ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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吉田直樹氏の『FF16』開発が大詰めであるというコメントに、米PRチームから“怒られ”が発生していた。『NieR』×『FF14』生放送にて明かす - AUTOMATON



楽しみすぎる。。

   ファイナルファンタジー16はどんな作品になっているのだろう。この気持ちを持ち始めてからずっともやもやしていた。それはファイナルファンタジーではないのではないか?海外向け、ないし、原点回帰。そんな発表を受けて僕はある考えが過ぎっていた。もしかしたら…ファイナルファンタジーは「もう、僕らのファイナルファンタジーではなくなったかもしれない」。

 

   ファイナルファンタジーは、誰のためのものだ。それは子どものものだ(った)。それは、登場した当時の少年たちの、であった。子どもが欲しいものは子ども向けのゲームじゃない。もちろん、リアルを追求した大人を楽しませるものでもない。少年の夢が叶う場所。大人になりきれない(なりたくない)少年たちが最後にたどり着くモノ。それこそが、ファイナルファンタジーだった。

 

   僕はリアルがきらいだ。クソくらえだ。リアルなんてなんにも面白くない。そして全く救えない。救えない世界を救おうとする奴はもっと救えない。リアルに期待するな。期待する方が間違ってる。そう思う。今でもそう思う。大人になってなにかもっと違う世界があるだとか、楽になるとか聞いて僕は大人になった。だが、それはすへて嘘だった。なにもない。せいぜいあるのは、ささやかな幸せを見つめる世界だ。それのどこが悪いのか?悪くない。全然悪くない。たぶん幸せだ。これでいい。これでいいんだ。でも、でも。なんで僕は満たされていないんだろう。もっと、やりたい事がほかにあったんじゃないか?もっと、違う人生があったんじゃないか。わからない。わかるのは、僕のちっぽけな幸せはそれなりに僕を楽しませてはくれるけれど、それ以上でもそれ以下でもなく、「ただそれだけ」だった。

 

   世界は広い。まだ僕の見た事がない世界がこの世にはたっくさんある。見ずに終わりたくない。そうだろう?そこに「ある」なら、見つけに行こう。それこそが、僕たちの探し求めた「冒険」。名前をつける?そうだな、僕たちの最後の冒険。ファイナルファンタジーだ。

 

    この記事を読んで。この吉田直樹氏のコメントを、齋藤陽介氏の言葉を見てわたしは震えた。おそらくそれは間違いない。きっと僕らが夢に見た「僕たちのファイナルファンタジー」だ。

 

もう誰からも評価されなくていい。

僕が楽しめればそれでいい。

ファイナルファンタジー16。

楽しみすぎる!!!!

 

それじゃぁまたね*˙︶˙*)ノ"


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「TikTok売れ」は、なぜ起こるのか?その理由とZ世代が衝動買いをするポイント (1/3):MarkeZine(マーケジン)

 

飢えたことのないz世代に「買わせる」には圧倒的なクリエイティビティで「購入意欲を奮い立たせ」て、「衝動買い」させよう。

   …なんだろうこれ。いや勿論そうなんだけど。欲しいものがないという世代という認識もしっくり来た。また、欲しいものがない世代は、爆発的に購入意欲を掻き立てるものが必要であるという論調も理解出来る。ても、「衝動買いさせよう」のくだりはなんだか違和感あるよ?なんか、どこかでZ世代をバカにしてる感じないですか?(考えすぎ?)

 

   ニーズを満たせば売れた時代に売れる商品とは、圧倒的に魅力的な商品を生み出すことが条件だった。  それは人々のニーズを満たすものであると宣伝すればいいのである。だが、令和の時代には必要なものなどその辺のコンビニで買うことが出来る。衣食住もすべてある。エンタメだって十分にある。だからこそ、必要なものを求める気持ち(ニーズ)は限りなく薄い。ニーズを満たす魅力的な商品を生み出すことができたとしても「買わない」「欲しくない」。それよりも、いかに「欲しい」を生み出すか?が大切であるという記事だ。確かに欲しい!というものはほとんどない。にも関わらず、欲しい!と思わせるものがあればそれが幾らだろうと関係なく「欲しくなる」。それは推し活を例にしなくても明白な欲求としてある。

 

   いや、それしかないと言っていい。それを求めていると言っていいくらいには枯渇しているのかもしれない。そう、何かを欲しいと思う気持ちに!なってみたいのだ、なりふり構わず求めたくなる志向の1品に出会いたい。それは運命の存在かもしれない。自らの魂の枯渇を潤す奇跡の存在。それこそが、この欲しい!と思わせる「何か」だったりするのである。

