ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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『FF14』いまから始めても遅くない! 『ファイナルファンタジー』の世界でもうひとつの人生を送ろう!! - ファミ通.com



FF14ファイナルファンタジーという名のMMORPGです。

この手の始めるなら今!という記事は多い。そしてその記事で大抵の場合に特筆されるのが豊富で多彩な遊び方である。本記事はさらにそこに加えて、エオルゼアという新たな人生を歩もう!とすすめているわけだ。結論から言おう。エオルゼアにあるのは新たな人生ではない。なんでも出来る夢と希望に満ちたバラ色の仮想現実があるわけでもない。では何があるのか。言い換えると何がそんなに面白いのか。ここに私なりの解説をしてみたいと思う(どきどき)。

まず。ファイナルファンタジーと聞いて思い浮かぶものはなんだろう。クリスタルを求めて光の戦士が旅を続ける剣と魔法の冒険ファンタジーRPG……とまあこんなところか。ファイナルファンタジー7から知った人も多いと思うけれど、基本的にクラウドのような現代ファッションに身を包む美青年は登場しない。ましてや大きなバスターソードを振り回して、お姉さん的ポジのエアリスや、幼なじみポジのティファとキャッキャウフフする展開を期待しては困る。あれはファイナルファンタジーの中でもかなり特殊だ。具体的にはFF7以外にも、FF8FF10FF13、そして現時点での最新タイトルであるFF15もそんな雰囲気がある。それは否定しない。だが、基本的には天野喜孝画伯による、怪しくも美しい青年が、グロテスクなモンスター達をバッタバッタとなぎ倒していく(その手には二刀流のエクスカリバーラグナロク!)洋画テイストバリバリのファンタジー小説のそれであるからして、やはりFF7から続くラノベ感のあるストーリーは、往年のFFファンからするとやっぱり特殊と言える。この、洋画テイスト〜という所が、まさにファイナルファンタジーの根幹に流れるコアイメージである。ハリーポッターや、ロード・オブ・ザ・リングなどの洋楽ファンタジー映画を大真面目にやろうとするノリこそがファイナルファンタジーが目指す世界観である。実際、初期のファイナルファンタジーには天才と呼ばれた外国人プログラマーがその制作に深く関わっており、純粋の国産RPGと呼んでいいのかちょっと疑問はあるのだけれど。まるで、邦楽に飽きた中学生が、オシャレでハイセンスな音楽を求めて洋楽に傾倒するような、ちょっと背伸びした感覚があるのがファイナルファンタジーの特徴である。和ゲーとか、洋ゲーとか言われるようになって久しいゲーム業界において、和ゲーでありながら、洋ゲーの雰囲気を漂わせ、さらにそこに、日本人らしからぬ冒険心がギュギュッと詰め込まれた野心作。それが初期のファイナルファンタジーに課せられた命題であった。その14作目にあたるこのファイナルファンタジー14は、オンラインゲームでエポックメイキングとなった会心作のFF11から数年かけて作り上げた、2作目のオンラインMMORPGである。前回好評だった部分を踏襲しながらもクオリティを上げ、まったく別物としてリリースされた(事実、FF11は今もまだちゃんと稼働している)。私はFF11を未プレイであるため何がどう異なるのか?については諸先輩方に任せるとして、ファイナルファンタジー14の魅力のみについて語ろうと思う。1番の魅力にストーリーをあげる人は多い。よくMMORPGではストーリーはおまけ程度と考えられていることが多いようだ。それはクリアという概念がなく、終わりがないMMORPGにおいては、従来型の新たな敵な現れる→大冒険の末に敵を倒す→世界に平和が訪れる、という流れを本質的にくみこむことが難しい。MMORPGはプレーヤーの数だけストーリーがあるからだ。そして、プレーヤーが現実世界で生きている限り、ゲーム内での冒険もまた、終わることがないのである。それを第2の人生!というふうに捉え、未プレイの人たちにうながしているのだとしたらややそれは間違いと言わざるを得ない。MMORPGは当然ながら街やフィールドにたくさんのプレーヤーがいる。走り回っていたり、アイテムを作ったり、買ったり売ったり。そして、ただ集まって話をしていたり、エモート(感情を表すポーズ)を駆使して、ただひたすらに騒いでいる人もいる。確かにそれらのプレーヤーはすべて生身の人間。だが、イコールでそれが第2の人生だ、というにはややもの足らないのだ。どちらかと言えば、趣味のサークル仲間との楽しい会話か、学生時代に経験したような仲間との何気ないおしゃべり。そして、ふざけ合ってるだけでとにかく楽しくなってしまったあの頃の文化祭や体育祭の準備及び当日。そんなノリに近いだろう。人生、というと、子どもから始まり大人になるにつれて様々な挫折や苦労を経験しながら、パートナーを見つけて自分の家族を作っていく……そんなイメージがあるわたしからすると、歳をとって成長しないし、パートナーは相方という形で見つけることは出来るが少し人生のそれとは違う。ゲームの出会いがリアルの恋愛に発展していくとこもある。そのまま、めでたくゴールイン!というプレーヤーも少なくはない。だから、第2の人生!というよりは、今、あなたの人生の延長線の上にあるモノだ。第2の人生どころか、いままさに生きている現世そのものだ。結論。現実世界で知りたかった自分とは何か。周りの人間たちと仲良くするにはどうすればいいのか。そんな人生に役立つあらゆるノウハウをファイナルファンタジーというゲーム世界で体験出来る。そんなことができるRPGはあっただろうか?つまり現実に好影響を与えるRPG。それこそがFF14の魅力だとわたしは思っている。

