ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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心が折れやすい人が感じる「無力感」との向き合い方 | ニュース3面鏡 | ダイヤモンド・オンライン



無力感。それは現代に生きる私たちの宿命である。特にコロナ禍においてそれは顕著だ。

心が折れやすい人というのは何も特別な人ではない。むしろ、一般的に心が強いと思われがちな頑固者こそ、ポキッといくこともある。折れる折れないで言えば、やはり柔軟性に富んでいる方が良い。しなやかに曲がるイメージ。そのためにすべき考え方として(またはストレッチとして)、あらゆる事態を受け入れる柔軟な考え方と、何に対しても執着しないおおらかさが必要と説いているのがこの記事だ。結論的には深く考えない、としている記事であるが、この指摘するところはいまや日常的に私たちに襲いかかってくる悩みとなった。まず無気力。これは私は何も出来ないのではないかというものだが、これはほとんどの場合、思うように行かないときに起きる。逆に言えば思うように行くことなどまるでない現代においてそれは空気を吸うように頻繁にやって来るからやっかいだ。それにいちいち一喜一憂していてはそりゃ誰しも感情に左右されることに疲れ、無気力になることだろう。わたしもそのひとりである。あらゆる感情に振り回されるがあまり疲れてしまって何も感じない自分を許容するようになる。初めはそれでもよかったりするが、3ヶ月、いや、半年もそれを続けていると、もはやなにも楽しめない、何も感じられなくなってしまう自分に気づく。それを週末に取り戻そうとするのだが、自分の内面に正直になればなるほど、何もしたくないという感情に囚われ、結局何も出来なくなる。そしてようやく自分の気持ちを取り戻したとき、翌日は月曜日という事実にまた打ちのめされ、またもや、無感情の仮面を被ることになる……。それは去年の私に顕著であった。新しい職場。新しい職場環境。そして、コロナ禍による新しい生活様式……。どれもが未体験のもので、いちいち悩んでいられなかったので、とりあえずわたしは私の感情を脇に置き、目の前のタスクをこなすマシーンのような存在と化した。それはある意味で楽であった。しかし、本当の自分とはどんどんと遠ざかるような感覚に苛まれる。本来の自分を再認識したのは、年末年始だったと記憶する。そして、年が明けていま。またもや緊急事態宣言と言う。そのことにもはや驚かない程度には新しい生活様式に慣れた私ではあるが、無気力さで乗り越えられるほどに短期間ではなく、見通しが立たないままではいつまで続くのか疑心暗鬼も手伝って、もはや簡単では無いことも分かってしまった。そしてこの記事にある種の救いを見いだしたわけである。気にしなくていいという解決法はある意味で困難である。それは私たちが普段からSNSで他人との違いをまざまざと見せつけられる環境にあるからだ。どうしたって自分はこれでいいと思いたくても他人がそれを上手く許容している様を見てしまえばそれは恥ずかしくなってしまう。なんとか自分も上手く波に乗らなくてはと躍起になり、結局は上手く乗りこなすことが出来ずに落胆。そして、やはり無気力のループに陥るのだ。結局のところ、危機意識と無気力との間には中庸が無く、危機意識を高く持たなくてはならない今の世の中で疲れきって無気力になるか、もしくは無気力さに気づいて高度な危機意識を持つに至るかの2択しか残されていないのである。そこに、私たちの生きづらさがある。一人ぼっちという従来は悪いイメージのあった境遇こそが心の安定からも、コロナ禍からも自分自身を守る最善の策となった現代。もはや他人と連れあうことは害でしかないのだろうか。心通わせることで学んだり、高めあったりしてきた私たちは今後この点についてネットの友達と高め合うことはあっても、リアルの他人から影響を受けることは百害あって一利なしと言える時代に来ている。その認識を改めて強く感じることができた記事だった。若干、寂しいのは寂しいのだけれど。ま、私の場合、リアルの友達とはなんとなく生きてるという情報が分かればそれでよかったりするのだから、根っからの一人ぼっちなんだなぁ。あ、家族は別として。

 

それじゃあまたね(了)