 

   それを与えてくれるなら、𝙏𝙞𝙠 𝙏𝙤𝙠だろうと、Instagramだろうと、なんでもいいのかもしれない。確かに僕自身、tiktokを見続けている時に何を求めてそうしているか?と聞かれれば、それこそ「衝動」だったりする。つまり、「すごい!」とか「可愛い!」とか「面白い!」とか。そういった感情を揺さぶる何かを求めて、僕らは今日もtiktokを見続けてしまうのだ。あぁ、なにか面白いことないかなぁ。

 

   しかも。tiktokなら、YouTubeと違って検索しなくていい。とにかくスワイプすればいいことは楽である。スワイプするだけで、自分の好みにパーソナライズされたユーザーアカウントが次々に流れてくる。フォローも要らない。もちろん、フォローすることでお気に入りを見逃さないというメリットはあるが、単にそれだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 

   よく言われる質問に「tiktokのどこがいいの?」がある。わたしもそれについていまいち言語化出来ていなかったが、この記事のおかげで言語化できそうだ。つまり偶発的な出会いを求めるなら、tiktokは最適なツールなのである。また、僕のような音楽好きならなおさらそうであろう。仮にユーザーアカウントの投稿に賛同できなくても、そこに流れるBGMが好きであれば見てしまう。もっと言えば、自分が過去に使ったことのある音源を使う人ならば、どこかで「この人と僕は気が合うのかもしれない」と思ってしまうのだ。

 

   tiktokのユーザーがオススメする商品を購入したいと思ったことは無い。だが、これがSNSを普段から利用しているようなZ世代なら、そこになぜ引かれるのかも分からないままにtiktokを見続けるだろう。それが一昔前ならYouTubeだった訳だが。いまももちろんYouTubeは健在である。しかし、流行りの音楽を聴くには?その答えはtiktokとなる。

 

   tiktok売れがどれくらいすごいのかはなんとなくはわかる。なにせ、本心からその商品を愛しているユーザーがオススメするのだ。魅力が伝わりすぎるくらいに伝わるはずである。なにせ、tiktokで嘘や偽り、ステマは厳禁だからだ。いや、バレずにそれをしているアカウントもあるだろう。しかし、1ユーザーが発信する以上、誠実に本心からそう思っているに違いない(そうでなければ嫌だ)という心理はものすごく強烈に存在する。この記事は素晴らしい。だが、その点だけは間違えずに理解して欲しいと思っている。

 

それじゃぁまたね*˙︶˙*)ノ"


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SNSで「無邪気に」感想が言えない…Z世代の「奇妙な謙虚さ」(稲田 豊史) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)



感想を言えないという思考停止に陥ってしまう前に。

   今も昔も「感想を言う」という行為は、勇気を伴う。それは自分自身の理解力、言語化力等を明らかにしてしまうからだ。それはすなわち自分という存在の値踏みに関する情報を第三者に与えてしまうことと等しい。自分が他人より必ず優れているという確信が持てない以上、安易にひけらかして得られるメリットなどない。デメリットの塊である。

 

   だとすると、「意見を言う」行為はタブーなのだろうか。「下手なことは言わずに黙っていよう(その方がメリットがある)」とする判断はある意味で正しい。コミュニケーションは情報の交換だからだ。つまり、いかに相手から多くの情報を聞き出すかが勝負の分かれ目だからである。逆の言い方をすればそれは「いかに自分の情報開示を最小限に留めるか」ということでもある。

 

   コミュニケーションにおける情報の価値は対価交換ではない。今持っている情報の中で最も価値のあるものを差し出すゲームだ。例えるなら、カードゲームの大富豪に似ているかもしれない。もしくは、ババ抜きである。いかに自分が有力な情報を持っているように見せ、相手からより多くの情報を聞き出すかという意味において酷似していると言っていいだろう。

 

   情報を一方的に受け取ることを最上としながら、より価値のある情報を得ようとするなら、ある程度はこちらも相応の情報の開示を求められるゲーム。それがコミュニケーションだ。それはSNSが当たり前となった令和の時代においても同じであると私は思っている。

 

   何かの感想を述べる際に自分自身を開示する必要は必ずしもない。自分のパーソナルな情報を踏まえて話した方が真実味を与えられるというだけである。ある程度自分を定義しない場合、どこの目線で話をしているのかを「例えば〜なら」という前置きをすることで必要以上の開示を避けることはできる。ただし、それらはあくまでテクニックであり、必須事項ではない。この部分に気づくことができれば自分自身のことはある程度秘匿していても構わない。

