ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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ザブングルが解散、松尾さんのキャリアチェンジに共感の声が続々。40代は転職のターニングポイントとなる? - 記事詳細|Infoseekニュース



転職を考えるなら早い方がいい。

時間は待ってはくれない。そして、時代は刻一刻と変化している。もしも道を変えるのなら早い方がいい。変えると決めたのなら、もう迷うことは無い。いまこそやりたかった事に挑戦しよう。そのためのノウハウならもう手に入れている。そんなふうに思った。いや、そんな風にしか思えなくなっていた。現に当時の職場には、未練はない。そしてこの記事が言うように、中高年の転職は増えているように感じた。それは面接で、肩たたきにあったのか?と言われたことが思ったより少なかったことにある。もちろん内心はそう思っていたのだろうけど。そう思われてると睨んでいたわたしはその分、やる気と気力と体力をアピールしてきた。そこにしかわたしの存在意義がなかったからだ。やりたい事をやる。それがわたしの転職理由であった。そのために、求められるのは、過酷な職場環境であり、収入面の減収であり、勉強の日々である。楽をしたくて転職したわけではない。その逆で、もっと高いスキルを身につけるために。学び直し。それが私の2020年のテーマである。それは過酷な日々であった。1年経ってようやく慣れてきた。そして、これだけは言える。1年前のわたしを確実に超えた。確実に当時の私から成長することが出来たのである。それは転職を経たからこそ、得られたと思っている。そういう意味で自己投資だ。自己投資を転職をせずにやれって?それが出来ていたらわたしはいまここにいないよ。出来なかったんだもの。わたしはどうやら、自分の甘い人種らしい。わかっていたけど、思っている以上にわたしはダメ人間らしい。だからやらなきゃ、と思った時、まず最初にわたしのいる環境から変える必要があると思った。それほどまでに自分に行き止まり感を感じてしまった。だから、転職した。それを決意したのは私はまだやれるとおもったから。まさにザブングルの言葉じゃないが、10年前なら早い、しかし、10年後は遅すぎるということだ。もちろん、コロナ禍を予測していたわけではない。だから最後のチャンスだったと思っている。この記事が綺麗ごとのように感じているその主な原因は、これが、コロナ禍以降にも通用するのか?という点がわからないからだ。その点について記事でも厳しさを増していることは指摘をしているけれど、いまやどこの業種も求人のハードルを上げ、逆に言えば求人数も絞っている。そのくせ、人手不足を担当者は嘆くのだから、私から言わせれば、担当者は贅沢を言いすぎだと言いたい。人が欲しければ門戸を広げ、あらゆる人材を確保するように努めればいい。しかし、そうはしない。なぜなら、人材確保を求めるのと同時に、希望退職という名リストラを進めているからだ。リストラをしているのに、リストラ予備軍となってしまう人をわざわざ採用するだろうか。いや、しないだろう。だから、採用のハードルは上げられるだけ上げる。そして結局は大手からの転職組だけを採るような選り好みをしているのだ。そうなれば、この記事の言う、40代の転職を推奨することは、筆者が転職アドバイザーという立場からポジショニングトークと言われても仕方がない。つまりは1度その会社を出たとたん、受け入れてくれる会社はほぼないという現実だ。私は運良く見つけることが出来たが、言葉の通り本当に運が良かったとしか言いようがない。あらゆる可能性を否定せずに活動していたら、かえってなんのための転職だったのかと後悔しかねないからだ。だから、最も賢いのは転職せずにいまの立場のまま自己投資をして、スキルを磨くことである。そうして会社でのポジションを高めていく努力をする。それでもリストラに遭うようなら仕方がないので転職を考える。自己投資をしてスキルを磨いていればいざそうなっても身の振り方で困ることは無いだろう。今の時代、自分の身の振り方をひとつの情報ソースだけで判断することほど危険なことは無いし、あらゆる可能性、あらゆる情報を検討した上で判断は慎重に慎重を重ねるくらいでまったくもってちょうど良い。判断できないことは今判断すべきことではないのである。あなたはそれでも転職しますか?

