ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

ムジカのキオク。♪note:https://note.com/ryoushitsumusica ◆YouTube: https://www.youtube.com/channel/UCWvTBOe1O9GICLtyreUu-6Q

"【FF14】炎上して再起不能から生まれ変わり、覇権MMOになるまでの復活の軌跡【ゆっくり解説、PS5、新生エオルゼア、吉田、吉P、漆黒のヴィランズ、暁月のフィナーレ、5.0、6.0、レビュー】" を YouTube で見る



わたしがFF14を愛する理由。続けている理由。

趣味に例えると分かりやすい。人から何を言われても楽しくて続けている趣味を想像して欲しい。スポーツでもいい。なにか手作りする趣味でもいい。どこかに出かけること。例えば海外旅行でもいい。なぜそれを愛し、今も続けているのか?なぜ辞めようと思わないのか。趣味は人のアイデンティティを構成する重要なファクターとなることがある。例えばプロにはなれなかったが、自分にはサッカーしかないと思い、休みの日は友だちとサッカーをする週末を過ごす人がいるとする。それはなぜか。その人にとってサッカーにこだわることがその人の矜恃だからに他ならない。上手いから、得意だから続ける人もいる。でも趣味は得意だからするの?じゃあ下手だったら趣味じゃない?練習してなくて下手になったら引退?辞めてしまうの?私から言わせてもらえればそれは趣味じゃない。上手い下手関係ない。ただそれに携わる。それに触れる。理由はかんたん。好きだからだ。好きな物に触れることは無上の喜びだからだ。それこそが趣味。そこにこだわる私。趣味とアイデンティティのまさしく融合だ。続けることがわたしをわたしたらしめる。だから続ける。趣味は楽しくなければならない。そして無理なく続けていくことが出来るものでなければならない。例え、お金と時間を無駄にするぞとか、ただの道楽だとか言われても。他人に向かって自信を持って言うことが出来るだろう。「これが私の唯一の趣味なんです」。まさにそれがわたしだ。わたしに与えられた趣味。それがエオルゼアで暮らすことだ。そこに至るまでに色んなことがあった。それらの出来事は確かに偶然かもしれない。だがそれがまたさらに別の偶然を呼び、連鎖して偶然ではないのかもしれないと悟ることがある。この辺から話を紐解いてみたいと思う。わたしはゲームに触れるのが遅い子どもだった。わたしが小学一年生の頃、ファミコンという画期的なオモチャが登場した。こぞって同級生たちはそれを買い求め夢中になってプレイした。わたしは親から「あんなもので遊んではいけない」と言われ、買って貰えなかった。理由は…よくわからない。確か、人と同じもので遊ぶのは芸がないから良くないとかなんとか。だからわたしはスケッチブックで絵を描いて過ごした。想像力を広げてあらゆる怪獣を作り出した。ビックリマンが流行っていた。それを真似したのだ。今思えば。そんなお絵描きだって人と同じ遊びだよね、お父さん。まぁいいや。そうやって遊びを作り出すことを課された子どもの私が、ファミコンを買って貰えたのは小学四年生の頃。私はそれを強く望んだ記憶は無いのだが、母親がお父さんを説得してしぶしぶ買うことを同意してくれたような気がする。なんでだろう。そして初めて自分一人でゲームをするという体験をする(それまでは友達の家でやっているのを見てるだけだった)。最初に買ったのは、テトリス。そしてドラゴンクエストだったと記憶する。もともと1人で遊ぶ性格の私はファミコンから流れる電子音楽に心を踊らされつつ飽きずにプレーし続けた。誤解があるといけないが、決して上手いわけではない。むしろやり方がさっぱり分からなくてトライアンドエラーを繰り返すだけ。テトリスは未だに苦手である。だが、ブロックをどうやって綺麗に並べるかという思考力が身につき、片付けが好きになった。そしてもうひとつのドラゴンクエスト。同じくやり方がさっばりわからない。何をすればいいのかもわからないわたしはただひたすらに敵を倒す。お金を貯めるを繰り返した。そして武器や防具を買い揃え、買えるものが無くなると次の街に恐る恐る出かけた。途中死にそうになると、街に戻ってまた出かけていく。そしてレベルが上がると強くなると分かると最初の街の周辺で5レベルまで上げようとか、もうちょっと頑張って10レベルにしたら楽になるかなとか考えるようになっていく。