ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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ブッダの教え「絶対に付き合ってはいけない4種類の人、付き合うべき4種類の人」 言葉ではなく、その人の行為を見よ | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

 

悪友を避けて善友と付き合いなさい。さもなくば

1人であゆみなさい。これがブッダの教えだという。初耳だった。誰とでも仲良く、という教えかどうかすら、わたしは知らなかったのだから、仏教、ブッダの教えについては皆無に等しい。しかし、いま、この、言葉はとても心に響く金言であると言わざるを得ない。誰とでも仲良くなれる、は、昔、特技かのようにもてはやされた。いや、むしろ推奨すべきコミュニケーション技術であったように思える。つまり、どんなに気が合わない人とでも仲良くすることが推奨された社会だ。そのため、そのルールから少しでもハズレようなら強力な同調圧力によって抹殺されたのである。それは和を尊ぶ日本社会らしい発想であった。この論述が正しいのであれば(正しい?いや、そういう説があるのであれば)、日本人の考え方を根本から覆す考え方を、ブッダは昔からしてきたのであって、間違った解釈をしてきたのは日本人のほうと言えるのである。自慢ではないが私は友達がいない。いや、むかしはいた。小学生の頃は。でも、それも今思えば甚だ疑問であると言わざるを得ない。というのも、その彼らが友達だったか?という質問にわたしは明確に答えることが出来ないからだ。ただなんとなく一緒にいた、と表現した方が適切であるとすら私は思う。というのも、このブッダの教えからすると、私が辛い時に励ましてくれたり、嬉しいことを一緒に喜んでくれた記憶がない。確かに何度か一緒に遊びに行ったりもした。しかしそれはどちらかと言えばほかに行くやつがいなかったからであったように思う。そして、助け合うということを一切してこなかった。だから、ただなんとなく、一緒にいたというだけだ。彼らを悪友だとはわたしは思わない。しかし、良くもなかった。そのため、このブッダの言葉で言うところの善友であったとはとても言い難い。その後、高校で別れてしまい、それっきりではある彼ら。彼等を友達と今更言えるだろうか?わたしは首を横に振りたい。その後もたくさんの人がわたしを認識してくれた。中にはわたしを毛嫌いしてくる厄介な人もいた。当たり障りのない関係でどこかへ消えていった人もたくさんいた。しかしそのどれもがわたしが心から友達だと呼べる人は一人もいない。そして思った。わたしには友達はいないのだ、と。社会に出るとその傾向は益々強くなった。会社の仲間はいる。けれど友達ではない。週末にどこか出かけるときもあった。けれど、それはどこかわたしという奇人変人をイジって遊ぶようなオモチャみたいな存在であった。わたしはますます人が信用できなくなり、私に友達はいないのだという孤独感だけを強くした。そしてわたしは少しでもわたしのことを馬鹿にしない人を大切にしたいと思うようになる。それは性別に関係なくごく稀にいた。中には誰にでも優しいというやっかいな存在もいたので、判別することは遂にできなかったけれど。それでもわたしを特別に大切に思ってくれる人を追い求める中でいろんな経験をしたし、わたしもそれに応えるように努力した。今思えば受け入れてもらえないことに慣れきったわたしが、誰でもいいから受け入れて!と叫びながら走り回る子どものようだったように思う。事実、わたしを受け入れてくれる人などほんの少数だったからだ。そして今。わたしはオンラインゲームを第2の人生として歩んでいる。その中でも同じようにわたしという奇人変人を遠巻きに見る人達で溢れていた。ここでもか……と思っていたとき、わたしはようやく運命のメッセンジャーに出会うこととなる。それはほかのブログでも沢山書いているので割愛するが、わたしはようやく、わたしという個性をそのまま包み込んでくれる人に出会ったように思えてならない。それは、運命のパートナーである。何度も言うがそれは結婚相手ではない。恋人でもない。わたしが心から渇望してきた、真の友達なのだ。どうしてそう思うか?それは直感ではあるのだが、過去から続くわたしと君とで作る空気と言っていい。それはまさしく、私が生まれてからずっと探してきた空気だ。まさにこのブッダの教えの言うところの、善友であったのである。

 

それじゃあまたね(了)


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