ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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アメリカのトップMBA校で日本人が減り、中国人が増えているカネ以外の理由 日本の優等生は人生がつまらない | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)



失敗せよ。失敗から得る学びこそがあなたを輝かせるのだ。

わたしはそう思う。昔から失敗の数なら負けないという自負がある。それは向こう水な行動をしてきたという意味でない。無謀な夢を見て背伸びをし、法外な借金を背負っているという意味でもない。この記事の言うところの、MBAを取得するということになんら興味の湧かないわたしではあるが、その人の魅力を決めるのは何か?という問いには失敗と答える。これほど明確な答えはないと思うほとだ。それはありがちなミスをする=無学、ではないし、ミスをする=落第生でもない。私がここで言いたい失敗とは、いかに自らの心に正直に生きてきたか?ということだ。そこにはリスクを回避する考えはあるしなるべく派手に転倒しないように最大限配慮がある。それらを最大にした上でしてしまう失敗。わたしはそれこそが失敗であるといいたい。失敗が恥なのではない。失敗から学ばないことが恥なのだ。特に若いうちの失敗ほど価値がある。若いうちにどれだけ派手に失敗できたか?が重要であり、その失敗からいかに学び、修正をかけることが出来たか?でその人の価値は決まると言っていい。記事内でカタストロフィと呼ばれる失敗は、中年以降で初体験となる場合と、若いうちに経験する場合とでは、人生に与えるダメージの差は計り知れないだろう。伴侶がいて、子どもがいて、社会的な地位がそれなりの場合の初めての失敗ほど見てられないものは無い。若いうちなら笑って済まされる失敗も、歳をとってからではまるで笑えないばかりか、その後の人生を180度変えてしまうほどのインパクトを持ち、再び這い上がるチャンスを全て失う可能性すらあるだろう。いかにそれまでが輝かしく人が羨む人生であろうと。つまらない人生だから、MBAを取得できないから、ではない。何度も言うがわたしはそれらに全く興味がない。私が興味があるのは、いかに自分らしい、そして、誇らしい人生を生きるか?である。そこには他人の尺度は本来存在しないとすら思っている。あってもいいが参考程度だ。加えて中国人がその点において優れており、中国人のほうが世の中をより上手く渡っていけるだけの人生経験を備えているとも思わない。単に中国人のほうがお金持ちであるだけである。この記事はそこを敢えて誇張し、お金だけではなく、人生経験がないせいだと結論付けているわけだが。私の話になるが、わたしは学生時代は失敗の連続だった。まず学校選びで失敗した。そして人生の目標を見失い、自分の立ち位置を見失った。勉強だけは意地で学力をキープはしたが、その後の大学受験で両親と喧嘩し、中堅の私大を合格したものの入学せずにフリーターとなった。今思えばとんでもない失敗である。その後もコミュニケーション不足からくる様々なトラブルを経験し時にやさぐれながら世の中を斜に構える半生を過ごしてきた。もちろん恋人などいる訳もなく、人生のレールから大きく外れたわたし。そのまま落ちぶれていくかに思えたわたしの人生だが、フリーターをする中でひとつの答えのようなものを得ることに成功した。それは、他人に迷惑をかけない範囲において、わたしはわたしのやりたいこと以外はやらないで生きていくというシンプルな答えであった。それはフリーターというモラトリアムを経て自分自身を見つめ直した結果たどり着いたわたし自身の不問律であり、揺るぎない芯のようなものとなった。そこからわたしは藁をも掴む思いであらゆるラッキー、チャンスを手に入れ、なんとか人並みの幸せを得るところまで這い上がったのである。わたしがここまで失敗と呼ぶべき経験の数々を後悔したことは1度もない。それは紛れもなく私のしたいことであった。むしろ、私のしたいことをここまでやってもいいのかと不安になるくらいに自由を極めたと言っていい。それがあるから自由であることを恥ずかしがる事無く選び取れる自信が着いたのだと思っている。そしてそのことをわたしは自信を持って自分の経験として子どもや周りの人に反面教師としての教訓として話して聞かせることが出来る。あなたはわたしのようになるな、と。わたしのように自由が欲しいのなら止めはしないが。自由を得る代わりに失うものはこれとこれと説明できる。それこそがわたしであり、私の人生を決定づける味付けとなっている。それは今でも私の軸として存在する。その証拠にコロナ前の2019年暮れに転職を決めたことがある。それは確かに人から辞めておけと散々言われ諌められるほどに無謀な夢を追いかけるように見えただろう。現にわたしは地方住みだが、何を思ったか転職活動で東京に何度か面接に行っている。それも4、5回は行っている。受かると単身赴任になる事もわかっていたし、むしろ受かれば家族ごと引越しも厭わないくらいだった。最終的にそれはあまりにも無謀な夢だと分かったので辞め、地元で今の会社を見つけたわたしです。それも一見無謀な選択と思えることでも先に可能性を潰しておいたことで、私の中で遺恨を残すことなく今の仕事に邁進できるというメリットを私にもたらしている。これは失敗だろうか。わたしはそう思わない。失敗は失敗と思わなければ失敗ではない。後悔するくらいなら失敗すればいい。わたしの失敗肯定論の根幹はここにある。あなたはどう思う?

 

それじゃあまたね(了)