 

   だが、真実味のある情報(または意見)を第三者に開示する際、情報のソース元を開示することはごく一般的なテクニックである。それらは、ネットの上にあたかも「真実そうに見える情報」として転がっているのだが、それらを使用する際にはそれが信じるに足る情報ソースかどうかを検討する必要性が生じる。それもまた、テクニックである。つまり、経験しながら少しずつ学べばいいわけだ。

 

   しかし、少しずつ学びたくても、SNSはそれを許さない。なぜなら、SNSに掲載された意見はすべて世界中に発信される。例えるなら初心者がいきなりスピーチの世界大会に出場するようなものだ。そこにはスピーチのプロがわんさかと在籍しており、あらゆるするどい指摘が入る可能性のある戦場だからだ。

 

   そのため、SNSというサービスを使いながらどこにも発信しない「鍵垢」というやり方で、自身の考えを発表(実際にはどこにも発表していないことと同じ)して、自身の頭の中を整理することが用いられる。そのこと自体はなんら問題はなく、むしろそうした試行錯誤は他人に見せるべきではなかったりするので、現代を生きるz世代の手元にスマホが当たり前にあることを考えれば至極当然の結論である。

 

   しかし、SNSの運用面でも稚拙さが目立ってしまう事態が発生する。鍵垢のつもりが、誤って公開垢でつぶやいたり、個人間のDMで本音を書くと晒されたりするアレだ。それらのリスクがあることから、鍵垢は必須とされ、それらが行う壁打ちは、すべて自己満足の範疇を出ない。問題なのは壁打ちではなく、その行為が続いたとして、自分自身の発言力は磨かれることは無いばかりか、個人の意見がエスカレーションしてどこかで爆発することにある。つまり、鍵垢で呟いている自分に慣れてしまうといざ公開垢でつぶやこうとすると、つい身勝手な自分よがりの発言となってしまう。その結果として大きな炎上を呼び寄せてしまうという流れだ。

 

   コミュニケーションは相手がいてはじめて成立する。相手がいないコミュニケーションはコミュニケーションではなく、単なる言葉遊びの範疇であると言えるだろう。それらが横行している今、よりSNSはクローズドな空間を求めてしまう場所となっているのである。

 

    失敗を恐れて当たり障りのない返答を心がけてばかりいると、自分自身から与えられる情報は少なくなってゆく。コミュニケーションでは情報交換が求められるのだが、それができない。一方的に与えられる情報だけを鵜呑みにしてその場をやり過ごすような生き方か、または、反対意見だけを述べてコミュニケーションを決裂させる(論破)のどちらかになってしまう。それでは、冒頭にあるように、意見をなるべく言わないでおこうという姿勢を助長させるばかりで、いつまで経っても豊かなコミュニケーションをとる方法は身につかないままだ。

 

   人生を豊かにする要素に、コミュニケーション能力があるとわたしは思っている。伝えたいことを伝える。聞きたいことを話してもらう。しかもお互いを尊重した上で。それができれば、あとは最低限のお金と家と食べ物があればよかったりする。もちろんより多くあればあるに越したことはない。しかし、コミュニケーション能力の有り無しはそれだけで幸せを左右する大きなファクターのひとつだ。苦手だからと何もしないで思考停止することだけは避けて欲しいと思うばかりである。あくまで相手と心地よい関係を作るという大前提で、ね?

 

それじゃぁまたね*˙︶˙*)ノ"


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渡辺範明と宇多丸『ファイナルファンタジー15』を語る



まず文字起こしを読んで欲しい。…読んだ?

 

   まず最初に訂正。ファイナルファンタジーアギトのくだりで、

 

(中略)…次に『ファイナルファンタジー アギトXIII』というのがあって。これはタイトルとかゲームハードとかを変えたんだけれども、『ファイナルファンタジー ヴェルサスXIII』というタイトルでなんとか発売しました。ここまではまよかったんですけど、もう1本。『ファイナルファンタジー ヴェルサスXIII』っていうのがありまして。これがですね、なんか黒い服の黒い髪の男の子が主役で。割と期待値も高かったんですけど、ずっと音沙汰がなくてね。…(中略)

(本項記事リンク先文字起こしより引用)

 

