ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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新年のご挨拶 | トピックス | ファイナルファンタジーポータルサイト | SQUARE ENIX



新年の挨拶を受けて。

新年の挨拶とは何か。あけましておめでとうございますであって、それ以上でもそれ以下でもない。挨拶である。そこに新情報があるわけでもなく、実現可能かどうかはさておき、せいぜい抱負を語るだけに留まるだけのもの。それが新年の挨拶だ。ここにスクウェア・エニックスにおけるファイナルファンタジーに関連するプロデューサー、およびディレクターたちの新年の挨拶がある。それを読むとやはり新年の挨拶であった。個人的には、ファイナルファンタジーというブランドに、ブランドマネージャーがいることを初めて知ったし、それぞれ、アプリ版の担当者がずらり並ぶ中に、唯一HDゲームであるファイナルファンタジー16と14を兼任する吉田直樹氏ことよしPがいることに、圧倒的な違和感と、強烈な異質感を感じた。そうなのだ。ファイナルファンタジーはすでにあらゆる可能性を追求し尽くし、アプリ版に派生している。あれほど高解像度ゲームの代名詞とされた時代は遠い過去ものととなり、それを改めて作ることに14は戦場をオンラインゲームに移したし、16はPS5で表現しようとしている。14の成功ぶりはもはや説明不要だけれど、あえて言うならそれは「オンラインゲームにおけるファイナルファンタジーとしての高クオリティな画質とストーリー」であった。そして、それを求めている層に対して、過去作のオマージュ+再定義というサービスを追加し、さらに、オンラインゲームというジャンルを知らない層に対しての新しいゲーム体験を提供することに成功した。それはファイナルファンタジーが持っている歴史やブランド力があったからこそできた事だし、それを支えるファンが歳をとったことでわかりやすくファイナルファンタジーをターゲットに合わせてアレンジ&進化させることが容易であったこともその理由にあると思う(まさに私だ)。さて、ファイナルファンタジーという作品の持つ底力は既に証明されたわけだが、しかし、これからさらに10年、20年を生きていけるほどのブランド力を身につけることができるかどうか?は別問題である。それはどれだけ新しい魅力を付加できるか?にかかっている。分かりやすくいえば16だ。いまだ16の全容は掴めないけれど、16が背負わされるものは、ファイナルファンタジーのブランドマネージャーが深く関わる分野であると思う。その点からしファイナルファンタジーのブランドマネージャーが16をどの位置に据えているのかという、ファイナルファンタジーを全体で管理している人からの意見が知りたくなってくる。おそらく目的があって、目標があって、その到達のために16は作られているはずだからだ。もちろんSONY側の思惑もある。それはファイナルファンタジー7RemakeがPS4専用として(期限付きであったとしても)リリースされたことからも伺える。ファイナルファンタジーというブランドはスクウェア・エニックス社のものであると同時に、SONY率いるプレイステーションというブランドを高めるための紛れもなく重要なコンテンツに据えられている。