ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

ムジカのキオク。♪note:https://note.com/ryoushitsumusica ◆YouTube: https://www.youtube.com/channel/UCWvTBOe1O9GICLtyreUu-6Q

発売33周年!『ドラクエ』と並ぶ国民的RPGとなった、初代『ファイナルファンタジー』を回顧 | ふたまん+



ファイナルファンタジー1 と出会ったのはいつのことだろう。

わたしが初めて購入したゲームは、ドラゴンクエストテトリスである。一度に2本も?と思うかもしれない。だがわたしがファミコンを手にしたのは世間でファミコンが流行しだして数年後だ。わたしが小学校1年生の頃に流行りだしたファミコン。それを手にした時、わたしは4年生になっていた。だいぶ遅れて購入したゲーム。それがドラゴンクエストである。1本じゃつまらなかろうと、2本許してくれた両親に感謝したい。我ながら甘やかされて育ったものだ。そこからのめり込むようにしてプレイした。RPGゲームを初めてプレイしたわたしだがすんなり理解することが出来たことを記憶している。それは調べなくても何度か繰り返していく中でやり方を覚えて行けるシステムにあった。あとは、レベル。いくら弱い敵であっても経験値はもらえる。経験値が貯まればレベルは上がる。レベルが上がればそれまで倒せなかったボスキャラも倒せるのだ。そこにゲームセンスとか謎解きなど存在しない。あるのはそこにかける時間の長さであり、お金を貯めた末に手にする武器防具の品ぞろえであった。つまり、クリア条件はプレイヤースキルではない。飽きずにプレイできる粘り強さ、それだけである。話をファイナルファンタジーに戻そう。ドラゴンクエストをクリアし、2、3、4と順当に進めていったわたし。その頃、ドラゴンクエストで経験した転職システムに心が動かされたわたしに友人から耳寄りな情報がもたらされる。「転職してもレベル下がらないから転職し放題なゲームがある」。そしてトドメは次の一言だった。「ダメージの上限が4桁ある(つまり9999)」。加えるなら、「敵を呼び出して戦わせられる(召喚魔法)」と「武器を2つ持って戦える(FF3では二刀流システムが標準装備だった)」それらのときめくワードに心動かされたわたしは、すぐさまFFというタイトルに興味を持つ。そしてその友人に誘われるままに、何の予備知識もなくFF3を手にしたのだった。確か中古ソフトショップで高値で売られていたそれをクリスマスプレゼントか何かで買ってもらったと記憶している。意志を感じさせる真っ白なカセット。そこに描かれた、天野喜孝先生による二刀流の戦士、とんでもなくカッコイイ。それはまるで、邦楽に飽きた子どもが、先輩の手引きで洋楽に触れ、洋楽にかぶれていくそれと同じであった(実際、その後、わたしも洋楽にドハマリしていく)。ゲームデザイン、イラストのセンス、音楽のセンス。何から何まで日本人離れしたオシャレそのものという印象を強烈に植え付けられたわたしは、鳥山明先生の万人受けするキャラクターデザインではなく、天野喜孝先生の恐ろしくも悲しいキャラクターデザインに傾倒していった。瞬く間にFFファンになったわたしは、過去作に遡ってみることを決意する。それがファイナルファンタジー1&2というファミコンソフトだった(ややカセットが大きかったと記憶する)。そこで触れるファイナルファンタジー1。3に比べると難易度は高めに設定され、しっかりと準備を整えて進まなければ即全滅という恐ろしいゲームシステムに小学生だったわたしは早々にクリアを断念。しばらくしてFF4が発売され記憶から忘れ去られていく。その後、ワンダースワンというハードでリメイクされると聞き、ワンダースワンごと購入。そこではじめてファイナルファンタジー1をクリアした。その後、ゲームボーイアドバンス版で2をクリア。続くリメイクの5、6をプレイしていく。次はDS版のFF3だったか。わたしにとってのファイナルファンタジーの原点はファイナルファンタジー3だ。ファイナルファンタジー1ではない。ロックマンで言えば、ロックマン2が原点であるように(ロックマン1はクリアしたことがない)。当時のファイナルファンタジーの難易度は小学生に設定されていなかった。とても難しく、大人向けだった。それが今も続いている。ファイナルファンタジー14を始めて早3年。来年で4年だ。ファイナルファンタジーとの付き合いは大人になったわたしといよいよ私向きの作品だと感じている。今回のビックリマンコラボもそうだが、つくづくわたしという人生と見事にフィットしている作品だ。ファイナルファンタジーとともに成長してきたわたし。ファイナルファンタジーとともにこれからも歳を重ねていきたいと思う今日この頃である。

