ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

ムジカのキオク。♪note:https://note.com/ryoushitsumusica ◆YouTube: https://www.youtube.com/channel/UCWvTBOe1O9GICLtyreUu-6Q

「趣味」をトコトン楽しむ人が、“超一流のビジネスマン”へと育っていく理由(ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo!ニュース

"「趣味」をトコトン楽しむ人が、“超一流のビジネスマン”へと育っていく理由(ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo!ニュース"

 

いかに価値を創造するか。

    価値のある人間になることである。それがあらゆる仕事を呼び込む理由となる。いかに価値を生み出すか。その答えのひとつが「趣味を極めること」。好きなことをとことん突き詰めていく。それをとことん楽しむ。そしてその楽しみを「共有する」。そうすることで「その人にしかない究極の価値」が生まれる。価値を生み出し、それを共有することができればもはや自分から売り込む必要が無いくらいに、面白いように仕事が向こうからやってくる。

 

    記事の内容は今述べた通りだ。とてもシンプルである。しかし、それを実行している人は少ない。なぜなら難しいからだ。まず最初の難関は「趣味を楽しむ」難易度にある。趣味を楽しむためには金銭的な余裕が必要だ。そしてそれを思い切り楽しむだけの時間的余裕も求められる。それだけではないだろう。趣味を極めようとすれば上には上がいることを目の当たりにして、ますます追い込まれてしまうケースが多い。つまり高い技術や高価な道具を必要とするレベルに達してしまうと、それらを手に入れることが途端に難しいことに気づくからだ。

 

   大半の人はここで挫折する。しかし運良くその壁を突破した人でも次の試練が待ち受けていることに気づく人はなかなかに少ないに違いない。それはどんなことか。結論からいえば「共有する難しさ」である。好きなことを好きとして鍛錬を続け、それを他人に教え広めることができる人はもはやその時点で選ばれし勇者と言っていい。つまりレアキャラだ。それをできる人が実際には少なすぎて、できるという時点でもはや成功は約束されたと言っていいレベルに達する。そのくらいに狭き門をくぐり抜けていることを意味している。

 

   そういう意味でいえば、昔、子どもの頃に「他人に負けない趣味をひとつ持ちなさい」と言われたあの頃の言葉は正しかった。それはつまり、あなたの価値の創造である。あなたがあなたでいる理由そのものだ。「何をすればいいのかわからない」「どうやったら好きなことを見つけられるのかわからない」……そんな悩みで溢れている現代社会。誰もが自分だけの価値を求めている。にも関わらずそれを手に入れることができずにいる。だとすると、この記事の人がいとも容易くやってのけているように見せているサクセスストーリーは、もはや誰も真似出来ない神業にまで昇華された黄金スキルと呼ぶべきだ。それを簡単だと諭すようなビジネス書であったのなら、それはかなりの無理ゲーであると言わざるを得ないだろう。重要なのは成功の秘訣の共有、ではなく、誰でも出来る成功マインドの作り方の方である気がしてならない。それはその人その人によって違ってくる。結局は自分自身を見つめることから始めるのが常套手段、セオリィとなるのだろう。それは私の口から言わせてもらうのならブログであるのだが。

 

それじゃぁまたね(了)


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推しにも友達ライバーにも「投げ銭」。10代に浸透する「スパチャ」、なぜモヤる?(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

"推しにも友達ライバーにも「投げ銭」。10代に浸透する「スパチャ」、なぜモヤる?(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース"

 

なぜスパチャが人の心を掴むか。

    この手のサービスは使ってみないとわからない。ましてや、親として……などという意味不明な理由つけをしている限りはおそらく理解できないだろう。自身の息子を通じて若者の世代の問題や親世代との違いを扱うライターさんということで、同業他社として呼んでみたが思ったよりも面白くはない内容だった。むしろ理解しようとする姿勢がまるで感じられないばかりか、結局は理解できないという結論で終わっている。モヤモヤをモヤモヤのま放置され、読者の私はさらにモヤモヤしたままである。

 