 

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「上司は自分に媚びる部下が好きなはず」と考える人が実は一生信頼されない根本理由 | 独学大全 | ダイヤモンド・オンライン



耳が痛い。

お互い様の感覚は誰かに教えてもらえない。自分で感じるしかない。舐めてるのか?と怒られたことはわたしもある。卑屈になっていたのだ。どうせ……という態度はすなわち、この記事言うところの、人間関係そのものを舐めていたのである。いま?んー。舐めていることについては変わらないけれど、もうね、嘘を言ってもなんとも思わなくなったから、嘘を突き通す、または、自分を偽り続けることで本来の失礼なわたしを覆い隠すことに成功したわたしです。人間関係そのものを舐めている……か。それは、人間そのものを信じていないこと。どうせあの人は私を理解しない、である。この記事で言えば、あの人は媚びへつらうことでいい気分になるに違いないと「決めつける」こと。私の1番の悪い癖、決めつける、がその主な原因なんだろうけど、それは誰かに言われても理解できないし、やっぱり私の中の感覚が優先されてしまう。だから偉い人には「媚びへつらう」ことを正解と思ってしまう。そこには、この記事の質問者のように、他人を卑下したり蔑んだりする気持ちはない。むしろ、丁寧なそれだ。だが、その中にある考え方は失礼なそれである。だって信じてないもの。人を。人間関係を。だからどうせ……となって相手を信用しないし、何かをしてもらってもそれを返そうとしない。親切に親切を返すことが必要だとは理解している。だからなるべく、返す。いや絶対に返す。しかし、それは人間関係における、お互い様を理解しているとはいいがたい。それをしない事であとから後ろ指を刺されたくないとか、立場が悪くなりたくないとか。まさに保身のそれである。だが最初は無理やり、本心ではないその行為であっても、繰り返し行動しているうちに、それが当たり前になっていく。そこに本心とか、疑心とかそんな考え方はどんどんとすり減っていくのだ。そう。それこそがここ1年の私の成長そのものであった。折に触れてわたしはなぜ、ここに、いるのか。という疑問を自分に向けてきた。なぜなら、余りにも無意味に思える選択に思えるからだ。遠い職場。低い給料。1からの出直し。すべてデメリットでしかない。しかし、唯一わたしがそこにメリットを見出したのは、私がやりたいことがやれる、という事である。しかし、やりたい事であっても、それは得意なことではなかった。そこからは試練、訓練の連続。今も尚、勉強の日々である。しかし、わたしはそうでもしなければ、自分を鍛え直そうとは思わなかっただろう。自分にとことん甘いのだ。わたしは。だからこの記事の言う「普通に失礼な人だ」という感覚は、わたしにとってはつい最近獲得したコモンセンスである。ほとんどの人が当たり前に獲得している感覚ではあるのだが。それをわたしの個性と勘違いしていたわたしが恥ずかしい。だからいまのわたしはそれを超えなければならない壁であったと痛感する。まだ完全に越えられた訳では無いし、まだむかしの癖でトラブルを起こすことも少なくは無いのだが……。その最たるものは、与えられる人という意味のギバーと、受け取るだけの人という意味のテイカーだろう。わたしはいい歳をしてギバーでは無かった。いまもそうであるとは思えない。とことん、テイカーである。頂けるものはすべていただく。そのお返しをすることは滅多にない。優しくされれば優しくし返すくらいの事はする。だが何かをもらったら、何かを返す事をしてきたかと言われるととてもじゃないが出来ているとは言えない。そこに、人間関係を舐めているという言葉がしっくり来る。舐めている……いや、信じていないし、その部分について、鈍感であることを自分に課しているかのようですらある。だが、だからと言ってそれを私の個性だと言うほどわたしも成長していない訳では無い。バレンタインに義理チョコを貰えば、ホワイトデーにお返しを考えるくらいはする。まずはそこから。そこからゆっくりと、取り戻していこう。わたしの今年のテーマを思い出す。わたしのリアルの人間関係を再構築する、というものだ。あと……話は変わるけど、2021年の勝ちパターンが見えなくなっているなと思うわたしです。この辺についてはまた別の記事にしたいと思います。それではまた。……襟を質さなくては……。

 

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日本人の「大問題」…じつは「世界で負ける」のには“意外すぎるワケ”があった!



