ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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若き天才哲学者が「SNSのアカウントはすぐに削除すべきだ」と真剣に訴えるワケ SNSは私たちを窒息させてしまう | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)



SNSとの付き合い方の話。

SNSはとても楽しい。ここでいうSNSは主にTwitterを指す。そのメリットはなんだ?たくさんの人と繋がれる。何気ない会話を楽しむことが出来る。LINEではこうはいかない。電話?ノーサンキュー。メール?仕事ですか?SNSは好きな話題を好きな時に話せる。誰に向けるともでもなくただ垂れ流していく。そして気づいてくれることを待つのだ。私はここにいる。私はここにいるよ。ここにいていい? 無言の了承を得られる。ときに、いいねというボタンで了承を確認できる。リプライによって同意を得ることが出来る。同意。承認。これほど今の世の中で得がたい喜びは他にない。誰かに同意してもらえることはリアルでは皆無である。了承されることなどここ10何年ないのではないだろうか。せいぜいあるのは、無言の了承である。いてもいなくてもいいというアレだ。無関係を貫かれることは悪いことではない。無関係welcome。むしろバンザイだ。無関係でいて欲しい。仕事仲間はそうはいかないがそれにしたって極力無関係でいてほしい。わたしはそういう人種である。他人の人生に関わっていい事など何一つない。得られるのはストレスだけである。普段の生活でストレス溜まるのに、SNS上でまたストレスを溜めるの?そんなのは嫌だ。ここに正論がある。結局は他人の考えなど理解できない。ただそこにあるだけのものだ。それは私自身もそうであることを意味する。それならば他人の意見を大切にすることは、わたしを大切にすることと同義である。だからこそ、やってはいけないことも明確である。それは自分の意思を貫こうとすることだ。自分の意思を持つことは悪ではない。ただしそれを相手に強要することは良くない。例えそれが強要でなくても、他人の意見を自分の意見と戦わせることは御法度である。SNSの唯一のルールだと思うからだ。ごく稀に反対意見を言うリプライ(敵対的リプライとする)がある。本人にとって単に意見の相違を述べただけに過ぎない場合でもそれは敵対的リプライと受け取られてしまうことがある。それが大きなストレスとなり、時に価値観の相違からなる大きな論争へと発展していく。敵対的意見がルール違反であると言うつもりはない。ただ、敵対的リプライをする必要があったのか?という根本的な疑問点は残るだろう。その敵対的リプライの存在を撲滅したいという共通の願いから、敵対的意見を述べることは社会悪であるとする論調が今の日本を支配しているように思えてならない。それが以前に話した同世代同士の同調圧力となって、いまは自粛警察へと発展している。敵対的意見を持つことを、多様性の許容と言い換える人もいる。あらゆる多様性を認識し、許容することで誰もが過ごしやすい社会を作ろうとする思想だ。その思想自体に間違いはないのだが、多様性を許容することで誰もが幸せになるのではない。多様性を許容することで得られるのは複雑さであり、生きづらさである。今の世の中がこれだけ生きづらさを許容するようになったのは、単に意見の多様性を許容することができているからだ。多様性を許容することで過ごしやすい未来が生まれるという幻想はもう捨てた方がよい。かと言ってこれまでのひとつの意見に凝り固まった社会が良かったかといえばそれもNOだろう。つまり、ようやく多様性を許容する社会を作ることが出来てきた反面、生きづらさも許容することになってしまったのが今の私たちなのである。話が逸れてしまったのでSNSに戻そう。多様性を許容する社会を作った1番の立役者は誰かといえば、わたしはSNSであると言いたい。ブログなどもその先駆けではあったが、それは1意見としては重すぎた。拡散性という意味では有名人のそれでなければ広がらなかった1意見が、TwitterなどのSNSの登場によって誰でも自由に発言力を持てるようになったのである。それが多様性の正体であり、言葉の重要性の高まりから、鋭さを増した言葉の使い方の是非が問われるようになった理由だ。そのことで他人を傷つけたり、時に死に追いやってしまう悲しい現実を避けて通ることは出来ない。もちろん無くしていきたい側面であることに変わりはないのであるが、それを無くしたところでまた昔のような鎖国的な社会に戻るわけではないのである。見えなかっただけで存在していた社会悪が誰の目にも見える形になったという言い方の方が正しいとすら思っている。また逸れたか?SNSに戻せば、SNSは多様性を許容するツールだ。だからこそ使い方を誤ると大きなストレスを産む。昨今、情報処理が必須科目になっている。公共は何を学ぶのだろう。だがSNS学がないのは何故だろう。必須になってもいいはずだ。それほど私たちの意識に深く関わってくるSNS。確かにサービスを運営しているのは外国である。それを学問にすることは大人の事情で出来ないだろうことは容易に想像が付く。だが使い方を間違って事故が起きてしまう自動車運転と同じように、SNSの使い方、乗りこなし方は独学でいいはずがない。同時にそれを正確に伝えられる先生がいないのも事実。わたしは過去に小・中学校で、インターネットの講師をしたことがあるが(本当の話)、そう言った話をできる機会はとても貴重であった。私自身がその事に深く自覚的で、失敗も多くしているからこそ伝えられることがあるのは有意義だし、今後もそんな機会があればまた伝えられたらいいと思ってはいるのだけれど。もう転職したから無理だー。

 

それじゃぁまたね(了)


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