 

それじゃぁまたね(了)

FF14プロデューサー吉田直樹&ひろゆき対談(前編) | ガジェット通信 GetNews



勘違いしてはいけない。これは2012年の記事だ。

2012年と言うとまだFF15は発売されていない。FF14も新生エオルゼアになっていない。Wikipediaを見ると、新生エオルゼアとしては2013年5月24日に稼動とある。つまり、これから新生エオルゼアとして再スタートしようとするよしPと、ひろゆき氏の対談だ。わたしはどちらも好きな人なのでこの対談を見つけた時はビックリした。しかも前編後編と見ていく中でひろゆき氏の鋭いツッコミに対してよしPが真面目に答えていくという凄まじいトークセッションとなっている。言い返せないような質問を投げかけて「言い負かす」ことを得意とする(ように見える)ひろゆき氏に対して全く引くことなく、寧ろ正直にあろうとするが余り、普段答えないようなことまで答えてしまうよしPのインタビューは、貴重であった。彼がどうしてここまで人一倍頑張れるのか。そしてどうして自分の中に理想を掲げつつもオリジナリティよりも、受けての満足度を優先出来るのか。その辺に深く突っ込んだ内容となっている。これはすべてのFF14のファンなら1度は見るべき記事である。私たちは2020年のエオルゼアの成功を知っている。紅蓮のリベレーターにおける海外からの盛り上がりや、続く漆黒のヴィランズにおける不動の人気を獲得するまでの軌跡を知っている。だが、この記事は2012年の暮れ。いままさに新生エオルゼアとしてリスタートを切ろうとするタイミングだ。そのタイミングであれば、まだあらゆる実績は伴っていない。変えるというアナウンスはされていても、それがユーザーにどう受け入れられるのかという結果については知る由すらない。だが、このインタビューは未来を知る私たちにとっては、彼の、よしPが見据えるMMORPGの未来を実際のものとして確認することが出来る。タイムカプセルを開けた瞬間はきっとこういう気持ちなのだろうとも思う。よしPが歯に着せぬ物言いで会社の上層部から恐れられていたように、きっとひろゆき氏もあらゆる場面において恐れられていたに違いない。彼らのどちらが年上で先輩なのかはわからないが、それでも、お互いに譲れないプライドを掛けたトークバトルともいえる内容が繰り広げられている。この記事を読む限り、よしPは最初からゴールが見えていたのだと思う。そしてロードマップも出来ていた。あとはそれをどういう形にしていくか?という時間だけの問題だったのでは無いかと思わされる。つい私たちはよしPが類まれなる才能と知見によってヒラメキとアイディアによっていまのエオルゼアが出来ていると思いがちではないだろうか。私もそう思っていた。私たちのことをよく理解している。そんな彼が自分も含めたプレーヤーファーストに立った采配をすることで、最大公約数のプレーヤーが楽しめるものになっているのだ、と。もちろんそれはその通りで否定されるものでは無いけれど、このインタビューでその認識は少し変わったと言わざるを得ない。それは既に決められていた。よしPの中に明確なイメージがあって私たちはそのイメージに寄り添って行ったのだと思う。彼がイメージするMMORPGの面白さというものを、一つ一つ教えて貰いながらエオルゼアという舞台を駆け巡る私待ち。それは、よしPという先導者がいて、先導者がとてつもなく知識と経験を持ち、それをあまねくプレーヤーに分かりやすく広めてくれたからいまの私たちがいる。そう思うと、MMORPGというゲームの面白さは既に完成していて、その面白さを分かりやすく分解、再編集したのが、よしPであるということだ。それは誰にでもできることではない。確かにオリジナリティ溢れる作品を1から作るようなものではないのかもしれない。しかし、受け手の満足度を高め、そして売上を立てるという目的を遂行しようとする時にこれほど分かりやすく、確実な方法論は無いのではないかと思う。それがファイナルファンタジーかどうかはさておき、ファイナルファンタジー14という作品はとんでもなく面白いMMORPGになった。そのことだけはもはや疑いようのない事実として認識しなくてはならない。ともすると、やはり今度のファイナルファンタジー16は、ファイナルファンタジーとしての面白さを追求できるのか?という軸で語られそうである。それはなんだろう。ファイナルファンタジーは自由な作品だ。よしPもそれは認めている。しかし、だからこそ、そこに芸術性や作品世界の完成度を求める人達が多い。その完成度とは言い方を変えれば個人的な理想を作り上げることだ。それはMMORPGを広くあまねく人々に教えてきたよしPからすると真逆であり、対極にある。よしPからすれば未知の領域に、果敢に冒険するのか。それとも王道と呼ばれるやり方を全て混ぜ合わせたような、滑らないファイナルファンタジーを作り上げるのか。いよいよわたしはよしPから目が離せなくなって来た。