NOという勇気は、事前の勉強によって生まれる。

営業をしてると、NOと言いたくなる。しかしその気持ちを押し殺して押し殺してYESと言うのだ。それによって自分がいかに貧乏くじを引いているのか。そんなことを一瞬考えてしまう。しかし同時に、ここでNOといって契約をフイにしてしまうと、これまでの努力は全て水の泡。他に契約を取れる見込みがあるか?と自らに問うのだ。そして弾き出さられた答えは…苦渋の果てのYES…。そこに日本人の負けがある。そうだろう。だがそれは世界を相手にしているとき、に限る。世界を相手に仕事している人がどのくらいいるのか。自動車、金融、インターネット、通販、ゲーム、それらの分野ならそうだろう。世界を相手にしている。それならルールは世界のルールとなる。だが、日本にあるほぼ全ての企業が相手とするのは世界ではない。せいぜい日本だ。そして、その大半は地方であり、限りられた地域だ。そうした限定されたエリアで過ごしていると、いかに世界とはかけ離れていたとして、世界ルールは通用しないと感じる。独特であり、特異性にまみれたルールなきルールに基づいている。そう感じずにはいられない。つまり、そうはいうものの、である。だから、この記事の言うようなNOと言えない会社ばかりが日本に多い。そして、それを直そうにも、周りが、地域が、日本がそれを許してくれない。そして染まるのだ。日本独特のYES文化に。そこに染まりきってしまい、世界と渡り合う頃にいきなりそうした世界ルールにしようにも、できないのだ。だから、勝てない。NOと言えない。NOと言えなければ勝てない世界線では生きられないのかもしれない。薄利多売とはよく言ったものだが実際は損している。先に損して後から儲けるという選択肢が、ないのにも関わらず。どんな無理難題もYESと聞いて、最後は突然怒り出す。そして、すべてのビジネスをシャットダウンするのだ。それは交渉ではない。それは言われなくてもわかる。クライアントを、お客様を神様と見ているのはそこにすべての需要を受けきることに存在意義があるのだ。受けきれなくなったとき。それは終わりである。繰り返すが、いくらインターネットが普及した世界であっても、地方は地方のルールがあり、それを無視しては生きていけない。だが、コロナ禍は世界ルールだからまたややこしい。地方ルールこてこての地方に、世界ルールを無理やり適用するようなものだ。だから、あわないし、混乱してしまう。これまで通り薄利多売でやっていてはすぐに資金は底を尽き、会社は立ち行かなくなるだろう。だから、地方に世界が来たと言えるのだ。世界とはなにか。NOと言える世界線である。安いばかり、値引きばかりを前提とする営業から、合わないのであればNOという世界線へ。とまあ私もそう思ってNOと言う勇気を持って営業した。結果は……惨憺たるものだ。何も結果が出てこない。売上は減り、営業は数字を詰められた。もっとやれ、もっと電話かけろ、もっと行動せよ。そんな声に疲れきった頃、上司は壊れてしまった。そして。上司の交代。そして、新人の離脱であった。そして、新たな上司が提示した解決策は、値引きである。つまり、徹底的に地方ルールに添うことにしたのである。つまり、目先の利益を求めて売上を犠牲にした。それは破滅の罠。長く続くとは到底思えない。けれど、地方は地方ルールの存続を求めているのも事実だ。古き良き…とは言わないが、そこに固執したい層は確実にいる。特に決定権を持つキーマンはそれを好む傾向にある。わたしはキーマンが地方ルールが好きか、世界ルールが好きか、見極めるようにしているが、今のところ、世界ルールを求めている層はめんどくさいだけの客であるだけだ。ならば地方ルール信者がいいかと言われれば、それも泥舟に乗る仲間というだけで、いつか沈むことに変わりがない。つまりどちらも救われない。それならばどうすればいい?結局。沈むにせよ、お互いに気持ちよく仕事が出来ればそれでいいでは無いかという極論論者となる。つまり、わからないことにわからないままに翻弄さらるよりは、わかる範囲の中だけで、楽しく、気楽に、やろうという感覚。それは問題を先送りにしているというわけではない。ましてや、見て見ぬふりをしているわけでもない。だが、思い悩んでいたところで解決するわけでもない。それならばやれることをやる。楽しく、気楽に生きていこう。都会みたいに家賃が、人件費が、固定費が圧迫するような危機感は薄い。無理をしている会社は潰れる。無理をしている会社から倒れる。それなら?経費を削減して、無理無駄を排除する。細く長く生きる世界線こそ、私の住むような地方社会での生きる道なんだと思う。無理無駄をして、伸びる売上ならとっくに脱している。私はそう思う。あなたはどう思う?

 

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アマゾン創業者「ベゾスCEO退任」でマスコミが報じていない2つの重要ポイント 後任が「AWS担当」である本当の意味 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)



