「道路族のせいでテレワークが地獄。仕事に集中したいのに..もうノイローゼ寸前です」(愛知県・30代女性) - くらし - Jタウンネット 東京都
道路族?
道路族(どうろぞく)は、道路上で日常的に長時間に渡って遊ぶ子供とその親。 いわゆる遊びにとどまらず、バーベキューや花火といった行為をする人々も含む。 隣家の敷地や駐車場へ入りこむため、物損を起こすこともあり、彼らの発する奇声によって精神的失調を惹き起こされるケースもある。(Wikipedia)
ありがとう、Wikipedia。
道路を我が庭のように扱う人達と理解した。
子どもを持つ親はどうしたって
自分ルールを尊重しがちである。
それは自分の分身である子どもがいて
自分と同じような思考をするので
つい自分の考え方、価値観が肯定されたと
錯覚してしまうからだと思っている。
わたしも気を抜くとこの世に対するアンチテーゼ的発想がわたしを覆っていく。気をつけなくてはならないとは思う。そのことに無自覚であることはよくないと思う。MUSICAだけにね。(すみませんでした)
しかしである。理解してほしい。察してほしい。配慮してほしい。という考え方はわかるものの、それを言葉にして、または態度に表してこそでは無いかという気もする。
日本人らしい考え方「察する」ではあるが、
これだけ多様性が享受されるようになった今の世ではそれは望み薄と言わざるを得ない。
想像力の欠如?
そうかもしれない。しかしそこまで心の余裕がないのが実情ではなかろうか。
一昔前はある程度、存在した世間体や、世間の常識とやらは脆くも崩れ去っていると言っていい。
いま、世の中は猛烈なスピードで全ての解釈を引き直していると感じる。私自身もそのことに意識的であるつもりでいるが、それも全く足りていないと感じることすらあるほどだ。特に広告宣伝の分野におけるそれは急速に変化し続けている。まさにコロナ禍によって再構成されている真っ最中の分野であろう。電通案件などと、揶揄されることはなにも大手企業だけではない。私たちのような弱小企業でも問われていると強く感じる。
今1番気をつけなくてはならないのは、環境の変化、時代の変化、解釈の変化である。そのことに意識的であろうと、そうでなかろうと、変化することに躊躇していてはいけないのだと思う。さきほどの道路族についてもそうだ。そのことに眉をひそめてばかりではなにも進化しない。わたしが営業会議で叩き込まれている思考はまさに、思考停止こそが悪であるという考え方だ。
なにかトラブル、問題が発生したのであればどうすればそのハードルを解除できるかという答え合わせはやめるべきではない。そこを乗り越える方法は必ずあると信じるところから始まるというメソッドである。
つまり道路族を撲滅せよ!ではなく、
なぜ道路族はあるのか?なぜ増えているのか?というバックグラウンド調査から
その特徴を知り、その対策を自分なりに構築していく。相手に直談判するのは愚の骨頂だ。喧嘩別れになるか、険悪な雰囲気をつくるだけ。それこそ、この記事の体験者の人のように引越しを真剣に検討する必要すらでてくるからだ。それは最終手段である。
わたしはその選択もありだとは思うが
それはやはりこちらのデメリットが大きすぎるし、引越し先でまた同じような道路族に出会わないとも限らないからだ。
問題をクリアする解除術を考案する。
なるべくお金や手間がかからない方法で。
その手法は人それぞれであるから
トライアンドエラーを繰り返した先の
最後に手にするゴールである。
諦めてはいけない。
あなたはどう思いますか?
それじゃあまたね(了)