    なぜ、サブスクが良くて、スパチャがダメなのか。この筆者が言わんとするところはおそらくこうだ。サブスクは過去には実際の物として取引されていた商品をネット上に使えるようにしたサービスなので良い。スパチャは好きなタレントや好きなライバーなどを応援するために使っているというが、どれも画面が光ったりプレゼント(のようなもの)がグラフィックとして表されるだけで実際には何も無いからダメというのである。つまり、実際には何も無いものにお金を払うことは「無駄使い」であり、なんの意味も、生産性もないのだから、そんなものにお金を使うことは望ましくない。それよりも友達の好みに合うプレゼントを買ってあげる(またはそれを探すこと)が、人生経験になるのであってお金をプレゼントするような感覚でスパチャに慣れてしまっては寂しいのではないかという意見だ。

     確かにある意味では正しい。だが、ライバーや配信者に「自分の存在を認識してもらえる」という投げ銭(つまりスパチャ)は、ライバーと自分を結ぶコミュニケーションの一種となり得る。それは自分が肯定された瞬間であると私は理解している。それを喜びとして感じることは果たして悪いことであろうか。

 

     確かにのめり込みすぎて、一日に何万円もスパチャ(またな投げ銭)をしている無謀なファンがいるが、それは流石にやりすぎだ。わたしも一時期、一般の配信者と繋がれるアプリにハマったことがある。それは自分を認識してもらえる喜びに対する対価だった。明らかにお金を使いすぎているファンもいたが、わたしはせいぜい100円か、多くて300円くらいだった。一日にである。それでその当時は自分にかまってくれる人がいるという喜びの方がはるかに大きかった。その対価として数百円ならば安すぎるくらいである。

 

     これだけSNSで簡単に繋がれる時代。誰かと繋がる際に共通の趣味というだけでは無数の枝葉が存在するあまり、共通を見つけにくくなってしまった。共通の趣味を軸に気軽に話せなくなっている。つまり、話しかけるためにお金はいらないが、相手に自分を印象付けるという意味で使用するスパチャなのだ。そう考えれば、それはある程度節度を持った範囲内において問題はないとわたしは思う。

 

    では何が問題なのか?それは使いすぎてしまうマネーリテラシーの低さであり、クレジットカードを不正利用しようとする狡猾さだ。隠れて擬似クレジットカードを作ってしまったり、知らぬ知らぬうちに高額になるというよくあるあれである。それをすべてスパチャのせいにするのはどうだろう。わたしは親の思考回路にこそ問題があるのではないだろうかとすら思う。親もネットリテラシーやマネーリテラシーを学ぶ姿勢を持って子どもと一緒に学んでいく姿勢を忘れてはならない。そうすれば、親と子の中に「嘘」や「狡猾さ」などというすきま風は吹かないはずである。

 

     つまり、スパチャが悪いのではない。悪いのは新しい遊びに対する理解をする努力を怠っている大人側にあるのだ。子どもと一緒に学べる親でありたい。わたしは常々そう思っている。

 

それじゃぁまたね(了)


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『FFオリジン』はなぜスピンオフに? 『FF15』との違いに見る、関連3タイトルとの共通点|Real Sound|リアルサウンド テック

"『FFオリジン』はなぜスピンオフに? 『FF15』との違いに見る、関連3タイトルとの共通点|Real Sound|リアルサウンド テック"

確かに面白いのだが……。

    わたしはこのゲームに期待している。現時点で発表されている体験版をどちらもプレイしクリア済だ。いざ発売されたら購入を真剣に考えたいと思うほどである。しかし、諸手を挙げて大歓迎かと言われれば、そうでも無いというのが正直なところだ。

 

    何が不満なのか?その点についてわたしは現時点のインプレッションをここに記したい。それはこの作品に漂う、どうしても拭えない「物足りなさ」である。それは何か。幾つかある。まず1つ目はこのゲームがわたし(プレーヤー)にどんな喜び(プレイするだけの楽しさ)を与えてくれるかという点が曖昧と感じる点だ。敵をバッタバッタとなぎ倒す爽快感は残念ながらない。容赦なく敵を倒す様子や残酷なとどめを刺す描写を見せてスカッとさせたいのかと思うがそれもイマイチ。バイオハザードモンスターハンターみたく、なんの躊躇もなく敵を殲滅する戦士という位置づけである主人公のジャック。しかし、敵にダメージを与える時の弟が「ジュワッ」というような吸い付くような音。ズバッと斬っているというよりは「撫で切っている」よつな歯切れの悪い音。これがわたしは好きになれない。そもそも敵のデザインに問題がある。

 