 

それじゃぁまたね(了)

日本人は年功序列の弊害の重さをわかってない | ワークスタイル | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準



まさに真実だ。しかし。

年功序列が原因だとする論調はどうだろう。年功序列があるからいまのレガシー問題が生まれたのだろうか。しかし、素晴らしい指摘だと思う。中でも日本の企業における経営者は、その会社のジェネラリストであり、その会社のことを掌握できるプロであるが、他方で、他の会社で通用するか?というと、懐疑的であるという指摘には脱帽だ。その通りと思う。仕事柄、中小企業の社長によく会うが、まさにそんな感じがする。私の務める会社もそんな感じだ。むしろ、いかに、自分の会社にどっぷりと浸かり、乗りこなせるかというスキルが、経営者として最も問われている素質なのだと痛感する。それは、他の会社では全くもって通用しない。他の国では、経営者は専門家らしい。中国でもそうなのだろうか。なぜ日本はそうなってしまったのか。過去の高度経済成長期はそれでよかったという。しかし産業革命以来の技術革新であるインターネットの普及は日本型の年功序列では太刀打ちできないビジネスモデルであった。そして能力のある若手ないし、若い才能が次々と日本企業を追い越してトッププレーヤーになっていった。日本にもそういう天才はいるだろう。ぱっと思いつくプロの経営者は誰か。わからないが、堀江貴文氏を想定してみる。彼はあらゆる事業に対して柔軟である。そしてスピーディだ。そこに日本型の年功序列型の組織は感じられない。あるのは能力主義のそれのように感じる(実際はわからないけど)。堀江貴文氏を嫌う人もいるだろう。彼はワンマンで、優しくない人種だと揶揄する向きもありそうだ。だがことさらDXが叫ばれる今、彼ほどその分野におけるプロはなかなかいないのでは無いだろうかと思う。もちろん、日の目を見ないだけで敏腕の経営者はたくさんいるだろう。けれど誤解を恐れずにわたしの感じることを述べると、日本のプロの経営者はすべて、自分ルールで動いている。その自分のルールがいかに自分が輝くための最も簡単で確実で効率の良い方法論だということを熟知している。日本におけるプロの経営者は、自分を活かすプロと言い換えることが出来る。自分活かし、ビジネスに邁進するバイタリティを備える日本のプロの経営者たちはそれぞれの独自のノウハウによって、この荒波をサヴァイヴしている。そこにはやはり、アメリカや海外で通用する世界基準のやり方は存在しない。いや、そもそも、世界基準に合わせようとしていない。標準化されないがゆえの、世界に羽ばたけるトッププレーヤーであるかのような印象だ。日本のプロの経営者は、特異性に富んでいる。独特だ。海外のそれはもしかするとスキルを身につければ誰でも出来るような体系的なそれなのかもしれない。経営者はごく一般的な専門職なのだ。日本で言うところの。事務職みたいなものかもしれない。確かに事務職は日本の社会ではある程度フォーマット化されているので、渡り歩いて行ける印象がある。日本におけるプロの経営者はいかに特異性を磨き、自分を輝かせるスキルに長けているかという視点が重要視されており、企業の組織を一言で言えば、独自性に富む経営者(社長)と、そこに連なるのはどれだけ社長の意向を素直に実行できるか訓練されたジェネラリストたちで構成される。社長の特異性を理解し、言語化し、上手く乗りこなせること。それが経営陣がもっとも求められるスキルである。だからトップ層は変わり者が多い。変わり者は自己流が多い。それゆえに時代の変化に対する柔軟性に乏しい。自分ルールがあるからだ。自分を輝かせるためのノウハウは、インターネットの普及した現代の均一化され効率化されたビジネス社会のそれとは真逆である。一流の職人が一つ一つ丁寧に仕上げる国宝級の作品と、iPhoneを比べるようなものだ。圧倒的に後者を取り扱う会社が世界を席巻している。はたと気づく。例えば日本が誇る一流企業である任天堂はどうだろう。一見、日本型の職人のような優秀な仕事ぶりである任天堂は、同時に世界規模の人気を誇るコンテンツを多数持っている。規模こそ違うかもしれないが日本が唯一Apple社に対抗出来る存在は、任天堂かもしれない。オリジナリティがありつつ、日本型の年功序列が機能している(ように見える)会社、任天堂。もしかすると、なにも、外資系によくある実力主義に邁進することがわたしたちの道ではないのかもしれない。インターネット至上主義はこれからのスタンダード、と言われてはや久しい。GAFA帝国が崩れようとする昨今において、もしかするとあらためて年功序列が機能するような時代が来るかもしれない。もはやレガシー問題を解決することは困難だろう。この記事もそれについては諦めている雰囲気がある。だってこれだけ世界が変化しても変わらないのだ。それが日本人なのだ。自分を信じるがあまり変化に対応できない。裏を返せばどんなに世界が変化しても日本は変わらずに生き続けられる。それは強みであるはずだ。強みを生かすことこそ、これからを生きる唯一の方法論であると私は思う。だって、苦手なことをやってても、勝てるわけないじゃん?