Amazonという会社は、これまでもこれからも好きになれそうにない。

元々Amazonを歓迎する気になれなかったのは、安さを売りにするわりに、決済方法が少なかったことが大きい。決済方法に多様性を認めればAmazonにとってそれだけ多くの手数料を支払わなければならなくなり、結果として単価が上がってしまうというのもわかる。また、商品ラインナップに、一般ユーザーによる出品も普通に並んでいることも買い手にとっては分かりにくかった。この点についてはいまやどこのECサイトも当たり前になっているので、Amazonが悪いとか言うつもりは無い。やはり、世界規模で展開する会社が安さやサービスを売りにするためには、ローカライズしたくてもできない小回りの聞かない部分がよくよく出てくるものだ。だが、その、あまりに徹底された効率化は不気味だし、Amazonの求人募集などはその最たるもので、とてもじゃないが、Amazonで働きたいとは思えないような過酷な労働環境が透けて見えた。私の地元では自動車産業が盛んなので、期間工という働き方について、割りと身近にいる。それもまた効率化を極限まで高めたような働き方のそれなのだが、まさに、Amazonのスタッフから感じられる雰囲気はまさに期間工のそれであるように思える。給料はいい。稼げる。しかし、とても人間扱いされているとは思えないのだ。もちろん期間工は実際に見たり聞いたりしているものの、Amazonは見た訳では無いので、私の予想を超えてクリーンでホワイトな職場だったりするのかもしれないけれど。少なくとも、ジェフ・ベゾス氏の周りはそうではなさそうだ。Amazonは世界一の企業だ。しかし大企業であるがゆえに、社内での生き残りをかけた戦いは熾烈を極めている。シャドーと呼ばれる自分の後継者がいたり、少人数のエリートたちを重宝する凄まじい実力主義の会社だとどこかの記事で読んだことがある。世界一の会社ではあるが、入りたい会社世界一でもないらしい。確か、Netflixが、福利厚生を充実させてて人気だとかなんとか。ジェフ・ベゾス氏のあの、なんとも言えない合理思考の塊のような風貌からは、とてもじゃないが(個人的には)、好きになれそうな人間ではなさそうである。ジェフ・ベゾス氏が好きになれない、だから、Amazonを好きになれない。Appleは? Facebookは? Googleは? それら巨大IT企業はそれぞれにカリスマ的経営者をトップに携えている。思えば私は、Appleは、スティーブ・ジョブズ氏が亡くなったあたりから好きではなくなった。Facebookは映画を見てからまだなんとなく好感を持っている。リブラであれだけ叩かれた事も含めて、マーク・ザッカーバーグ氏の人間みのある感じは好きだ。Googleのラリー・ペイジ氏らは名前くらいしか知らないが、広告、および、Webマーケティングで世の中を変えてやろうという野心については脱帽しているところがあるので、好きだ。データを吸い取られる、とはよく言われたGoogleChromeだが、それはもはや、カメラが普及しだした頃の魂が抜き取られるという迷信と同じものだと思えてしまう。もちろん、わたしたちはユーザーであるのと同時に、Googleにとっては私たち自身が商品となっている事はもはや疑いようのない事実ではあるのだけれど。しかしわたしたちの行動がGoogleに筒抜けとなってビックデータとなって高値で売られているとしても、私個人がそれを扱えるわけでもなく、そのデータによって世の中が良くなっていることもまた事実だと思っている(便利だし)。搾取されているという感覚は無くはないのだが。実害が無いのだからいいではないかという視点と、Googleが日本企業を破滅に追いやっているという危機意識もまた同時にあるので、やはりGoogleが好きかと言われればすごい会社だという認識からは出ない。GAFAの中でまだマシだなと思えるのはGoogleだったりする。あくまで個人の意見だけれど。ヒトがお金儲けのために行うビジネスにおいて、好きや嫌いという人間関係のような感覚は本来すべきではないのだし、利害の一致というベクトルだけによって、ある意味でドライにクールに繋がれる海外企業は能力主義のそれであり、資本主義の精神そのものと言える。資本主義とはお金(資本)さえあればなんでも出来る社会の仕組みであるが、そこには、人情とか、人間味とか、仲良くとか、そんなものは最初からないのだろうなと思う。そういう意味では欧米的だし、やはり日本人にはそぐわない部分も大きい。世界規模で戦うのならそれも仕方がないが、コロナ禍でもはや外国との繋がりがますます薄れていく中、国内だけで完結するビジネスこそがこれからは求められると思ったりもする。まるで中国がやるように海外企業をシャットダウンし、自国完結するビジネススタイル。やり過ぎるといまの中国みたく、孤立してしまうこともあるけれど。その中庸さ加減なら日本人の得意とするところではないだろうか。いい意味でちょうど良い。悪い意味で中途半端。それこそが、日本人らしい、ビジネスのあり方であると思う。何も欧米的に、白黒はっきりさせることだけが生き方ではない。日本人としての誇りや、日本人として生きる文化、歴史、それらを改めて見直しながら、少しずつ日本のニューノーマルを作っていく。私たちが今できることはそれであり、そんな選択の時期に生きているのだと肯定的に考えれば、いまのこの荒廃したかに見える日本社会も悪いものでは無いと思いたい。選べるのだ。わたしたちが。この先の日本のあり方を。日本人は礼儀正しい。日本人はきっちりしている。トップダウンではなく、しっかりと個人を尊重した集団行動なら世界一だ。最近のオリンピックの退任の話題を見ていてもそう思う。これほどまでに民主的な国が他にある?私は知らない。ミャンマーを例にしなくても、もしかしたら、アジアでナンバーワンかもしれない。日本人で良かった。日本に希望がないとする論調もある。しかしそれは他の国に比べればまだ日本の方がマシと言えるだけ幸せだと思う。

