ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

ムジカのキオク。♪note:https://note.com/ryoushitsumusica ◆YouTube: https://www.youtube.com/channel/UCWvTBOe1O9GICLtyreUu-6Q

過酷な「希望退職45歳時代」 30代から始める3つのトライアル |NIKKEI STYLE

 

45歳の転職に見通しなどない。

この記事の結論を言えばこうだ。45歳で転職を強いられる人の多くはハローワーク経由で望まない低賃金の仕事にイヤイヤ就くことになる。もしくは運良く昔の同僚等の縁故採用を受ける形である。少なくとも求人サイトや広告からの華々しい転職など、ない。つまりはそういうことだ。あらゆるサービスが転職するなら今だといわんばかりに頻繁にCMを流す。いまの会社にいても未来はないと絶望させ、転職に踏み切らせる。そんな甘言に惑わされるのは決まって鳴かず飛ばずノンキャリ中年社員だろう。そうするといろんなサービスに登録してみるがほとんど書類選考は通らない。奇跡的に通ったところでも面接で通らないから面接に行くだけ無駄である。そもそも採用する気がないのだ。わたしはその辺の実感値を持っているので凄くわかる。面接官はこう思っている。どうせロクな仕事も出来ないから転職したんでしょ?と。だから最初から期待などしていない。スカウト型の転職ならいいか?答えはノーだ。むしろなお酷いと言える。メールではぜひ当社に来て欲しいと謳うが実際に面接に行くとなぜ来たの?と言わんばかりの冷遇を味わうことになる。これは予想だが、おそらく転職サイトのエージェントの差し金だろう。つまり、歓迎メールをしたためたのもおそらくその会社の人ではなくエージェント。ありがた迷惑、というわけだ。だから面接時にちぐはぐな対応となる。そりゃ幸せな転職になるはずがない。そうして貯金が底をつき、アルバイトで食いつなぐしか無くなるという地獄の負のスパイラルが待っている。途中で振り落とされた者、もしくは自ら階段を下りるような臆病者に、もはや誰も救いの手を差し伸べてなどくれはしないのだ。なにも脅かして言っているわけではない。私が実際に感じた事実だ。もちろんわたしは運良く次の職場を見つけることが出来たという意味ではそうでは無かった1人である。しかしそれはまぁ、奇跡的に助かったわけでは決してない。ある意味で地獄に落ちた。つまり、職に溢れてはいないというだけで、似たような結末である。私の唯一の救いを言うなら、自ら階段を降りたわたしは少なくない退職金を手にして(それでも数百万だ)、20代そこそこの若い人たちばかりの若い会社に高齢の新人として入社することで、自らの怠け癖を克服するべく、老体に鞭打つようなシャカリキな働き方をしている。おかげで心も体も休まる暇がない。裏を返せば毎日が勉強であり、訓練となってわたしは自分自身をトレーニングすることになっている。これはある意味で幸運だ。自らの殻に閉じこもり努力を怠ってきた私である。あのままあの場に居続けたところでスキルが高まることは決してないと断言出来る。むしろ衰えていく一方だろう。まだ三十年以上は働かなくてはならない年齢である。今のスピードの早い時代の変化に着いていくには勉強するしかない。少なくとものほほんと過ごしていい時期ではなくっている。だからこれからの10年は次の10念の為に苦労する時期と決めた。苦労、努力、鍛錬、わたしの人生においてこれほど似合わない言葉はない。それを前向きに、腐らずやろうと言うのだ。それはなぜか?今頑張っておけば10年後に笑える未来が来ると信じているからだ。それはすでに立証されている。わたしの20代の頃の苦労がそれだ。あのころの苦労のおかげで、30歳代はとても幸せに過ごすことが出来た。特に前半だけだったが。後半は怒涛の地獄のオンパレードで、ついに心が病む寸前まで追い込まれた。その経験から自分とはなにかを見つめ直すことが出来た。そしていま、再び努力をしようとしている。かつての20代の頃の自分のように。それが私だ。もはや後戻りなどできない。したくはない。話を戻そう。45歳で転職したわけではないわたしである。だがほぼ同じ年齢と言っていい。条件はまあまあ。給与はそこそこ。通勤時間もそれなりな、仕事をこのコロナ禍に見つけることが出来た。そのことは素直に喜びたい。あとは、自分の行動パターンを分析して無理せず無駄のない動きをしていく。元より、わたしは年下の人を年下だからと見下したりすることはしない。むしろ若いのにすごい人だと尊敬すらある。彼ら彼女らはわたしの若い頃より遥かに優秀であるからだ。45歳の転職に薔薇色の未来などない。そのことはゆめゆめお忘れなきよう。そうなる前に自分で自分を鍛えるか、その道で頑張れないのなら頑張れる道へすぐさま方向転換。このコロナ禍で日本の少子化は10年速まったらしい。このままでは日本人は滅亡してしまうかもしれない。それほど出生率の低下は大問題だ。社会全体を覆う絶望感、無力感を吹き飛ばすにはまず、我々中年の仕事ぶりを、その充実ぶりを滔々と、だがしかし熱意を持って次世代に伝えなくてはならない。わたしたちはそんな担い手となることを望まれていると私は思えるのです。

 

それじゃぁまたね(了)


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ひろゆきに「なぜか人生がうまくいく人の法則」について聞いてみた | 1%の努力 | ダイヤモンド・オンライン