    憎たらしさを全面に出したゴブリンはもっと怖くていい。中途半端に可愛いとすら思えてしまう。つまり、弱いものいじめをしているような雰囲気があるのだ。そのくせ、敵は割と固いのでサクッと倒せる訳では無い。何度か斬りかかってようやく1匹を倒せるくらいだ。ゴブリン2匹に囲まれようなら割とピンチを経験するだろう。それくらいに「小憎たらしい」ゴブリンを、ちまちま倒したところで、全く気持ちよくないのだ。もっと気持ち悪くて倒してスッキリするくらいの獰猛さがほしい。次に気になるのは画面の「暗さ」である。それは「カオス宮殿だから仕方がない」と言えばそうなのだが、それならもっと真っ暗闇を進む恐怖があってもいい。暗闇からモンスターが襲いかかってくるような恐怖間が、全くないのだ。つまりその辺にいるゴブリンをちまちま倒すというゲームデザインにわたしはどうも違和感しか感じなかった。

 

   そして3つ目は「キャラクター」である。ジャックと行動を共にする2人がなぜか、「ノリが軽い」のだ。現実世界からやって来た一般人という設定なのだろうが、あまりにも場馴れしすぎている。そして落ち着きすぎている。カオス神殿にミスマッチすぎるほどのミスマッチである。そのくせ、ジャックはとにかく好戦的。カオスが、カオスがと連呼していることも気になる。さらに気になるのは残酷なキャラクターのジャックが、仲間が戦闘不能になると、やたら仲間思いな一面を覗かせるセリフを連呼する点だ。何だこの人。いい人なのか、悪い人なのか分からなすぎる。ガーランドというファイナルファンタジー1のボスであることが明かされたとき、わたしは最初「お?」と思ったがそれでも、違和感の方が大きすぎてすぐにかき消されてしまった。せっかくスポーティなショートカットの主人公というファイナルファンタジーらしくないキャラクターを据えたのに、どうも偽善的キャラすぎないか。最初はいい人だったという名残りかもしれないけれど、それなら見た目ももっとスッキリさせた方が良かったと思う。ストーリーを進めるにつれて暗黒面に見出されていればよりガーランドの心境に感情移入できたに違いない。

 

   アクションの難易度はかなり下げられた印象を受けた。ストーリーモードならアクションが苦手な人でも楽々クリアできてしまう。最初のあの難易度はやはり高すぎたのか……(ボス戦でかなり死んだ人)。そしてわたしがもっとも「物足りなさ」を感じるのは、4人目のキャラクターが女性であることだ。それもセーラー服を模した服を着た可愛い妹系である。これが許せない。女性キャラクタがいてもいいとは思うけれど、もし追加するなら屈強な女性戦士であって欲しかった。内面はやや弱かったとしても、せめて見た目だけは筋肉モリモリにして欲しかった……。それならまだわたしも同行を許したのに……。いまのあの細腕で戦闘能力がある、と言われても理解に苦しい。ガーランドの妹という立ち位置で、非戦闘員なら納得だが、どうやらそうではないらしい。なぜあんな可愛いキャラクターにしたのか……モヤモヤしてしまう。

 

    全体を通じてわたしが感じるのは「硬派な」ゲームにしたいハズなのに、仲間キャラに「軟派な」雰囲気が混じっている統一感のなさ、ハクスラというジャンルなのは分かるけれど、ランダムドロップのアイテムを拾うことのめんどくささが際立ってしまう点だ。ハクスラはああいうものだと言われればそうなのかもしれないけれど、せめてオートで拾うモードも追加してくれたら、敵をバッタバッタなぎ倒すアクションに専念できたに違いない。敵を倒す→アイテムを拾う→装備(これが特にめんどくさい)と思えてしまうゲームデザインでは、その楽しさは半減している。また、スキルツリーすら煩わしいと言わざるを得ない。これもいつでもレペルアップできるというより、セーブポイント限定にするか、ステージクリア時に限定したほうがスッキリするのではないだろうか。とまあ、色んな意味で残念感のあるストレンジャーオブパラダイス ファイナルファンタジーオリジン(タイトル長いよ)。これは、誰にどんな楽しみ方をして欲しいゲームなのかをハッキリさせてほしい。少なくとも、ファイナルファンタジー14ディシディアの中間では期待に応えることはできないはずだ。

 

それじゃぁまたね(了)