 

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居場所を決めるのは結局自分 プライベートと仕事のバランスで考えるキャリア選択



働くのはじぶん。それならじぶんの内面に聞いてみる。どんな働き方がいいのか。

素直な人だと思う。自分に正直だと思う。ひるがえって私に置き換えて考えてみる。外にいたいか。家にいたいか。私は外にいたい人だ。明るいうちに外を回って夜には帰るそんな当たり前の生活スタイルがいい。むしろ、事務所とか家とかじっとしているのは気が狂いそうになる。休みの日は別だよ?家にずっといて、ゲームしてるんだもの。それでも、ちょこっとでかけたり。近所のコンビニだけどね。バリバリ働きたいか?という質問には、率直にいえば、働きたくない。この点はこの筆者と同じだ。なるべく少ない時間に集中して働きたい。そして早く終わりたい。そのためなら、ガッと業務が集中しても構わない。そしてスパッと終わらせて定時に上がる。それが理想だ。その逆で、業務の進捗状況によっては休みの日すらわたしは消費することもある。その心は効率を重視した働き方。その結果だったりする。自己分析はこんなところか。市場分析はどうか。コロナ禍を予感出来た訳ではないし、わたしはごく自然と営業職についた。しかしいわゆる営業がしたくてそうなったのではなく、もともとがクリエイティブディレクターとしてキャリアをスタートしたわたしだが、読者の反応をダイレクトに感じることのできる仕事に魅力を感じたのがきっかけ。クリエイティブな仕事をしつつ、お客さま(クライアントおよび読者)の反応を肌で感じたい。そうして今の職にたどり着いた。そういう意味では理想的な場所にいる。それを市場分析した結果だと言うつもりは無い。市場分析は何となくだが、紙媒体からスタートしたわたしは、時代の変化を感じて紙媒体から離脱。テレビやインターネットと言った映像、通信の世界に飛び込んだ。そこで泥臭い個別営業を経験して、私の得意とするクリエイティブディレクターとしてのスキルを、その後CM制作という分野で少しだけ身につけた。その後、やはりというか、当然の結果として、クリエイティブディレクターとしても、営業としても未熟さを感じた私は、あらためて紙媒体の底力を感じ、再び紙媒体を主軸とする世界へと舞い戻る。今度は営業を主体としつつライティングや撮影などのクリエイティブスキルを発揮できるポジションに身を置いている。日々勉強だと感じている。刺激ある日々という意味では最高だ。もちろん前述の通り外回りなので、わたしはほぼ丸1日出かけている。直帰することもある。原稿などの作成や、修正指示などはほぼ外出先から行うことが多い。そういう意味ではリモートワークを地で行くような仕事だ。そして、前職でスマホやパソコンなどの最新機器に触れていたわたしは今のスピード感について行くことが辛うじてできている。つまりキャリアイメージを最初から持っていたわけではないが、時代の変化や自分自身に足りないスキル、やりたい分野の強化、不足しているスキルの補強など、自らに課してきた課題に挑戦し続けてきた結果のように思う。もちろん今もその連続の中の真っ只中だ。少なくとも1年前、2年前の私よりも確実に成長しているわたしがいる。この激務に慣れたわたしもいるのだけれど。少なくともダッシュを決めるところと、ややスローダウンするところ、そして、ほっと一息入れるところなど、この限りある時間をいかに過ごすのかという命題を、特に仕事面においてこれまでよりもかなり凝縮した形で追い込めているなと自分自身思う。工数を気にして一日を過ごすことを当たり前に思うことが出来るようになった。これは前職の私からするとかなりの変化だ。それでいて、直帰を許してもらえていること等から、ワークライフバランスに優れた仕事ができているとも感じる。率直に言って会社にわざわざ戻るのは時間のロスが大きいし、そんなことをするくらいならどこかコンビニにでもいて営業リストに電話している方が効率的だし、事務所にいたくないわたしからすると精神衛生上もすこぶるいい。慣れてしまえば、そういったソロプレイヤーも私らしくてなんだかエオルゼアの私と同じだなとちょっと笑ってしまう。まあ、スマホで通話することが多いので、AirPodsは必須アイテムなのだけれど。