今思えばそれは知らないことに対する考え方や、苦難や先行き不安に対する自分なりの方法論をゲームの中で試していたのだと分かる。確かめて確かめてなんとなく上手くいったからこのやり方を続ける。そんなコツコツ進める姿勢をわたしはゲームから学んだのだと思っている。そんなわたしがドラゴンクエストにどっぷりハマっていた頃。ドラゴンクエスト4の発売からだいぶ経って何周目かのクリアをして遊んでいた頃に出会ったのが、ファミコンファイナルファンタジーIIIである。当時、ファンタジー小説を元にした映画が流行っていた。ネバーエンディングストーリーとか大好きで何度も見たわたし。デビットボウイのラビリンス、スターウォーズバック・トゥ・ザ・フューチャーとか、子ども心にときめいた。そんな頃、私の中に外国産の文化に強い興味が芽生えていく。「英語とか、よくわからないモンスターとかが出てくるゲーム」という印象からファイナルファンタジーIIIを知ったわたしは、友人のすすめでなぜかすぐに興味を持った。今思うとなんで買おうと思ったのか不思議である。確か、ダメージの桁が、4桁という情報だけでわたしは即決したような気がする。ドラクエでは頑張っても200とかが限界のダメージ数字が、ファイナルファンタジーIIIでは9999という訳の分からない巨大な数値をたたき出せるというのだ。この9が並ぶかっこよさに引かれたのである。我ながら単純である。ただそれだけの理由でわたしは未知の世界に旅立つことにしたのだ。そして見事にハマってしまう。キャラクタの名前を6桁まで決められる。好きな職業で最初から始められる。現実ではないゲームの世界で、わたしの趣向を限りなく再現して自由に旅ができる。繰り返しプレイするうちに攻略法が分かってきて、さらに効率的なジョブ選びが楽しくなってくる。無駄のない動きを研究したり。逆に縛りプレイを設けたり。あとは名前。お気に入りの名前をひとつ決めたら、そこから関連する名前を残り3人に付ける。この人は男にしよう。こっちは女の子。この子も女の子…そんな具合に。ストーリーとは関係なくわたしの趣味丸出しの名前。男の子ならこんな名前がいい。女の子の理想の名前はこれ。わたしは和英辞典を引っ張り出し、名前に使えそうな単語をAから順にノートにビッシリ書き記した。特に名前決めは重要である。名前が決まらなくて半日潰したこともある。または付けた名前が気に入らなくてまた最初から始めたことも1度や2度ではない。それほどまでに名前決めは重要である。4人いるので関連性が無ければならない。今思うとあの頃からわたしは自分だったらどんなキャラクタが理想的かについて深く考える癖が付いたと思う。そして、そのキャラを作り出すまでの時間を年齢が上がるほどに短く、そして悩むことがなくなっていった。ある意味で深く決めることを感覚的に瞬間的に決めるスキルを会得していったように思う。前置きが長くなった。そろそろ結論と行こう。前置きが長くなったのには訳がある。ここまで書かなければわたしがMUSICAとしてなぜエオルゼアに誕生し、今も続けているのかという真の理由を説明できないからだ。その理由とは何か。私の理想とするキャラクタを作ることが出来る唯一のゲームだからである。そして、その味付け、着せ替えにおけるバリエーションも豊富で、終わりがないからだ。それはオンラインゲームだからである。オフラインゲームはクリアという決まったエンドがある。だから新しいキャラを作るにはまた最初からやらなければならない。だがこのエオルゼアでは幻想薬を使えばすぐに生まれ変われる。何度でも。繰り返し初めからプレイする必要はない。もちろん最初はたくさんのキャラクタを作った。その中でお気に入りの5人には特別な名前を与え、ムジカとゆかいな仲間たちという位置づけを与えている。だが、やはりわたしの最高傑作はムジカなのだ。音楽好きの私にとってこれ以上の理想はない。そしてこのムジカ以上に他人に認識されたわたしはこれまで1度も存在しえなかったのである。繰り返しになるが、わたしがエオルゼアを愛して続けている理由は、ムジカなのだ。このキャラを愛している。そしてそれを演じ続けることがわたしの趣味であり、アイデンティティなのである。誰がなんと言おうとわたしはムジカであり、これからも未来永劫、私が生き続ける限り、エオルゼアで生きていく。私はそう決めたのだ。それがわたしの矜恃なのである。この世界では何にでもなれる。あなたらしい主人公になろう。ファイナルファンタジー14。ようこそ、エオルゼアへ。すべての冒険者たちよ、集え。仲間たちの待つエオルゼアへ。