となると、やはりコンテンツをどういう立ち位置で配置するのかというのはものすごく重要な要素だ。例えばドラゴンクエスト11が過去の作品軍に繋がる作品だったという所や、HDゲームと、ドットゲームを同時にリリースしたことは、あらゆる意味でエポックメイキングであった。JRPGの良さはいま改めて注目されている。それは先日クリアした天穂のサクナヒメにも感じる事が出来たように思う。きめ細やかなストーリーテリング、魅力的なキャラクター、それを余すことなく伝えるビジュアル。適度なゲーム性、圧倒的なボリューム。それらが高いレベルで合わさっている。ゲームとしてバランスが圧倒的に良い。それは一朝一夕でできるものではなく、過去の名作の歴史の上に成り立ついわば伝統芸だ。他の国でもそれを真似ても魂までは込めることは出来ない。だからこそ唯一無二の作品として世に残る。すべて作品ありきであり、描画テクノロジーや、ゲームシステム、インターネットを駆使したあらゆるオンライン性はそれを引き立てる道具に過ぎない。わたしがここ最近プレイした、天穂のサクナヒメと、NieRオートマタはまさにそれであった。2Dアクションはゲームとしてまだ生きていけるし、3Dアクションのそれに引けを取らない。それは飛躍すれば、フルCGアニメ代表のディズニー映画に、鬼滅の刃や、君の名はのような、手触りの残るアニメ映画が評価されることと同じことのように思う。(先日のアーヤと魔女はフルCGアニメだが)ロシャオヘイ戦記も見たわたしである。あれはいい表現していた。あれこそ、わたしが表現はあくまで道具であり、そこに込める魂こそが重要なのだということをしっかりと体現している作品であった(大好きです)。翻って、ファイナルファンタジーの話をしよう。ファイナルファンタジーは高いテクノロジーを駆使することでまるで映画のようなゲーム体験を私たちに提供してきた。それは、ファイナルファンタジー15の、KINGSGLAIVEという映画で結実したと思う。あれはフルCGアニメと言っていいか微妙ではあるが素晴らしい作品であったことは間違いない。それを経て、ファイナルファンタジーは、あのクオリティで本編を、追加DLCではなく、1本の作品として世に放つことが出来れば。それは15で出来なかったことを16で成し得たことになる。その上でファイナルファンタジーという作品群がどこに向かうのか?という指標まで求められている。それはファイナルファンタジーというブランドをどうするのかという疑問と一致するだろう。わたしは天穂のサクナヒメのような懐かしい手触りの作品を求めている自分がいることを認めているし、ファイナルファンタジー15の出来なかった高クオリティゲームをやりたい気持ちも認めざるを得ない。その両方をファイナルファンタジー16でやって欲しいと願うのは、無茶だろうか。それはドラゴンクエスト11Sがやったことのファイナルファンタジー版と言ってもいいだろう。あれと同じことはできないだろうことも分かる。海外HDゲームが目指す世界(例えば先日のオープンワールドゲームのバグ→発売中止の話とか)を見るに、やはりここに対する高次元でのバランスの融合は世界でまだ誰もできていないのかもしれない。そこにこそ、ファイナルファンタジーというブランドが切り込むだけの理由がある。(あ、ゴーストオブツシマもあるか)

