ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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"親愛なる友人であり、同志であるあなたへ。" | ファイナルファンタジーXIV: 公式ブログ



人はいつか死ぬ。それを避けることは出来ない。

わたしはこのニュースをTwitterで知った。あ、と声が出たことを記憶している。これは、このブログはその時の記憶の備忘録だ。わたしは、マイディーさんの体調について、病状について、彼のTwitterから知っていた。割と最近まで都度彼はTwitterで呟いていたので、彼が余命宣告を受けたこと。そして治療に際してとても苦しい思いをしていることをそのつぶやきから感じていた。そして復帰したとの報告も見た。それは万全ではなかったのだとしても彼がどうしてもそうしたかったのだと思い、わたしはいいねを反応することで留めてその様子を見守った。しかし、死というニュースがわたしの予想よりも早く届けられた。その事にわたしは頭がついていけなかったと思う。事実、わたしはこのブログを綴ることを自身のデトックス効果として日々こなしていたが、それを綴ることが出来なかった。マイディーさんが亡くなったから、ではない。彼が亡くなってしまったという事実を経て、わたしは何を言うべきなのだろうと思ってしまった。私に出来ることはなんだろうと思うばかりでわたしは何も出来ずにここ数日を過ごしていた。感傷に浸っていた訳では無い。ただ、何も考えられずにいた。それは考えることを拒否していたのだと思う。そして今日、この公式ブログを見た時も頭が働かなかった。その証拠に、私はこの記事を誰が書いたのか?ということにすら、文中で、ディレクターとプロデューサーを担当するようになって……という記述を目にするまで、これが吉田直樹氏のメッセージであることが理解できなかったのである。わたしは何かを理解しようとすることを頑なに拒否していたことに、気がついた。わたしは疲れ切っていた。何かを理解しようとして文脈を読み、それを発信することについてわたしは紡ぐ言葉を失っていた。どう言葉にするのがよいのか。どう捉えればいいのか。どう考えればよいのか。どうすれば良かったのか。答えのない思いが私の頭の中にくすぶっていて、その思いにわたしはいつのまにか囚われ、摩耗し、消耗していたのである。くれぐれも勘違いしてほしくはないが、わたしはそのことを重荷に思ったわけではないし、むしろ彼や、彼らから受け取った記憶や思い出や、様々な日々の傍観者としての記録が、彼や、彼らと同じ時間軸に存在したという事実がわたしにとってもしかしたら人生のハイライトである可能性がある。会ったこたのない人に会った気になり、彼のツイートにリプを送ったり、彼の一挙手一投足をなんとなくではあるものの気にしていた自分。彼と、彼らが進めるあらゆる出来事が夢のようで眩しくも、わたしがそこにほんの少しでも関わったのだという事実がいまも私の中にしっかりとした輝きを保ち続けている。それは今日の吉田直樹氏の公式ブログという形でまた輝きを放っている。マイディーさんと、吉田直樹氏とのやり取りはブログで行われていたというのだから、吉田直樹氏が謙遜してワガママと表現したそれは、なんともごく自然なやり取りだったに違いない。中身を見ると事実ベースで淡々と語られており、彼の(この場合の彼は吉田直樹氏)中に残っている彼(マイディーさん)の記憶の輪郭を確かめるような、そんな丁寧な描写だった。その記事を目にした時わたしはようやくわたしも何かを理解しようと、心が動かされた。彼が言葉にしたのだ。わたしも、言葉にしなければいけない。この事実は変わらないけれど、それを経てわたしは何が出来るのかという答えにわたしはこのブログを書き残すということがあると思ったのである。人はいつか死ぬ。その事実を避けることは出来ない。私も死ぬ。みんな死ぬ。死を覚悟するというのはどういうことか。わたしには見当もつかない。吉田直樹氏が言うようにわたしもまだ「そちら側」に行きたいとは思わない。わたしはこちら側に残された人として、まだやり終えていない。彼もやり終えたとは思ってはいないだろう。そんなものはどのタイミングであっても満足げに逝くことなど誰も出来はしない。どこかで強制的に終了される人生。オンラインゲームで言うなら強制ログアウト。再ログインを試みることはできない……。彼がやりたかったこと。彼が伝えようとしたこと。そして、彼が楽しんでいたこと。それらをわたしは1つずつその輪郭を確かめながらゆっくりと定着させていこう。彼が彼の死を知らされたのは12月6日。その翌日に、彼はパッチ朗読会を行っている。彼はどんな気持ちで人前に出たのだろう。今思えば彼の顔から笑顔が、屈託のない笑顔が見られることは少なかった。彼は知っていた。公表は出来なかったなかで、彼は彼の早すぎる死について考え、悩み、そして、10日の発表に至るまでどんな時間を過ごしたのだろう。彼と、彼ら仲間たちの苦悩を思うととてつもない喪失感、自分を責める気持ち、あらゆる感情が湧き出してただ立ち止まるしかなかったのではないか。その苦痛の大きさ、頭の中を支配するあらゆる思いの洪水に立ち尽くすしかなかったのではないか。願わくば立ち止まることは悪いことではない。壊れそうな心を抱きしめて蹲り、背を丸くすることは悪いことではないのだ。自らを責めて欲しくはないと思う。何も出来なかったとか、何をしてあげれば良かったのか……と、後から津波のようにあらゆる感情が押し寄せてくるだろう。けれどもそれは残された側である私たちが背負うものだ。重ければ立ち止まり座り込んで休むしかない。捨てる訳では無い。忘れる訳でもない。そして十分に休んだらもう一度拾い上げ、1歩ずつあゆみ出す。その1歩は尊い尊い1歩、尊い命。尊い時間。尊い選択。すべての存在は存在するだけで価値のある尊いものであり、全ての言葉、全ての感情は存在するだけで尊いのだ。わたしたちはこの事実をそれぞれに受け止めること。急ぐ必要はない。受け止めながら時に休み、時に荷を下ろしながら、再び背負って生きていく。そこにこそ、彼の死ということの本当の意味があると私は思う。そう思えた。

 

マイディーさん、

それじゃぁまたね。(了)