 

それじゃぁまたね(了)

2回目の緊急事態宣言で、 仲介3割減、管理5%減か。「部屋探し長期化」「業績格差」時代到来。|不動産投資の健美家



2回目は同じではなくなった。より大きな変化が待っている。

コロナのない時代に戻れると思う人はもういないだろう。つまりコロナ前提で考える時代である。前回の緊急事態宣言はそのこと自体が初めての体験。まるでそれは東日本大震災津波のように一時の自然災害のように写った。そして、東日本大震災によって原子力発電所が壊滅的なダメージを受けてしまったように、コロナもまた日本に(いや世界中にだけど)大きなダメージを残している。自然災害ではある一定の期間が過ぎると、対象地域外の人はいい意味でも、悪い意味でも風化し、忘れてしまう。そうすることで克服したかのような錯覚があり、それは見たくないものを見ないという問題からの逃避であると同時に、ある意味でまた頑張ろうという前向きな気持ちに繋がる契機となってきた。しかし今回の緊急事態宣言から始まったこのコロナとの戦いは、わたしたちの目を背けさせてくれない。常に目の前にある問題として立ちはだかっている。しかし、今思えば去年の緊急事態宣言は、形だけのような雰囲気があった。結局のところ、おっかなびっくりで人々は一瞬歩みを止めたけれども、すぐに経済的に復帰した。それはさながら、先生に怒られた生徒が、先生がいなくなったすきに、騒ぎ出すそれと同じだった。だから大方の予想通りV字回復したし、大したこと無かったと大手を振って歩めたのである。その先に、Gotoキャンペーンがあったことで、人々は復興支援といわんばかりに大勢の人手が街を潤わせた。それは日本人の美しき助け合いの心だったと思う。日本人は素晴らしいと思えたことは個人的にもわたしは嬉しかった。そして今年。2021年の幕開けにて、再び実行された緊急事態宣言。大方の予想ではもう効力はないとされ、何のための宣言なのか?という無意味論者と、発令を心待ちにしていた積極派とで世論は割れているように思う。テレビのアンケート等では、後者が多いように思う。電話や郵送でのアンケートに答えてくれる層は大抵が高齢者であることを思うと、まあそうなんだろうなと思う。歳を取ればとるほど現状維持バイアスが働きやすくなるだろうし、これ以上感染者を増やすこと=自由な経済活動を許すこととして、それを制限せよというわかりやすい、かつ、間違った図式がさも正論のように語られている。すでに日本経済は死に体である。それは安くなくては売れないという薄利多売の局地にある国は、利益がそもそも見込めないからだ。そんな痩せ我慢をデフォルトで背負わさせておきながら、売上3割減とか、5割減という凄まじい状況に、耐えられるわけが無い。そのうえでなお、自粛を声高に宣言するとはもはや死刑宣告のそれと同等の意味を持つと言っていい。この記事は、賃貸業界の話であるが、どの業界にも当てはまるコロナがもたらす世の中の変化、人の心理の変化を見事に捉えている。わたしもこの感覚はなんとなく持ってはいたが、その裏付けをもらったような腹落ちがあった。突然やってきた厄災、コロナは人々を驚かせ、混乱させた。そしてあらゆる対抗策を講じていく中で、もはや、コロナが未知のウィルスとしての緊急事態宣言と、コロナが前提となる緊急事態宣言では、その意味合いがまるで違うということだ。もはや、去年がこうだったから今年も大丈夫などと安易に考えていては生き残ることは出来ない。残酷な現実を改めて突きつけられたような衝撃がある。しかし、記事の最後にもあるように、これで希望が無くなったわけではないし、世界が明日終わる訳でもないこともまた事実である。世界のルールが変更になった。それは不可逆的なルールである。そのことに意識的になれるかどうか。ルールを知ろうとしているか。ルールは誰かが教えてくれない。自分で考えて、調査結果を元に予測していく。そんなマーケターの視点があらゆる業界に求められている。答えがないのではない。答えを探し続けること。そして、周りをよく見ながら落ち着いて1つ1つ検証していくこと。やけを起こさないこと。わたしたちが今できることはそう言ったことのような気がする。わたしたちはこの時代を生きている。生き方が変わるだけだ。じゃあどんな生き方をすればいいのか。それはまだ暗中模索である。答えを求め続けること。そこに、わたしたちがもがき、生きる、2021年から始まる2020年代のスタンダードがあるのだと信じて。