 

それじゃぁまたね(了)

『天穂のサクナヒメ』RTAが3時間切り。自由な稲作と壁抜け探索で、爆速鬼退治完了 | AUTOMATON



平均クリア時間31時間と聞いて軽く絶望したわたし。

いま?22時間くらいです。常闇の〜のなんちゃらの1つ目で苦労してるところです。天穂のサクナヒメは面白いゲームか?と問われると、稲作パートは大変だし、探索パートはわりと本気のアクションゲームのそれだ。これを簡単にクリアした、とか、ちょうど良い難易度だった、とか言う意見を見る度に「ほんとか?!」と何度思ったことか。このゲームめちゃくちゃ大変。季節が巡っていくので稲作も気を使わなくてはならないし、夜になれば家に帰ってご飯を食べなくてはならない。回復アイテムが存在しない(ここほんとに鬼畜)ので、ボス戦とかだと緊張感すごい。雑魚戦でもふつうに死ぬ。死ぬとステージの最初からやりなおし。ね?ここまで聞いてアクション性の高いゲームだってわかったでしょ?いやね、わたしもアクションゲームやってきましたよ。まあ時間を忘れて没頭するタイプなのでクリアできるまで延々と……というかんじで。クリア出来ない時はネットで調べて何とかクリアとかやってました。で、天穂のサクナヒメです。これはとりあえず未予習でやってここまできました。攻略サイトも見てません。で、わたしは東の火山をクリアすれば終わりと思って……(ネタバレかも)……終わらずに、西の砦をクリアすれば終わると思って……(ネタバレかな)……終わらなくて。さらに……(さすがに伏せますね)……がでてきて、それを倒すために……常闇に……もう!どこまでこのゲームはルーティンを私に強いるのか?!もう稲作したくない!!ご飯食べるの面倒!!夜がくるのうざったい!!攻略に専念したいのに夜来るのすごくすとれす!!……はあはあ。日常に疲れてゲームの世界に来てるのに、こっちはこっちでゲームの日常があるんだもん。つかれたよ……ばとらっしゅ。癒しげーと言ったやつ何処?!でてこいっ!癒しげーではありません。全然癒されません!!戦いに明け暮れる日々。……稲作に追われて1日潰す日々。……晩ご飯をどうしようか悩みながらミルテさんに指示を出す日々。そして夜明けに食材が腐るッ!腐ってしまう!あ〜〜〜もう!す・と・れ・す!! 早くクリアしたいれす……今年中にクリアしたいと思って頑張ってるけどもう心が折れそうだよぱとらっしゅ……。聖剣伝説3やりたい……。