全てを肯定するわけではないが

これは真理だと思う。ひろゆき氏は言う、成功している人はまず自分の好きなことに自信を持ち、とにかく手当たり次第に発信できる人である。そして重要なことはすぐに儲けることを諦めることであり、有名になれるかどうかはその後誰かが見つけてくれるのだ、と。真理だ。私がこのくだりを真理だと思う理由は私がこの手法で今ここにいるからである。Twitterで呟くことを恐れていた私は、ファイナルファンタジー14デビューと共にその呪縛から解かれ、呟き始めた。そして、SSを撮るようになり、そこからムジカという自分の性癖を全て取り込んだキャラクタを生み出し、そのキャラとして生きることにわたしは成功したのである。なぜそれをわたしは成功したと表現したか?それは私が好きで好きでたまらないモノの表現であり、私の自己実現における過去最大級の実験であったにもかかわらずたくさんの人にわたしを知ってもらえるという実績をもたらしたからに他ならない。わたしは、理想の私で誰かと繋がりたい人であった。そしてそれが実現したことはわたしの悲願でもあった。もちろんその事でわたしは富を得たことはほとんどない。強いて言うなら、わたしの文章力を認めてくれた人が居て、わたしに文章の仕事を有償で依頼してくれたことがあるからだ。大きく儲けたわけではない。しかし、1円でも稼いだことのなかったわたしの文章がお金になると分かったことは私の人生における、とんでもなくパラダイムシフトである。それを実現した理由はと聞かれれば、まさしくこのひろゆき氏が言う自分の好きなことを存分に楽しんで、それを無邪気に発信することにしたからである。その結果としてファイナルファンタジー14に出会い、ムジカと出会い、ブログ、TikTokに出会ったのだ。今の仕事に転職しよう!と確信したのもまた、自分の好きを発信することの楽しさを知り、その先にある未来こそがわたしの成功の道だと実感できたからである。全ては好きを諦めなかったこと、そしてそれを発信してきたこと。このふたつがあったからいまのわたしがこれだけ幸せになれた理由だと言っていい。人から言わせれば私の人生は成功に見えないかもしれない。現にそれほど裕福な生活をしているわけでは決してない。前にもどこかで書いたが全くもってシンプルな生活をしている。寝るか仕事するかエオルゼアに行くかこの三択しかわたしはずっとやっていないからだ。あ、いや、エオルゼア以外ではこのブログでしょ?TikTokでしょ?んー、あとはAppleMusicの選曲かしら。全部私の好きなこと。TikTokなんか、ホントに最初こそ絶対にやらないだろーなーと思ってたんだよ?でも、自分の知らない曲との出会いの場だって聞いてさ?それってつまり、わたしが学生の頃のFMラジオだし、MTVじゃんって思ったもん。好きな音楽をずっと聞くことの面白さよりも、知らない名曲に出会ったときの興奮が忘れられないの。しかもだよ?それが魅力的な映像とともに見られるなんて天国じゃん?それがわたしの原体験。MTVとの出会い。それをスマホでやれるかもしれない。そう思ったよ?でも映像なんて私作れないしって思った。そして、エオルゼアで撮った動画を使ってみることを思いついた。それは私の好きな音楽とゲームの融合だった。ゲーム音楽も好きだけどやっぱりわたしは知らない音楽が好き。洋楽、都会で流行ってるテレビでは流れないわたしの知らない音楽との出会いが好き。ゾクゾクしちゃう。そして、もう1つが私の頭の中の妄想を言葉にすることが好き。湯水のように溢れてくる言葉をそのままその温度のままにつむぎ出すわたしの脳内記録。それがこのブログ。そのときの熱い気持ちを記録できる素晴らしいシステム。そして、それを誰かに見てもらえる幸せ。わたしはね?ずっとノートに書き連ねてきたの。誰かに届けたい心の声を。1人で。夜中朝まで書いてた時もあった。全部書き終えるとスッキリして眠れるの。でも、ずっと夢見てたよ?わたしの文章を世の中に発表することを。それで編集ディレクターを仕事にした。なぜって?ライターとして仕事できるほど文章に自信なかったから。だからライターと仕事が出来る編集ディレクターならやれると思ったの。そしてそれは正解だった。ものすごく勉強になった。そこから手探りで私も書き始めたの。最初は誰かの使った言い回しでね。私の言葉ではなかったかもしれない。でも、私が選んだ言葉だったよ。伝わらなかったことも多かった。伝えたいことが伝わらない世界に長らくいたわたしだから、慣れっこだった。でも、伝えることを仕事にしたんだから、そうも言ってられない。だからリハビリだと思って必死に食らいついた。そうして少しずつ私の本当に言いたいことを織り交ぜていくバランス感覚を身につけていったよ?でも、それでも本当は怖かった。私が言いたいことは誰かを怒らせたり傷つけることが多かったから。黙っていた方がイイトオトウコトバカリダッタカラ。でも、私の好きを諦めなくていいって背中を押してくれたのは、ファイナルファンタジー14の仲間たちだった。その美しくも残酷な世界を作った吉田直樹さんだった。優しいだけじゃない。綺麗なだけじゃない。嫌なこともあるし、悲しいこともある。それはリアルそのものだった。姿かたちこそ自分とは違う存在だけれど、感じること、感じる気持ちはリアルそのもの。だから勇気が湧いてきたの。エオルゼアであれだけ私の好きを表現したんだから、きっとリアルでも表現できる。表現することは悪じゃない。誰かを傷つけていたのは表現のやり方が間違っていたからで、表現してはいけないことなんてない。好きを好きと叫ぶことは罪じゃないんだ。このことに気づけたことはわたしの人生の成功を意味した。だってそうでしょ?好きを好きと言っていいならわたしはどこまでも自由に生きられるもの。自由に生きる。それこそが私が夢見た理想の私の生き方だから!ひろゆき氏が言う、うまくいっている人。それは何か?と言えば自分に正直に生きている人だと私は思う。人よりお金や地位や名声がある人を上手くいっていると言ってはいないと思う。自分の思うように生きてそれで生きていけるのなら、お金や名声や地位は要らないはずだ。あっても良いが、必要条件ではないのだ。だからひろゆき氏が言うことをすべて肯定するわけではないが、彼は彼なりに自分の体験談を通じて真摯に答えようとしている。間違った答えをする事もある。だが同じくらい彼の言葉が真実を言い当てていることもまた存在する。要は自分に理解出来る話は自分にとっての真実と言っていい。真実はいつもひとつなのではなく、人の数だけある。人が居て、その人が理想とするものがそれぞれ違う限り、真実はいつも心の中にある。それを教えてくれるのはいつだって自分自身だ。わたしはそう思う。その気づきをひろゆき氏はいつもわたしに教えてくれるのだ。改めて私の心の師匠を上げておく。長嶋修先生、黒川あつひこ先生、吉田直樹さん、そして最後にひろゆきさん。この4人である。