 

それじゃぁまたね(了)

"【本】「7つの習慣」を漫画で解説【マンガ動画】" を YouTube で見る



習慣から見直そう。やれることから1つずつ。

欲しい未来があるのならまずやるべき事はそれを実現するためには何が必要かという達成条件の確認である。そこから逆算して今すべきことはなにか。また、それは自分が行動することで変えることが出来るものかどうか。その視点を得られるかどうかにかかっている。例えば。わたしは表現者になりたいと願った。それはわたしが言葉に救われて来た経験から来る純粋な願いだ。上手く書こうとか、かっこよく書こうとか思う時もあった。けれどわたしにはまず足らないものがあった。圧倒的に経験が足らなかったのである。そこからわたしは座学では限界があると知り、私という存在を持ってあらゆる未知にアプローチする姿勢を通じて私が体験したことを表現することから始めることにした。それがTwitterである。最初は表現することに恐れ、発信することすら躊躇った。そこでまずは私が好きと思える人を真似するところから始めることにした。そして、西尾維新という作家に出会う。その人の文章、その人の美意識。その人の物語の作り方から気に入ったものをストックし、私なりに表現したらどうなるのか?を試していった。それは独白に近いものであったように記憶する。そこから無駄な表現が削ぎ落とされ、シンプルになり、そして、息を吸うように書くことができるようになっていった。それはひとえに、書くことを習慣化させたからである。わたしは一日の最後に気になったニュース記事から感じたことをつらつらと書き記し始めた。最初はぎこちなかったが、段々とスラスラ書けるようになった。わたしは書くという行為に対してそれなりに自然と行うことが出来るようになった。今年の初め、コロナがこれだけ騒がれる前は、Webライティングのようなことも体験した。いまは仕事として広告ライティングをしているが、それは私の本業としてのスキルだけでなく、こうして自らの意見を文章にするという副次的なスキルを磨くことに成功したと思っている。圧倒的に書くことに対するハードルは下がった。いま、対面式のコミュニケーションが取りづらい中、メールやLINEでのコミュニケーションが主流になっている。それは文字を駆使したコミュニケーションである。わたしはその手のやり取りについて得意分野とすることが出来たと思っている。元々話すのは苦手だ。それならば文字のコミュニケーションを伸ばした方がいい。この動画のようにやりたいことをやるために、なりたい自分になるために、七つの習慣を心がけたいと思うし、ここで説明されている内容はまさに真実であると私も思っているところだ。最近は夜寝ちゃうのでスキマ時間に書くことのほうが良いと感じている私です。

 

それじゃぁまたね(了)

あなたは「今、転職」するべきなのか? 自分と適職を考える「5つの転職理由」 | Business Insider Japan

 