 

それじゃぁまたね(了)

クラウドに強いGAFAとマイクロソフトの攻勢に、任天堂は対抗できるのか? | スタートアップとテクノロジーの世界地図 | ダイヤモンド・オンライン



GAFA+Mは確かに強い。しかし任天堂?もしも任天堂が勝つために必要なのは、勝利条件を別に設定することだけだ。

勝負と書くと、勝ち負けがあると思いがちだ。だがそれは相手の敷いたルールで戦った場合での話。つまり、分かりやすくいえば、相手と勝負しないバトルを仕掛けることも戦略としては有効だ。相手がクラウドゲーミンクを進めていくのならばその逆を行く。または、相手が思いもよらなかったような分野で一人勝ちを目指す。日本が得意とするのは後者だろう。GAFAは強いことは誰もが認めるところだがそこに追従するような戦いを挑むのは賢い戦いとは言えない。もちろん二匹目のドジョウを狙うような戦略もあっていいが、それは勝負という意味では勝ったと言いがたい。それよりも勝負を避け、別ベクトルで進化していく。それこそが任天堂がすべきことなのではあるまいか。私個人的に、ようやくSwitchを手に入れてあつまれどうぶつの森をplayしているわけだが、あらためてそう思う。NintendoSwitchは、任天堂らしくない。まずハードウェア面。つくりがとても簡素化されている。電話のできないスマホ、という印象を受けた。おもったよりも小さい。また、デザイン面でなにか革新性がある訳でもない。スーパーファミコンのそれで衝撃を受けた世代の私からするとなんだか、物足りない。Wiiのときはまだ驚きがあった。それが、Switchにはない。本当はあるのかもしれないがわたしには感じられなかった。次にソフトのラインナップ。任天堂お得意のマリオ、スプラトゥーンカービィ、等、キャラクタゲームがずらりと並ぶ。ずらり?いやちがうな。少ない。一通りあるのかもしれないが、選択肢がない。まるでない。もちろんそれぞれのソフトはやればハマるような面白いソフトなのだろう。だが、どうにも興味がわかない。唯一興味が湧くのがあつまれどうぶつの森。それ以外には、ない。任天堂プラットフォーマーだという指摘は正しい。だが、任天堂が作るプラットフォームはもはやどこにもない。今私の目の前にあるのは、ゲームを起動させるためのスマートフォン(電話なし)である。つまり、任天堂がいま行っているのは、人気キャラクターを活用した版権ゲームである。そこに新たな革新性があるわけでなく、求められるものをリリースしているだけの、1ゲームメーカーになってしまったのではないだろうか。ここまで任天堂をさげる論述だが、逆をいえばそのキャラクターデザインに革新性がある。唯一無二だし、世界共通だ。そこが揺るがない限り、任天堂は安泰であると言える。革新性のあるキャラクタを生み出し続けることができれば任天堂の存在価値はある。その部分はおそらく大丈夫ではないだろうか。なぜそう言えるのかはわからない。単に、任天堂に対するブランド力は、素晴らしいキャラクターを生み出せる部分にあると思うから、としか表現のしょうがない。つまり、そういうことだ。GAFAば強い。GAFAには勝てない。だが、GAFAはキャラクターを生み出すことはできない。合理化、最適化、そしてデジタル化における、利益の最大化というジャンルの巨人たちである。新たな産業を生み出すことはできても、新たなキャラクターで世界中を魅了することはできない。しいて言うなら、iPhoneはそうか?だが、その革新性はもはや望めないだろう。そもそも任天堂GAFAに勝とうとしていない。打倒GAFAと言っている時点で相手のルールで戦っていることになる。それでは勝てない。勝つためには相手を知り、自分を知り、自分のやるべきことを勇気を持って進めていく。その力はまだ任天堂にはあるとわたしは思う。日本の企業がこれからも世界で戦う必要があるとしたら、そこにこそ存在意義があると思うのだ。

