ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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「いいね」が全くつかなくても、作品を発表し続ける意味はあるのか | 独学大全 | ダイヤモンド・オンライン



いいねなんて要らない。必要なのは、自分にとって正直な言葉かという視点。

いいねがほしい。フォロワーを増やしたい。それは承認の証である。たくさんの人に見てもらい、認めてもらうことで自分はこのままでいいのだという気持ちになる。それを得ることは幸福の極みだ。それを得るためならばなんでもする。だからください。いいねが欲しい。フォロワーを増やしたい。そう考える人がいる。いや大多数の人がそう考えるに違いない。わたしも?うーん。正直なところ、フォロワーとはなんだか不思議なものだ。仲良しだからフォロしてもらえたという認識から、いつしか、ゲームの得点のような、あっても無くてもそれほど困らないものに変容して言った感じがある。いや、フォロありがたいよ?減ったら凹むよ?それでもね、フォロがないからダメだとか、減ったからやだーとかは思う。思うけどそれだけ。増やさなきゃ!とか、増やさないと!とか義務に感じたことは無い。Twitterで言えば、1000人を超えた辺りまではわりと数を気にしていた。けれど、2000を過ぎたあたりからもうなんか気にしなくなった。気にならなくなった。減ったら悲しいと思ったこともあるが、大抵の場合、それは、垢の移行によるものだったりする。だから嫌いになって減った、というよりは、整理整頓の結果、減ったというだけで、別にどうってことも無かったりする。またわたしからしれっとフォローしたりもする。そんなものだ。あと、いいねにしても同様である。わたしはいいねが100ついたとか、200ついたとか気にしていた時はすごくイライラしていた。そして自分の思った数に達するとやっと安堵していた。それまではずっとイライラ。なんでかわからない。けれど気が気でなかった。でも。1度反応が無くなってみると、逆に20もついた、とか。少ないなりに感動できるわたしがいる。数が多ければいい。少なければ嫌われているという感覚は間違っている。単にいいねが押しやすい投稿だっただけということも往々にしてある。それだけのことだ。わたしは自分のツイートにいいねが沢山着くことを確認する毎日に嫌気が刺し、朝早くにツイートしてからしばらくTwitterを見ないで放置するようになった。そしてあとから見返す。思ったよりも少ないとき。いまでは良かった…とすら感じることがある。変にたくさんのいいねがつくことよりわたしという存在がある程度知られているという事実の方がずっと嬉しい。このことは、この記事の言わんとするところに繋がっていると思う。小説家を目指して投稿を重ねる質問者。しかし思うような反応が得られず、苦しい気持ちになることの方が多い…という相談だ。それに対した答えは数あれど、わたしが同じような質問を受けたのなら、冒頭の答えになる。他人の評価は気まぐれである。自分の作る文書やSNSで、どれだけ自分を満足させられることができるかという視点があれば良いと私は思う。それこそが私の中から沸き立つ言葉であり、回答にもあるように、言い表されなければならないような強い気持ちは言葉に昇華されることで読者の胸を打つことがある。それがどんなに稚拙で、言葉足らずな文書であっても。それが稚拙でないように、言葉足らずにならないようにするためには、それこそ、毎日、たくさん、飽きるほど文書を書く必要がある。それは鍛錬であるのと同時に、私の中にある言葉を探す旅だ。それはひとつのゴールであるものの、そこにいたるまでの道のりが無数にあるという代物だ。だからこそ、書きなぐり、何度も回り道をして、適切な、自分にとっての納得感のある書き方を探す必要がある。そんなことができる日が来る?安心してほしい。わたしだって最初からこんなに納得感のある文書を、書いていた訳では無い。最初はTwitterの140文字ですら満足に書けず、ひたすら推敲を繰り返してはいまいちな文書を繰り返していた。いまわたしは満足しているのかと言えばまだそんなことは無いのだけれど、それでも。100%私自身の言葉でこの文章は成り立っているということは断言出来る。それが出来るだけでも儲けものだ。また、わたしが同時に並行して書いているNOTEのほうでも私というテーマで色々書いているのだが、それも紛れもなく私だ。それが今日になってものすごくフォロワーが増えた。いいねも沢山着いた。嬉しい!とは思う。同時になんで?とも思う。フォロワーが増えなくてもわたしは続けていくだろうし、いいねが貰えないから書かないという訳では無い。わたしはNOTEでも書いたが、私の中で描きたい言葉が見つかれば書くし、見つからなければ書かない。ただそれだけである。そうやって、文書を自分自身の中にある言葉のデトックスとしての排泄(きたないかな?いい意味だよ!)として行うのであれば、それは食事や呼吸と一緒である。生きるために文書を書く。それが出来れば、たとえ誰にも相手にされなくても、フォロワーが増えなくても書くモチベーションを保つことが出来る。書きたいから書く。わたしにとっての文書との付き合い方は常にそうであって欲しい。そう思うばかりだ。

 

それじゃぁまたね(了)