…とありますが、これは間違いです、はい。正しくは、ファイナルファンタジーアギト13は、ファイナルファンタジー零式として発売されました。以上、修正終わり。ラジオの文字起こしだから言い間違えしたのかな?それとも文字起こしの担当者が間違えたのかしら。どちらでもいいけれど。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%96%E3%83%A9_%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A1_%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%B9_%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%83%BC

 

…と思っていたら、上のWikipediaを見てみたら、ファイナルファンタジーアギトは存在していた。無料アプリ(ゲーム内課金)らしいけど。世界設定自体は零式と同じらしいから、ほぼ零式かな?でも、もちろんファイナルファンタジーアギト13は発売されなかったけど。ややこしい。でもまあ、ファイナルファンタジー14民としては、零式は、レイドボスの零式ってイメージだけれど。この辺の話は完全にスクウェア・エニックス社の黒歴史のひとつになっていると思われます。ノムリッシュ黒歴史。あれ?ファイナルファンタジー15のイメージカラーが黒だから、文字通り黒歴史で合ってるんだ。もしかしたら、そういう結末を見すえて黒歴史って言ってるのかな?つまり、そういう結末になると予想して…。(ここで日記は途切れている)

 

   Wikipediaはほんとに有能だなぁ。さて。ファイナルファンタジー13から始まる「ファブラ ノヴァ クリスタリス ファイナルファンタジー」というプロジェクトは、個人的には、膨張し続ける物語性への期待感に対して、毎回別設定を考えることに疲れたスクウェア・エニックス(主にノムリッシュ)が、壮大な神話を作り上げ(…でいいんだよね?)、そこに紐づく形で作れば、より難解でより壮大な物語を作れる(=見る人を感動させられる)と思ったからそうしたと思ってる。でも、僕ら一般ユーザーからしたらあまりにも難解すぎてついていけなかったし(今もそれはネタにされる)、ファルシのルシがコクーンでパージされたと言われてもなんの事やら分からないというのは、13が発売されてから数年経った今でも同じなのです。

 

   毎回ストーリーを変えることに「若者らしいイキった性格」を与えられていたブランド「ファイナルファンタジー」。そのラストを飾る作品群として、「ファブラ ノヴァ クリスタリス ファイナルファンタジー」という幻想を抱いたノムリッシュ。その発想自体は悪くなかったのだろうけれど、そのための開発コスト、開発費用を考えていなかったがために、開発は破綻。巨額の投資をしたにもかかわらず、その投資に見合った売上を計上することはできなかったファイナルファンタジー。若者らしいイキったブランドは、高すぎる理想に押しつぶされ、崩壊し消えていく運命にあった。「ファイナルファンタジーは終わった」、そういう表現は正しい認識だったのだろう。もはやこれ以上幻想を紡いだところで、それは理想だけを追い求める若気の至りである。現実は理想ではなかったのだ。

 

   そう考えると、究極の理想を掲げたファイナルファンタジーが行き着く先が、現実的なファイナルファンタジー15という事実は見事だ。文字起こしの中で元スクウェア・エニックス社の渡辺さんが指摘していたことは、僕の心にひとつの答えをくれた。

 

(宇内梨沙)ただ、やっぱりオープンワールドとFFらしいドラマチックさって、当時ちょっと相性が悪いなっていうのは感じていたんですけども。やっぱりとロードムービーをやればやるほど、物語ってどんどん間延びしていっちゃうじゃないですか。そのへん、渡辺さんはどのようにお考えですか?

(渡辺範明)それはおっしゃる通りで。僕はだから『FF15』の本質はその部分にあると思ってるから。なんならムービーシーンはそんなに大事じゃないと思っているんです。で、みんなで仲間同士で旅してて。その時間の積み重ねが、でも限りあるノクティスの人生とか青春とかっていうものを描いてるって思うと、そのこと自体がすごく胸にくるものがあるんですけど。ただ、たしかにおっしゃる通りFFらしい、大上段に構えた全体的な、もっといわゆるドラマチックなストーリーっていうのは、それはそれであるわけですよね。特に後半に行くに従ってそれの色合いが強くなっていって。

で、実はオープンワールドじゃない部分のゲーム進行がすごく多くなっていったりとかして。なんか、たしかにそこの組み合わせでうまくいってないところもあるんですよ。全体的にアンバランスなゲームであることは否めないんですけど。だからそこのところに注目する場合と、さっきのチャレンジングな部分に注目する場合でたぶん15の評価は結構分かれちゃう。

