ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

ムジカのキオク。♪note:https://note.com/ryoushitsumusica ◆YouTube: https://www.youtube.com/channel/UCWvTBOe1O9GICLtyreUu-6Q

SNSで「無邪気に」感想が言えない…Z世代の「奇妙な謙虚さ」(稲田 豊史) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)



感想を言えないという思考停止に陥ってしまう前に。

   今も昔も「感想を言う」という行為は、勇気を伴う。それは自分自身の理解力、言語化力等を明らかにしてしまうからだ。それはすなわち自分という存在の値踏みに関する情報を第三者に与えてしまうことと等しい。自分が他人より必ず優れているという確信が持てない以上、安易にひけらかして得られるメリットなどない。デメリットの塊である。

 

   だとすると、「意見を言う」行為はタブーなのだろうか。「下手なことは言わずに黙っていよう(その方がメリットがある)」とする判断はある意味で正しい。コミュニケーションは情報の交換だからだ。つまり、いかに相手から多くの情報を聞き出すかが勝負の分かれ目だからである。逆の言い方をすればそれは「いかに自分の情報開示を最小限に留めるか」ということでもある。

 

   コミュニケーションにおける情報の価値は対価交換ではない。今持っている情報の中で最も価値のあるものを差し出すゲームだ。例えるなら、カードゲームの大富豪に似ているかもしれない。もしくは、ババ抜きである。いかに自分が有力な情報を持っているように見せ、相手からより多くの情報を聞き出すかという意味において酷似していると言っていいだろう。

 

   情報を一方的に受け取ることを最上としながら、より価値のある情報を得ようとするなら、ある程度はこちらも相応の情報の開示を求められるゲーム。それがコミュニケーションだ。それはSNSが当たり前となった令和の時代においても同じであると私は思っている。

 

   何かの感想を述べる際に自分自身を開示する必要は必ずしもない。自分のパーソナルな情報を踏まえて話した方が真実味を与えられるというだけである。ある程度自分を定義しない場合、どこの目線で話をしているのかを「例えば〜なら」という前置きをすることで必要以上の開示を避けることはできる。ただし、それらはあくまでテクニックであり、必須事項ではない。この部分に気づくことができれば自分自身のことはある程度秘匿していても構わない。

 

   だが、真実味のある情報(または意見)を第三者に開示する際、情報のソース元を開示することはごく一般的なテクニックである。それらは、ネットの上にあたかも「真実そうに見える情報」として転がっているのだが、それらを使用する際にはそれが信じるに足る情報ソースかどうかを検討する必要性が生じる。それもまた、テクニックである。つまり、経験しながら少しずつ学べばいいわけだ。

 

   しかし、少しずつ学びたくても、SNSはそれを許さない。なぜなら、SNSに掲載された意見はすべて世界中に発信される。例えるなら初心者がいきなりスピーチの世界大会に出場するようなものだ。そこにはスピーチのプロがわんさかと在籍しており、あらゆるするどい指摘が入る可能性のある戦場だからだ。

 

   そのため、SNSというサービスを使いながらどこにも発信しない「鍵垢」というやり方で、自身の考えを発表(実際にはどこにも発表していないことと同じ)して、自身の頭の中を整理することが用いられる。そのこと自体はなんら問題はなく、むしろそうした試行錯誤は他人に見せるべきではなかったりするので、現代を生きるz世代の手元にスマホが当たり前にあることを考えれば至極当然の結論である。

 

   しかし、SNSの運用面でも稚拙さが目立ってしまう事態が発生する。鍵垢のつもりが、誤って公開垢でつぶやいたり、個人間のDMで本音を書くと晒されたりするアレだ。それらのリスクがあることから、鍵垢は必須とされ、それらが行う壁打ちは、すべて自己満足の範疇を出ない。問題なのは壁打ちではなく、その行為が続いたとして、自分自身の発言力は磨かれることは無いばかりか、個人の意見がエスカレーションしてどこかで爆発することにある。つまり、鍵垢で呟いている自分に慣れてしまうといざ公開垢でつぶやこうとすると、つい身勝手な自分よがりの発言となってしまう。その結果として大きな炎上を呼び寄せてしまうという流れだ。

 

   コミュニケーションは相手がいてはじめて成立する。相手がいないコミュニケーションはコミュニケーションではなく、単なる言葉遊びの範疇であると言えるだろう。それらが横行している今、よりSNSはクローズドな空間を求めてしまう場所となっているのである。

 

    失敗を恐れて当たり障りのない返答を心がけてばかりいると、自分自身から与えられる情報は少なくなってゆく。コミュニケーションでは情報交換が求められるのだが、それができない。一方的に与えられる情報だけを鵜呑みにしてその場をやり過ごすような生き方か、または、反対意見だけを述べてコミュニケーションを決裂させる(論破)のどちらかになってしまう。それでは、冒頭にあるように、意見をなるべく言わないでおこうという姿勢を助長させるばかりで、いつまで経っても豊かなコミュニケーションをとる方法は身につかないままだ。

 

   人生を豊かにする要素に、コミュニケーション能力があるとわたしは思っている。伝えたいことを伝える。聞きたいことを話してもらう。しかもお互いを尊重した上で。それができれば、あとは最低限のお金と家と食べ物があればよかったりする。もちろんより多くあればあるに越したことはない。しかし、コミュニケーション能力の有り無しはそれだけで幸せを左右する大きなファクターのひとつだ。苦手だからと何もしないで思考停止することだけは避けて欲しいと思うばかりである。あくまで相手と心地よい関係を作るという大前提で、ね?

 

それじゃぁまたね*˙︶˙*)ノ"


f:id:ryoushitsu-musica:20220419150351j:image