ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

ムジカのキオク。♪note:https://note.com/ryoushitsumusica ◆YouTube: https://www.youtube.com/channel/UCWvTBOe1O9GICLtyreUu-6Q

『りんごの木を植えて』|本のあらすじ・感想・レビュー - 読書メーター



大人の読書感想文を書こうと思う。

 

    結論から言おう。この本は、生きることの意味、死ぬことの意味を読み手にわかりやすく、そして肯定的に語りかける人生賛歌だ。しかも、この話はシンプルである。つまり、読み手を選ばない。大人が読めばいつか自分が向かう未来を。子どもが読めば、いつか自分が体験しうる家族との死別を予習できる。予習できるというところがミソで、大抵の場合、家族との別れは突然だからだ。そして慌ただしく時が過ぎる中で、その本来の意味を噛み締めることなく、事実だけをそれぞれが咀嚼していく。それは必要なプロセスである。

 

    死=別れを回避することなど誰もできない。そして、いずれ自分の身にも起こる。そう思うと、つい別れのつらさを軽減するためだけの方法論として、葬儀をごく淡々とこなしてしまう自分がいたことに気がついた。わたしも、祖父、祖母を数年前に亡くしている。だが振り返るとそのどちらも悲しみを抑えることにばかり終始していた。それは誰もが経験するイベントであり、別段悲しむことでは無いのだと。それをなぜしたかと言えば、そのどうしようもない死という事実を悲しむだけ無駄な行為に思えたからだ。その理由は、悲しもうと悲しまなかろうと死を回避することはできないからである。それは祖父や祖母との別れだけを意味しているのではない。実の父や母、そして自分のパートナーの死をも悲しまないようにするための予防策、または処世術として私の中に確実に存在しているからだ。そうは言っても、私の人生でもっとも死を悲しんだのは、昔飼っていた、ペットの犬の死だったのだけれど。

 

   逆を言えば、若かりし頃のわたし(確か中学生)が経験したペットの死という事実は、わたしに少なからず死ぬとはなにかを痛烈に刻み込んだ。そのおかげで、わたしは死に対する耐性を付けなければならないと痛感し、今に至るのである。そういう意味では淡白で非情な人格であると指摘されても文句は言えないだろう。だが、むかしからわたしは、悲劇や苦痛に対していかにそれを感じなくて済むようにするか?を命題に生きてきた。つまり、裏を返せば、それは家族の死という悲しむべき出来事が、わたしの心の奥底を深く傷つけ、悲しみのどん底に追いやった証拠である。とはいえ、何も悲しむことだけが故人に対する弔(とむらい)では無いと思うのだ。

 

 

   そういう意味で、この作品における死生観は、私に似ている。死とはそこで終わりではないという意味だ。作中の中で幾度となく説明された命に関する記述だ。命は終わりが来る。それはひとつの終わりだけれど、それはある意味でバトンタッチである。次の命に受け継がれ、長い長い命の旅が続いていくことになんら変化はない。つまり、自分はマラソンランナーの1人である。一人で出来ることはそれほど多くはない。人生にどんな意味があるのかについて悩むこともあるけれど、その最大の意味は「引継ぎ」にある。それをこの作品はおじいちゃんという存在を通じて強く、そして愛おしいほどに伝えてくれている。

 

   人間は一人で生きていないと言われる。しかし、今の若い人にそれを言うと「そうかなあ」と言うだろう。SNSで繋がった人達の情報、ネットに無数にちらばった知識を駆使すれば、目の前にいる誰かに頼らずとも生きていけると感じてしまうからだ。あえてぼっちにいることを自らに課している現代の人達に、この作品の家族はどう映るのか。めんどくさくて古めかしい家族か。もしくは年上を敬うことを強いる儒教的な教えか。それは間違ってはいない。いや、もしかすると、こう思うかもしれない。「こんな家族はいねぇよ」と。

 

   祖父や祖母と拡大家族を形成することがめっきり無くなった令和。私自身も父や母と同居しない。娘からすれば祖父や祖母だが、たまに会うだけの遠い存在だ。私自身、自分の祖父や祖母の死に目にあっていない。その理由は先に述べた通りだが、わたしは家族の死を無意識的にも有意識的にもなるべく無機質に感じていたいと思っていたらしい。つまり作中における死の瞬間を、実体験としてなんら持っていないのだ。

 

   そのことについて、この作品はまるで目の前で起きているようなリアルさで読者に突きつける。人が衰弱し、死に近づいてゆく様を描く。もちろん、作品のように衰弱していく死に方だけではない。事故などで突然亡くなったり、病気で苦しむようにして亡くなるケースもある。いずれにせよ、伴侶はその事実を避けて通れないようである。その事だけでもこの作品を読んでよかったと思える感想のひとつだったりする。

 

   作中のみずほは、おじいちゃんが好きだ。おじいちゃんの生き方がかっこよくて好きだ。色んなことを知っていて、優しく教えてくれるおじいちゃんが好きだ。そんな年の離れた友人のような存在、それがみずほにとってのおじいちゃんである。そして、家族みんなから慕われ、おばあちゃんとも相思相愛。親友の林さんとも良好。そして絵もうまい。完璧すぎる。こんな完璧な存在なんているのだろうか。いや、いないだろう。ここはファンタジーである。だが、こんなかっこよすぎるおじいちゃんがいてもいい。そんな存在を家族に持つことの幸せをみずほは感じたはずだ。そして、治療をせず、人間らしく最期を迎えることの潔さを感じたはずだ。死とは悲しむべきものではない。形が変わるだけである。唯一、おばあちゃんだけがおじいちゃんのカタチを残したいと靴を玄関に残したシーンは、泣けた。おじいちゃんのカタチという表現は、死を経験した人だけが理解出来る表現に違いない。死は悲しむべき出来事である。だが、悲しむことだけが弔ではない。そのことをみずほは頭ではわからなくとも感覚で理解した。そして悲しみよりも誇らしい気持ちで未来を見つめることができるようになった。それは、りんごの木を植えるように、未来に希望を持つことであった。ぼくも死と向き合う時は、常にそうありたい。

 

以上。

 

それじゃあまたね*˙︶˙*)ノ"


f:id:ryoushitsu-musica:20220726211737j:image