 

それじゃぁまたね(了)

「いいね」が全くつかなくても、作品を発表し続ける意味はあるのか | 独学大全 | ダイヤモンド・オンライン



いいねなんて要らない。必要なのは、自分にとって正直な言葉かという視点。

いいねがほしい。フォロワーを増やしたい。それは承認の証である。たくさんの人に見てもらい、認めてもらうことで自分はこのままでいいのだという気持ちになる。それを得ることは幸福の極みだ。それを得るためならばなんでもする。だからください。いいねが欲しい。フォロワーを増やしたい。そう考える人がいる。いや大多数の人がそう考えるに違いない。わたしも?うーん。正直なところ、フォロワーとはなんだか不思議なものだ。仲良しだからフォロしてもらえたという認識から、いつしか、ゲームの得点のような、あっても無くてもそれほど困らないものに変容して言った感じがある。いや、フォロありがたいよ?減ったら凹むよ?それでもね、フォロがないからダメだとか、減ったからやだーとかは思う。思うけどそれだけ。増やさなきゃ!とか、増やさないと!とか義務に感じたことは無い。Twitterで言えば、1000人を超えた辺りまではわりと数を気にしていた。けれど、2000を過ぎたあたりからもうなんか気にしなくなった。気にならなくなった。減ったら悲しいと思ったこともあるが、大抵の場合、それは、垢の移行によるものだったりする。だから嫌いになって減った、というよりは、整理整頓の結果、減ったというだけで、別にどうってことも無かったりする。またわたしからしれっとフォローしたりもする。そんなものだ。あと、いいねにしても同様である。わたしはいいねが100ついたとか、200ついたとか気にしていた時はすごくイライラしていた。そして自分の思った数に達するとやっと安堵していた。それまではずっとイライラ。なんでかわからない。けれど気が気でなかった。でも。1度反応が無くなってみると、逆に20もついた、とか。少ないなりに感動できるわたしがいる。数が多ければいい。少なければ嫌われているという感覚は間違っている。単にいいねが押しやすい投稿だっただけということも往々にしてある。それだけのことだ。わたしは自分のツイートにいいねが沢山着くことを確認する毎日に嫌気が刺し、朝早くにツイートしてからしばらくTwitterを見ないで放置するようになった。そしてあとから見返す。思ったよりも少ないとき。いまでは良かった…とすら感じることがある。変にたくさんのいいねがつくことよりわたしという存在がある程度知られているという事実の方がずっと嬉しい。このことは、この記事の言わんとするところに繋がっていると思う。小説家を目指して投稿を重ねる質問者。しかし思うような反応が得られず、苦しい気持ちになることの方が多い…という相談だ。それに対した答えは数あれど、わたしが同じような質問を受けたのなら、冒頭の答えになる。他人の評価は気まぐれである。自分の作る文書やSNSで、どれだけ自分を満足させられることができるかという視点があれば良いと私は思う。それこそが私の中から沸き立つ言葉であり、回答にもあるように、言い表されなければならないような強い気持ちは言葉に昇華されることで読者の胸を打つことがある。それがどんなに稚拙で、言葉足らずな文書であっても。それが稚拙でないように、言葉足らずにならないようにするためには、それこそ、毎日、たくさん、飽きるほど文書を書く必要がある。それは鍛錬であるのと同時に、私の中にある言葉を探す旅だ。それはひとつのゴールであるものの、そこにいたるまでの道のりが無数にあるという代物だ。だからこそ、書きなぐり、何度も回り道をして、適切な、自分にとっての納得感のある書き方を探す必要がある。そんなことができる日が来る?安心してほしい。わたしだって最初からこんなに納得感のある文書を、書いていた訳では無い。最初はTwitterの140文字ですら満足に書けず、ひたすら推敲を繰り返してはいまいちな文書を繰り返していた。いまわたしは満足しているのかと言えばまだそんなことは無いのだけれど、それでも。100%私自身の言葉でこの文章は成り立っているということは断言出来る。それが出来るだけでも儲けものだ。また、わたしが同時に並行して書いているNOTEのほうでも私というテーマで色々書いているのだが、それも紛れもなく私だ。それが今日になってものすごくフォロワーが増えた。いいねも沢山着いた。嬉しい!とは思う。同時になんで?とも思う。フォロワーが増えなくてもわたしは続けていくだろうし、いいねが貰えないから書かないという訳では無い。わたしはNOTEでも書いたが、私の中で描きたい言葉が見つかれば書くし、見つからなければ書かない。ただそれだけである。そうやって、文書を自分自身の中にある言葉のデトックスとしての排泄(きたないかな?いい意味だよ!)として行うのであれば、それは食事や呼吸と一緒である。生きるために文書を書く。それが出来れば、たとえ誰にも相手にされなくても、フォロワーが増えなくても書くモチベーションを保つことが出来る。書きたいから書く。わたしにとっての文書との付き合い方は常にそうであって欲しい。そう思うばかりだ。