 

それじゃぁまたね(了)

GAFAはなぜ邪悪に堕ちたのか ビッグテックは素晴らしい理念と私たちを裏切った 前編(5/5) | JBpress(Japan Business Press)



GAFAは善意ではないことにそろそろ気づく必要がある。

Apple社が日本に与えた革命を思う時、わたしはAppleを尊敬の眼差しで思っていた。それは日本人がやりたくても出来なかった、機能性とデザイン性の高次元での融合であったし、それは皆が喉から手が出るほど欲しいものを現実のものにしたという、革新性であった。革命的だった。そのリーダーがAppleであり、スティーブ・ジョブズ氏だった。GAFAを思う時、Apple以外の会社がAppleの流れを組んでいる訳ではまったく無いにも関わらず、なぜか同じような羨望を向けていたように思う。Appleは私たちの欲しいものを作った。Googleは……あらゆるWebサービスで世の中の仕組みを効率化させた。Facebookは……人との繋がりを可視化した。Amazonは……買い物環境を変えた。なんだろう。やっぱり、Apple以外はなんか、イメージがぼんやりしている。確かに何かすごいことをしたのだと思う。わたしも確かにそれは感じていて、それらが次々にリリースする新サービスはどれも便利でしかも無料だったことから、それらを使うことになんの躊躇も無かったし、それらを使いこなすことが現代における新たな必須科目だと思っていた節さえあった。無料だから。便利だから。カッコイイから。そんな理由で触れたそれらは、どんどんわたしの生活に溶け込んで行った。無くてはならないもの、とは言わないけれど(言いたくないけど)、便利だから使った。使い続けた。それが知らず知らずのうちにわたしたちを食い物にしていたと疑いもせず。いま、というか去年の大統領選挙辺りから、GAFAの解体が叫ばれるようになった。GAFAは大きくなりすぎた。そしてそれを解体せよという流れだ。これはどういうことだろう。正面から見たら、GAFAは誰と戦っていたのだろう。それはGAFAよりももっと儲けているお金持ちだったのだろうと思う。国際金融資本と呼ぶべき、地球上の支配層に、テクノロジーの力を使ってその利益をかすめ取る。そうして膨れ上がっていったのがGAFAだったのだと最近改めて思うようになった。私たちの生活に革新的な変化をもたらす救世主、Apple。そんなふうに信じていた私はいつしか、Appleを避けるようになっていく。それはおそらく、スティーブ・ジョブズ氏が亡くなったことと、無関係ではないだろう。利益を追求することは悪いことではない、と思う。しかし、あの辺から、Appleは消費者を向いていなかった。GAFAがそれぞれの利益を追求する姿勢を強く打ち出し、サブスクリプションサービスが盛んになった頃ぐらいからその姿勢は顕著となっていく。そして。わたしたちは消費者では無くなった。わたしたちは、GAFAにとっての商品になった。わたしたちが低価格ないし無料のサービスを使えば使うほど、彼らはわたしたちのデータをお金に変える錬金術を生み出していく。それは主に広告に使われたが、そこからWebマーケティングに発展。わたしたちはGAFAの作るプラットフォームを泳ぐ魚であり、大きな水槽で生かされる存在と言っていい。それがわたしたちの2021年の有り様である。わたしたちはサービスを受け取る代わりにデータを無料で渡している。それについての許可を1度でも聞かれたことはあるか?ない。それはごく自然に奪われ、現金化され、オートメーション化された。もはやGAFAはわたしたちを豊かにする未来の企業ではなくなった。利益を吸い取り、新たな世界の支配者になろうとする組織だ。国際金融資本家たちに挑んだ若者たちだ。その結果。疎まれ、その勢いを削ぐために、政治家を使って、司法を使って、解体しようとされている。まるで、天に届かせようと建てたバベルの塔が神々の怒りに触れて、それを建てようとした人々に言語とうい天罰を与えたように。今思えば最初からGAFAはわたしたちを商品にするつもりだったのだろうか。そうではないのかもしれない。途中から変わったのかもしれない。それでも。いまは商品だ。わたしたちはいつまで彼らの私腹を肥やすためにわたしたちの生活データを無償で提供し続けるのか。その結果、私たちの国は貧し、自国の会社は次々と先細った。そして私たちは収入を減らし、さらに無料に縋り付くこととなる。それはもはや抜けることの出来ない鎖(チェーン)のように結ばれ、わたしたちはデータ化された。GAFAは悪に染ったのか?いや、GAFAはわたしたちをお金に変えた。ただそれだけだ。そして、それは今後も続く。しかし、どんな組織も未来永劫続くわけでは無い。どこかで歪められ、時にその役割を終える。しかし、これだけ世の中が均一化されたいま、わたしたちはわたしたちの周りの人に感謝しつつ、身の回りの幸せを守っていく必要があると思う。そこに、GAFAは必要ないはずだ。似たようなサービスなら、日本人でも作れるだろう。そうなれば、GAFAは不要である。不要となる日が来ることをわたしはなぜか願っている。

 

それじゃぁまたね(了)