ありがとう。

 

それじゃぁまたね(了)

実はストレスMAX!? 職場が家から近いとこんなに苦労する(マネーポストWEB) - Yahoo!ニュース



職場と家が近い事はいいこと?遠いよりはマシ?

いまのわたしすぎて驚いた。これまで職場は車で片道1時間の遠方。朝は早く出ないといけないのだが帰りはほぼ毎日直帰できるというボーナスタイムのような日々だったわたし。だがそんな楽な日々が永遠に続く訳もなく、この度新事務所を家の近くに作ることになった。賃貸だが真新しい事務所。気分一転新たな気持ちで働けると思ったのだが。職場が近いと通勤時間が少ない。家から出て…およそ15分で職場だ。朝は随分と楽になった。しかしやはりというか帰社時間が遅くなった。これまでのわたしは半分リモートワークのような就業形態だった。朝会社に出社してその後社内ミーティングなどを済ませたら、午後から外回り。そして夕方そこそこに仕事を切り上げ、残務を自宅のリモートワークスペースでこなす。誰からも邪魔されず、自分のペースで仕事が出来る上、終礼などの夕方のミーティングもzoomで済ませられる。終礼が終われば即終了。その後は悠々と晩御飯を食べられる上、家族との会話も楽しめた。だが、それも過去の話となった。今はリモートワークを剥奪され、夜は普通に事務所で残業。職場から近いからなかなか帰るタイミングを図ることが難しく、17時45分定時帰社は脆くも崩れ去った。早くて19時半、遅くて20時を回ることもある。それにしたって普通じゃないかと思うかもしれない。新しい事務所は4人という少人数であることは悪くは無いが、その分だけお互いの監視の目が厳しい。業務が終わっても帰れないのは世のサラリーマンとして当たり前と思うかもしれない。だが、これまでリモートワークという最先端の働き方をしてきたと自負してきただけに、急に前時代的な、働き方に戻されたような気がしている。そんなわたしが、家から近いということはメリットなのか?という問に答えたい。ズバリ、早く終わることができれば帰宅も早くなるメリットがある。ただし、早く終わることはほとんどない。結局、これまでの就業時間は2時間近くオーバーしており(もちろんサビ残)、移動時間が少なくなった代わりに業務時間が1時間増えたと見ることも出来る。近いことはメリットであるはずなのに、結局は長時間仕事をさせられる環境が整ったというだけで、会社にとってはメリットだろう。私という労働力を事務所1つ与えることでさらに使えるようになったからだ。会社にとっては移動時間は無駄であったと言えるのだろう。だがそれも1年近く通っていれば通勤の楽しみになっていた部分はある。どんなにモチベーションが下がっていても通勤時に音楽を聴きながら走っていれば気分は高揚する。そして整ったコンディションで業務に臨めていた。いまはその整う時間はまるでない。家を出た瞬間からすぐに仕事モードに切り替えでちょうどいいくらいだ。その分仕事は捗っている。だから気持ちよく働けていると言えばまあそのとおりだが、やはり環境の変化にまだ正直体がついていっていない。これは慣れるしかないのだろう。早く自分の中で楽に回せるルーティンを見出していく他ないのである。ただ唯一救いというか考えさせられるのが、私以外の通勤時間が1時間となったということだ。リモートワークも許可されていない。往復で2時間である。この点についてはやはり職場が近いということはメリットであると言えるのだろう。住んでいる場所を仕事場の近くにするのはオススメしない。だが、職場から自宅近くに動いてきてくれることはメリットである。この慣れない業務時間もやがて慣れる日が来るだろう。そういえば、通勤時間が無くなったおかげで、ガソリンもほとんど減らなくなった。走行距離も年間2万キロを超えそうだったが、このまはま行けばそれも1万程度で済むかもしれない。いまはまだ慣れていないだけ。これまでが楽すぎた。そうやってわたしはわたしを納得させるほうがよさそうである。結論。職場は車で10分くらいが理想的かもしれない。

 

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いきなりステーキと「俺フレ」明暗分かれた理由 | 企業経営・会計・制度 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準



