ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

ムジカのキオク。♪note:https://note.com/ryoushitsumusica ◆YouTube: https://www.youtube.com/channel/UCWvTBOe1O9GICLtyreUu-6Q

新年のご挨拶 | トピックス | ファイナルファンタジーポータルサイト | SQUARE ENIX



新年の挨拶を受けて。

新年の挨拶とは何か。あけましておめでとうございますであって、それ以上でもそれ以下でもない。挨拶である。そこに新情報があるわけでもなく、実現可能かどうかはさておき、せいぜい抱負を語るだけに留まるだけのもの。それが新年の挨拶だ。ここにスクウェア・エニックスにおけるファイナルファンタジーに関連するプロデューサー、およびディレクターたちの新年の挨拶がある。それを読むとやはり新年の挨拶であった。個人的には、ファイナルファンタジーというブランドに、ブランドマネージャーがいることを初めて知ったし、それぞれ、アプリ版の担当者がずらり並ぶ中に、唯一HDゲームであるファイナルファンタジー16と14を兼任する吉田直樹氏ことよしPがいることに、圧倒的な違和感と、強烈な異質感を感じた。そうなのだ。ファイナルファンタジーはすでにあらゆる可能性を追求し尽くし、アプリ版に派生している。あれほど高解像度ゲームの代名詞とされた時代は遠い過去ものととなり、それを改めて作ることに14は戦場をオンラインゲームに移したし、16はPS5で表現しようとしている。14の成功ぶりはもはや説明不要だけれど、あえて言うならそれは「オンラインゲームにおけるファイナルファンタジーとしての高クオリティな画質とストーリー」であった。そして、それを求めている層に対して、過去作のオマージュ+再定義というサービスを追加し、さらに、オンラインゲームというジャンルを知らない層に対しての新しいゲーム体験を提供することに成功した。それはファイナルファンタジーが持っている歴史やブランド力があったからこそできた事だし、それを支えるファンが歳をとったことでわかりやすくファイナルファンタジーをターゲットに合わせてアレンジ&進化させることが容易であったこともその理由にあると思う(まさに私だ)。さて、ファイナルファンタジーという作品の持つ底力は既に証明されたわけだが、しかし、これからさらに10年、20年を生きていけるほどのブランド力を身につけることができるかどうか?は別問題である。それはどれだけ新しい魅力を付加できるか?にかかっている。分かりやすくいえば16だ。いまだ16の全容は掴めないけれど、16が背負わされるものは、ファイナルファンタジーのブランドマネージャーが深く関わる分野であると思う。その点からしファイナルファンタジーのブランドマネージャーが16をどの位置に据えているのかという、ファイナルファンタジーを全体で管理している人からの意見が知りたくなってくる。おそらく目的があって、目標があって、その到達のために16は作られているはずだからだ。もちろんSONY側の思惑もある。それはファイナルファンタジー7RemakeがPS4専用として(期限付きであったとしても)リリースされたことからも伺える。ファイナルファンタジーというブランドはスクウェア・エニックス社のものであると同時に、SONY率いるプレイステーションというブランドを高めるための紛れもなく重要なコンテンツに据えられている。となると、やはりコンテンツをどういう立ち位置で配置するのかというのはものすごく重要な要素だ。例えばドラゴンクエスト11が過去の作品軍に繋がる作品だったという所や、HDゲームと、ドットゲームを同時にリリースしたことは、あらゆる意味でエポックメイキングであった。JRPGの良さはいま改めて注目されている。それは先日クリアした天穂のサクナヒメにも感じる事が出来たように思う。きめ細やかなストーリーテリング、魅力的なキャラクター、それを余すことなく伝えるビジュアル。適度なゲーム性、圧倒的なボリューム。それらが高いレベルで合わさっている。ゲームとしてバランスが圧倒的に良い。それは一朝一夕でできるものではなく、過去の名作の歴史の上に成り立ついわば伝統芸だ。他の国でもそれを真似ても魂までは込めることは出来ない。だからこそ唯一無二の作品として世に残る。すべて作品ありきであり、描画テクノロジーや、ゲームシステム、インターネットを駆使したあらゆるオンライン性はそれを引き立てる道具に過ぎない。わたしがここ最近プレイした、天穂のサクナヒメと、NieRオートマタはまさにそれであった。2Dアクションはゲームとしてまだ生きていけるし、3Dアクションのそれに引けを取らない。それは飛躍すれば、フルCGアニメ代表のディズニー映画に、鬼滅の刃や、君の名はのような、手触りの残るアニメ映画が評価されることと同じことのように思う。(先日のアーヤと魔女はフルCGアニメだが)ロシャオヘイ戦記も見たわたしである。あれはいい表現していた。あれこそ、わたしが表現はあくまで道具であり、そこに込める魂こそが重要なのだということをしっかりと体現している作品であった(大好きです)。翻って、ファイナルファンタジーの話をしよう。ファイナルファンタジーは高いテクノロジーを駆使することでまるで映画のようなゲーム体験を私たちに提供してきた。それは、ファイナルファンタジー15の、KINGSGLAIVEという映画で結実したと思う。あれはフルCGアニメと言っていいか微妙ではあるが素晴らしい作品であったことは間違いない。それを経て、ファイナルファンタジーは、あのクオリティで本編を、追加DLCではなく、1本の作品として世に放つことが出来れば。それは15で出来なかったことを16で成し得たことになる。その上でファイナルファンタジーという作品群がどこに向かうのか?という指標まで求められている。それはファイナルファンタジーというブランドをどうするのかという疑問と一致するだろう。わたしは天穂のサクナヒメのような懐かしい手触りの作品を求めている自分がいることを認めているし、ファイナルファンタジー15の出来なかった高クオリティゲームをやりたい気持ちも認めざるを得ない。その両方をファイナルファンタジー16でやって欲しいと願うのは、無茶だろうか。それはドラゴンクエスト11Sがやったことのファイナルファンタジー版と言ってもいいだろう。あれと同じことはできないだろうことも分かる。海外HDゲームが目指す世界(例えば先日のオープンワールドゲームのバグ→発売中止の話とか)を見るに、やはりここに対する高次元でのバランスの融合は世界でまだ誰もできていないのかもしれない。そこにこそ、ファイナルファンタジーというブランドが切り込むだけの理由がある。(あ、ゴーストオブツシマもあるか)

 

それじゃぁまたね(了)