 

それじゃぁまたね(了)

電通ってどうしてベテラン社員を退職させて業務委託にするの?と思ったときに読む話



確かにそうなのだろう。しかし納得はできない。

役職につかない45歳以上の一般社員に、ふたたびやる気を起こさせるため?なるほどそれはその通りなのだろう。だが、そんなやる気のない一般社員を生み出したのは誰なのか。本人に原因があるといいたげなこの記事。もちろん指摘も正しい。伸びしろがなくなった中年社員はやる気を無くす人もいる。勉強すらせず、ただひたすらに定年を待つような人種。それを30年とか養う余力はないという論調はなるほど会社の経営陣が考えそうなことだ。嫌ならやめて欲しいと思っているところが正しく、リストラ予備軍と呼ばれる所以なのは言うまでもないが、頑張ったら頑張っただけもらえる個人事業主という働き方に強制的にすげ替えてやる気を出せる人がどのくらいるのか?という現実的な議論が全くなされぬまま、とりあえず万年平社員を抱える悩みを手っ取り早く解決するために体良く採用された施策と言って差し支えない。企業が黒字でも早期退職を募るのはまさにこの話の延長線上にある。大企業であればあるほど、固定費としての人件費はそのまま企業の利益を圧迫するからだ。それで早いうちから早期退職を募るのだが、それは従業員のためでは決してない。会社存続のため、限られた賃金を守るため。金を奪い合うバトルロワイアルのそれである。それを正当化させることは容易い。みんなでやれば怖くないのである。だからいま流行しているコロナのせいにしていま、そこかしこの会社で行われている。個人事業主制度は電通などの大手だけではない。私の知る限り、地方の広告代理店などでも、電通に習って変えたという企業もチラホラ聞く。それは確かにやればやっただけの青天井の給与体系ではある。給料最低保証もあると聞けばそれもありか?と思う人はいるかもしれない。だが、私が思うにそれは長くは続かない。ひと握りのエースだけが残り、その他の人達は淘汰される。それは自然の摂理と言えるのか。働く人はそれが体力や気力の続く限り働かせてもらえるという一定の安心感があればこそ頑張れるのではないか?副業でやっているわけではない本業で、そんな働き方を許容できるほど、余裕ある人は多くはないだろう。頑張った人が報われる社会とは、頑張りたくても頑張れない人や、頑張ったつもりでも相対的に頑張れていない人を無常にも切り捨てるという意味では無いのか。ここの所、わたしは日本という国の国民の生活レベルのベースラインがガクッと下がったと感じている。ちょっと後ろを振り向けばとんでもなく荒んだ、地獄絵図のような生活レベルの人がごまんといるような世界だ。もともとそうだったのかもしれないけれど、わたしはそういった生活レベルを多様性という安易な言葉で許容できるほど心は広くはない。それは明日は我が身であるという現実的な恐怖となってわたしを脅かすからだ。わたしがこの手の記事を見たり読んだりしてもなかなかブログで取り扱えなかった理由がここにある。まったくもって他人事ではないし、政治家が考えている以上に私たちの生活は、蝕まれてしまっている。ここの感覚は人それぞれなので、一概には言えないのかもしれないし、わたしはニュースを見たりコラムを読んだりしてるだけなので本当のところはわからない。それでも、そういったある種、目を背けたくなるような事実がゴロゴロと出てきたと感じている。それは誰かが意図的に隠してきた事実などではないし、その逆で、誰かが意図的に公表して誰かが得をするようなことでもない。ある種、究極のエンタメとなって他人の不幸が利用されているとすら感じられてしまう。わたしもこの手の使われ方は好きではないし、好きな人はあまりいないのだろうとな思うけれど、誰もか彼も正解を持ち合わせていない今、バタバタと動き回るのはあまり得策ではなさそう。かと言って、その場にじっとしていればいい訳でもない。そんな時どうするのが1番なのか?その答えに、出来ることから前倒しで素早く行うがあると思っている。そうすることでいざ!という転換期に即座に対応できる余裕が生まれる。全速力で逃げたっていい。そのためにはあらゆるしがらみや悩みからある程度解放されていなければいけないからだ。つまり今やれることはなにか?を常に頭の中で繰り返し唱えながら、思わぬアクシデントに備えてあらゆるリスクを想定しておく。想定したら、リマインダーを設定しつつ、一旦頭の中は空っぽにする。でないと情報過多でパンクしてしまうからだ。忘れてしまったらそれはそれで大問題なので、リマインダーはかけておく。このくらいのスタンスで、周囲の様子をうかがわなければ、これほど早い速度で動く世界を泳ぎ切ることなどできはしない。今すべきなのは今持っている武器でいかに戦うかという視点でしかない。もちろん中長期的なスキルアップは必要だ。あとから持ち上がることもあるだろう。期待してはいけない。やるべきこと。考えるべきことは目の前の事案をなるべく少ない力と努力でクリアすることだ。そして空いたリソースを毎日起きる新たなアクシデントに対して即座に対応するための瞬発力に転化する。これこそが今得るべき考え方だとわたしは思う。万能ではないから全部はできない。それならばできることだけに集中する。もう、誰も答えを教えてはくれない。

 

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年末に宝くじを買う人間は永遠に貧乏、富を増やす投資家とは別種の生き物=鈴木傾城 | マネーボイス



