ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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「職業に貴賎はないのにヒエラルキー社会」ボーッと生きる人が気づいた時にはもう遅すぎる冷酷な現実 学校でも家でも教えてくれないこと | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)



貴賎とは、効率である。

人生の時間は有限である。これは普遍だ。24時間が、人によって違うことなんてない。1日はみな同じである。違うのは時間の過ごし方である。いかに短い時間で多くの成果を得るのか?という軸だ。職業に貴賎はない、とは言うが、100万円儲けるために必要な時間の総数は職業によって異なる。与えられた時間は同じであって、それを得るためにかかる時間が長ければブラック。短ければホワイト。と言うのも単純すぎる気がする。短ければそれだけ効率的な働き方であるというだけで、長ければそれは、短い職場よりは大変だということである。仕事のできる人というのは長時間デスクに齧り付く人ではなく、人よりも短い時間で成果を出せる人である。よって、残業をするのがえらいのではなく、残業せずに成果を出してさっさと帰宅してしまう人こそが、仕事のできる人である。貴賎はないが、効率的か?という視点はあるのだ。効率的でなければならないし、我々一般の従業員が出来ることは質の向上もさることながら、もっとも求められるのは作業の効率化である。記事にあるようにお金持ちが居て、自分とは違う世界を生きる人がいるという気づきは大切だ。違う世界を生きる人を目の当たりにした時、それを目指すのもいい。逆にその世界にいない自分のメリットを考えて見るのもいいだろう。お金持ちになれなかったとしても、お金持ちになれないことが不幸なのではなく、長い人生の中で本当になりたい自分を見つけ出せないことの方が本質的な不幸であると思う。では本当になりたい自分をどうすれば見つけることが出来るのか?それはまさしくこの記事が教えてくれている。つまり観察である。自分の周りの世界が当たり前と思ってなんの疑問も持たずに日々暮らしていると、それが当たり前では無い世界があることを知るチャンスは死滅すると言っていい。1つずつ今ある現状は何故そうなっているのか?なぜ今の私がここにいるのか?そして、どうなればわたしは満足できるのか?という疑問は常に心の中に住まわせておきたい考え方のひとつだ。常識を疑え、と言うとかっこよく聞こえるかもしれないが、常にそんな懐疑心に取り憑かれていては何も楽しめなくなってしまう。わたしだってそんなに面倒くさい生き方は御免だ。ただ、わたしは人よりも多くの時間を、思考という行為に費やしたい人である。なぜなら、思考こそがわたしが取るべき最高の時間であるからだ。なぜ最高の時間と言えるのか?については、世の中にある無数の選択肢の中で、どれを選べば良いか?という問は常にあるにも関わらず、よく考えずに選んでしまい大きなミスに繋がってしまうことが少なくないからだ。人生におけるステージの変化の選択肢はそれほど多くは無いのだが、日々暮らしていく中に潜む選択肢をひとつひとつ間違えずに選んでゆくということを疎かにしてはいけない。一つ一つをじっくりと吟味し、本当に後悔のない生き方をするにはすべての選択肢を俯瞰して見下ろすだけの冷静さが必要である。選択時に慌ててしまっては元も子もない。冷静に正解を選びとること。これは日々の鍛錬の練度がものをいう。つまり人生における大きな選択肢を間違えないための練習、鍛錬である。そのために必要な時間。それが思考である。瞑想と言っていい。私の場合は言葉の洪水に飲まれそうになるくらいに言葉を反芻してしまう。だからこんがらがってしまい、逆に何も選べなくなることも少なくなかった。だからわたしは思考の時間を要する。自分の選択が間違っていないことを確認する時間である。そして、自分の頭にない情報のインプットだ。新しい情報に触れることは、思考を趣味とする私にとっては栄養そのものだ。栄養が与えられた脳は喜んでその情報を喰らう。そしてリズミカルに咀嚼。自らの新しい血肉となってゆく。その流れこそが不純物を濾過するがごとく循環器の役割を果たし、思考の深度を深めるのだ。最近では考えすぎてしまうわたしもついに限界を迎えつつあり、瞑想して一時的にすべての煩悩を解き放つか、逆にTo-Doリストにメモした上でその日は思考を停止させ、明日の朝まで悩み事をきれいさっぱり忘れるという荒療治すら体得してしまったのだけれど。考えすぎも良くない。それはわたしのように言葉が渦巻く人には顕著なのだ。さて。話を職業の貴賎に戻そう。効率的な働き方をするには、特定のスキルや高い専門知識を伴う場合が多い。ひろゆき氏が指摘する、プログラマーは比喩としては適当だろう。実践すればするほどスキルが溜まり、次から同じ作業をするのに所要時間は少なくなってゆくからだ。その分、高度な技術を必要とするし、日々勉強する学ぶ姿勢がセットで必要になって来ることはもはや言うまでもない。わたしもそのことに気がついた。だから自分を学ぶ環境に置く必要があった。わたしは思考は好きだがつい自分に甘いところがある。そこで背水の陣を敷き、日々の頑張りの底上げを測ったのだ。その分大変ではあったが今となっては楽になったものだ。プログラマーほどの専門性はないが、なんというか時代の流れを肌で感じられる今の現場感はたまらなく好きだし、自分の持っているスキルや能力をかなり発揮しないとついていけないくらいのスピード感である。慣れてしまえばそれも楽になるのだから、我ながら順応性は低くないことがわかって嬉しい。これも年の功と言えばそうなのだけれど。伊達に20代で休みなく働いたわけじゃない。お金は無かったし、休みもなかった。それでも遊びたい友達も恋人も居なかったのだ。私がひとりで週末過ごしてもせいぜいゲームをして時間を潰すくらいしかしなかっただろう。それで良かったのだ。いまのわたしはあのころの苦労のおかげで成り立っている。そこは間違いのない事実なのだ。仕事に貴賎はない。ただし効率的かどうかという視点はある。効率的じゃない場合でも自分がやりたいと思ったことならばそこに費やした時間と苦労は無駄にはならない。むしろ、効率的な働き方というのは手足を高速に動かすことを意味するので、手先のテクニックは身についても内面のビルドアップにはなりにくい。若いうちは愚直に時間をかけてとことんやった方がいい。落ち着いてきたら今度はそれを応用して効率化を図る。そうしてスピード感では負けてしまうような相手とも互角に戦うことができる。その余裕の有無こそが年の功だとわたしは思ったりする。歳は取ってみなければその良さ、深みを理解することなどできないのだから。

 

それじゃぁまたね(了)


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