宇多丸)とはいえ、みんなが期待するFFらしさではないとこを狙ってくるところこそが……。

(渡辺範明)そう! そこがFFらしいっていう(笑)

(本項記事リンク先文字起こしより引用)

 

  つまり、ファイナルファンタジーらしさは「若者らしいイキった作り」にこそあって、誰もが「ファイナルファンタジーってストーリー重視だよね」っていう定説を覆すところに、「らしさ」を求めているゲームだから、「あえて」不釣り合いなオープンワールドを組み合わせた「ストーリー重視じゃないチャレンジ」にこそ、「ファイナルファンタジーらしさ」が宿っている。つまり「ファイナルファンタジー15が未完成であること」すら、ノクティスの「若者らしいイキった人生そのもの」だし、それこそが「ファイナルファンタジーらしさ」なんじゃないか。

という事になるんじゃないかと。長年ファイナルファンタジー15はディスられてきた。未完成作品を売りつけるなと怒られてきた。つまり、ファイナルファンタジーらしさが何処にあるのかという考え方がこの「若者らしいイキった物語」という点にあれば、このファイナルファンタジー15もまた、ファイナルファンタジーらしいのである。往年のファンならそう理解してもいいはずだ。しかし、渡辺さんが指摘しているように後半にようやく「ファイナルファンタジーらしい」重厚なストーリーが語られ始めた…といういいところでファイナルファンタジー15はゲームが終了してしまう。だから「未完成」ぽく見えるし、「物足りない」。

 

    だがそれにしたって追加コンテンツで補完する計画だった。DLCで補完すればよかったのだ。エピソードグラディオ、エピソードプロンプト、エピソードイグニス。エピソードアーデン。すべて重厚なストーリーを語っていた。素晴らしい作品だった。特にエピソードアーデンは1本の独立した作品と思わせるくらい見事なゲームだった。これにさらにエピソードアラネア、エピソードルナフレーナ、エピソードノクティスが続けば、ファイナルファンタジー15は完成していたに違いない。ここまできてやっと、ファイナルファンタジー15は完全版となるのである。今思えばそこまで開発できる時間の余裕があれば…。もう何度思ったことだろう。

 

  ファイナルファンタジー15のディレクターが言った言葉「小説が売れればまた作る機会があるかもしれない」はあまりに切ない。わたしは全力で小説を買って応援した。しかし結果は今もまだ実現されないままだ。夢は潰えたのか。いや、夢は諦めたときに終わる。諦めてなどいない。先日、スクウェア・エニックス社から新作が発表された。その作品の名前は「キングダムハーツ4」。その作品のイメージトレーラーが発表された。そこに映っていたものは、ソラが新宿を駆け回る姿。ノクティスではない。インソムニアでもない。けれど、フラッシュバックするファイナルファンタジーヴェルサス13の記憶。そして、叶わなかったファイナルファンタジー15の完成版。その先を見せてくれるのかもしれない。もう、わたしは覚悟した。死ぬまでにファイナルファンタジー15の完成版が遊びたい。わたしはファイナルファンタジーと共に生きる。完成版を見るまで、わたしは絶対に死ねない。ノムリッシュ、期待してる。そして、我らが吉田直樹さん。きっと、ファイナルファンタジー16をめちゃくちゃ成功させた後は、ファイナルファンタジー15を復活させてくれるよね?完全版を出してくれるよね? 

 

それじゃぁまたね*˙︶˙*)ノ"


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メタバースとFF14が「似て非なる」決定的な根拠、制作者の想像の範疇を超えられる「自己組織化」の要諦



メタバースは新大陸である。MMORPGは箱庭である。

 

   きっとこの記事はこう言いたいに違いない。MMORPGは運営会社が想定した世界をただこなすだけの退屈な世界だと。そしてメタバースこそ、自由な発想で仮想世界を遊びながらあらゆるクリエーションを生み出していく土壌であり、現実世界を超えて新たな世界を作りえるもうひとつのリアルそのものである、と。確かにそうだ。間違ってはいない。だが、MMORPGの代表と言われつつあるファイナルファンタジー14は、メタバースではない。そしてメタバースを目指してもいない。メタバースに新たなビジネスの可能性を感じることは確かだ。だが一方で、メタバースはその概念があまりにも自由すぎて何をしたらいいかわからなくなる。単にオンラインゲームで言えば、お金儲けを主軸に置いたオンラインゲームはユーザーに嫌われて、衰退していく。メタバースはオンラインゲームではない。けれど、長くユーザーに愛されることで、MMORPGは運営会社もユーザーもそれぞれが幸せに過ごせる空間を作っていることも確かである。これまで人類は、誰もが長く幸せに過ごせる空間、国を生み出したことなど1度もない。昨今のロシアウクライナ紛争を例に出さなくても、世界は常にどこかで争いが起きている。