宝くじを買ったことがあるから分かる。

宝くじは当たらない。絶望的な確率で当たらない。にもかかわらず買い求めてしまうのは、当たるかもしれないという希望があるからだ。希望。もしも1枚300円だかそこらの宝くじを10枚買って、それが1億円とか当たったら。そうでなくても、100万円になったら。何を買おう?人生大逆転?そんな夢を見るために人は宝くじを買う。わたしもそうだった。宝くじがネットで買えると聞いて、それならばわざわざ宝くじ売り場に並ぶという羞恥を晒す必要も無いでは無いかと喜び勇んだ。そして、○○ジャンボと名のつくものを定期的に購入。連番とバラと……とやって、毎回6000円とか買ってた。今思うとなんだその大金は。そんな大金があれば1ヶ月過ごせそうなのに。とまあわたしもある意味騙されたのだと言える。当たらないものを買うことは夢などではない。幻だ。幻を買う。当たらないのだから幻だ。そんな無駄なものを買うくらいなら何も買わない方がいい。そう思ってわたしはパッタリと買うのを辞めてしまった。今思えばとんでもなく散財だった。投機と投資は違う。それはこの記事の言う通りだ。投機はギャンブルである。使うためにお金が欲しいと願う人はたとえお金が一時的に増えてもすぐに使い切ってしまう。それこそが宵越しの金は持たないのスタンスである。わたしはそんな考え方を持ったつもりは無いがそういう生き方に片足を入れつつあったのだと思うと、我ながら恐ろしい。いまは以下にお金を使わないで過ごすかという感性に染まってしまっているのでそんなことは全くないのだけれど。ただ、お金を使わないという行為は確かに我慢や、辛抱のそれと似ている。最初はそれを苦々しく感じてパーッと使いたい衝動もあるだろう。しかしそれを何とかして我慢して過ぎるとどうなるのかと言うと、無欲となる。まるで仙人かなにかのようにあらゆる欲求がなりを潜める。あるのは、まあかろうじて食欲と、睡眠欲くらいなものだ。それ以外はまるでない。食欲すら減退してしまうほどだ。そうするとありとあらゆる事に無気力となっていく。今の私がそうかもしれない。あれもダメ、これもダメ。私は何がしたかったのかすら思い出せなくなっているのだから。そういうときに、こんな投機の話を見ると、わたしなんかは、懐かしい感覚だなと思ったりもする。まぁわたしも物欲がまるでなくなった訳では無いけれど、そのほとんどがエオルゼアに集約されているのは間違いなさそうだ。リアルに期待が出来なくなってエオルゼアにだけ希望を見出すような日々。そこまで落ちぶれてはいないつもりだけれど、この希望という麻薬はやっかいだ。幻のくせに常習性があるものだからである。1度触れるとまた感じたくなる、希望。だから、人は宝くじを買うのだし、私で言えばエオルゼアに通うのである。それはそこに希望があると信じているからに他ならない。宝くじはもう買わない。そう決めたわたしからすると、この記事はまあなんというか無関係の内容ではある。しかしどうも心に引っかかるところを見ると、わたしはまだこの考え方をどこか捨てきれずにいるのかもしれない。少なくともわたしは疲れている。疲れは無意識下に体や頭を休ませようとするからわたしは何かを考えることを辞めてしまった。ブログにしても。仕事にしても。深く考えても答えが出ないものを考えても私が辛くなるだけ。辛くなりたくない。希望をくれ。いまのわたしには、希望が足らないのである。

 

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「FFVII REMAKE」や「OCTOPATH TRAVELER」が半額に。スクウェア・エニックスの年末年始セールが本日スタート