 

それじゃぁ寝るね。またね!(了)


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【インタビュー】ひろゆきが考える「日本がダメになった瞬間はどこだったのか」



怪しげなインターネットの商売をしている人は悪だ。

そんな認識が蔓延っている。ひろゆき氏が言うように、スーパーコンピューターを作っていたあの人や、Winnyの創設者(ビットコインの生みの親との噂も)、元livedoor堀江貴文氏、2ちゃんねるニコニコ動画ひろゆき氏……そのどれもが逮捕、起訴、損害賠償請求……等、散々な目に遭っている。彼らをよく知らない私が言うのもおこがましいが、確かに怪しかった。そして逮捕された時に、やっぱり……と思ったものだ。そうして、インターネットは怪しいもの。匿名の掲示板は犯罪の温床、オンラインゲームは廃人のする遊びという固定概念は形作られていった。その事実(という名の日本の雰囲気)が起きたタイミング。それこそが、ひろゆき氏が言う、日本が終わったタイミングと合致するに違いない。まぁそれにトドメを刺したのは大地震であり、原子力発電所メルトダウンであるのだが。泣きっ面に蜂。この言葉があてハマり過ぎる国、それが日本である。かつての先進国としての威光は消え去り、あるのは残骸だけ。人々の活気もなく、あるのは現実に絶望するがあまりに反社的に生み出されるコンテンツの鋭い切れ味のみ。現実のやるせなさ、どうしようもなさ、絶望感。それが日本全体を覆っている。頑張らねば。進化しなければ。世界に追いつかなくては。そんな気持ちでシャカリキに働く人はもうこの国には一人もいない。残っていない。ただひたすらに与えられた仕事を淡々とこなし、ただその日暮らしをして歳をとっていくだけのくに。それが日ノ本の国、日本である。だが、それのどこが悪いのか?というのがこの記事の問題提起である。成長しない国。敢えて成長しない。あえて進化しない国。進化を止めて、今の世の中に満足する国。世界は目まぐるしく変化しても、日本だけは日本のペースでのんびりやっていく国。そしてたまに得意な人が現れて、その分野で大活躍したりする国。野球、相撲、日本食。アニメ、キャラクター。それらを作り出す人達がごく稀に登場して、世界と戦っていく。しかし、国の中は上を向いたりせず、ただ淡々と海を眺めながら、東から西ノ海に沈む太陽を目で追うのだ。そうしていると季節はめぐり、春から夏、秋から冬へと変化する。その変化を楽しむだけの民族。昔からそうだ。それこそが日本人ではなかったか。いつからか、欧米や列強諸国のやり方を真似て、追いつけ追い越せでやって来た。明治維新、文明開化、そして戦争。それらはすべて外国の真似をした結果である。これだけグローバルに文化が混ざり合う今の世の中で、いまさら外国の真似事をしてなんになると言うのだろう。早々に年配者は引退してもらって、早めに若い人たちにバトンタッチしてほしい。そうすることで、より日本は日本らしいスローな、平和な、無害な国になるに違いない。もはや、世界を取ろうとする人は若い人にもいない。ただ当たり前の日々を健やかに、穏やかに、ほんの少しの楽しみと希望を胸に明日の朝を迎えていくだけの国民性。これ以上何を望むというのだろう。金融資産を増やしているように見えてそれはお金の価値を減らしているだけ。資産は買うのはたやすい。しかし換金するタイミングが難しい。換金しなければただの幻。換金しても二束三文。それはありもしない夢を買うのと何が違うのだろう。何も違わない。結局は何も持たない人が、使わずに暮らせる人が年をとった時にもっとも幸福感を噛み締めることが出来る。それこそが、最高のゴールである。持たざる者は持たざることを誇りに持たざる今を生きることができるかどうかに価値があるのであって、富める者は下り坂を何とかして緩めることに精一杯で持たざる者の幸せを理解することなどできはしない。最後に笑うのはたくさんの資産を持つものではなく、使わなくても生きられる今を満喫できるミニマリストであるとわたしは思う。それでいい。それがいいじゃないか。日本には観光資源がある。海もある。山もある。素晴らしい日本の心がある。それ以上何を望む?半導体を作る?大いに結構。やればいい。世界一を目指す必要はないはずだ。国内で賄えるだけの分は国産の半導体でやればいい。それだけである。自動車もそうだ。儲けすぎは儲からないことと同義である。家族が笑って暮らせるだけの費用はそれほど多くを必要としない。私はこの記事で改めてそのことを感じることが出来た。そうでありたい。歳をとっても長生きしたいとは思わない。死ぬ時は死ぬ。それだけである。働かなくなって社会の重荷になるくらいならギリギリまで働きたい。働けないなら知恵を絞る。何もせずに延命機械で生かされるような晩年だけはゴメンだ。エオルゼアをプレイし続けることは社会に貢献するかな?あなたはどう思いますか?

