ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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Lead Shadowbringers Writer Natsuko Ishikawa Returns for FFXIV: Endwalker



英語版インタビューで、かなり答えてます。

ナツコイシカワさんによるメインストーリー。FF14の人気エピソードを数多く手がけてきた素晴らしいストーリーテラーだと言われている。わたしは彼女が手がけるストーリーには独特のイシカワ節と呼ぶべき魅力があると感じている。子どもの頃に忘れられたような、置き去りにしてきたようなあの頃のキモチ。それを今も持ち続けている。その闇にフォーカスしたような言葉選び。そして、あらゆる伏線を丁寧に回収しつつ、ラストに向かって畳み込むように盛り上げていくそのストーリーテリング。細かくは詳しい人に委ねよう。わたしも、暗黒剣士のジョブクエが持つ、あの独特の空気感は特別だと感じる。フレイとは一体なんなのか。その答えは実際にジョブクエをプレイして確かめて欲しいのでここでは敢えて何も言わないでおこう。そこから紡がれた闇と光の関係性。光があるところに闇ができる。だが、光が溢れて氾濫してしまった世界としての第一世界では、光こそが人に仇なす人類の敵となっている。光を希望のそれではなく、停滞のそれとして、描ききった漆黒のヴィランズ。メインストーリーに絡む登場人物はもちろんのこと、脇を固めるサブキャラクターまでが世界を救う重要人物として描かれるその世界の緻密さ。そして、光が悪となり、主人公たちが闇の戦士として停滞の光に立ち向かうとき、これまで紡いできた光の戦士としての壮大な戦いの日々そのすべてが、異世界の、それも、全ての始まりの英雄、光の戦士そのものとの戦いへとなだれ込んでいく見事な対比。漆黒のヴィランズで用意されたボスキャラクターはボスではなかった。ある意味で友であり、立場こそ違えど、目指すべきものがあった。実現したい夢があった。それは、光とか闇とかいうファイナルファンタジーを構成する二大要素を単なる属性の隔たりに変換してしまった。そして、その過程の中で、そこに関わる人の思い。意志の強さ、それらを浮き彫りにするという側面もあったように思う。ファンタジー小説をベースとした世界観であるファイナルファンタジーにおいて、人の意識、人の願い、意地と意地のせめぎ合いを、泥臭く、生々しく、そして最後まで描ききったのは、後にも先にもファイナルファンタジー14漆黒のヴィランズだけではないだろうか。そこに真新しさや奇を衒うような物はまるで存在せず、ただ真っ直ぐに願いの力の強さだけが勝敗を別ける結末。シンプルに、そして、力強く描き切ったメインクエストの潔さは、文句なしの最高傑作である。その続きがさらにあるとして。新生エオルゼアから続く戦いの日々に終止符を打つのだという強い意志を持って紡がれる最終章。それが、暁月のフィナーレである。これは、成長の物語である。私たちの分身である主人公は、そういう意味ではメインストーリーの主役ではない。主役は別にいる。それこそが、アルフィノとアリゼーであった。エオルゼアで紡がれるメインストーリーは極論をいえば、彼等2人それぞれの成長の物語である。彼と彼女がこのエオルゼアの地で学び、時に挫折し、それでも運命に抗ったその成長の記録だ。そして。その旅路も終盤を迎える。それこそが、アシエンたちの世界がなぜ滅んでしまったのかという核心に迫る確信へと繋がっていく。ルイゾワ、パパリモ、そして。新生エオルゼアの誕生とともに消えた、無数の名も無き光の戦士たち。それらすべての大団円に向けて、フィナーレの合図は鳴り響く。暁月の終末は、近い。暁の血盟は、その名が示す月へと向かう。戦いの果てに彼や彼女らは、何を見るのか。月といえば、魔導船。魔導船といえば、ファイナルファンタジー4である。私の好きなファイナルファンタジーの中でもトップ3に入る名作だ。漆黒のヴィランズがファイナルファンタジー3をリメイクしてくれた名作なら、今回はまさにファイナルファンタジー4の再演である。あぁもう。楽しみで仕方がない。ルナタイタン、ルナシヴァ、ルナイフリート…そして、ルナバハムート。ゼロムス。わたしの子どもの頃に味わったあの冒険譚が、2021年の秋に再び蘇るのだ。はやく次のトレーラーが見たいぞ。吉田ぁああ!!

 

それじゃぁまたね(了)