コロナ禍で「このままではヤバい!」と感じて転職した人々の大後悔(マネーポストWEB) - Yahoo!ニュース



コロナを機に転職するのでは遅い。転職は自分のタイミングで。

この記事を見てギョッとしたわたし。私の場合は会社がヤバいから、という理由ではない。自分で今のままでは成長が止まってしまう。この先不安定な時代が来る。それならば、もっと自分を鍛えなくてはこの先生き残っていけない。そんなふうにおもった。だから今ある安全圏から、冒険することを選んだ。そんなわたしであるから、この記事のようにコロナでやばい!→転職ではない。私が転職した後にコロナの脅威がやってきた。それはある意味で物凄いタイミングで。いいタイミングではなかった。しかし、転職を決意したわたしにとって、新天地に向かう最後のチャンスだったのだ、と私は思う。そう思うことにした。今の職場がこのままではヤバい。そう思うこともあると思う。だが、私の会社はこの記事の指摘のような「磐石な」業界のそれだ。私が決意した頃も下火になっていたわけではない。ヤバいと思うなら、逃げたっていいはずだ。逃げ方がいけなかっただけで。逃げる前に次の職場を決めていたのか?そういうのは、コロナに関係の無い転職のセオリーだ。辞める前に決めていればある程度は希望通りの転職となるだろう。もちろん、給与は下がる。当たり前だ。余程のことがないかぎり、転職先は未経験の職種である。なるべく現業を引き継げる業界であっても。その会社にとっては「新人」だ。それなら雇う側も安牌を見たいだろう。つまり、なるべく安い金額で雇いたいという安牌だ。だから給与は低めでスタートさせる。そこから、頑張り次第で上げていく。上げさせる。それが、転職における正しい年収の上げ方だと私は思う。わたしはこの記事のケースでドキッとしたのは、確かに転職したら、今より良くなるというのは幻想だ。給与も下がる。それなら元いたところにいた方が何百倍もマシだったと思うかもしれない。でも、わたしは、転職のセオリーは守るべきとは思うものの、転職の第1歩を踏み出した。そのことは勇気がいる事だ。それは賞賛されるべき事だ。勇気をだして選んだ選択が間違うこともある。しかし選ばなければ間違うことも無いのだ。間違うことが無ければ永遠にそれが間違いだったと分かることもないだろう。わたしは人生の価値はどれだけわからないことを理解出来たのか?と思っている。確かにこの記事の指摘するケースでは失敗だったかもしれない。だが、この間違いがずっと永遠に失敗だとなぜ断言出来る?一時の失敗を恐れるばかりに何も選べないことが正しいのか?失敗しても人生は続いていく。失敗したのなら、学べばいい。次は失敗しないように。それこそが人生なのではないか。このケースの1つ目で言うなら、エンジニアの道を歩み出した。それを収入が減ったからと言って即失敗と言いきれますか?2つ目。フリーランスで独立したが仕事がないという話。たしかに今は少ないかもしれない。でもこの先しっかりと努力すればもっと仕事が舞い込んでくるかもしれない。そして、退職したことを後悔するのではなく、あの時そうしてよかったと思う未来が来るのではないか?私が言いたいのは人生の選択に間違いや正解があるのでない。たとえ間違っても、そこから学べばいい。それこそが選択した人が得られる宝だ。そこを信じずに、選択して一見間違ったように見える人を「あの人はダメな人だ」とか、「だから挑戦することは良くない」というように判断することは誤認である。まったくもってこの事柄から学べていない。学ぶべきは転職のセオリーであって、転職をしてはいけないというそれ自体ではないはずだ。わたしもこのままではダメだと思い、転職活動を始めた。それは仕事をしながら休みを活用し、2ヶ月半かけて今の職場に巡り会った。わたしは愛知県住みだが、東京にも面接で4、5回行った。高速バスで。そんなあれこれを経て今は地元の小さな会社に転職した。それはわたしにとって無駄では決してなく、自分にとっての可能性の種を1つ1つ検証した結果であった。ただそれだけであり、それは必要な手順だったのだ。わたしは去年1年で学んだ。とても沢山のことを。それはあのとき、2019年の8月に転職を決意したから得られた真実だ。それだけは絶対に無駄では、ない。

物事の見え方をネットに問いかけると、つい片方の意見だけで判断しがちである。しかし本当の答えを知りたければそれではダメだ。片方だけでなく、両方から検証していくほうがいい。世界の解像度を高めるにはそれしかない。他にやり方があるのかもしれない。しかし、時間は有限だし、できることは限られている。それならば、今できることをやる、それが答えにたどり着く近道だ。私はそう思う。転職は恥だが役に立つ。

 

 

それじゃぁまたね(了)

中国の若い女性の間で「ガチャガチャ」が大ブーム…それが「異常事態」と言えるワケ



リスクのある買い物をするのは信頼関係のある相手だから。騙されないという確信がないと買わない、それが中国人のリスク管理

 