 

それじゃぁまたね(了)


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キャッシュレスで格差拡大も 日本はなぜ「現金主義」なのか | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)



先日、自動車税をPayPayで支払った。

これまでもわざわざコンビニで支払い用紙を使って払うことにかなりの無駄足感があった。それでペイジー決済などが出来る場合は積極的に使いたいと思っていた矢先、ついに私の住んでいる地域でも自動車税をPayPayで支払えることになったとPayPayの通知で知った。それならばということで早速PayPayに必要な資金をチャージしていざ支払ってみると、案外すんなり出来た。それだけではなく、25000円の支払いで、157円程度のキャッシュバックがあったことにはいささか驚かされた。これまで、PayPayで買ってキャッシュバックがあるものは食品や玩具などに限られており、各種税金の支払いや、金券、切手等の支払いには使えなかったということもあって半ばそういったことはあらゆるシステムの都合上、無理なのだと思っていた。税金なんて絶対に無理でしょと思っていた私の常識は見事に打ち砕かれた格好である。わざわざコンビニで支払うことと、わざわざコンビニのATMで現金チャージすることの何が違うのかと言われれば工程としてはさほど変わらない。いや、コンビニのATMで引き出しをする訳にも行かないので(手数料だ)、さらに別で銀行ATMに出向いている。その言う意味で手間がかかっているのは事実だ。しかし、その手間をかけたことで、157円のキャッシュバックがあったというわけである。これは何だ?手間賃か?もちろんこれは支払いがスマートになったように見えるだけで何もスマートになどなっていない。しかも、支払い用紙を貰える訳では無いので、車検などの際に必要な書類を受け取るまでに2週間以上のタイムラグが生じるという。なんだこれは。車検が近い場合にこの支払いをするのはダメということか?この点については正直よくわかっていない。また、今回25000円というやや大金をPayPayで支払ったことで、PayPayの還元率も上昇させることができた。これはさらにPayPayを使う理由になることだろう。まぁそれだけと言えばそれだけである。しかし、今回の自動車税に限らず、わたしは現金で支払うことにかなりの躊躇が生じていることも事実であった。わざわざ銀行で下ろしたお金をコンビニ等で支払う。それをする理由がわからない。税金など銀行から引き落としてくれればそれでいいと思うくらいだ。しかし、政府はわたしの銀行口座を知らないので、わたしが直接銀行窓口に出向い手続きをしないといけない仕組みになっている。そんなのはゴメンだ。勝手に引き落とししてくれるのはある意味で便利だが、忘れた頃にやってくる自動車税NHK料金や、市県民税というものは手間が省けるというだけで銀行引落としになっているのはいささか嫌なものである。NHKは集金の営業?が来たのでやむ無く手続きをしたがこれだって本当はデビットカード払いなどにしたい。PayPayでもいい。銀行引き落としのメリットは、単に忘れなくていいというだけだ。得はない。だからと言って現金で支払っても同じだ。手間がある分損した気分すらある。そこにPayPayが間に入ることで手間賃が貰えるばかりか、還元率も上がる。もはや現金で支払うことのメリットなど、支払う側にはコレっぽっちもないのだ。支払ってもらう側は現金をすぐ手にすることが出来るというメリットはあろうが、それのために、なぜわたしがなんの得にもならない現金払いをしなくてはならないのか。フェアな関係ではない様に思う。いや、PayPayなどの支払いにこだわるのは、支払う側だけにメリットがあるのか?受け取る側(つまり支払ってもらう側)には、クレジットカード決済よりも手数料が安く、キャッシュフローもクレカよりは早いだろう。そういう妥協点という意味で、QRコード決済はあってもいいはずである。少なくとも私はそう思うし、少ない金額をクレジットカードで決済をされるよりはお互いにまだマシであるはずだ。だからこそ、クレジットカード決済を嫌う店舗こそQRコード決済を導入して欲しいと思うのだが、なぜだかどうして、飲食店ではクレジットカード決済を導入する傾向にある。なぜだろう。クレジットカード決済のほうがいいという理由はどこにあるのだろうか。単に、どちらも嫌だが、クレジットカード決済をして来る人がこのコロナで増えたからやむ無く、という理由がありそうである。このキャッシュレス決済でその機会を大きく伸ばしたのは、QRコード決済ではなく、クレジットカード決済だからだ。結局は使いやすいものに需要が映っただけで、現金払いは少しずつ減っているように思う。まぁ、今私が仕事の最中にコンビニに立ち寄ったとして、前後の支払いが現金払いであることの方が圧倒的であり、わたしが交通系ICカードや、PayPayで支払うと、なんだか物珍しい雰囲気になるのは、私が住んでいる地域が田舎であることの証拠なのだろうけれど。現金払いがこれだけ多いのは日本が災害大国だからというのは確かにあるだろう。いくらスマートな支払い方法だからといっても、いざ地震や台風で電気が止まってしまうような事態になればスマホで支払うことなど不可能だ。だから現金払いはいいのだ、というのも分からなくもない。最後は現金払いだという意見はある意味で正しい。だが、そんな極限状態では現金払いすら怪しくならないだろうか。1万円札を1万円札として使えなくなるほどに逼迫した状況なら、そもそもが終わっている。食べ物と食べ物を交換するような事態となれば、もはやQRコード決済だろうと現金払いだろうと同じことなのである。であるなら、タンス預金などで現金を眠らせておくことは最良の策であるのだろうか。家が半壊しそのお金を取り出すことすら出来なくなる可能性はないだろうか。そうなれば全財産を失うリスクすらある。わたしも全財産をPayPayにチャージすることはしない。貰えるキャッシュバックがあるなら使う。それだけだ。それはクーポンがあるなら使いたいという主婦感覚である。チャージもせいぜい2万円が限界である。それよりも現金を持ち歩くことの方が煩わしい。その上、財布を落としたり、盗まれたりしたら大きく財産を失ってしまう。PayPayなら?クレジットカードのように利用停止などすればいいだろう。スマホを取られたらそれはそれでダメージはありそうだな……。まぁ外国ではないので、そうそうにそんな目には遭わないとは思うけれど。あ、わたしは財布を持っていません。あるのはカード入れだけ。あなたはどうしてますか?