せいぜい、パソコンの充電が切れやすいので、いかに充電スポットを見つけるか(なるべく出費を抑えた形で)が、最近の悩みではあるのだが。キャリアイメージをしていく際に、私は何が好きで、何が得意かという軸はある。だが、わたしはそういうプラスのイメージで自分を分析してもいまいちピンと来ない。忍耐強いとか、集中力があるとか、継続する力があるとか思わなくもないけれど、それがイコールでどんな仕事、働き方に結びつくのかわからない。いや、当てはまるものが多すぎるのだ。だからわたしは逆に考えた。絶対にやりたくないことをイメージしたのである。まさにこの記事で言うところの、外に出たくないという箇所がそれだ(わたしは逆に家にいたくない)。事務所や店舗に滞在してずっと居続けるのは嫌だ。頭がおかしくなりそうになる。分かりやすくいえば、来店型のお店や、事務所の内勤、工場などは無理だ。とてもじゃないが、1週間でもゴメンだ。外回りがいい。前に引っ越し屋でアルバイトしたことがあるが、あれはとてもいい。私の出かけたい欲を叶えてくれるだけでなく、知らない場所に行くことばかりでまるで旅行だった。朝早いのはやや辛かったがそれでも夜明け前にトラックで出かけるのはなんだかワクワクした。肉体労働なのでずっとやるには辛いけれど、若いうちはそれもいい運動になった。あれは今思ってもある種の理想的な職場だった。そこから内勤型の仕事を経験したが、やはりというか息が詰まった。店舗だったがよくも2年続いたと思う。それはスタッフ同士が仲良かったからだと思う。そして深夜バイトもあった。けれども終わってからみんなでラーメンを食べに行ったりするほどで、あれはわたしにとっての青春時代だったといっていい。そこからいまの仕事に繋がる雑誌編集プロダクションに就職したのだがあれはもう地獄のような忙しい日々だった。それでも5年続けられたのはわたしにとって刺激的かつ魅力的な仕事だったからに他ならない。とても貴重な経験ばかりだった。今でもあの時頑張ってよかったと思うくらい。それでも当時はまさに試練の連続だったように思う。そろそろ結論。働きたくない、楽に行きたい。そう思うわたしだが、そう自己分析したところで、結局はどうしたって働かなくちゃ生きていけない。楽をしたくても試練や鍛錬を求められる。それならばせめて、働きやすい場所がいい。そして同じ苦労をするなら、仲間がいて、そして、進んで試練や鍛錬を自らに課すくらいのMっ気があったほうがいい。いい、というのは納得できるという意味。そして、そうすることで身につくスキルや自分自身の長所が数年後の私を助けてくれるからだ。楽なほう、楽な方に流されて生きていると数年後の私は、さらに辛い状況に追い込まれていたに違いない。逃げて逃げて逃げ続けることが出来ればそんな楽なことは無いけれど、立ち向かうしかないのであれば早めに立ち向かって傷ついてしまったほうがいい。その傷は痛みがある傷だけれど、それが完治または慣れっこになった頃にはその痛みの何倍もの試練に挑戦することが出来る自分に出会える。それこそがゴールであり、その繰り返しこそがわたしを私らしく輝かせてくれる理想的な職場へ導くのだ。コロナが来ることなんて誰にもわからなかった。それでも。自分に出来る最大限の努力を、休みながら無理しない範囲で選べてきたのなら、どんな時代になろうと進んでいける。そのために必要なものは柔軟な考え方。新しい情報。新しいことへのチャレンジする気持ち。そして家族の理解。そして、友達の存在。いつもありがとう。みんな。たしかに辛いこともある。時に傷つき、倒れ込むことがあっても、それでも、前を向いて出来ることからやる。やる気が出ない時はほんの少しでもやれることから手をつける。むつかしいことは後回しだ。なあに。心配するな、やり始めたらぐんぐんやる気になってむつかしいことも最後にはできるようになる。越えられる。越えられない壁は越えられないからそこにあるのではない。越えるためにある。要はタイミングだ。越えられないのならタイミングが悪いだけだ。それなら少し遠回りしてRPGよろしく、雑魚を倒しながらレベリングすればいい。気づけばレベルが適正となり、すんなり越えられる。わたしはそうやって超えてきた。いま挑戦している壁は若い頃に越えられなかった壁。取っ掛りは見えた。そしてわたしはたくさんの人に助けられながら、あの頃越えられなかった壁を、越えようとしている。いまのわたしは、そういう位置にいる。