正直な指摘である。

儲けるための方法論の話である。安く仕入れるか、高く売るか。二つに一つだ。そして、結論。不当に安く雇われる有名三つ星シェフを正当な給料で引き抜くという手法を用いて、高く売るを実現させること。ここにある種の「隠れた」手法があると指摘した。もちろん調べればすぐに分かる。公開されている。だがビジネスで勝とうとするものは、スキマを狙ってすばやく動くことが勝敗を分ける。仕入れもそうだ。大量に買うことで単価を安くすることくらいは容易に想像つく。だが、資金力のある企業だけだ。それはすでに成功しているからできる。いわば節約術であって成功するための方策ではない。いい物を見極める目を養うことで仕入れ先とのいい緊張感を、というのは理想論でしかない。現実はそうはいかないだろうし、結局は資金力である。それに、創業者がいくら有能でも、その再現性がない。つまり、2代目で落ちぶれていく危険性は高い。商売とは、お金儲けとは、げに厳しく難しいものなのだ。ようやく、この記事の指摘するところまで話が追いついたわけだけれど、ここの議論はいままでも深く追求されてきたわけで、こうして改めてその片鱗を紐解いてみるとあまりにもニッチで、なんと薄利であろうとただただ驚かされる。つまりここまでの深い考察を経てさらに儲けられるかどうかすら神のみぞ知るという世界だ。しかもやると決めたらもはや後戻りできないほどに厳しい。そして、一世一代の大勝負となる。この記事でいきなりステーキは悪手として紹介されてはいるが、当初は飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長した若いベンチャー企業というイメージだった。手法は間違っていなかったはずである。それがやがて飽きられてしまい、長続きしなかったというだけで。俺の…と名付けられたお店は、良いシェフを高い給料で引き抜くことで、いい腕のシェフが作る最高級料理を手頃な金額で提供するという手法に先見性があり、再現性があるという。だが、この手法も模倣されれば長続きしないだろう。ここに目利きがあると言われれば確かにそうだ。高い給料で引き抜く、という手法には一見再現性があるように見えて、高いテクニックに裏打ちされた手法である。ここにも目利きが必要だろう。そう易々とできることではない。だからいまも勝ち続けているということだろう。しかしそんな生き馬の目を抜くような熾烈な攻防が行われる飲食業においていまもっとも恐ろしい敵は、人々の意識だろう。あの新型ウィルスを理由にあげることは、つまり、感染リスクを気にして「行かない」「利用しない」という人々の意識だ。それを助長する政府の対応。またもや忍び寄る(というかもう発動した)第4波。まん延防止…とかなんとか。あの法律は政府が緊急事態宣言を言いたくないから作り上げたものである。権限を知事に譲渡して、その発令の責任を転嫁するものだ。政府は県知事の要請を受けて発令しました。だから、政府は悪くない。もし間違えたのならばそれは県知事の責任……というものである。「まん延防止」によってゴールデンウィークは自粛連休となったらしい。せめてゴールデンウィークの前半だけを自粛とし、後半は今後の様子を見て決めるという政治判断が出来なかったのだろうか(最初から決めていたとしても。嘘も方便でしょ?)。絶望的な状況だとしても、人々の希望を残してあげられるほうが、政治判断として正しいのではないか。医療従事者の方はゴールデンウィークなんて全て自粛にしなければ責任が持てない!と声高に叫ぶだろう。もちろん正しい。だが、その声が大きいから、目立つからといって、サイレントマジョリティーである市民の声、または飲食業界、観光業の声を全く無視してゴールデンウィークをすべてつぶしてしまうような判断はしてはいけないはずである。その相反するふたつの声に丁寧に耳を傾け、バランスをとることが政治である。今回の知事の判断が。そのバランス感覚によって成されたことであればいいが、わたしはそう見えないのである。この記事が指摘するようにとても崇高な、高水準の戦いが行われているシビアな飲食業界を衰退させてはならない。日本の食は安くてうまい。これは十分にクールジャパンの筆頭である。

 

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『ファイナルファンタジー16』は「コンソール時限独占」であると、海外PS公式サイトが記載。錯綜する対応ハード情報 | AUTOMATON



あれ?ストーリーっていつ明かされたの?(ツッコミ待ちですよ?)

