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子どもの「遊び負債」が勉強不足より遥かに怖い理由 | Joyful 感性を磨く本 | ダイヤモンド・オンライン



遊び負債とは、子ども時代における遊べなかった記憶が負債となって残ることを言うらしい。負債がある子どもは大人になっても、遊び方が分からずさまざまなトラブルを引き起こす。犯罪者が全てそうであるとは言いきれないにしても、この記事によれば、犯罪者を調べると子ども時代に遊べなかった(遊び負債がある)人か、または異常な遊び方をしていた人が多かったという。つまり純粋な喜びである「遊び」を知らないと、目的を達成するための行為を遊びであると考えてしまい、どうにも満たされなくなってしまうのだという。遊びは時間を忘れさせてくれるものだ。わたしに置き換えればそれはゲームということになるけれど、時計を見る癖を付けないと一瞬で一日が終わってしまう。それほどに没入感があるゲームだがメリットとしては、自分の意識が手放せる感覚があり、抱えているストレスや悩みがきれいに消えてしまうことが挙げられる。遊びは楽しいからやる、という単純な動機でいい。好きこそ物の上手なれとはよく言ったもので子どもの頃にもっとも最初に学ぶべき事柄、それが、遊ぶということなのだろう。ただ、遊びと一言で言っても1人で遊ぶのか複数の友達と遊ぶのかで異なる。前者が大人になっても続けられる遊び方であることが多い一方で、複数の友達と遊ぶことしか遊びとして認識できない場合、高齢者になった時などに、友人が先に亡くなったりすると、とたんに燃え尽きたようになってしまう。それはよくない。実をいえば去年亡くなった私の祖母がそういうタイプだった。友達が多い。そして、趣味も多彩である。しかし、見せる相手、又は一緒に頑張れる仲間がいてこその趣味だった。しかし、晩年、知り合いは先に亡くなっていき、祖母ひとりになってしまった。その寂しそうな顔や背中を今でも時折思い出す。祖母が間違っていたとは思わない。けれど、長生きすることによって知人友人が先に亡くなるという可能性があり、それが晩年の自分にとてつもなく大きな影を落とすのだということだけはわかったつもりだ。だからではないが、わたしはいつそうなってもいいように遊びと友人は切り離して考えている。遊びはわたしがやりたい、楽しいからやる。そこに誰がいないと出来ないという要素はない。皆無である。あ、ネットやゲーム機は必要。ついでに言えばSNSも必要だけれど。しかし、特定のこの人!というパートナーがいるわけではない。その柔軟性、匿名性こそが先程の例から学んだ友人関係の極意であると感じている。イマドキなのかどうかはわからない。けれど、今日またひとつきづいた。それは話し相手の存在である。わたしはボッチであることに、後悔もなければむしろ歓迎しているのだが、やはりリアルで対面して話が出来ることは確かに遊びの中でも群を抜いて楽しい。そのことを改めて実感できた。ならば。話し相手を探す旅にそろそろ出かけてもいいのかもしれない。友達探しに出かけよう。いや、話し相手でいいのだが。それもなかなか。私はどうも他人に付け込まれて言いやすい部類の人間らしい。

 

それじゃあ、またね(了)