 

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「ドラクエⅣ」ホイミンにまつわる疑問|ニフティニュース



ホイミンは夢を叶えたんだと思っていた。

小学生の頃にドラゴンクエストⅣをプレイしたわたし。第1章の王宮の戦士たちで登場するライアンは屈強な戦士である。戦士であるが若くはない。やや無骨なおじさん戦士である。それなのに鎧はピンク色……まあそこは言うまい。わたしはこのライアンというキャラクタが好きだった。無骨だがその分素直で、困っている人を放っておけない性格。鍛えられた剣の技術だけでモンスターに立ち向かっていくライアン。しかしそんな戦士のライアンであっても、敵から攻撃されれば傷つくし、傷つけば倒れてしまう。薬草は道具袋いっぱいに持っていくし、夜になれば無理せず城下町に戻って安い宿に休んで雨露を凌ぐライアン。力はある。だが、やはり回復手段の少なさが戦闘では致命的だ。敵が沢山やってくれば、いくらライアンが強くてもやられてしまう。そして、最序盤である第1章では、魔法使い系のモンスターは強敵だ。ダメージが多い。回復を優先しているうちに敵に囲まれて全滅という危険性もある。そんなとき、井戸の底で出会ったホイミン。見た目はホイミスライムそのもの。色は紫とかなり派手。どこから見てもただのモンスター。実際、街で連れていると怖がられてしまう。もっと言えば、無骨なおじさん戦士であるライアンと、ぷよぷよした紫のホイミスライムホイミン。そのミスマッチ感は凄まじい。きっとリアルにライアンとホイミンに出会ったら、わたしだったらそれを仲間と理解しない。ライアンがどこかの洞窟で捕獲したモンスターを奴隷として使役しているのだなと理解するだろう。そんなホイミンには夢がある。人間になる事だ。どうして人間になりたいのか?はわからない。けれども、人間に憧れているホイミン。そして、無骨なおじさん戦士のライアンは細かいことを気にしない。まして人の目なども一切気にしないのだ。だってピンク色の鎧だもの。そして、1人でなんのお供を付けずに隣町まで行くんだもの。そして、子どもが行方不明となっていることを知るや、人妻を連れて2人旅。もちろん道中で遭遇したモンスターからしっかりと護衛する紳士のライアン。なんという心優しき戦士。素晴らしい。だからわたしはライアンというキャラクターが、ドラゴンクエストⅣの中で1番好きだ。そしてあのテーマソング。寂しさが漂いつつも、それでいてどこまでも自由で、気持ちの良い風を感じながら草原を1人進むような軽快な音楽。素晴らしい。ずっと第1章で終わりたいと思うくらいに好きだった。そんな一人旅に突如加わるホイミン。もちろん、仲間にしないという選択もできる。しかし、回復手段に乏しいライアンにとって、回復を得意とするホイミスライムは最高のパートナーである。そして、ホイミンもまた、人間になりたいという純粋な心を持つキャラクターであった。だからホイミンとライアンが第1章の事件を解決したあと、どうなったのか。ライアンは勇者を探す旅をしていることは子どもの私でも理解していた。しかし、なぜ、そのお供に、ホイミンがいないのか?ここについては永遠の謎であったのである。小説版で語られているとはついに知らなかった。そして、第5章のキングレオの城で出会うホイミンという旅の吟遊詩人。なぜ、ホイミンは人間になれたのか?そして、なぜ、ライアンにそのことを報告しようとしないのか……。子どもながらにその謎についてなにか、深い事情があるのだなと思ってあまり詮索するのも良くないことなのではないかと思ったほどである。この記事の通りだとすると、きっとホイミンはライアンに辛い思いをさせたくなかったのだと思う。自分のせいでホイミンを死なせてしまったと思っているかもしれない。もし、自分がホイミンだと言っても人間の姿ではきっと信じて貰えないだろう。だからこそ、陰でライアンを見守っているホイミンマスタードラゴンに永遠の命を与えられ、導かれし者たちの戦いを記録するために生きるホイミン。ライアンに感謝の気持ちしかないからこそ、そっと身を引く健気さ。ライアンとのかけがえのない思い出があるからこそ、ライアンとの再会を望まないホイミンの奥ゆかしさ。ホイミンは性別的には男である。もしもそれが性別が違っていたらもしかしたらライアンの伴侶という選択肢もあったかもしれない。もちろん、同性であっても、パートナーとしてライアンの側に居るという選択肢もあったと思う。しかし、英雄でありながらも、いつか死んでしまうライアンと、永遠の命を与えられたホイミンでは時間の過ごし方がまるで違っているのも事実。だからこそホイミンはそっとライアンを見守ることにしたのだと私は思う。ドラゴンクエストはストーリーが素晴らしいゲームだ。わかりやすい勧善懲悪ではなく、人間くさい人生の教訓めいた話しが魅力である。特に、ドラゴンクエストⅣ、Ⅴ、Ⅵの天空シリーズと呼ばれた三本はその色が顕著だ。それはドラゴンクエストⅢで子ども時代を過したわたしにとって、青春時代の後に来るほろ苦さだったり、無常観そのものでもあった。まるで年齢を重ねた読者が、ジャンプからヤングジャンプに移行するかのように。いつか、ライアンの寿命が尽き、天に召される時が来る。その時にはきっと、ホイミンは駆けつけるだろう。最期を看取るためにライアンのその手を取り、ホイミンはライアンに感謝していますと伝えるのだ。ライアンはその時どんな顔で眠りにつくのだろう。ホイミンはどんな顔でそれを見送るのだろう。わたしはその事についてきっといつまでも考えてしまうに違いない。ありがとう、ドラゴンクエストⅣ。ありがとうライアンとホイミン……。