まず真っ先に、注目すべきは主人公では無いのかもしれない。そう思った。それはなぜか?ヴァリスゼアである。ヴァリス。そして、ゼア。エオルゼアとの対比。そのままズバリ、ヴァリスとは帝国の名ではないか。ゼアとはここでは無いどこか。ヴァリスが生きている世界の名だとしたら。それはエオルゼアでは未だ謎のヴェールに包まれている地域、ガレマール帝国領のそれである。彼の地はガレアン族が暮らす地域であり、魔法が使えない彼らは魔法に変わる力のとして、主に機械文明を発達させてきた歴史がある。なぜかガレアン族には魔法の素質がない。魔法の素質がないのではなく、魔法が禁忌とされ魔法の素質を持つ人が「いなくなった」世界だとしたら?かねてより、エオルゼアヴァリスゼアの関連性は語られている。マザークリスタル。蛮族。魔法。そして、召喚獣(または蛮神)。それらが指し示すのはエオルゼアとのリンクだ。エオルゼアとどのように接続されるのか?ズバリわたしはエオルゼアの過去だと断言したい。ストーリーを構成する脚本はかのナツコイシカワ氏だ。そこに、プロデューサーの吉田直樹氏が絡んでいる。ディレクターこそ違う人だが、FF14からの引用がないわけが無い。むしろ、積極的に入れてくるだろう。それは、かつてドラゴンクエスト11がやったような、ドラゴンクエスト1への回帰。つまり、ロトシリーズの前日談を語るというアレだ。エオルゼアの過去を語るのだとしたらたしかに辻褄が合いそうだ。エオルゼアは次の大型パッチである「暁月のフィナーレ」で1連の話に区切りをつけるだろう。それは惑星ハイデリンの誕生、ゾディアークとの因縁の対決。ガレマール帝国とエオルゼア同盟軍との結末。アシエンとの対決……まあこのあたりをハッキリとクッキリと描くのだろうが、それよりも前の話をするのであれば、ファイナルファンタジー16は14がどんな結末になろうと邪魔をしない。そればかりか、物語に深みを与える効果も期待できる。14ユーザーからは14の世界観にさらなる奥行が生まれ、14をまだ体験したことの無いユーザーは、16という入口からさらに縦に横に広がるエオルゼアという世界を体験するきっかけにも繋がる。おそらく、16の世界が14に登場するのもそう遠い未来ではないだろう。むしろ、かなり早い段階でコラボしていいくらいである。早く出すことで話題性のある内に実績を作ることが出来るからだ。実績とはつまり、人気を裏付けるということである。つい数年前に行われたファイナルファンタジー15とのコラボはそのいい例である。ファイナルファンタジー15はその頃かなりのバッシングを受けていた。だがそのコラボで手に入ったマウントレガリアは爆発的人気となり、その後レガリアマウントの再発はされていないがそれは人気がなかったからではなく、人気がありすぎて、再発のタイミングを計っているというのが正しい認識だと思われる。つまり、どんなシリーズもFF14とのコラボを経ることで新たに別の人気を得ることが出来ることが証明された格好だ。それなら、これから発売される16が万が一ヒットに恵まれなかったとしても人気を得るきっかけになる可能性がある。逆にヒットしていれば、ファン待望のコラボになる。つまり、どちらにせよ、話題作りになる。それならば、思いっきり14と親和性の高い作品にした方がいい。そういう戦略だからこその、ナツコイシカワ氏の器用であると推測される。もちろん、蒼天のイシュガルドや、暗黒剣士のジョブクエ、そして漆黒のヴィランズで見せた人気ぶりをそのまま活かしたいという側面もあるだろう。往年のファンであるところのわたしだが、やはり過去作のオマージュに溢れる14を手がける吉田直樹氏にオリジナリティは期待できないのではないかと思っていた。いや、今もその点については未知数である。往年のファンはもはやファイナルファンタジーにチャレンジを求めてなどはいない。その事は、つい先日のファンタジアンをプレイした時の感覚からしても明らかだ。わたしたち往年のファンは本当の意味での最新作を求めていない。求めるのは、過去の作品を感じられる懐かしさであり、その懐かしさのアップデートである。そのひとつの答えがリメイクである。そしてその次の答えが終わらないファイナルファンタジーとしてのMMORPGだ。そこに帰属するのであれば、もはや新作の存在意義はもはやこれまでとはまるで違うということになる。それは何か?一言で言えば往年のファンの掘り起こしであり、最新型のファイナルファンタジーへの呼び水としての入門編である。それこそがファイナルファンタジー15であったとも言えるのだが、いかんせん、あの作品は時間がかかりすぎた。同時に、最後まで作り込むためにかける時間がまったくもって足らなすぎたのである。賛否両論はあれど、ファイナルファンタジーを知らない層に対してかなり話題作りに成功した。そして、若いファンを獲得。とくに女性ファンを獲得できたと思っている。そして、16。こちらは往年のファン、とくにゲームを久しぶりに触る男性向けにターゲットされていると感じている。わたしみたいに久しぶりにゲームに触れた人が、いきなりMMORPGに挑戦するのはかなりハードルが高いと言えるだろう。普通はやらない。最近こそだいぶ緩和され、コロナの自宅需要も相まって新規ユーザーは増加傾向にある。いまむしろ、FF7リメイクでカムバックしたゲームユーザーに対する次に挑戦すべきゲームとしてMMORPGはうってつけである。そのFF7リメイクは続編を早い段階で遊べるかどうかはまったく期待できそうにない。それならば、「繋ぎ」としての最新作16を作るべきだという思惑である。それをスケジュール管理の鬼、吉田直樹氏にやらせようというのだから合理的な判断である。最適解と言えるだろう。ファンタジアンやブレイブリーデフォルト2に興味をそそられがちなわたしであるがいやいや16だって全然面白そうなのである。そしてもうひとつの予言。もし遠い未来、FF14吉田直樹氏の跡を継ぐのは、FF16のディレクターである可能性すらある。本人は否定するだろうが会社は試しているに違いない。上手くいけば吉田直樹氏のノウハウを手に入れることで第2の吉田直樹氏を作ることが出来る。そう考えれば考えるほどこの16の布陣は期待しかないのである。

 

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『ファンタジアン』レビュー。坂口×植松タッグによる新作RPGには、“あのころのRPGのよさ“と“新鮮な驚き”が詰まっている - ファミ通.com