転職を考えるときの最適解を見た。飽きか。挑戦か。

私の場合は、まさにこの記事のもっとも最後の理由にあった。現業に不満はない。飽きた訳でもない。しかし、安全地帯から抜け出してそれなりに負荷をかけつつ新しいスキルを身につけることでこの先生き残れる自分になりたい。そう思ったのである。その事はずいぶんブログで綴ってきたことではあるが、それでも本当にそれで良かったのかという疑問は持ち続けてきた。給料も悪くなかった。そして家からも近い。仕事にも慣れていた。このままこの職場で定年を迎えるのも悪くは無いと思ったほどだ。それがある時そういう自分ではない方がいいと感じた。それは時代の変化を察知した、と言いたいところではあるが、なんというか、私の中の第六感が囁いたのである。あの時の感覚を言葉にするならば、転職するなら今すぐした方がいいという感覚だった。去年の夏を振り返ってみると世の中が黒字にも関わらずリストラを募るような雰囲気があった。それは同一労働同一賃金という考え方から正社員とそのほかの働き方をする社員との差を埋めることを主眼に行われた。それは時代の変化であったが、同時に働く全ての人に対する強烈なメッセージとして発信された。この先生き残れる自分になれ。その為にはいまあるスキルをさらに磨くべし。わたしはそう受けとった。そういう意味では時代の変化を察知していたかもしれない。この先は厳しい時代が来る。もっと自分に対して厳しく見なくてはダメだ。私自身の強みを生かしそれを伸ばす努力をしなくてはわたしはこの先20年〜30年を会社員として生き抜くことはできない、そう思ったのである。まあ、コロナを見通した訳では無いものの、それは予想通りとなったと私は感じている。あのとき、安全地帯から抜け出して今年の一月に新天地を目指さなければ私はどうなっていただろう。いまのこのコロナ禍でさらにわたしは自信を喪失し、もはや身動きが取れなくなっていたに違いない。そう考えると恐ろしい。生き残れる種族は変化できるものだけだ、そんな進化論風なことを、わたしは最近特に強く感じている。この一年本当に頑張った。もちろんそれはわたしにとってのリハビリのようなものだったので、自慢できるようなものでは無かった。わたしの働き手としての基礎体力が上がり、他人とのコミュニケーションの底上げも行われた結果、わたしは人並みのスキルを獲得したと思っている。それは抜きん出たスキルではない。これでようやくスタートラインである。その準備期間として今年を費やすと決めていたわたしからすると自分で自分を褒めたい。上出来だ。来年は学び直しを経たわたしがさらにスキルを積み上げていく1年にしたい。今までのような漠然とした不安は無くなっている。目標は決まった。ここまで晴れやかな気持ちになったのも、わたしが自分自身の可能性を信じて、安全地帯から自ら足を踏み出したからである。いま、あなたが転職を考えているのだとしたらこの記事を参考にするといい。この記事が言っていることは真実だと思う。最後の問にYESと答えられるのであれば、転職するべきだ。それはいつか?もはや一刻の猶予もないと考えるべきである。決めたのならすぐに行動するくらいでないと、価値観の変化が起きている今の時代について行くことはできない。ダメならすぐ修正する。これをモットーに時代の変化の中を生きていこう。

 

それじゃぁまたね(了)