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『FFXIV』「YoRHa: Dark Apocalypse」の魅力とは?──開発を指揮した齋藤氏・ヨコオ氏・吉田氏からのコメントも! – PlayStation.Blog 日本語

"『FFXIV』「YoRHa: Dark Apocalypse」の魅力とは?──開発を指揮した齋藤氏・ヨコオ氏・吉田氏からのコメントも! – PlayStation.Blog 日本語"

 

改めて思う。ニーアレイドの何がそんなに魅力的だったのか。

    報酬装備のデザインが黒1色で魅力的だった。全体を通したストーリーがエグかった。音楽が神秘的で素晴らしかった……それらは「YoRHa: Dark Apocalypse(以下ニーアレイドと呼ぶ)」を表現する時に使われるいくつかの単語だ。FF14とは、全く世界観が異なるレイドダンジョンである。

    見た目のデザインが異なると言うだけではそこまで魅力的に映らなかっただろう。FF14という唯一無二の世界に、ここにしかない物がある。ただそれだけで心が揺さぶられるほどの異彩を放つレイドダンジョン。それがニーアレイドだった。

    コンテンツとしての目新しさ?はどうだろう。敵のデザインが独特である。敵の行動が独特である。それはもちろん特徴のひとつだ。だがそれだけで素晴らしいと断言出来るほどに特筆すべきコンテンツとはわたしは思わなかった。難しさで言えば、その前に実装されたリターントゥイヴァリースの方がよっぽど難しかった。未だにうっかり死んでしまうほど難しい。でも。わたしはニーアレイドは今も楽しくプレイできている。リターントゥイヴァリースはそうではない。なるべく行きたくはないと思うほどだ。

    そこにはどんな明確な差があるのだろう。いくつかあるのだと思うが、わたしはヨコオタロウ氏の美学だと思っている。彼の良しとする世界観は白く、美しい。それは善悪に囚われない美しさである。美しいものには善悪など無いのかもしれない。その美しさは背景デザインから敵のデザイン、行動パターン、そして音楽に至るまですべて統一されている。その完成された世界観に浸ることが出来ること。それこそがニーアレイドの魅力だ。

    FF14という世界が海外旅行といっていほど様々な魅力に満ちている。しかし、その中でもまるで異なる世界を見せてくれるニーアレイド。何度も何度も通ううちにその世界観がクセになってくる。だから私たちは今日もニーアレイドに通うのだ。例え全ての装備品を手に入れてもう行く理由が古銭だけだったとしても(それだけでも価値はあるのだけれど)。

    わたしがリターントゥイヴァリースにハマれなかった理由はそのコンテンツの難易度の高さと、ストーリーの難解さにあった。もう少しつけ加えるなら、報酬装備に魅力を感じなかったということと、ダンジョンクリアまでの時間が長すぎたことも理由である。特に最後に追加されたレイドダンジョンは恐ろしく長い。そしてよく分からないにも関わらず冗長なストーリーが語られるという退屈なムービーシーンもマイナス点となった。つまり、全体を通してタクティクスに魅力を感じることができず、辟易としてしまった。

    まとめると、ニーアレイドは難しい訳では無い。むしろ簡単だ。そして報酬装備のデザイン性が恐ろしく高く、特に塔に関してはニーアオートマタの終盤の旨味をそのまま凝縮したようなサービスの連発だった。ネタバレを恐れずいえば塔そのものが、ニーアオートマタの最終ゴール地点である(エンドによっては微妙に違うけど)。それくらいに、ニーアオートマタ側は全力でFF14側に譲歩している。FF14のファンとニーアオートマタのファンが一致しないことを逆手に最大限に活用した。FF14ファンを楽しませようとするだけでなく、あわよくばファンを根こそぎニーアオートマタ側に奪ってやろうとする野心そのものだ。だから純粋にニーアオートマタというゲームが持つ魅力を表現することに専念できたのだと思う。その潔さがとにかく素晴らしかった。

   これまでエオルゼアには数々のレイドダンジョンが用意されてきた。古くは2.Xシリーズのクリスタルタワー、3.Xシリーズのマハ、4.Xシリーズのリターントゥイヴァリース、そして、今回の5.Xシリーズを通して生み出されたニーアレイド。次は6.Xシリーズを彩るのはコラボタイトルではないようだが……。それでもパンデモニウムと題されたレイドダンジョンは、おそらく、エオルゼアの現在のストーリーのラストを飾る豪華なレイドダンジョンになるだろう。最後に待つのはゾディアークか、ハイデリンか。果たして。過去1番に大好きなレイドダンジョン、ニーアレイドを僕はこれからも愛し続けるに違いない。