ファンタジアン やってみた。序盤のレビュー。

一言で言えば、これは古き良きファイナルファンタジーそのものだ。それもFF6、7、8、9辺りの。

もしその辺のファイナルファンタジー好きを公言するならば間違いなく買いと言っていい。わたしもその口だ。まだ最序盤だが、あの頃のファイナルファンタジーぽさがビシビシと伝わってくる。これだ!と思わせるニュアンスてんこ盛りだ。つまり、私たちが少年少女の頃に触れたファイナルファンタジーの続きを楽しみたいならうってつけである。リメイク版の6はやり尽くした。8もリメイクをやった(またはやりたい)、そして、9はいまも心のベストテン1位だと言う人にこそ、このファンタジアンは答えをくれるだろう。例えるなら、ロックマンファミコン版はハマったが、その後のXシリーズはハマらなかったという人に最適という作品と感じる。あの頃の手触り。あの頃に出尽くしたアイディア。その先にまだこのアイディアが残されていたなんて。あの頃のスクウェアファイナルファンタジーのヒットを受けて、あらゆる亜種が登場した。聖剣伝説Sa・Gaライブ・ア・ライブロマンシングサガバハムートラグーンフロントミッション。色んな、意見があるだろうがすべてファイナルファンタジーの亜種と言っていい。その亜種の最新版が、このたび、リリースされたファンタジアンである。キャラクターのデザインもファイナルファンタジーにありそうでなかった美少年と、美少女たち。そして、ファニーなロボット。そして、ラブリーチャーミーな敵役の3人組。そのどれをとっても、まさにファイナルファンタジー3から感じられる、少年少女の冒険+ファニーな脇キャラたちのゆるファンタジーワールド。そしてバトルシステムは今どき珍しいターン制バトル。めっちゃシンプルだ。魔法も普通にある。序盤からポーションがぶ飲みしてりゃ負けない。仲間キャラに回復のヒール、バリア等の補助が初めから搭載されているのでほぼ負け知らずだ。強いて言うならアタック側の選択の乏しさがやや気になる程度。最序盤なのでそれも仕方ないのだろうが。戦闘シーンに戦略性はそれほどなく、ターン制バトル特有のダラダラとしたつまらなさは否めない。ザコ敵の種類も少なく、特徴的とはいいがたいデザインも相まって、雑魚狩りはやや退屈である。また、セリフにボイスが一切ついていないことにはやや驚いた。体験版ながらブレイブリーデフォルト2で全編フルボイスを体験したわたしからすると、全く一言も話さない登場人物に物足りなさはある。あつまれどうぶつの森みたいな機械的な読みボイスでもよかったのに。それは言い過ぎか?それが逆に昔のスーパーファミコン時代らしくて微笑ましいのだけれど。やや愚痴っぽくなってはいるこのレビューであるが、わたしは批判していない。むしろ、こんなに良策をまだ作れる坂口さんという人に敬意しかない。まさに彼の人柄にファイナルファンタジーは支えられていたのだなとなぜか親目線で見てしまうほどにこの作品には、当時を知る私たちにとっては抗いがたい魅力の宝庫だ。まさにオーソドックスなRPGを求めるならこれほど高純度なゲームは最近では見たことがない。ここに肉薄しているのは先程のブレイブリーデフォルト2であるのだが、あちらが子どもから大人までをターゲットにした見事なゲームであるのに対して、ファンタジアンは私たちミドル世代にのみターゲットを絞った作品だ。だからこそ、当時の範囲を超えないシステム、世界観。そして、キャラクターデザイン。音楽の心地良さ。これらはすべてファイナルファンタジーを知っている私たちだから響く。知らない人達にはただの退屈なRPGと映るだろう。真新しさはない。スピーディな展開もない。スマホゲーにありがちな執拗にガチャを煽るようなこともなければ、そもそもApplearcadeを初めて利用する人なら1ヶ月、または昨年秋にiOS13を搭載したApple製品を購入した人は最大3ヶ月無料である。面白そうなゲームを吟味して、消して多くはないお小遣いから好きなゲームを一つだけ買っていたあの頃とは違い、とりあえずやってみて、面白くなければサヨナラ。面白ければ後払い制で払えばいい。払うにしても月にせいぜい600円程度だ。長くやればそれなりにかかっては来るが、1ヶ月、長くて2ヶ月でクリアできそうなボリュームである。買取系ゲームアプリ1本分だ。そう考えるとあれからゲームを取り巻く環境もずいぶんと変わったなと思わされる。この価格で新作が楽しめることを素直に喜びたい。下手にPS5とかで出されれば相当の価格帯になるだろうし、開発費も相当かさむに違いない。まあ、ジオラマをベースにしたマップデザイン等、かなりこだわってつくられており、開発費は相当な物だったのではと思われる贅沢な作りではあるが。だが、そうして拘って作られたマップであるが、実際にプレイしてみるとそれがジオラマだからすごいとか、臨場感とかに繋がっているという実感はまだない。今後出てくるのかもしれないが、いかんせん、iphoneの小さい画面でプレイしているわたしである。そこは無理があるのだろう。これを我が家のテレビに映せたら……と悔やまれるのも事実だ。え?ミラーリング?……それはもう試した。AppleTVに映して。だがそれは断念した。なぜなら使い物にならなかったからである。我が家にあるAppleTVは古く、カクツキが酷く、音楽も途切れ途切れ。これが最新のAppleTVだったらよかったのに。わざわざ対応ハードを買わなくていいという触れ込みのApplearcadeである。にもかかわらず、快適にプレイできる環境を揃えるには、やはり最新のAppleTVを用意するべきなのだ。iPhoneでは限界がある。いくらPlayStationのDualshock4が使えるとは言っても。まあ、この使えるという所もかなりのメリットと感じている私です。これはAppleTVを検討せねばー。でもなあ。この為だけにAppleTVを買うのもなぁ……うーむ。こういう所は結局、NintendoSwitchに負けるのよね。素晴らしい対応ソフトが無ければハードは売れない。日本にこれほど普及しているiPhoneをハードに見立てたApplearcadeであるが、やはりTVの大画面でやりたいと思うのは、これもゲーマーとしてのSa・Gaか……。でもこの手触りは間違いなく名作のそれ!気になる方は多分やっても損しない高クオリティですぞ。欲を言えばフルボイス対応してほしー。まだ最序盤ですが。以上!MUSICAのファーストインプレッションでした。植松伸夫さんの曲はめちゃくちゃいいぞ!(二回目)