"【漫画】頑張りすぎている人に見てもらいたい動画【マンガ動画】" を YouTube で見る



頑張りすぎてはいけない。その事はわかっている人も多い。頑張りすぎて体を壊してしまって、心を病んでしまっては元も子もない。体が資本。それは言われなくても十分にし理解出来る。しかし。頑張ることと、頑張りすぎることの境界線は曖昧だ。自分は頑張っているつもりでも、周りや、上司から頑張ってないと言われてしまえばそれは頑張っていないことになる。自分としては頑張っていたので、さらに走らなくちゃいけないのかと負担に感じることもある。それで走り方を変えてもう一度エイやっと走りなんとか期待通りの結果を生み出す。その繰り返しだ。頑張るとはマラソンで言うところのスパートに近い。ここぞと言う時に使うものだ。人生はマラソンに例えられる。つまり、走りきることも大切だけれど、走り続けることの方がもっと大切だという考え方だ。生きていれば走り続けることになる。そうなると疲れてくるだろうし、ストレスが溜まってしまいヘナヘナと力なくその場に倒れ込んでしまうこともある。そんなときにもっと頑張らなければと思えるうちはまだいい。しかし歳をとるにつれて気力が萎えてしまい、まいっかとなる。それをがんばらなかった自分として認識してしまうのだ。昔はもっとやれたのに……。わたしも頑張る、頑張れないの論議からすると、明確な答えを持っていなかった。このYouTubeの動画に出会うまでは。この動画は頑張りすぎてはいけない。だが、頑張らなくていいという訳では無いと説く。頑張らなくてはならない場面はある。しかしそれは全体の2割程度である。残り8割は頑張らずに適度な運動で流して良いというのだ。適度な、というと私たちはつい怠けて、という意味でとりがちである。しかし、頑張ればそれだけでいいとされる世界ではない。頑張ろうとそうでなかろうと、結果を残して初めて仕事は評価される。評価される動きをするのに、頑張るところは頑張る必要がある、というだけだ。頑張ったら疲れを癒す。疲れを癒したらまた頑張る。その繰り返しにこそ、明日の成功を勝ち取るだけの活力が得られると私は信じている。わたしは常に時間の使い方を意識するほうだ。しかしそれはやみくもに時間を詰め込むという意味では決してない。ある程度の余裕を持ち、集中すべきところで集中していく。そして、遊びの時間を設けることで緊急時にも柔軟に対応できるだけの余裕を持つ。それは息抜きという表現が当てはまる時もあるが、それでもわたしは常にそういった自問自答の時間を日々の活動の中に設けていたい。いまのこのブログもそんな時間のひとつだ。私の中で息抜きとして機能するのは、コンビニで甘いものをほうばる瞬間と、YouTubeでビジネス系の話を見ること。そして、ニュース記事見ること。そして、もっとも息抜きの度合いが強いのがTwitterである。それらを空き時間にこなす事で自らの脳をリフレッシュさせ、次の1時間を有効活用していく。おっと、もうすぐ4時だ。こんな数分の時間をブログの時間に当てる。それは4時は超えてはならない。そんなふうに時間をしっかりとマネージメントしつつわたしは今日も幸せな布団の中で眠る時間を夢見るのだ。さて、仕事仕事。

 

それじゃぁまたね(了)