スクウェア・エニックスの年末セール。

年末年始と言えばゲームだ。異論は認めない。年末年始はゲームをやり尽くすためだけにあると言っていい。1年を通してゲームをやり続けている私だがそれでも、年末年始はゲーム三昧と決めている。さて、2020年も終わる。っていうか、早く終わってくれ。何だかんだ残務があって気分が落ち着かないのも事実。悩ましいところだ。世の中も何だか停滞気味で、アメリカ大統領選挙すら、もうどうなったのかわからない。ニュースは相変わらず感染症の話ばかりだし、たまに違う話をしたかと思えば菅首相のミスを大袈裟に指摘するような程度の低い情報で溢れかえっている。そんなときこそ、ゲームをして現実からログアウトしたい。そんな気分にもなるだろう。わたしはゲームに求めるのはそんな現実逃避のきっかけだったりする。わたしはいまファイナルファンタジー14のほかに、天穂のサクナヒメをプレイしている。しかし、終盤に差し掛かってきたのか難易度も上がり、やや行き詰っているのも事実だ。や、別に稲作に飽きた訳では無いぞ?なんていうか……稲作とアクションだけの退屈なゲームという印象があるのは事実だけれど……。その分、ファイナルファンタジー14はプレーヤーの仲間がたくさんいるので飽きることは無い。それに、先日追加された制服(課金服)や、クリスマスの雪だるまマウント、ローソンコラボキャンペーンによるビックリマンチョコ討滅戦などなど、イベントが目白押しなのだ。ファイナルファンタジー14にばかり意識が向いたとしてそれは無理もないのではないか。それくらい、よしPたちは年末年始にかけて、あらゆるコンテンツを叩き込んできているのだから。話を戻そう。スクウェア・エニックスの年末年始セールである。昔ならゲームショップが率先して行っていたセールも、今や遠い昔。今はセールと言えばダウンロード版を、メーカーが直に半額にする時代だ(まあ、そうはいっても、ハードごとに手数料は取られるだろうけど)。ほんと、ゲームを取り巻くビジネスモデルは様変わりしましたなー。なんてジジくさいことゆってみた。欲しいゲームが安くなるなら嬉しくないわけがない。とくにスクウェア・エニックスにお世話になっているわたしからすると、毎度セールは注目している。以前のセール(確かプレイステーション側のセールだったけど)では、NieRオートマタが安くなっていたので購入した。ファイナルファンタジー14でもコラボをしていた頃だったので気になっていたゲームだっただけに即購入したことを記憶する。そして、めちゃくちゃ楽しくプレイした。爽快感のあるアクションと、ダークファンタジーな重めのストーリー。そのどちらも中毒性があり、やめられなくなった。まぁ、トゥルーエンドを見ることは叶わなかったが(動画で見た)。まぁなんというか、一時の清涼剤にはなったと思う。やはりアクションゲームなら取っ付きやすいし、レベルはあるものの、プレイヤースキルで何とかするゲームバランスなのが助かった(それでも、最後のへんはさすがにキツくてイージーモードにした。とほほ)。昔のように難しいゲームを何とかクリアするぞというモチベはもうわたしにはなく、どちらかと言えばファイナルファンタジー14とは違って、箸休め的な感じが得られればそれでよしとする風潮がある(あれ、FF14も最近はのんびりしてないか?)。まぁ、わたしはゲーマーと呼ぶにはやり込みが弱いし、スキルも普通以下だけれど、何時間も飽きずにプレイし続けられる集中力だけはあるようなので、やはり下手でも下手なりに楽しんでいるのである。ゲームを動画に収めたいという別の欲求もなくはないのだけれど。今回のセールであるが、ほとんどの有名タイトルが30%から50%値引きされるということだ。ファイナルファンタジーシリーズも、ドラゴンクエストシリーズもある。そして、今回私が注目したのが、聖剣伝説3だ。聖剣伝説ファイナルファンタジー外伝という名前でゲームボーイに登場してからわたしは聖剣伝説聖剣伝説2とプレイし、そのどちらも大変に楽しませてもらった。当時の私はまだRPGばかりやっていて、アクションRPGというジャンルが、ゲームのいいとこ取りのような気がして大いに受け入れられた。どちらも名作だったし、わたしの学生時代を彩ってくれている。だが、聖剣伝説3だけはやっていないのだ。私の動画チャンネルを見てもらえれば、聖剣伝説3については体験版をやったきりになっていることがおわかりいただけるだろう。めちゃくちゃやりたい。しかし、リメイクが出た頃はわたしは漆黒のヴィランズで第一世界を飛び回るのに必死だった。とてもじゃないが聖剣伝説3まで手を出せる余裕は無かった(時間的にも、金銭的にも)。なので盛大にスルーしてこんにちに至るわけだが、ここに来て40%offとなっている。これはここで買わなきゃ後悔する気がするので、もう少し年末が近づいてきてから財布と時間に相談しようと思う。まぁ買うけどね。天穂のサクナヒメもクリアしないと積みゲーになってしまう。まぁあれはあと少しでクリアのはずなのでまぁぼちぼちやって、わたしはいよいよ聖剣伝説3をプレイしようではないか。やりたかったゲームを腰を据えてやる。それこそ、年末年始の正過ごし方なのだから。ファイナルファンタジー14竜騎士レベリングしてるだけ〜。あ、ゲーム内友人と、初詣行こってなってる。エオの初詣ってどこいくのん。クガネ神社?でも、ゆるーく集まれる予定があるのなんかしあわせ〜。スクウェア・エニックスの年末年始セールお見逃し無く!(ステマじゃないよ)。天野喜孝先生キャラデザのMMORPGってなんぞ?!スクウェア・エニックスじゃないのか……。

 

それじゃあまたね(了)