 

それじゃぁまたね(了)


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『FF14』吉田P/Dインタビュー 新ジョブ“リーパー”や『暁月のフィナーレ』のボリューム感について訊く - ファミ通.com

 

吉田直樹さんの夢に関わる夢について。

ファイナルファンタジー14とは、つまるところ、吉田直樹さんの夢に関わることだ。こう言うと、なんだ大袈裟にと思うかもしれない。だが、そう思えてしまうのだから仕方がない。15日、16日の2日間開催されたファイナルファンタジー14のファンフェスティバル。最初は基調講演だけにするつもりだった。しかし、蓋を開ければほぼすべてのコーナーを見たわたしである。結論から言えば楽しい時間を過ごすことが出来た。とても楽しかった。途中と、終盤に感情がぐちゃぐちゃになる場面があったが、それも含めて非日常的な刺激に飢えているわたしにとってとても刺激的過ぎる体験だったと思う。その事に気づかせてくれた事は貴重な経験だった。その分、週末をマルっと2日間このファンフェスティバルに、費やしたわけであるが、その点についてはどんなに他の時間の過ごし方を考えてみても、あの過ごし方以上にベターな週末はなかったと断言出来る。ゲームの新情報がてんこ盛り!という単に楽しいだけの新作発表会のようなものを想像していたわたしは完全にいい意味で裏切られたと言っていい。完全に初見殺しだった。ファンフェスティバルはお祭りだから。そんなわかりやすい言葉のギミックにまんまと嵌められ、無事、床を舐めた新米ヒカセンである。吉田直樹さんの用意するコンテンツ(あえて今日のイベントをそう呼びたい)は、いつも一貫して、観る人をエキサイティングさせるという目的に彩られている。それは、新情報に触れることで興奮させる、過剰なファンサービスに感動させられるだけで終わらない。吉田直樹さんの人生の記念日に立ち会わせる、吉田直樹さんの心情にシンクロさせる、そう言った、私的な側面をそのまま披露する場所と言っていい。これはなにも、ファンフェスティバルに限ったことでは無い。漆黒のヴィランズを発表した2年前のあのイベントも思えばそうだった。光のお父さんの映画化という発表会も兼ねていたと記憶する。主演の2人に登場してもらい、あらゆるメディアの取材にもみくちゃにされながらも、当時の新作、漆黒のヴィランズを盛大にPRしていた。それは今回も同じである。神木隆之介さんを公式アンバサダーに任命するというサプライズによって、ファイナルファンタジー14の最新パッチ「暁月のフィナーレ」をPRすることにしたのである。それは成功したのか?答えはこれから出るだろう。客観的に考えればそれなりにPRできたと言える。それは私たちのような従来のファンに向けた発信ではない。まだ見ぬ、未だ冒険に出ようとすら思っていない未来の冒険者に対する宣伝である。その効果はどうか?といことで言えば、単純に比較できる訳では無いが、前回の漆黒のヴィランズと同等のインパクトを世の中に与えることは出来ていたように思う。それはネットニュースなどで取り上げられ、神木隆之介さんという共通項と共に、広くあまねく宣伝効果は波及されることであろう。その本番はむしろ、月曜日から効果を発揮するのでは無いかと思ったりもする。それはファンフェスティバルの成功と同時に語られるからだ。その成功は何を持って成功と表現されるのか?なんだろう。視聴者動員数であり、コメント総数であり、新作の予約数であるだろう。そのどれがひとつもしくはすべての数を持ってファンフェスティバルがいかに盛大に行われたのかが明日以降流布されるのだ。その2日間をオンラインで間近に体験した私たちは今だその破壊力がどれくらいのものだったのか?ということを客観的に測定出来てはいない。それは吉田直樹さんの夢を、間近で見てきたゼロ距離からの測定ではそれがどのくらいの速度で世間に広まるのか?ということは予測しようにも身内贔屓で見てしまう。それは仕方の無いことではあるが、少なくとも私たちの心に何かを残したことは確実である。