 

それじゃあまたね(了)

転職したい人が「社内に残る」ことを選んだワケ | スタートアップ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準



とても素直な記事だ。これはいいことか、わるいことか?わるいことか?

要は転職相談窓口をオンラインで開設したということだ。それは従来であれば窓口は転職希望者を募り、転職を前提に話を進めていたのに対して、今回は「転職するかしかいかはどちらでもいい」。転職先を斡旋するサービスであれば転職させることで利益を得るため、1番避けたい事態は失注。つまり、転職を辞めて現職場で働き続けるという事態だ。それだといくら時間をかけて親身に相談しても転職しなければ無意味だし1円にもならない。だから現職場に留まるべきという意見はおくびにも出さない。だが、相談がサービスとなれば転職しようが転職しまいが相談さえしてくれれば利益になる。そうなれば、いかに相談してもらえるか?という思考になり、より相談者に信用されようとする。その結果が、現職場に留まるべきという答えもすんなりと言えるだろう。そのことは転職市場にとってはどういう意味を持つのか?かなりのインパクトを与えるに違いない。大手転職サイトではやれ大企業を狙いましょうと言って試験を受けさせるが書類審査であっさり落とされるという経験はないだろうか?わたしはある。わたしがこんな大手に?と自惚れてしまった結果、何にもならないという痛い結果を何度も目の当たりにした。それは単に、運良く転職できれば、転職サイトからすると宝の山になる。年収の3割をいただけるからだ。それなら、なるべく年収が高い方がいいに決まっている。そこに受かるかどうか?はやってみなくちゃ分からない。そこには転職希望者にマッチしているか?という本来のアドバイザー的視点は一切ない。ミスマッチが多いのも、転職希望者がその後大変な目に遭うこともここに原因の一端はあるだろう。わたしも転職サイトで、いやいや今の職場の方がマシですよと1度も言われたことは無い。あの時そう言ったアドバイザーに出会えていたら?おそらくわたしの今の人生は違っていたのかもしれない。……いや、究極的に他人の意見を信じない私だ。おそらくそれでも今の選択をしていた可能性の方がずっと高いだろう。相談窓口は世の中にごまんとある。なのに相談者が進んで相談しようとしないのには、本当の意味で親身になって相談に乗ってくれないからだ。そこに「対価」が発生すれば、その対価分は親身になってくれるという補償が着くだろう。そうでなければサービスとして成り立たないからだ。しかもそれはいままでビジネスとして成り立たないとされて来たという。個人か企業のどちからからしか利益を取れないなら、年収の3割のほうがよっぽど高額だからだ。だが、それを個人としたとして、オンラインで商売できることになった今にマッチしているのであれば、これはいよいよ、転職市場に革命が起きる可能性が高い。それはかつてのネットが匿名性を活かして様々なトラブルが頻発していた時代から代わり、ネットにこそ誠実さや正義を求めるようになった今とリンクする。つまり使う方も提供者もどちらもWinWinでつながれるという世界だ。もちろんそうでないサービスもあるだろう。けれどそれはたちまちに淘汰され、本当の意味で使いやすいサービスだけが残っていく。わたしはそういう意味であっていいと思うし、そうあるべきだと思う。わたしも求人を手伝うこともある身だ。新たなサービスの出現に期待と不安を持ちつつも共に生きていける世界線を目指したいなあと思ったり。なんてね。

 

それじゃあまたね(了)

アメリカのトップMBA校で日本人が減り、中国人が増えているカネ以外の理由 日本の優等生は人生がつまらない | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)