 

それじゃあまたね(了)


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「50代以上の転職は99%が失敗する」大企業から中小に移ってきた自称エリート社員の残念な特徴 - (1/8)|ニフティニュース



この記事は凄まじく有益である。

転職を考えている/いないに関わらず、全ての働くビジネスパーソンが陥る落とし穴がある。それは今の自分の立場が、そのまま評価に値すると勘違いすることだ。役職がついて行けば行くほど現場感は薄まる。それは仕方の無いことなのかもしれない。しかしそれは偉くなったからそうなった訳でもなく、むしろ、役職という肩書きによって戦力外に追いやられた老兵のような扱いだという事だ。わたしはそれほど上に登り詰めたことは無いから、そこまでの感覚は正直持っていない。わたしは「それなり」に自分のやりたい事をやりつつ、有難いことに現場に居続けることができた稀有なパターンの人間だ。それは出世コースからは確かに外れてはいたがそれでも常に現場の空気を感じながら仕事を進めることが出来たことは私にとってラッキーだったといえる。わたしはこの記事を3度ほど読み返した。それほどまでこの記事が伝えようとする事実は鋭い。それも悲しい事実である。それは相対的評価で登り詰めた世界が、事実だ。つまり、評価に納得できまいが、それが絶対評価による自分の立ち位置であるという厳しい現実である。確かに40歳を過ぎるとなかなか心や体が思うように動かせないと思うことがある。若い頃だったら気合いで乗り切っていただろう案件でもなんだか気が進まなかったり億劫になったりするのだ。それは年による衰退であるのか、怠け癖であるのかは個人の心に問いかけてもらいたいが、実はそれは思った以上に深刻なのである。つまり、合理性の名のもとに遂行してきた仕事の流れがそれイコールで価値となることはほとんど無いということだ。それは長年の経験や感によって培われたスキルではない。単なる「慣れ」である。それを自らのスキルと勘違いしてはいないだろうか。その事をわたしは強く指摘されたようで恥ずかしくなった。その位に、この記事は鋭い内容である。転職をしてはいけないとは言わない。けれども、この記事にあるように中年の転職のほぼ全てのパターンが失敗に終わることを知っておいた方がいいだろう。ただ失敗だからといって、それがイコールで不幸だとは思わない。失敗することで自分の立ち位置を把握することができる。それはある意味で幸せの第1歩だからだ。その分、周りにも感謝ができるだろうし、謙虚に生きることが出来る。それは長い目で見たら幸せである。わたしはそう思う。失敗したくないと現職にしがみつき、くさくさと日々を過ごしているだけでは絶対に気づかない己の真の欲求に気づくことは早いに越したことはないからだ。その分失うものも多い。何もそれは失敗ではないはずである。いま転職を考えている人はこの後者のパターンをよくよく、読んでいただき、そのパターンになるにはどうすればいいか?を考えるべきだ。そのひとつに、謙虚さがある。それは感謝の気持ちである。その気持ちさえ持つことが出来ればなにも転職という博打に出る必要は無い。今のまま。現職でスキル(に見えるもの)を研ぎ澄ましていけばいい。それでもやっぱり、現実の自分が知りたいと願うなら。それは立派な転職の理由となるだろう。映画マトリックスでネオが現実に戻るか、マトリックスの世界に留まるかを選ばされたように。。。

 

それじゃあまたね(了)


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ひろゆきの教え「この二択を間違えると一生、不幸です」(ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo!ニュース