 

   メタバースは理想郷だ。小説の中で語られた人類の夢だ。だが、人類はいまだ争いを克服できていない。もし仮にメタバースが新たな新大陸としてリリースされたとすると、おそらくアメリカ大陸を発見した時のような騒ぎになるだろう。それは先住民と、開拓者との争いであり、土地の奪い合いから端を発する人種問題となってゆく。いつの日も虐げられ、排除される側は存在する。それは主にお金や権力のない人々である。メタバースが誕生したときに起きるあらゆるトラブルはすでに人類が経験した悪夢のひとつなのだ。それがあるとしてもなお、新たなフロンティアを目指して開拓者精神を発揮するというマインドであれば、争いは必ず起きる。それは、メタバースを生み出すクリエーター達の望む望まないに関わらない。

 

   長く幸せに過ごせる空間、または国を作るには、民主政治ではダメだという指摘もある。専制君主が統治してこそ、その国は安定するのだという意見だ。中国や、ロシアがそれに該当する。周りの国の人はともかく、その国に住む現地の人は概ね幸せだろうからだ。それは、ファイナルファンタジー14の世界を、ある程度、吉田直樹氏という王が1人で仕切っていることからも真理である。(もちろん、彼は独裁者ではない。プレイヤーである私たち民の意見は聞いてくれる。だけれど誰彼構わず意見を聞き入れたらさすがの彼も破綻するに違いない)

 

   つまり、メタバースがいかに先進的な考え方で、あらゆる可能性を秘めたプロジェクトだとしても、そこに暮らす人達が人間である以上、争いは避けられない。ましてや、メタバースは、自由な空間である。誰に何を咎められることもない、自己責任の世界だ。世界から警察がある日突然居なくなればどうなるか?は明白だ。世界の警察と言われたアメリカがそうであったように。

 

   何度も言うが、長く幸せに過ごせる空間であることが必須条件である。儲かるか?は二の次だ。居心地の良さが担保されて初めてそこに人は住むようになる。居心地が良くなければ過疎地となり、ますます、荒廃した世界となるだろう。メタバースに秩序がないとは言わない。もちろん、ファイナルファンタジー14などのMMORPGでも同じだ。一部のユーザーの秩序が欠落している。それは人間だからである。どちらが上か?という議論ではないことはわかる。だが、フォートナイトやロブロックスメタバースを意識して作られることは、それらの世界にほんの少し「メタバースぽい要素」が追加されることと何が違うのだろう。メタバースぽい要素を追加するかしないかを決めるのは、運営会社であって、ユーザーが自発的に「メタバースの要素を追加しよう!」という動きではない。とすると、それらの運営会社がメタバース寄りな世界観を良しとしているだけの「価値観の違い」であって、ファイナルファンタジー14が「メタバースぽい要素」を追加することも今後起こりうるかもしれない。しかし、現時点でその2つの運営を較べて明確に違いがあるとすれば、「ユーザーにとって長く幸せに過ごせる空間にしたい」という考え方が強いのか、「もっと自由になんでも出来る空間にしたい(そして儲けたい)」とするかの違いであるように、僕なんかは思えてならないのだ。

 

それじゃぁまたね*˙︶˙*)ノ"


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『ファイナルファンタジー』シリーズ最強の魔法といえば? 星をも破壊する威力…(マグミクス) - Yahoo!ニュース



FF14民からすると、物理攻撃も魔法もほぼ同じ。あるのはスキル回しの是非。

 

    ファイナルファンタジーシリーズでいちばん強い魔法を1つ挙げるとしよう。まず候補から。「与ダメ系」フレア・ホーリー・メテオ・アルテマ・メルトン・バハムル・リバイア…1部召喚魔法もあるがまあこんなもんだろう。「消滅系」デジョン・イレース・デス・カタスト.レベル5デス…こんなものか。「補助系」ヘイスガ・リフレク・クイック・リターン・マイティガード…この辺だろう。「回復系」ケアルガ・アレイズ・リレイズ・ホワイトウィンド…。もうお気づきだろうが、私の中でファイナルファンタジーの魔法、というとせいぜいファイナルファンタジー6.7.8までのものを指すことが多い。それ以降はよく分かっていないのが現状だ。というより、覚えていないのだ。