 

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PS5の世界出荷数450万台から考察 日本への配慮とソニーの狙い(河村鳴紘) - 個人 - Yahoo!ニュース



PS5が俄然欲しくなってきた。

PS5に限らず、ゲーム機本体を買う理由に、本体を買わなくては遊べないソフトがある。NintendoSwitchではあつまれどうぶつの森だ。現時点のPS5ラインナップからそれを見つけるのは難しい。未来にはある。おそらく専用タイトルとなるファイナルファンタジー16だ。2020年はNintendoSwitchが席巻した1年だった。あつまれどうぶつの森をプレイするためにはNintendoSwitchが必要だからである。PS5にはそれが無い。だからわたしは様子見であった。ソフトがないのだ。買う必要がどこにある?しかし、冒頭に言ったように、いまわたしはPS5を買う理由を見出している。その理由は、ファイナルファンタジー14が正式に対応するとアナウンスされたことにある。それだけでわたしは買う価値を見出した。ここでわたしのゲーム環境について解説すると、わたしは現在、PS4を使っている。令和の今、それはかなり少数派であると思わされる。ゲームに興味を持つ層とパソコンに興味を持つ層はほぼ完全に一致している。インターネットを基本とするゲームが多い中、インターネットと言えばパソコンとなり、パソコンの方が自分好みにカスタマイズすることができる。もちろんプレイするゲームの幅も決して狭くはない。つまりわざわざPS4を買う必要はなかったのである。だが、わたしにとって、ゲームと言えばPS4であった。だから久しぶりにゲームをやろうと思った時、まっさきに、PS4を買うと決めたのである。そして時は流れて。PS5。PS5を買うのは、ファイナルファンタジー16の時だと思っていたのだが、ファイナルファンタジー14が正式に対応するとなれば、わたしはその声に答えなくてはならない。そのための障害は、せいぜいPS5を買うこと。それだけである。4Kに対応するだとか、フレームレートが上がるとかそういうメリットもある。まあ、個人的には処理速度の高速化だけど。つまり、私の心を1番動かしたのは、ファイナルファンタジー14が、PS5をベースにしていくという開発者メッセージをもらったことにある。画質が高画質になるとか、PS5でしか動かせないということではない。それでも。PS4にしがみつく理由などわたしにはそもそもないのだ。むしろ、PS5を買う理由を探していたくらいなのである。それを、ファイナルファンタジー14がくれた。それだけの事だ。本当のことを言うと、PS4Proを買おうか悩んでいた事もあったけど。それでも、PS4Proを買うくらいなら、PS5でいい。また、最後の後押しとなったのは、ディスク版をプレイしているわたしにとって、デジタルエディション版のPS5を買ったとしても、引き継がれるというニュースであるのだけれど。だってPS5はPS4のゲームができるとは言うものの、PS5はすべてデータにしたいと思ってたもの。ディスクを入れ替える事の面倒くささを痛感してるわたしです。昔はあんなにデータで買うことを嫌がってたのに。時代は変わるねえ。なので。PS5を買います。さて。どこで買おうかしら。本体なら、やっぱり、近くの家電量販店かしら。NintendoSwitch買ったところのPS5の値段を調べることから始めよっと。3月中にはGETしたいと思います。

 

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