その変化の理由に、中国の物質的な豊かさがある、と筆者は指摘する。豊かさ。日本に住んでいると豊かさを実感することはない。この30年は下がる一方だ。いつしかそれは世界中でそうに違いないと思うようになっていた。それは爆買いで騒いだ中国であっても。そう思っていた。いや、もしかすると。その考えは間違っていないのかもしれない。この記事からはその先を指摘する記述は見当たらない。間違っていないというのはどういうことかと言うと、このガチャガチャが流行るというブームは、日本にもあったからだ。あった、というか、今もあるが。それが何時からあったのか?を考える。そうすると、どうだ、平成の中期だったように思う。つまり、景気がかげり始めた頃。つまり、中国もまた、そういう下り坂にいるということ。私はそう思う。人が国の違いによって大きく享受する未来が変わるとは思えない。多少の差はある。しかし大きくは違わないと私は思う。あるのは時間の過ぎ方のスピードの差だ。歩んできた歴史こそ違えど、向かう先はどこも同じ。それは破滅という意味ではなく。経済が成長すれば、それは終わりの始まりであり、いつか終わりが訪れる。それは終わりであるがまた別の始まりである。終わることなどない。それがどんなに悲惨に見える時代でも。ちょうど今のようなコロナ禍で疲弊しているように見える世界でも。終わりが来る。少なくとも既に世界はコロナに慣れつつある。それを危惧して押さえ込もうとするのはいつの時代も、年配者の役目だ。あれはダメ。これはダメ。そうやって規制しようとする。しかし世界は終わらない。コロナ禍が世界を終わらせるなんて有り得ない。コロナが無くなることもないけれど、それにしたって世界は続いていく。要は世界の形に合わせて、生き方を変えるだけ。それだけだ。話は少し変わるが、こないだ、ロシャオヘイセンキを、観た。とても面白い中国産のアニメ映画だ。もろにジブリの影響を受けているらしい。素晴らしい作品だった。それを見た時、わたしは日本が元気だった時代を思い出した。ジブリが日本を元気づけていた時代。それをいま中国に広がっているムードなのだとしたら。ガチャガチャが人気になったりするのも理解出来るような気がする。中国が上とか、日本が上とかそういうことを言っているのではない。中国の方がとてつもなく大きな市場を持っている。日本の10倍以上だ。それが陰り始めているということなのだろう。それは終わりの始まりである。それでも。終わりが来る訳では無い。新たな始まりである。人も。世の中も。そうやって繰り返しながら輪廻転生の螺旋階段を下ってゆく。世界も。私という存在もまた、そういった同じようなフラクタル構造によって形作られているのだ。そんなふうに思ってしまった。それと同時に、これまでになく、中国という国がとても近くに感じている。もしかすると、もうアメリカよりも近いのかもしれない。アメリカは、もうダメだ。西の国と仲良くする方がいいのか。中国と仲良くすべきなのか。それはわたしにもわからない。しかし、どこの国にもメリットとデメリットがあり、少なくとも日本と中国にはわかりやすく繋がれる文化的な繋がりや、歴史的繋がりがある、そう思うのだ。(中国共産党は……いや、やめておこう)

 