 

   では、我らがファイナルファンタジー14だとどうなるだろう。「与ダメ系」ハートオブミゼリ・ゼノクロシー・サモンフェニックス・ファイジャ・フレア・パラドックス・ヴァルフレア・ヴァルホーリー・スコーチ・レゾリューション…こんなところか。いまいち「強い」という印象はない。それはデノミネーションを経たからという理由もあるだろう。ファイナルファンタジーの世界における魔法というのは、戦闘を有利に進めたり、ここぞという時に使う必殺技のような存在だった。とりわけ魔法の中でも召喚魔法は与ダメが大きくなり、演出もド派手になってゆく。後半戦はほぼ召喚魔法だけで戦っていたような印象すらあった。そこにメスを入れる形で、1バトルにつき1回限定とか、ゲージが満タンになると使えるなどの制約が設けられることになる。強すぎる魔法は制限される運命なのだ。

 

   そういう意味で言えば8以降のファイナルファンタジーは、魔法をただの便利な必殺技から脱却させる方向の進化の歴史をたどってきた。ファイナルファンタジー14における召喚魔法は、蛮神を呼び出す禁忌とされた。キャスジョブにおける召喚士が蛮神(のようなもの)を召喚して戦わせることができるようになったのはつい最近である。それまではペットを呼び出してときおりアタックさせるような頻度で一緒に戦わせるような存在であり、強力な一撃を食らわせて退場するだけの召喚魔法は、ファイナルファンタジー14における召喚魔法のあり方とはずいぶん異なっていたのである。

 

   よって、ファイナルファンタジー14における最強の魔法は?という質問には、単純に与ダメ数値の高いゼノクロシーが該当するだろう。しかし、ゼノクロシーが単発で放つことの出来ない魔法であり、コンボアクションの最後であることを考えると、最強の魔法というよりも、最強のコンボと言うべきである。いや、むしろ最強のスキル回しと言える。スキル回しはある程度のルートは存在するものの、敵の攻撃を避けつつ行う必要があるため(被弾したり、移動するとコンボか切れるため)、スキル回しのほうに「強さ」が宿る傾向にある。そこに過去のファイナルファンタジーシリーズには存在しなかった概念「スキル回し」が存在し、ファイナルファンタジー14を他のファイナルファンタジーと大きく異なる存在にさせている要素となっている。

 

   今回は最強の魔法ということで考えてみたので、黒魔道士がメインの話となったが、何も黒魔道士だけが最強というわけではない。それは、よしPこと吉田直樹氏たち開発チームが何度も何度もジョブ調整を行うことで、どれかひとつのジョブだけが強くなることを徹底的に避けた結果である。つまり、うまくスキル回しさえすれば、どのジョブも一定の強さを発揮できるようになっているのだ。どのジョブが最強か?という質問もよくファイナルファンタジー14界隈では頻繁に上がる話題であるのだが、つまるところ、プレイヤーが1番使いやすい(または使い慣れている)ジョブが最強ということになる。もちろん、ロールごとに役割が違うので、単純な与ダメであれば、DPSが1番になるのは当然だが。ファイナルファンタジー14で言えば、「死なない」ということも「強さ」の基準となることを考えると、盾役のタンク、回復薬のヒーラーもまた、「強いジョブ」ということになる。「スキル回し」と「ロールに適した上でどんな相手にも戦闘不能にならない立ち回り」の2つが複雑に「強さ」に絡み合う鍛錬の世界。ここにこそ、ファイナルファンタジー14の奥深さがあるのだ。

 

それじゃぁまたね*˙︶˙*)ノ"


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お金が貯まる人はコンビニでビニール傘を買わない 代わりに毎回買う"意外なもの"とは…? | 文春オンライン



浪費家を卒業したければ、浪費を辞めたら月にいくら貯まるのかを考えれば早い。

   耳が痛い。いや財布には優しい話である。財布は持っていないが。わたしは財布を持つことを辞めて久しい。キャッシュレスが盛んに言われるようになってからわたしは財布を持つことを辞めた。すべてクレジットカード、ないし〜payというスマホ決済に変えたのである。その理由は毎回足らなくなるお金を引き出すことの煩わしさもあった。あとは銀行ATMが近くにないのでコンビニで引き出すこともあり、それらの手数料がかかることが嫌だった。そしてお釣りを貰うのも嫌だ。ジャラジャラとして重くなるし、第一、誰が触ったのかもわからないような薄汚い硬貨を触りたくない。紙幣も同じである。

