ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

ムジカのキオク。♪note:https://note.com/ryoushitsumusica ◆YouTube: https://www.youtube.com/channel/UCWvTBOe1O9GICLtyreUu-6Q

「バブル崩壊」兆候のウラで…急失速する「日銀ETF購入」の前に立ちはだかるユニクロ(近藤 駿介) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)



非常に興味深い話。

ある種日銀によるETFの購入は無尽蔵に行われる種の魔法のように思っていた。それが最終防衛ラインのような役割を果たしているから日経平均株価は下がらない。だからこれだけ株価はある種安心して高騰してきたのだと思っていた。この記事によると確かにそう言った側面がある日銀の無制限金融緩和ではあるものの、特に日経平均株価を押し上げるという意味での役割における有用性はもはや限界に到達している。限界どころか、この記事の表現を借りれば自殺行為のそれだというのだ。中央銀行が自ら株を購入するということはよく良く考えれば不思議極まりない状況であり、それこそが自殺行為であると言えなくもないけれど、それでもそうする事が日本経済を下支えすると信じているがゆえの苦肉の策であるのだから、その是非については長らく不問というか、タブーを見て見ぬふりをしている雰囲気がずっとあったように思う。確かにわたしも1年ぶりに株式投資の価格を覗いて見て、ファーストリテイリングが1株で10万円を超えていることを目の当たりにしたときはさすがに驚いた。100株ではない。1株である。100株なら1000万円だ。いつからこんなに値上がりしたのだろう。海外ではGAFAのほか、テスラなどの分かりやすい人気銘柄がこぞって買われ、同時にビットコイン等の暗号資産も飛ぶように売れているわけだから、それの日本版ということか。わたしは株に詳しいわけではないので、ここの理由については定かではないが、もしかすると、日銀がETFを買うのは日経平均株価を押し上げるためで、日経平均株価の価格に貢献する225銘柄の中でもっとも時価総額の高い銘柄が、ファーストリテイリングだということは無関係ではないだろう。巨額の資金を投資したその結果に日経平均株価30000円突破があるのだとしたらそれは確かに日銀のおかげである。それによって高値が保たれ、海外の投資家たちを日本株に呼び寄せる、という流れを産み、今の株価が実現した。それにより日本企業は潤沢な資金を手に入れ、企業の内部留保は潤った形である。その勢いを得てそこから企業は設備投資や、人材確保、新サービスの開発などを行っているのだろうが、いかんせん、市場は冷えきったままである。何時になったら緊急事態は緊急事態でなくなり、健全な企業活動ができるようになるのか。それがわからなければせっかくの日銀の無制限金融緩和も台無しと言えるのではないだろうか。政府も企業の資金繰りを力強く手助けしてくれている。借金は膨らんだが、当面の運転資金は心配がいらない。だが肝心の見通しが立たない。新業態を後押しする政府の施策はあっても、冷えきった市場をどう耕せというのか。その点についての策はまるで無いに等しい。確かにGOTO〜などの策はある程度は機能していたのかもしれない。しかし市場をひっくり返すほどのインパクトは無かった。同時にそれによってコロナが蔓延したのではと、ろくなエビデンスもないままに噂が流布されてしまってはもはや打つ手はない。そんな中で長期金利が上がるという恐ろしく不穏な空気が流れればいよいよバブル崩壊かと勘ぐりたくなるのも無理はないだろう。事実、あらゆる事象は印象によって操作され、右へ左へ上へ下へと振り回される。消費マインドは下がる一方である。これでは、何のために企業の資金を確保したのか全くわからない。無駄ではないものの、意味を為してはいない部分が大きいように見える。3月は緊急事態宣言があけるのか。どうか。ここに消費者マインドはかかっている。それは同時に感染者が再び増加傾向に転じるかどうかという一点に注がれる。それが起きないということが証明され、ワクチン接種もなんの混乱もないままスムーズに進められることではじめて、消費者マインドは好転する。だとすると、そこに至るまでの奇跡は一つや二つではきかないほどの狭き門であると言わざるを得ない。奇跡を3つ4つ起こさなければならないやり方など、それは成功する方がおかしいやり方である。日本人は礼儀正しい。素晴らしい国民性だと私は思う。けれどいよいよ限界が見えてきた状況のなかでは、ある意味ものすごく曖昧な、なげやりにも見える奔放さ、ないし、みんなで渡れば怖くない論を展開し、まるでお金が空から降ってきてええじゃないか、と踊り出すくらいの祭りムードがあってもいいのかなと私個人的には思ったりする。あなたはどう思う?