それじゃぁまたね。おやすみ(了)

大企業出身の中年転職者が嫌われるワケ…「役員待遇で採用」の悲惨な末路 « 日刊SPA!



大手企業を辞めて中小企業に役員待遇で行くと悲惨な末路であることは知っている。だが、この話は続きがあって。

この記事は前半部と後半部に分かれている。前半部の指摘は素晴らしい。概ねわたしが聞いていいた結末と同じでろくな事にならない。そして後半は、大手企業にいながら企業する方が賢い、として終わる。しかしこれで終わりなら、大手企業で働く人はそこが極楽なのだから、そこにい続ける努力をせよと言うことになる。その努力こそ生きるために必要な努力であると説く。大企業は極楽なのだからそこから下山するのは馬鹿のすることだといわんばかりである。そこまでではないのだろうけれど、わたしはそう理解した。大企業に入れるような人材はそれまでの努力がある。勉学にしろ、人生経験にしろ、確かに人並み以上に頑張ってきたに違いない。だからこそ、その努力の結果としての大企業なのだ。それは努力に対する対価であって、勝ち取った報酬である。例え、そこが居心地が悪いのだとしても。やりたい事ができないのだとしても。そこから新たな夢を目指して荒野に旅立つことはすべきではない。しなくていい「恥をかく」必要は無いというのだ。そして、今ある大企業の地位を活かしつつ、副業や、個人で会社を起こすほうがよい……。確かにそうだ。やりたいことは転職をしなくてもできる場合がある。それならば転職は不要だ。しかし転職をしなくてはならなければならないのだとしたら。そのケースはないだろうか。そのケースを想定していないように思える。そのケースはダメなのだろうか。たとえ給料が減ったり、地位が下がったりしたとして。それでもやりたいことならどうだろう。それを「恥をかく」と言うのなら、それは違う。断じて違う。やりたいことをやる為の選択であるのならそれはいかに馬鹿げていても尊ぶべきと私は思う。それによって周りの人に迷惑をかけるとかならまた話は別なのだろうけど。あとはこうも思うのだ。やりたいことがあるならいまやるべきだ、と。それを、誤魔化したり、先延ばしにしたりして、いつかやろういつかやろうと思っているのに、いつまで経ってもやれないことがある。人はいつか死んでしまう。死ぬ前にやりたいことをやれる保証などどこにもない。それならば、やりたいことをやる。そのための判断なら、すべて肯定されるべきだと私などは思うのだ。

 

それじゃぁまたね(了)