 

   そこですべての支払いを現金で行うことをやめた。市県民税ですらPayPayで払っている。便利になったものだ。また、コンビニで数百円をクレジットカードで支払うことに抵抗がなかったわけではないわたしだが、昨今はタッチするだけで支払いできるクレジットカードもある。大変に便利だ。わたしのコンビニでの支払いは、お昼ご飯を買う時は交通系ICカード。スタバや吉野家といったチェーン店での支払いはすべてPayPayにしている。土日のちょっとしたお菓子等はクレジットカード。いや、デビットカードである。三菱UFJ銀行である。クレジットカードは持ってはいるが基本的には使わないようにしている。なぜなら、現金と同じ感覚で使うためだ。デビットカードなら即銀行から出金される。使いすぎないための対策である。銀行の中にある金額だけしか使えないのだ。デビットカードは使いすぎとは無縁である。また、ほんの少しだがキャッシュバックもある。これが現金支払いなら1円も戻ってきはしない。ポイント?もちろんそれも貯めているが、たかが200円で1ポイントためるためにわざわざ高い買い物をするか?わたしはしない。

 

   わたしはよくコンビニを利用する。それは平日の昼ごはんを食べるためだ。だが買うものは一つだけにしている。カップラーメンである。価格は198円。安いラーメンで148円とかで買える。わたしは飲み物はペットボトルのジュースだ。また、家からおにぎりを持参している。栄養バランスを考えてビタミンを多く含むゼリー飲料も毎日食べる(飲む?)。だが、コンビニでそれらを買うことはしない。カップラーメンはお湯を入れなければならないのでコンビニで購入するが、それ以外のものはコンビニでは買わない。すべてドラッグストアである。なぜなら、その方が安いからだ。ペットボトルならコンビニで149円程度する飲み物が、ドラッグストアなら78円。ゼリー飲料もコンビニ216円に対して、88円である。つまり、それらをセットに毎日購入しているとして、1日でコンビニ360円に対して、ドラッグストアは160程度。1日200円の節約だ。それが週5で1000円。月に4週で4000円の節約。年で48000円の節約である。

 

   わたしはこの点にこれまで全くの無頓着であった。コンビニで何を買うのか考えることがお昼の楽しみだったのである。1日600円程度で済むお昼代を見てなんて節約家だろうと自分で自分を褒めていたくらいだ。今は200円以下である。

 

   もちろんその分、週末にまとめてドラッグストアで購入している手間はある。だがそれにしたって大した手間ではないだろう。その手間を惜しまなければ年間50000円弱の節約ができるのだ。しかも意識することなく。もちろんわたしはドラッグストアでも現金を使わない。すべて、デビットカードである。ポイントは半年で4000~6000分は貯まる。現金で支払っても貯まるポイントだが、デビットカードにすることで月にだいたい80円ほど戻ってくる。年間960円。だいたい1000円のキャッシュバックだ。今どき1000円を拾うことなど奇跡でもまず起きないことである。

 

   何も考えずにコンビニで買ってはいけない。毎日買うものならなおさらだ。今回の引用した記事の中で言う、ビニール傘がそれに当たる。それを買うことは何も考えずに買っている証拠だ。前もって家から折りたたみ傘を用意すれば払わなくていい金額だからである。

 

    お酒やスイーツ、タバコなどの嗜好品は敢えてコンビニで都度買うという。わたしはタバコもお酒も買わない。スイーツはたまに買う。しかしコンビニで買うようにしている。そうすると、コンビニで高いスイーツを買ったという強烈なインパクトが残る。そうすると、無駄遣いをしたという記憶に繋がり、余程のことがない限り、またすぐに買おうとは思わなくなるのである。

 

   週に3日はお金を使わない日を設けるという指摘はかなり厳しい。お金を使わない日はないからだ。そういう意味で言えば、土曜日がそれに当たる。わたしは土曜日はどこにも出かけない日と決めている。どこにも行かないのだからお金を使うこともない。日曜はドラッグストアに行くからお金を使う日だ。私に関して言えば、お昼以外で使わない日を設定したい。夕方帰り際にコンビニによる癖を少なくしたい。例えば月水金は使わない、と言うようにしてはどうだろう。こんなふうに完全にゼロにできなくても、お金を使わないようにするようにすることは出来る。明日から月水金は夕方に何も買わない日にしよう。毎日は少しずつ変えていけるのだから。

 

それじゃぁまたね*˙︶˙*)ノ"


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