 

それじゃぁまたね(了)

森永卓郎が予言「株価バブルは3~5月に崩壊する。危険な指標ときっかけは……」(NEWSポストセブン) - Yahoo!ニュース



森永氏の指摘を鵜呑みにする訳では無いけれど

株価、特にビットコインなどの暗号資産の値動きの激しさを見るに、近年の資産バブルの熾烈は明らかだ。よほどの資産家でない限り、もはや手を出すべきではないと感じている。そんなわたしも去年の今頃はこれからは資産運用にも挑戦して老後の資金を貯めようと頑張ったことがある。まあ結果は鳴かず飛ばずでどちらかと言えば失敗した。自己弁護させてもらえば、わたしのような貧乏な一般市民が手を出して何かを得られるほど甘い世界ではなかったということを学べたことは収穫だったわけで、そういう意味では成功であった。まあそんなふうにお金を働かせようと思うこと自体、転職でほんの少しの退職金を受け取ったからなんだけどね。ありがとう前職の会社。少しだけでも助かってます。なので、これが老後の、それも、ウン千万という額を手にしてから体験しなくて良かったと思っているわたしです。そんときにやってたら絶対今みたいなスピードで取り引きできないから確実に資産減らしてたと断言出来る。そして、かける額も大きいだろうから……ぶるぶる。人間やはり真面目にこつこついきていくしかないのだと改めて思う。こつこつ均等にドルコスト平均法で……という指摘もごもっとも。でもそれも結局は資金力がものを言うわけで。大きな元手がある人はその通り。そうでなければやはり同じことなのだと私は思うよ。そうねえ、最低でも1000万以上の余剰金がある人?そんな人滅多にいない。