それは吉田直樹さんが始めたひとつの夢であるが、いつしか仲間が増え、理解者が集まり、賛同者がそれぞれに力を寄せ集めて巨大な夢のカタマリとなって、転がり続けている。夢。夢を持つ者に、私たちはどうしようも無く惹かれてしまっている。その夢を一緒に見続けたいと願ってしまっている。それこそが、吉田直樹さんの夢に関わる夢そのものの正体だ。そこに永久に関わることは不可能に近い。なぜなら、1年やそこらで終わるような短いスパンのそれではないからである。また方向性は定まってはいるのだけれど、明確なゴールが決められている夢ではない。その形のない夢に魅せられ、そこに影響された人々が見る夢。そこからこぼれ落ちる誰かの人生の終着点。それを吉田直樹さんの夢はひっくるめて前に進めようとする。なぜなら、人の一生は短い。また、開始地点がそれぞれ異なる群像劇そのものだ。そこに関わる人達一人一人を大切にするという無謀な巨大な夢。それは喜びも悲しみも大きく含む一大叙事詩。ゲームが好きという共通項だけで繋がる巨大コミュニティ。いつか終わりが訪れる。それは物語を閉じる日。終わらないネバーエンディングストーリーは存在しないことと同じくらい人生もまた終わりを内包する物語そのものだ。今日見た人生の出来事は、奇跡のような1日である。それは吉田直樹さんの周りで起きた奇跡だ。それを私たちは目撃した。意図した部分もあるとは思う。だがそれ以上に、私たちはサプライズとしてその事実を、彼の周りの人達の人生の出来事を受け入れた。もちろん、傍観者として受け取ることしか出来ないだろう。しかし、リアルタイムにその事実を共有することが出来た事はあらゆる経験の中でよりリアルに、身近に感じ取ることの出来た出来事として深く心に刻まれる。確かにHappyな報告ではなかったかもしれない。しかし現実としてそこに居る。生きてそこで笑っている。その事実を共有することが出来たことはこれ以上ない喜びとしていまは受け取ろう。泣きながら抱き合って今生きていることの喜びを分かち合いたい気持ちでいっぱいではないだろうか。この気持ちは特別な気持ちでは無いのかもしれない。人として当たり前に感じる感情の1つかもしれない。けれど、少なくとも、私個人で言えば、これまでにここまで心にダイレクトに響く気持ちはなかったかもしれない。家族。両親。飼っていたペットの犬。そんな私の周りの人達との思い出や、出会いや、別れや、悩みや、これからの不安や、希望。そして明日への葛藤。それらをこんなにも吉田直樹さんの周りの人達に感じることがあるとは、正直思いもよらなかった。それはギフトであると同時に問いかけである。あなたの人生にそんな気持ちにさせてくれる人はいるか?という強烈な問いだ。人はいつか別れるときが来る。だからわたしは人と深く関わることを避けてきた。いざ別れるときに寂しくなってしまうから。その寂しさに耐えられなくなることが怖いから。1人という寂しさに耐える勇気がまだ残っている内に他人と共存して生きていきたいと願っている。だが、家族、大切な人や大切な存在が嫌でも出来てしまう。それが人が歳をとるという事だとしたら。わたしは今日この日を迎えたことは喜ぶべきことなのだろう。歳をとったのだ。私は確実に死に向かって生きている。それは全ての人が向かう終着点。嫌だ嫌だと途中で降りることは出来ない。気づいた時。それは明確に目的地としてセットされている。そこに向かうまでの間に見る夢。その夢のひとつに、吉田直樹さんの夢がある。わたしはこの命が尽きるまで、彼と彼の周りの人達、そして私たちが一緒になって作る夢の行く末を共に生きていきたい。それが、途中下車して行った人達の思いを引き継ぐ私たちの旅路であると思うから。

 

スタッフの皆様、2日間本当にお疲れ様でした。

 

それじゃぁまたね(了)MUSICAより。


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"【安いニッポン①】年収1400万円は低所得?価格が示す停滞(Cheap Japan)" を YouTube で見る