失敗せよ。失敗から得る学びこそがあなたを輝かせるのだ。

わたしはそう思う。昔から失敗の数なら負けないという自負がある。それは向こう水な行動をしてきたという意味でない。無謀な夢を見て背伸びをし、法外な借金を背負っているという意味でもない。この記事の言うところの、MBAを取得するということになんら興味の湧かないわたしではあるが、その人の魅力を決めるのは何か?という問いには失敗と答える。これほど明確な答えはないと思うほとだ。それはありがちなミスをする=無学、ではないし、ミスをする=落第生でもない。私がここで言いたい失敗とは、いかに自らの心に正直に生きてきたか?ということだ。そこにはリスクを回避する考えはあるしなるべく派手に転倒しないように最大限配慮がある。それらを最大にした上でしてしまう失敗。わたしはそれこそが失敗であるといいたい。失敗が恥なのではない。失敗から学ばないことが恥なのだ。特に若いうちの失敗ほど価値がある。若いうちにどれだけ派手に失敗できたか?が重要であり、その失敗からいかに学び、修正をかけることが出来たか?でその人の価値は決まると言っていい。記事内でカタストロフィと呼ばれる失敗は、中年以降で初体験となる場合と、若いうちに経験する場合とでは、人生に与えるダメージの差は計り知れないだろう。伴侶がいて、子どもがいて、社会的な地位がそれなりの場合の初めての失敗ほど見てられないものは無い。若いうちなら笑って済まされる失敗も、歳をとってからではまるで笑えないばかりか、その後の人生を180度変えてしまうほどのインパクトを持ち、再び這い上がるチャンスを全て失う可能性すらあるだろう。いかにそれまでが輝かしく人が羨む人生であろうと。つまらない人生だから、MBAを取得できないから、ではない。何度も言うがわたしはそれらに全く興味がない。私が興味があるのは、いかに自分らしい、そして、誇らしい人生を生きるか?である。そこには他人の尺度は本来存在しないとすら思っている。あってもいいが参考程度だ。加えて中国人がその点において優れており、中国人のほうが世の中をより上手く渡っていけるだけの人生経験を備えているとも思わない。単に中国人のほうがお金持ちであるだけである。この記事はそこを敢えて誇張し、お金だけではなく、人生経験がないせいだと結論付けているわけだが。私の話になるが、わたしは学生時代は失敗の連続だった。まず学校選びで失敗した。そして人生の目標を見失い、自分の立ち位置を見失った。勉強だけは意地で学力をキープはしたが、その後の大学受験で両親と喧嘩し、中堅の私大を合格したものの入学せずにフリーターとなった。今思えばとんでもない失敗である。その後もコミュニケーション不足からくる様々なトラブルを経験し時にやさぐれながら世の中を斜に構える半生を過ごしてきた。もちろん恋人などいる訳もなく、人生のレールから大きく外れたわたし。そのまま落ちぶれていくかに思えたわたしの人生だが、フリーターをする中でひとつの答えのようなものを得ることに成功した。それは、他人に迷惑をかけない範囲において、わたしはわたしのやりたいこと以外はやらないで生きていくというシンプルな答えであった。それはフリーターというモラトリアムを経て自分自身を見つめ直した結果たどり着いたわたし自身の不問律であり、揺るぎない芯のようなものとなった。そこからわたしは藁をも掴む思いであらゆるラッキー、チャンスを手に入れ、なんとか人並みの幸せを得るところまで這い上がったのである。わたしがここまで失敗と呼ぶべき経験の数々を後悔したことは1度もない。それは紛れもなく私のしたいことであった。むしろ、私のしたいことをここまでやってもいいのかと不安になるくらいに自由を極めたと言っていい。それがあるから自由であることを恥ずかしがる事無く選び取れる自信が着いたのだと思っている。そしてそのことをわたしは自信を持って自分の経験として子どもや周りの人に反面教師としての教訓として話して聞かせることが出来る。あなたはわたしのようになるな、と。わたしのように自由が欲しいのなら止めはしないが。自由を得る代わりに失うものはこれとこれと説明できる。それこそがわたしであり、私の人生を決定づける味付けとなっている。それは今でも私の軸として存在する。その証拠にコロナ前の2019年暮れに転職を決めたことがある。それは確かに人から辞めておけと散々言われ諌められるほどに無謀な夢を追いかけるように見えただろう。現にわたしは地方住みだが、何を思ったか転職活動で東京に何度か面接に行っている。それも4、5回は行っている。受かると単身赴任になる事もわかっていたし、むしろ受かれば家族ごと引越しも厭わないくらいだった。最終的にそれはあまりにも無謀な夢だと分かったので辞め、地元で今の会社を見つけたわたしです。それも一見無謀な選択と思えることでも先に可能性を潰しておいたことで、私の中で遺恨を残すことなく今の仕事に邁進できるというメリットを私にもたらしている。これは失敗だろうか。わたしはそう思わない。失敗は失敗と思わなければ失敗ではない。後悔するくらいなら失敗すればいい。わたしの失敗肯定論の根幹はここにある。あなたはどう思う?

 

それじゃあまたね(了)