さて本題。森永氏の指摘は私もちょくちょく目にしているからどんな論調か知っているほうだけれど、基本的にはリスクに目を向けられる人。過去のデータを元に確率論的に冷静に分析できる一方、破滅的な出来事をある種望んでいるような、恐怖を誇張してエンタメに変換している節を感じる論客のひとり。もちろんそのビフォアクライシスを予言することの興味深さ、面白さは中々のものなのでわたしは好意的に見ているひとりです。だってそうでしょ?面白いもの。そして、あらゆるリスクを指摘しつつ、だからやめとけ!と諭すのではなく、リスク自体を暴くことをたのしいこととして論理建てて説明できる人なかなかいないもん。そして、リスクを学べることはあらゆる人にとってメリットしかないわけで。リスクを学んだ上でトライするのと、何も知らずにトライするのとでは挑戦する意味がまるで違うと思う。前者は勇気だが、後者は単なる向こう見ずだ。さて、今回の指摘はある意味で正しいと感じた。というのも、同様の指摘をいくつかの記事で見ているというのもひとつだが、テスラの株価がすでに高すぎる事実を論理的に指摘できているところが大きい。わたしもなぜ、1アメリカの電気自動車のメーカーがトヨタ時価総額の2倍という有り得ない自体になっているのかと長らく疑問に思っていた。違和感と言っていい。確かにテスラはトヨタが出来なかった英断によって一気に自動車産業を電気自動車にシフトしそうな雰囲気はあった。しかしそれはあくまで雰囲気であって、時間が経てば経つほどトヨタという巨大工場が動き出すことであっという間に巻き返しできる戦況である。スマートフォンなどの電子機器と違って、自動車産業はあらゆる工程を経て作られる工業製品であり、アイデアひとつで塗り替えられるほど単純ではない。ある日突然自動車産業が無くなったりしないことと同様に、ある日突然、ガソリン自動車がきれいさっぱり消えてなくなりでもしなければ、実体経済において、テスラがトヨタに勝てる理由などありはしないのである。現時点でテスラが、トヨタよりはスピードで優っているというだけで、そのスピード感も、数年経てば追い抜くことができるレベルの僅差である。ただその僅差の方向性が新しいというだけだ。つまり、いまの金融資産バブルのように一時的なものであり、長く持って2~3年ではなかろうか。これは単純にわたしの予測なのでまぁ当たらないだろうけど。論理的に指摘することができないのがわたしの限界……。そして森永氏のバブルはいつ弾けるのかという指摘について感じることを述べたい。森永氏の指摘するとおり、わたしも長期金利が上がったタイミングだろうと思う。あくまで、世の中の余ったお金が行き場をなくして株や暗号資産に一時的に集まっているに過ぎない。いまよ  より国債が安全で確実性の高い資産になれぱ即座にそちらにお金は逆流するだろう。そうなれば株価は従来の落ち着きを取り戻し、実体経済に準じた価格になる。それはつまりバブル崩壊を意味する。それを暴落と表現する方が正しいのか、そもそもが爆上げと言っていい株価であるので、正しい価格に戻ると言った方がいい。だから今のような高値で買うのは馬鹿げているという指摘は正しい。そうでなくとも値動きが早すぎて取り引きできないからである。買い時と思った矢先に買値が高騰し、逆に売り時と思った瞬間に暴落するのだ。そんなの手元資金がいくらあっても足りやしない。ただ唯一、森永氏の指摘で気になるのは、過去のバブル期が70ヶ月、50ヶ月続いたからと言って、今回の80ヶ月は満期であると言う指摘は正しいのだろうか。バブルを操作できるいまの国際金融資本家たちの時代において、それはいつ弾けさせるかという腹積もりでしかない。それは弾けさせる、というよりは、精算するというか、別の儲け先を作ってから、安全に国際金融資本家たちが利益を逃がすというタイミングなのではないかと思う。それはいつか?そんな1ヶ月や2ヶ月先であるはずがない。いくら国際金融資本家達が莫大な資金力を持ってこの世界を支配しているとは言っても、利益の逃がし先を作ってからでないと思えるからである。それをビットコインという既存の価値に見るのは早計であると思う。あくまでそれは国際金融資本家達が仕掛けたテストプロジェクトのようなものだ。本命ではないだろう。ビットコインの高騰という事実を得ることが出来たいま、暗号資産はいずれ崩壊する。すでにその、予兆として、新たなキーワードが指し示された。それが、デジタルドルである。デジタルドルという単語が示すのは、暗号資産の終わりの始まりであると私は思う。それは来月突然やってくるものなのか?いくらFRBが力を持っているとしても、通貨である以上、他国との調整がなければ使いたくても使えない。使ってもらって始めて通貨である。そのための準備期間はやはり2~3年はかかるだろう。そこには解決すべき政治の壁が存在するからだ。それを秩序と呼ぶべきなのか、建前あるいは準備期間と呼ぶのかはわからない。けれど、デジタルドルなどと言う聞いたことの無い単語を世の中の人が認識するまでにはまだ数年はかかるだろうと思う。だからある日突然バブル崩壊など起きないだろう。もしそれが起きるのなら無制限の金融緩和などそもそもしないからだ。この措置は禁じ手である上に永遠に続くことのできない究極の経済対策であることは事実だ。それは次の対策ができるまでのつなぎの策である。では次の対策とはなにか。それこそがデジタルドルであり、現在の国際通貨をドルからデジタルドルへと移行することであると私は思っている。そのときの1番の障害はなにか。それこそ、いま1ビット500万円を超えているビットコイン。暗号資産そのものである。

 

それじゃぁまたね(了)