"親愛なる友人であり、同志であるあなたへ。" | ファイナルファンタジーXIV: 公式ブログ



人はいつか死ぬ。それを避けることは出来ない。

わたしはこのニュースをTwitterで知った。あ、と声が出たことを記憶している。これは、このブログはその時の記憶の備忘録だ。わたしは、マイディーさんの体調について、病状について、彼のTwitterから知っていた。割と最近まで都度彼はTwitterで呟いていたので、彼が余命宣告を受けたこと。そして治療に際してとても苦しい思いをしていることをそのつぶやきから感じていた。そして復帰したとの報告も見た。それは万全ではなかったのだとしても彼がどうしてもそうしたかったのだと思い、わたしはいいねを反応することで留めてその様子を見守った。しかし、死というニュースがわたしの予想よりも早く届けられた。その事にわたしは頭がついていけなかったと思う。事実、わたしはこのブログを綴ることを自身のデトックス効果として日々こなしていたが、それを綴ることが出来なかった。マイディーさんが亡くなったから、ではない。彼が亡くなってしまったという事実を経て、わたしは何を言うべきなのだろうと思ってしまった。私に出来ることはなんだろうと思うばかりでわたしは何も出来ずにここ数日を過ごしていた。感傷に浸っていた訳では無い。ただ、何も考えられずにいた。それは考えることを拒否していたのだと思う。そして今日、この公式ブログを見た時も頭が働かなかった。その証拠に、私はこの記事を誰が書いたのか?ということにすら、文中で、ディレクターとプロデューサーを担当するようになって……という記述を目にするまで、これが吉田直樹氏のメッセージであることが理解できなかったのである。わたしは何かを理解しようとすることを頑なに拒否していたことに、気がついた。わたしは疲れ切っていた。何かを理解しようとして文脈を読み、それを発信することについてわたしは紡ぐ言葉を失っていた。どう言葉にするのがよいのか。どう捉えればいいのか。どう考えればよいのか。どうすれば良かったのか。答えのない思いが私の頭の中にくすぶっていて、その思いにわたしはいつのまにか囚われ、摩耗し、消耗していたのである。くれぐれも勘違いしてほしくはないが、わたしはそのことを重荷に思ったわけではないし、むしろ彼や、彼らから受け取った記憶や思い出や、様々な日々の傍観者としての記録が、彼や、彼らと同じ時間軸に存在したという事実がわたしにとってもしかしたら人生のハイライトである可能性がある。会ったこたのない人に会った気になり、彼のツイートにリプを送ったり、彼の一挙手一投足をなんとなくではあるものの気にしていた自分。彼と、彼らが進めるあらゆる出来事が夢のようで眩しくも、わたしがそこにほんの少しでも関わったのだという事実がいまも私の中にしっかりとした輝きを保ち続けている。それは今日の吉田直樹氏の公式ブログという形でまた輝きを放っている。マイディーさんと、吉田直樹氏とのやり取りはブログで行われていたというのだから、吉田直樹氏が謙遜してワガママと表現したそれは、なんともごく自然なやり取りだったに違いない。中身を見ると事実ベースで淡々と語られており、彼の(この場合の彼は吉田直樹氏)中に残っている彼(マイディーさん)の記憶の輪郭を確かめるような、そんな丁寧な描写だった。その記事を目にした時わたしはようやくわたしも何かを理解しようと、心が動かされた。彼が言葉にしたのだ。わたしも、言葉にしなければいけない。この事実は変わらないけれど、それを経てわたしは何が出来るのかという答えにわたしはこのブログを書き残すということがあると思ったのである。人はいつか死ぬ。その事実を避けることは出来ない。私も死ぬ。みんな死ぬ。死を覚悟するというのはどういうことか。わたしには見当もつかない。吉田直樹氏が言うようにわたしもまだ「そちら側」に行きたいとは思わない。わたしはこちら側に残された人として、まだやり終えていない。彼もやり終えたとは思ってはいないだろう。そんなものはどのタイミングであっても満足げに逝くことなど誰も出来はしない。どこかで強制的に終了される人生。オンラインゲームで言うなら強制ログアウト。再ログインを試みることはできない……。彼がやりたかったこと。彼が伝えようとしたこと。そして、彼が楽しんでいたこと。それらをわたしは1つずつその輪郭を確かめながらゆっくりと定着させていこう。彼が彼の死を知らされたのは12月6日。その翌日に、彼はパッチ朗読会を行っている。彼はどんな気持ちで人前に出たのだろう。今思えば彼の顔から笑顔が、屈託のない笑顔が見られることは少なかった。彼は知っていた。公表は出来なかったなかで、彼は彼の早すぎる死について考え、悩み、そして、10日の発表に至るまでどんな時間を過ごしたのだろう。彼と、彼ら仲間たちの苦悩を思うととてつもない喪失感、自分を責める気持ち、あらゆる感情が湧き出してただ立ち止まるしかなかったのではないか。その苦痛の大きさ、頭の中を支配するあらゆる思いの洪水に立ち尽くすしかなかったのではないか。願わくば立ち止まることは悪いことではない。壊れそうな心を抱きしめて蹲り、背を丸くすることは悪いことではないのだ。自らを責めて欲しくはないと思う。何も出来なかったとか、何をしてあげれば良かったのか……と、後から津波のようにあらゆる感情が押し寄せてくるだろう。けれどもそれは残された側である私たちが背負うものだ。重ければ立ち止まり座り込んで休むしかない。捨てる訳では無い。忘れる訳でもない。そして十分に休んだらもう一度拾い上げ、1歩ずつあゆみ出す。その1歩は尊い尊い1歩、尊い命。尊い時間。尊い選択。すべての存在は存在するだけで価値のある尊いものであり、全ての言葉、全ての感情は存在するだけで尊いのだ。わたしたちはこの事実をそれぞれに受け止めること。急ぐ必要はない。受け止めながら時に休み、時に荷を下ろしながら、再び背負って生きていく。そこにこそ、彼の死ということの本当の意味があると私は思う。そう思えた。

 

マイディーさん、

それじゃぁまたね。(了)

スクエニの大型新作『PROJECT ATHIA』PS5コンソール独占期間は2年。異例の長さに | AUTOMATON



PROJECT ATHIA=FF15ファイナルファンタジー16=14?