日本の未来は暗いどころか、後進国まっしぐらという指摘。

中田敦彦さんのYouTube大学。日本は物価がここ30年上がっていない。給料も安いままだ。世界は違う。世界は物価が上がっている。給料も上がっている。何故か日本だけはそうならない。その理由のひとつに企業の内部留保があるという。利益の大半を設備投資や人材育成に使わずにとっておくという。先行き不安からキャッシュフローの焦げ付きを恐れてとりあえずプールしておく。それを30年続けた結果、日本はこの30年全く成長しない国となった。税金は上がり続けているのだから実質賃金は下がる一方である。日本の企業はもはや死に体。1部のグローバル企業を除けば、ほとんどが利益を産まないばかりか税金を食い荒らすゾンビ企業だ。……という指摘が前半。後半は、安すぎる日本を高く買う外国人達の存在が日本に何をもたらすのか?という視点。爆買いで沸き立ったお・も・て・な・しは一時的な利益をもたらしたが、ただ安いだけで日本に来るような観光客や、ただ安いと言うだけで土地や企業を買収するような人達にこっぴどく買い叩かれてさらに別の投資家に高値で売りさばかれる。コロナによってその恩恵も失われたかに思われたインバウンド需要は、棚ぼた的な利益というよりは、アフリカの人がカカオをたくさん生産しているのにチョコレートを食べられないがごとく、フィリピンの人がバナナをたくさん生産しているのに現地の人が食べられないがごとく、日本に外国人向けの高級ホテルや高級レストランが乱立する未来へ。外資系企業が増え、外国人の上司に付き従う日本人従業員。技術者は高値でヘッドハンティングされ、アニメーターもNetflix出資によって育成・保護される。作るのは日本人だが、それを売って儲けるのは外国人。日本の国内はますます冷え込み、技術を持つ才能ある人間は次々国外へ飛び出してゆく。国内に残るのは高齢者と、能力の低い国民だけ。しかも外国の人からお金をチラつかされ、群がるように、ハイエナのように与えられた餌を貪り食う日本人。それが私たち日本の未来だ。ではどうすればその危機から脱することができるのか?そもそもそれは本当に危機なのか?よく良く考えれば、いくら儲けてもお金をくれない守銭奴経営者よりはいくばくかマシに思えたりはしないだろうか?いや待て。実力者であれば優遇されるという社会は、その逆は解雇である。そのリスクを理解したうえで、マシだと言えるのだろうか。いやむしろもはや誰も止められない時代の変化の流れにおいて、日本的な、狭い世界の中の視点だけではもう、立ち行かないと理解すべきだろう。だからと言ってどうする?自分磨きをするしかない。自分で自分の身を守るために必要な技術を養う。そして、外資系企業からのヘッドハンティングを狙うのだ。あれ?これでいいんだっけ。日本が外資系企業に虫食いにされてしまうことはもう既定路線?わたしは日本人ができることは、日本の企業から品物を買うこと。どんなに便利でも外資系企業にお金を払わないこと。そして日本の経営者に、しっかりと自分の給料について価格交渉をすること。それが出来れば苦労はしない。まずは、日本の物価が安いことと、給料が少なすぎることを自覚しよう。そして、適正価格を知り、安すぎるサービスや商品は値上げに寛大でいよう。安くて美味しいとか、安くてもサービス充実とか、そういう夢物語は捨てよう。日本食が美味しいのは、高級食材を買えているから。食材も外資系企業に取られている。お金がたくさんあるところにさらにお金が集まっている。このままいくとますます日本は置いてかれる……。でもさ、中国みたいに自国のサービスしか認めませんというやり方もあるよね。今更やれないだろうけど。国を上げて半導体を作ればいいのに。JAPANディスプレイの失敗があるからやれないのかしら。まあ政府系のプロジェクトはほとんど絵に描いた餅になるのだから無理もない。信用創造の民営化を謳う政党もあるけれど、それにしたところで纏まらないのも目に見えてる。結局は自分の身は自分で守るくらいの気持ちで日々暮らしていく。卑下せず悪びれず、ただし、現状には満足しない。日本は外資系企業の何周も遅れた長距離走者だ。追い抜くこともできなければ、ついて行くことすらできない。このまま衰退していくしかない島国、日本。できることは何か。ベーシックインカムの実現で国民すべてを平等に扱うとか。高齢者には悪いが日本を発展させるために年金はカット。若い人の教育に税金を使うべきだ。なんちゃって。日本が終わるって思いたくはない。だけどリアルに感じられる恐怖、危機感は常に持っていたいな。

 

それじゃぁまたね(了)


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「職業に貴賎はないのにヒエラルキー社会」ボーッと生きる人が気づいた時にはもう遅すぎる冷酷な現実 学校でも家でも教えてくれないこと | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)