『ファイナルファンタジーVII リメイク インターグレード』がPS5向けに正式発表。ユフィを主人公とした新規エピソードが収録、ビジュアルもさまざまな面で強化へ



今回のstate of Play の目玉タイトル、なのだが……。

期待しすぎた?いや、わたしもね、洋ゲーがいくらすごいと言っても何から手をつけていいやら分からないし、もうスクエニにおんぶにだっこデスヨ。リメイクとか外れないだろうし。ってなわけで今回のPlayStationの新作発表動画「state of play」も、スクエニの新情報(FF7とか、FF16とか!)を期待していたわけで。それで7時から見ていて仕事の支度をしながらだから忙しい中でもちょいちょい見てて。それであーなんか今回の発表はイマイチかーと思ってたら、いきなりFF7リメイクの動画が流れてきたよね。ん?新作……?前のプレイ動画みたいだな……あぁなるほど、PS5版の宣伝かしら。え?新キャラ……?ユフィじゃん!ってなったわけで。それで、え?早いね?もう次回作?となってワクワクしてたら、ん?何から、DLCぽいぞ?ってなって。PS5版のファイナルファンタジー7リメイクがどう変わるか説明されてて。で、結局このユフィはどうやって遊ぶの?!ってなってたら、100円でPS5版にアップグレードできるって書いてあって(一瞬だったからよくわからなかった)、へー、追加DLC付きでアップグレード100円とか太っばらーと思ったら違くて、どうやら、あくまでPS5版へのアップグレードだけが100円で、ユフィはDLCで2000ちょいくらいで買って欲しいと。ふむ。そして、この記事によれば、あらためてPS5版のファイナルファンタジー7リメイクを買えばその中に同梱されているってことらしくて。なんだかややこしいな?!ってなりました。まだPS5本体を買えていないわたしなので、ユフィを操作したいという欲求だけでPS5を買うのはないにせよ、なんだか、ちょい足しのついで仕事みたいなDLCに感じられて少しげんなり。ファイナルファンタジー15のときのDLCは毎回毎回ストーリーに釘付けになるほどハマって全部買った私からすると、おや?ストーリーはそこまで重要じゃなさそうだな?サブエピだな?となってまたまたげんなり。例えるなら、ファイナルファンタジー15のモグチョコカーニバルみたいなものかしら。後から追加されるコンテンツは本編以上の感動なんてないんだよねー。ファイナルファンタジー15の追加DLCは違ったよ?それぞれめちゃくちゃ濃かったよ。特にエピイグと、エピアデなんかもう、最高オブ最高。めちゃくちゃ感動してしまった。買ってよかったと思ったもん。でもなー、ユフィになんの思い入れもないし。けいじチャンネルでもゆってたけど、PS4しか持ってない私みたいなユーザーは置いてけぼりですよ。ファイナルファンタジー7のコアファンすべてがPS5を買うとは限らないという指摘もうん確かになお思った。あくまでファイナルファンタジー7のファンはかなりのコアファンなわけではあるものの、ファイナルファンタジーと同じく歳をとってきて、それほどゲームにお金と時間を掛けられなくなってる。だからこそ、PS4でギリギリ購入することができた。そして、なんとかplayすることができたわけで。画質がどうとか気にしないのでDLCPS4でも出すべきだよ。ユフィやりたさにPS5を買う人なんていません。わたし?わたしはファイナルファンタジー14を快適にプレイしたいので買いますよ?よしPが4月にPS5に本格対応するって宣言したんだもん。創造主が言うんだからもう買わなきゃダメなの。お布施みたいなものだから。でも、ファイナルファンタジー7リメイクにはわたしはお布施したくない。ユフィをやってみたいなーと言う気持ちはある。でもわざわざPS5が必要何だったら考えちゃうし、そもそもファイナルファンタジー7リメイクのセーブデータを移行するのすら躊躇う。もうクリアしてるし、やらないからねもう。いくら高精細だってゆっても、わざわざクリアしたゲームをまたやる?わたしはそれほどファイナルファンタジー7リメイクにハマれなかったからなぁ。もやもや。わたしはPS5を買うことを決めてる人だけど、今回の発表で是が非でも買うぞ!とはならなかった。それよりも、今さらながらPS4にはいろんな名作があることに気がついて、ついさっき、PlayStationNOWにお試しで加入したったい。7日間使えて、100円だよ?こっちの100円のほうがめちゃくちゃ有意義だわ。そしてもっと何だかなーって思わされたのが、ファイナルファンタジー7 ファーストソルジャーと、もう一個……なんだっけ。わすれちゃった。ひとつはバトルロワイヤル形式のアプリゲー。もうひとつはファイナルファンタジー7をそのまま現代風にリメイクしたっていうやつ。過去の派生作品もそこに入ってるのかな?バトルロワイヤルはやらないからスルーだけど、こっち気になるね。これもアプリゲー?んー、やらないな、わたし。そっちを作る余裕があるんなら、続編の情報くださいよまじに。なんか、けいじチャンネルで言ってた一言がズシッときた。「ファイナルファンタジーはゲームの最先端では無くなったんだなと思わされる」という指摘。うーん!さみしい。新しいゲーム体験を追求してるとは思えない。むしろ、ファイナルファンタジー15のほうがその気概はあったよね。ストーリーは未完だったよ?DLCも中止になったよ?でも、オープンワールドという最新ゲームでは当たり前となった手法を採り入れ、国内ゲームタイトルではかなり挑戦的な作品だったよ?ストーリーが未完だっただけで。あとから追加&改良されたことでだいぶマシになってるわけだし。真のエンディングはゲーム内で見たかったなー。ぐすん。まぁとにかくなんだか肩透かしをくらったような発表が続いたわけだけれど、期待は一気にファイナルファンタジー16に!我らがよしPならきっとやってくれる。大人になった私たちがまたファイナルファンタジーで胸を焦がすことができる日が来ると信じて。