すべての選択は私の責任で行うのだ。

自分の責任で選ぶのだから、なにかミスがあって失敗しても自分の責任である。自分で選ぶのだから、100%自分の好きなように選べば良い。それで後悔する結果になっても仕方ないのだ。それを選んだのは自分自身である。常に選択肢は自分がする。誰に何を言われようとそれだけは絶対に曲げてはいけない。逆をいえばそこさえ守れば良いのである。全ての選択を自分だけで行うのは難しい。悩むし、これで良かったのかと思いたくなる。しかしそれでいい。悩まない選択などないし、悩むくらいなら好きな方を選ぶべきである。それで後悔するなら本望であるはずだ。しかし社会人をやっていると、この考え方を否定されることが多いと感じる。どういうことか?それは、なぜ自分だけで判断したのかという叱責である。ここに気づくまでに時間がかかった。結論から言うと、自分の人生の選択は自分一人ですればいいが、組織で行動する会社はそうではないということだ。なるべく人に聞いて、人の判断に従え。これが社会人としての最低限のルールである。もっと言えば、誰もとも仲良くできない社会人はもっともリストラに近い存在なのだ。つまり、社会人として上手くいく人は人生における選択肢を間違えやすいのだ。逆をいえば人生の選択肢を間違えない人は素直ではあるが、社会人としては落第だ。はっきり言って鼻つまみものである。人生の選択を間違えずに素直に生きることと、社会人として成功する生き方を両立できず反発する。ひろゆき氏が人生の教訓をこれだけ指摘できるのは、彼が社会人として究極的に落第生であるからである。それでも彼がこれだけ成功者として自分の地位を確立し、経済的にも満たされているように見えるのは彼が自分の人生における選択を自分で選んできたからである。そして、自分を高める努力をしてきたからである。その点についてこの記事でハッキリと実感できるだろう。わたしがひろゆき氏が好きなのは彼が正しそうなことを言ってあらゆる人を論破するからではなく、彼が彼自身の正解を選び続けることができる勇気と選択センスがあるからである。この人生における選択のセンスとは、自分にとっての最善な選択を選び続けることができるかどうかという能力である。ひろゆき氏にとっての正解が私にとっての正解であるはずがないし、そうであって欲しい。あくまでひとつの例であって、彼の選ぶ正解はほんとうに私の正解かどうか?という視点はわたしも常に持っていたいところだ。

 

それじゃあまたね(了)


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『FANTASIAN』にエンドコンテンツ「虚無の世界」と「強くてNewGame」が追加。世界を遊びつくすためのやりこみ要素



わからない。だが、どうしても気になる。

わたしにとっていま最も興味の注がれているゲームと言っていい。まずこのゲームが何を求めているのか。このゲームの先にあるものは何か?という哲学論である。このゲームが面白いか?そうでないか?はいろんな要素が絡み合うのでわたしは分からないとだけ言っておく。前半をほんの少しプレイしただけの私がその後もことあるごとにこのファンタジアンという作品が目指す先を追い求めているのにはおそらく訳がある。それは、可能性の話だ。つまり、ファイナルファンタジーという作品が、あのまま、ずっと、坂口博信さんによって作られていたらどうなっていたかというパラレルワールドである。私はことある事にこのファンタジアンはどうなのか?という意見を述べてきた。それは今の私に向いていないのだとしても、彼ら、坂口博信さんが生み出すゲームの可能性は私たちに何を見せてくれるのかという答えを知りたいからである。その点について少し触れれば、昔よりもスマートに、そして、痒いところに手が届くようになったと言える。それがいい事なのか、悪いことなのかはわからない。例えば、いまやファイナルファンタジードラゴンクエストと肩を並べる人気コンテンツとなった、ニーアシリーズ。これは徹底的にあの頃のゲームの延長線上に作られていた。そこに現代風の時代設定やキャラクタデザインが上手くマッチしてあれだけの大ヒットに繋がったわけである。まぎれもなく、今の日本のゲームの最高峰だ。あれは、スクウェア・エニックスが、スクウェアであった頃には作れないものだろう。いい意味でエニックスの良さが滲み出ているとわたしは思っている。そして、ファンタジアンはどうなのか。エンドコンテンツを追加したというニュースである。その事はいい事だ。まさにいまのオンラインゲームのセオリーを則っている。だがどうしても、坂口博信さんが作りたいゲームの未来としては弱い。今流行っているから追加しましたといわんばかりの対応だ。それでは、坂口博信さんというクリエイターが本当に作りたかったものは何だったのかという答えを導き出すことは出来ないだろう。わたしはそれを知りたい。それを教えて欲しい。かつて、私たち子どもが夢中になったあれは何だったのか。映画の模倣でもなく、ほかの何にも例えられないファイナルファンタジーという冒険は、私たちをどこに連れて行ってくれるのか。吉田直樹さんは教えてくれた。それは他のプレイヤーたちとの交流である。それなら、坂口博信さんはわたしに何を教えてくれる?わたしはそこだけが知りたいのである。

 

それじゃぁまたね(了)


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