貴賎とは、効率である。

人生の時間は有限である。これは普遍だ。24時間が、人によって違うことなんてない。1日はみな同じである。違うのは時間の過ごし方である。いかに短い時間で多くの成果を得るのか?という軸だ。職業に貴賎はない、とは言うが、100万円儲けるために必要な時間の総数は職業によって異なる。与えられた時間は同じであって、それを得るためにかかる時間が長ければブラック。短ければホワイト。と言うのも単純すぎる気がする。短ければそれだけ効率的な働き方であるというだけで、長ければそれは、短い職場よりは大変だということである。仕事のできる人というのは長時間デスクに齧り付く人ではなく、人よりも短い時間で成果を出せる人である。よって、残業をするのがえらいのではなく、残業せずに成果を出してさっさと帰宅してしまう人こそが、仕事のできる人である。貴賎はないが、効率的か?という視点はあるのだ。効率的でなければならないし、我々一般の従業員が出来ることは質の向上もさることながら、もっとも求められるのは作業の効率化である。記事にあるようにお金持ちが居て、自分とは違う世界を生きる人がいるという気づきは大切だ。違う世界を生きる人を目の当たりにした時、それを目指すのもいい。逆にその世界にいない自分のメリットを考えて見るのもいいだろう。お金持ちになれなかったとしても、お金持ちになれないことが不幸なのではなく、長い人生の中で本当になりたい自分を見つけ出せないことの方が本質的な不幸であると思う。では本当になりたい自分をどうすれば見つけることが出来るのか?それはまさしくこの記事が教えてくれている。つまり観察である。自分の周りの世界が当たり前と思ってなんの疑問も持たずに日々暮らしていると、それが当たり前では無い世界があることを知るチャンスは死滅すると言っていい。1つずつ今ある現状は何故そうなっているのか?なぜ今の私がここにいるのか?そして、どうなればわたしは満足できるのか?という疑問は常に心の中に住まわせておきたい考え方のひとつだ。常識を疑え、と言うとかっこよく聞こえるかもしれないが、常にそんな懐疑心に取り憑かれていては何も楽しめなくなってしまう。わたしだってそんなに面倒くさい生き方は御免だ。ただ、わたしは人よりも多くの時間を、思考という行為に費やしたい人である。なぜなら、思考こそがわたしが取るべき最高の時間であるからだ。なぜ最高の時間と言えるのか?については、世の中にある無数の選択肢の中で、どれを選べば良いか?という問は常にあるにも関わらず、よく考えずに選んでしまい大きなミスに繋がってしまうことが少なくないからだ。人生におけるステージの変化の選択肢はそれほど多くは無いのだが、日々暮らしていく中に潜む選択肢をひとつひとつ間違えずに選んでゆくということを疎かにしてはいけない。一つ一つをじっくりと吟味し、本当に後悔のない生き方をするにはすべての選択肢を俯瞰して見下ろすだけの冷静さが必要である。選択時に慌ててしまっては元も子もない。冷静に正解を選びとること。これは日々の鍛錬の練度がものをいう。つまり人生における大きな選択肢を間違えないための練習、鍛錬である。そのために必要な時間。それが思考である。瞑想と言っていい。私の場合は言葉の洪水に飲まれそうになるくらいに言葉を反芻してしまう。だからこんがらがってしまい、逆に何も選べなくなることも少なくなかった。だからわたしは思考の時間を要する。自分の選択が間違っていないことを確認する時間である。そして、自分の頭にない情報のインプットだ。新しい情報に触れることは、思考を趣味とする私にとっては栄養そのものだ。栄養が与えられた脳は喜んでその情報を喰らう。そしてリズミカルに咀嚼。自らの新しい血肉となってゆく。その流れこそが不純物を濾過するがごとく循環器の役割を果たし、思考の深度を深めるのだ。最近では考えすぎてしまうわたしもついに限界を迎えつつあり、瞑想して一時的にすべての煩悩を解き放つか、逆にTo-Doリストにメモした上でその日は思考を停止させ、明日の朝まで悩み事をきれいさっぱり忘れるという荒療治すら体得してしまったのだけれど。考えすぎも良くない。それはわたしのように言葉が渦巻く人には顕著なのだ。さて。話を職業の貴賎に戻そう。効率的な働き方をするには、特定のスキルや高い専門知識を伴う場合が多い。ひろゆき氏が指摘する、プログラマーは比喩としては適当だろう。実践すればするほどスキルが溜まり、次から同じ作業をするのに所要時間は少なくなってゆくからだ。その分、高度な技術を必要とするし、日々勉強する学ぶ姿勢がセットで必要になって来ることはもはや言うまでもない。わたしもそのことに気がついた。だから自分を学ぶ環境に置く必要があった。わたしは思考は好きだがつい自分に甘いところがある。そこで背水の陣を敷き、日々の頑張りの底上げを測ったのだ。その分大変ではあったが今となっては楽になったものだ。プログラマーほどの専門性はないが、なんというか時代の流れを肌で感じられる今の現場感はたまらなく好きだし、自分の持っているスキルや能力をかなり発揮しないとついていけないくらいのスピード感である。慣れてしまえばそれも楽になるのだから、我ながら順応性は低くないことがわかって嬉しい。これも年の功と言えばそうなのだけれど。伊達に20代で休みなく働いたわけじゃない。お金は無かったし、休みもなかった。それでも遊びたい友達も恋人も居なかったのだ。私がひとりで週末過ごしてもせいぜいゲームをして時間を潰すくらいしかしなかっただろう。それで良かったのだ。いまのわたしはあのころの苦労のおかげで成り立っている。そこは間違いのない事実なのだ。仕事に貴賎はない。ただし効率的かどうかという視点はある。効率的じゃない場合でも自分がやりたいと思ったことならばそこに費やした時間と苦労は無駄にはならない。むしろ、効率的な働き方というのは手足を高速に動かすことを意味するので、手先のテクニックは身についても内面のビルドアップにはなりにくい。若いうちは愚直に時間をかけてとことんやった方がいい。落ち着いてきたら今度はそれを応用して効率化を図る。そうしてスピード感では負けてしまうような相手とも互角に戦うことができる。その余裕の有無こそが年の功だとわたしは思ったりする。歳は取ってみなければその良さ、深みを理解することなどできないのだから。

 

それじゃぁまたね(了)


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