 

それじゃぁまたね(了)

若者に「わかるよ」と簡単に共感すると、中年は逆に信頼を失なう〜わからないものはわからないと言おう〜(曽和利光) - 個人 - Yahoo!ニュース



だから人間関係は難しい。

若者に対する人間関係だけではない。全般だ。わかるよと言われれば何がわかるのかと言われる。嘘はいけないと言う。それでも、分かりますよね?聞かれて、全くわかりません。と答えれば、あなたは私をバカにしてるのかと言われる。では、わかりたいとは思いますが理解に苦しみますと言えば、逆になんで分からないのかと詰め寄られる。それならば、当たり障りのない反応でわかったふりをするのがいいと思ってしまう。わかったような、わからないような、曖昧さに留めることで、煙に巻く寸法だ。だかこれも直ぐにバレる。じゃあどうすればいいのと言われれば、ひたすら聞き役に徹する。そして、理解しようとする振りを続ける。もちろんわからない。逆にバカにされたりする。それでも我慢して聞くふりをする。その結果。私の心の中に少なからず重くダメージが蓄積されてゆく。それをあとでひっそりと処理するのだ。暴飲暴食、激辛、……お酒。やり場のないもやもやを1人でなかったことにする辛さ。わたしはそうやって、理不尽さと付き合ってきた。だから人間関係は難しい。難しいなりにやりがいがあればわたしだって頑張るだろう。そして仲間が出来て仲間と苦楽を共にして絆が生まれる。そんな信念を持った人に会うことがあるが、わたしはそうは思わない。他人とは付き合うだけ疲れる。1人になりたい欲は人一倍。誰かを喜ばせるためのギバーになれと言われてはや数十年。表面上の上辺のギバーを演じ続けた結果、わたしは本当の意味で誰とも共感できない、何も感じない人になっていた。共感ってなんですか?共感すればバカにされ、イラつかれるわたしがなぜ共感をし続けることが出来ると思います?真っ平御免です。正直にあれ、嘘はダメだと言いながら、社交辞令のような礼儀正しさを求める現代社会。それなら、礼儀正しくは努めますので、共感を強要するのだけはやめてくださいって感じ。努力を強いる上司はパワハラのそれだし、若い人がどれだけ失礼に見えても、間違っているとは思わない。若者に迎合したポジショントークをしたいわけでもない。単にわからないのだ、私たち中年にとっては。だからわからないものを分からないままにしておく。分かろうとすればそれは無理がある。無理があれば嘘で隠す必要がでてくる。その嘘が相手をいらつかせ、結局、被害を被るのはわたしである。今日、とある面談で相対した人が強烈であった。まるで話が噛み合わない。そのうえ、スピリチュアルな話が混じっている。話が長く、自分語りばかりしていて全くわからぬ。そして、こちらの話は全く聞いてくれない。そんな人に共感を求められた時の私の気持ちを述べよ。答え。わかりません。いや?うっせぇ、うっせぇ、うっせえわ。って感じかしらん。まるで理解ZEROでした。そしてこう思ったのです。カウンセリングや、ヒーリングを主とするサービスを提供する人は、高確率で、メンタルの特徴がある分野のみに特出していて、聞き手である私の時間や、心情や、スケジュールをまるで無視して来るという事実。15分くらいの面談を、余裕で90分くらいに伸ばせるその神経を疑っちゃう。話したいことを話してる出せ。わたし?ただそれを聞いて共感してる振りをするだけ。なぜそういう人に限って私の時間を拘束するのか。前に会った別のクライアントは、わたしを4時間拘束し、夢を実現するためのあらゆるアドバイスをしてくれた。まるで湯水のように溢れる言葉の数々。本人は与えていると思うとイライラするらしい。なので、本人の口から出ているものは与えているのではなく、漏れ出している吐息。それを勝手にわたしの貴重な時間に注ぎ込み、それが溢れようが、理解されなかろうが、自分語理が出来ればそれでOK。それは究極の自己満足だと思うのです。やめて欲しいなと思っても。共感の振りをするプロである私はおそらく相手側をイラつかせながらも、お互いに居心地の悪い時間を過ごしたに違いないと推測される。わたしは正直にゆうべきだったのか?わかりません。そして聞きたくもありません、と。そうして共感を拒否し、関係を拒絶してしまえばいい、と?そんなんできます?最悪失礼な奴だとかレッテル貼られて(事実どちらも失礼なんだろうけどね、無視しても、共感の振りしても)、さらに上の上司をだせーだの、クレームの幅が広がるだけである。そうなるともはや90分では済まないし、下手したら社長出せ、上司を出せなど、要求はエスカレート。それを私で止めて差しあげたのはある意味でもしかすると、大変な功績なのかも。

