ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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幸せには「推しが大事」予防医学研究者が言う訳 | 健康 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース



自らを知るとは、自らを忘れること。

 

   何を信じて生きていけばいいのかわからない。そんな現代で「幸せとは何か」を考える時、それは大抵の場合、徒労に終わることになる。他人に「何をすれば幸せになれるのか」と問うても、その答えは雲を掴むようで明確に答えてくれる人はいない。逆にいたら疑っていい。なぜならそれは詐欺だからだ。そこで静かに胸のうちに自分自身に聞いてみる人もいるだろう。だが分からないのに聞いている自分から答えが生まれるはずもない。そこでヒトは無理やり何かを始めたりする。無理やり何かを食べたり無理やり飲んだりする人もいるだろう。もしかしてそれらの荒療治によって一時的に「幸せのようなもの」を摂取することはできるかもしれない。しかし、「本当の」幸せは他にあるような気がする。その結果虚しさだけが募る…。所詮はこれの繰り返しである。

 

    幸せとは何か、その問いに対する答えを最も端的に答えた言葉は、自分を忘れることだと言う。自分という殻からの解放。言葉で言うことはたやすい。わかりやすく言えばお酒や薬で無理やり自分を忘れるような感覚かもしれない。だがそれよりも、一心不乱に思う「信仰の対象(すなわち推し)」を持つことである。そのことをこの記事は教えてくれる。それは誰もが知りたくても分からなかった無我であり、それこそが欲しかった「真の幸せ」なのかもしれない。わたしもまさかそんな大切なことを、ネット記事で教えて貰えるなんて思わなかった。いい時代になったと言うべきだろうか。

 

    前言を撤回するようだが「信じられる推し」を得ることすら簡単ではない。それは自分が本当に「推せる」存在を見つけることは、イコールで自分自身を見つけることに等しいからだ。自分自身を見つけるとは、端的に言えば、「何が好きか」ということである。自分は何を好きと言えるのか。それは沢山ある砂の中から砂金を掘り当てるようなものだろう。過去に遡って幼少期の自分を思い出すようなことも必要となるかもしれない。大抵の場合、「そうそう!わたしは昔これが好きだった」と思い出すことこそ、自分自身が「何が好きか」の答えに最も近い回答となる。

 

   今、様々な不安が渦巻いている。コロナ禍、資産バブル、ウクライナ危機。これからどんな世界が来るのか考えた時、そこにワクワクするとか、キラキラすると言った言葉は全く似合わない世界になっている可能性を感じている。そんな不安が頭をよぎるとき、「私はこのままでいいのだろうか」と立ち止まってしまう人はきっとわたしだけではないだろう。そんな時にこそヒトは何かに縋(すが)りたくなる。それが昔ならばその役目を「宗教」が担っていた。だがこと日本において「宗教はタブー視」されている。かつての宗教法人が狂信的な集団となって世の中を不安に陥れた数々の事件がそういう雰囲気を形作っていることは、私が改めて言うまでもない。

 

   そんな「ココロノスキマ」を埋める喪黒福造のような存在の必要性に呼応するかのように盛り上がったコンテンツは、プロレス、アイドル、お笑い…。ゲームやアニメにおける声優もその1つにカウントされる「推し」である。「推しがいることで幸せ」は、現代における「幸せ」を得るための最適解である。そのことに異論を唱える人はいないだろう。ただ、どこにその「推し」を見つけるかということが問題であって…。「推し活」における「お布施」または「納税」に必要な金額は年々つり上がってゆくばかりだが、それによって日本の経済が動かされている部分は否定できない事実である。日本に「推し活」が存在していることは、この不安にまみれた令和において、唯一の「救い」である。

 

    逆に「推し活」が存在し、それが人の数だけあるという状況は「幸せ」なのだろうか。人それぞれあるということは、個人的な小さな幸せが無数に存在することを意味する。それらは点と点が無数に存在する宇宙空間のようなものだ。それぞれが交わる世界線が存在しない。そもそも分かり合えない性質を強く持っている断絶された世界だ。ジャンルとして近しい人達が集まることもあるだろう。だが、それぞれの「推し活」が細分化されすぎたことで、お互いに分かり合うことができない。そして人は「架空の存在(アバター)」に頼ることにした。それはネット上でのやり取りという極限まで薄められた関係性にのみ依存するという、寂しさを許容する世界である。果たしてそれは幸せを目指す集合体として正しいやり方なのだろうか。

 

   傷つくことを恐れるあまり、痛みに脅えている状態に近い。恐怖心は不安を増長させる今の状況は、本来感じるはずの「楽しい」「嬉しい」「幸せ」の味を極限まで薄めてしまう結果を産むばかりで、やはり「幸せ」からは程遠くなっていく。かといって、昔みたいにガムシャラに突っ走ればいいというものでもないだろう。傷を恐れずに走れたのは、無知だからである。無知であることを許さない現代においては全くの逆走である。無知であることは罪であると言われて久しい現代では、誰もがリスクを回避する行動をとる。それこそ、息をするかのように。その様子は、まさに内面の不安がなせる行動だ。

 

   全てを知ることはできない。しかし知ろうとする努力を義務付けられている今の世の中は、とても生きづらい。本人らしさを獲得する前に「完璧であれ」と言われているようなものだ。完璧な人など誰もいないというのに…。それが出来るのは1部の天才である。世の中を動かしている人は1部の天才ではなく、凡庸な一般人である。そのことを否定して自分自身を低く評価しているうちでは、自分自身の「幸せ」など掴むことは遠い夢のまた夢である。まずは「あるがままの自分を知る」こと。それがいかに無様で、情けなかったとしても。わたしは何が好きで、何を幸せと感じるのか。その問いに答えが見つかる瞬間は、その次だ。

 

それじゃぁまたね*˙︶˙*)ノ"


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