PlayStation5の新作報道で発表されたときにちらりと報道されただけの作品「PROJECT ATHIA」。最初はPlayStation5で作られる新たなファイナルファンタジーだと思った。そして吉田直樹氏によるファイナルファンタジー16が発表されたため、てっきりわたしはPROJECT ATHIAというコードネームだったのだと理解した。つまり、PROJECT ATHIAと呼ばれた作品はブラッシュアップされ、ファイナルファンタジー16に収まったのだ、と。しかし、それはこの記事からすると違うらしい。PROJECT ATHIAはPROJECT ATHIAとして進行している。ファイナルファンタジー16とは無関係。それぞれがまるで別物だ。というより、PROJECT ATHIAはPlayStation5の機能をフル活用した新時代のアクションRPGの匂いがするのに対して、ファイナルファンタジー16にそれを感じることは難しい。ファイナルファンタジー16がダメだと言っているわけではない。ただ、最新のテクノロジーをふんだんに活用した全く新しい作品、というには、ファイナルファンタジー16に真新しさを感じ取ることは出来ない。それはなぜだかそう感じた。では、PROJECT ATHIAはどうか。PROJECT ATHIAという作品から伝わってくる世界観はただ、ひたすらに美しい風景である。とにかく広い世界。ファンタジーの世界。……に見える。本来、ファンタジー世界に望むものは、そこに何があるのかわからないという感覚だ。見たことがない空、感じたことの無い雰囲気。それを感じ取ることが出来る世界。それがファンタジー。ファイナルかどうかはさておき、私の好きなファンタジーとはそういうものだ。何があるのかわからない。何があるのか知りたい。何が起きるのか体験したい。そういった未知を内包した世界。それを、PROJECT ATHIAには感じる。私がファイナルファンタジー15に感じていた未知の続きがあるのかもしれない。そんな期待だけでも。わたしはファンタジーを感じることができる。もしかしたらPROJECT ATHIAだけでもPlayStation5を買う理由にさえなるかもしれない。少なくとも私はそう感じた。それがファイナルファンタジー16の試金石になるのであれば、尚良しではある。しかし、この記事にある通り、それは別系統である。それぞれ別軸で走らせているプロジェクトと理解した方が良さそうだ。となると。スクウェア・エニックスとして、ファイナルファンタジー16という作品と、PROJECT ATHIAという未知の作品を戦わせようというのか。折しも、PROJECT ATHIAはLUMINOUS productionである。ファイナルファンタジー16は、吉田直樹氏が率いる、3rdUnitである。そう考えると、ファイナルファンタジー14の最新パッチで見かけたあのロゴの出現も頷けるかもしれない。宣戦布告。ファイナルファンタジーと冠された16はチャレンジャー側である可能性がある。PROJECT

ATHIAは正当なファイナルファンタジーの続編である、とでも言わんばかり、の。いや、これは考えすぎだとは思うけれど、そんな気さえする。わたしはどちらも応援したい。どちらが劣っているとか、正当とか、異端とか言うつもりもない。しかし、どうしても、感じてしまう。ファンタジーを感じるPROJECT ATHIAに未来を。ファイナルファンタジー16には、過去を。どちらも面白いだろう。ただ、ファイナルファンタジーは、ファンタジーを感じる最高峰であってほしい。まあ、いつ発売されるとも、どんな作品になるかもわからないPROJECT ATHIAのほうに想像の余地があるというだけだ。ファイナルファンタジー16にも想像の余地は残されている。だが、キャラクターデザインや、世界観はしっかりと方向づけされている。そのことがどうしても、わたしは少し気になるのだ。

 

それじゃぁまたね(了)