 

それじゃぁまたね(了)

「ファイナルファンタジーとは?」作り手たちの“たったひとつの答え”からみる情熱と崖っぷちからの逆転 | 文春オンライン



時代と寄り添うファンタジー

ファイナルファンタジーはゲームである。国産で、高品質のゲームである。記事にもあるように、いくつかのお約束はありつつも、その時持てる最高の技術でプロデューサーが作りたいものをつくる作品である。ファイナルファンタジーと冠されれば、例えそれがそれまでにないファイナルファンタジーでも、すべてファイナルファンタジーとなる。私はそう思っている。その名をつけた時、ファイナルファンタジーというブランドが輝く。その名をつけること自体がすでに挑戦を意味する。今朝(厳密には月曜の朝)、TokyoFMの朝の番組に、ファイナルファンタジー14のプロデューサー、ディレクターのよしPこと吉田直樹さんが登場した。先週に引き続き2度目の登場で、相変わらず先週から今週にかけて熱狂的なファンの反響は凄まじかったらしい。かくゆうわたしもその1人ではある。番組のメイン司会の鈴村健一さんはまだ未プレイらしく、ファンから(熱狂的な)勧誘があったらしい。私もその後が気になるのであとでSNSをフォローしておこう。その番組の中で鈴村さんはファイナルファンタジー16のことを突っ込んで聞いていた。それにはさすがのよしPも予想してなかったのか、やや押され気味となり、歯切れは多少悪かったものの、他では聞けなかったゲームシステムの話が少し聞けるなどして、大変に面白い番組となった。さすがサービス精神旺盛なよしPである。お疲れ様でした。話題は戻って。ファイナルファンタジーとは何かという命題に私も何度か挑戦してきた。そして最近思うことをまた記したいと思う。スクウェア・エニックスとして、ファイナルファンタジーを挑戦の場所としているのは変わらない。しかしそれは同時に失敗が許されないほどに期待値は高まり続けている。事実、あれだけ酷評されたファイナルファンタジー15も950万本以上売ってヒット作となっているし、7リメイクも文句なしのヒット作だ。つまり、ファイナルファンタジーと呼ばれた作品の中で、ここ最近ハズレがないのである。会社の売上の割合的にはファイナルファンタジーというブランドが生み出す割合はそれほど多くはないのかもしれない。事実、売上幅の多さで言ったらやはりスマホゲームの方が上だろう。特にPlayStationというハードが高画質、高品質のHDゲームである以上、開発費は膨れ上がるし、ましてや、次世代機は4K対応する。巨額の投資に対して売上を出さなければいけない作品となっているのだ。最近思うのはスクウェア・エニックスの戦略の一環だとは思うが、挑戦という立ち位置を与えられた作品はもはやファイナルファンタジーではなくなりつつあるという点だろう。オクトパストラベラー、ブレイブリーデフォルト等、主にNintendoSwitchで展開される子ども向けRPGにそれが見受けられる。