまうような3人のやり取りだった。善逸が1番の常識人という設定も妙に納得できた。中高一貫鬼滅学院が最もアニメで楽しげだったことはまさにその3人のやり取りが楽しい時間だからだ。まさに青春である。しかし鬼と対面することで場面は即座にシリアスな、グロテスクな展開に急変する。また、お化け屋敷やバイオハザードのような、恐怖を掻き立てる演出も随所に見られ、人気だからと軽い気持ちで見たわたしのようなライトユーザーは面を食らったことだろう。あまりにもむごい。そして、救いがない。すぐ生首がとんでしまう。出血も激しい。

ただ、この筆者が言うように、カナヲと炭治郎のやり取りは確かに胸のすくような爽快感があった。どうでもいいことなんて無いというセリフが若い人を中心に刺さった。だとするとそこに潜むのは時代とのマッチングであり、どうでもいい世の中に対する前向きなカウンターアタックである。そうであればそのほかの要素こそ、取るに足らないどうでもいいことになる。…グロテスクは無理だけど。

 

それじゃあ、またね(了)