また、ストラテジーシュミレーションRPGの新作も、一見するとファイナルファンタジータクティクスと呼びたくなるのだが、そのタイトルにファイナルファンタジーと付けることを避け、完全新作として世に出すらしい。まあ、オクトパストラベラーで見せたドット絵と立体的な奥行きのある画像処理のそれはファイナルファンタジーと呼ぶよりはオクトパストラベラー亜種であるのだけれど。気になるのはそれがスクウェア・エニックスの戦略であると同時に、Nintendoの思惑でもありそうと言う点だ。NintendoとしてはPlayStationキラータイトルであるファイナルファンタジーをNintendoでやられるとどうしてもPlayStationの方が優先となり、ハードの売れ行きに影響が大きく面白くない。それなら、あくまで「子ども向けの新作」というカテゴリーを作り、そこでファイナルファンタジーではない新たな名作を作って欲しいという思惑だ。事実、ファイナルファンタジーファイナルファンタジーとしてもっとも挑戦的で輝いていたのは、ファミコン時代だった。容量の巨大化に伴い、カセット型では容量が足らず、PlayStationに移ったことで容量の問題をクリアし、まさにPlayStationの時代を作ったファイナルファンタジー7の存在もある。あれもとんでもなく輝いていた。そう考えれば、ファイナルファンタジー7までを黄金期と呼んでもいいだろう。8はさらに挑戦、9は原点回帰。そして、再び10という大きな挑戦。11は初オンライン、12、13とやや低迷しつつ、14で過去作を甦らせる手法で復活、15で最前線に返り咲いた。つまり8以降は過去からの脱却。そして次の時代へのシフトとしてもがいた苦難期と言える。「もう一度、ファイナルファンタジー。」そんなキャッチコピーがハマりそうではある。そうして、会社として絶対に失敗できない高品質のゲームとしてファイナルファンタジーは蘇えることができたのは往年のファンの存在が大きい。それは私も含むファンが歳をとり、趣味趣向が大人のそれになってきた事にも大きく影響しているだろう。そういう意味でわたしはファイナルファンタジーと共に歳をとりこうして大人になったひとりとしてファイナルファンタジーが第1線に復活したことは嬉しい限りである。同時にNintendoSwitchで展開される新作RPGのスマッシュヒットも頼もしく感じている。あの作品たちが次の時代のファイナルファンタジーとなることを願って。そう考えれば、ファイナルファンタジーは私たちの世代で終わる運命の作品かもしれないな。ドラゴンクエストは次の世代へとバトンが渡されているのに対して、ファイナルファンタジーはわたしたちの世代だけにフォーカスしたまさに最後の夢だ。旧スクウェアファイナルファンタジーを作り上げた坂口氏が存命である限り、ファイナルファンタジーは、続くだろう。ファイナルファンタジーは坂口氏の夢から、私たちファンの全員の希望、夢になった。私たちのファイナルファンタジーファイナルファンタジー14という夢の国として結実したと言っていい。しかもそのサービスは暁月のフィナーレを迎えてもさらに続いていく。こんなに嬉しいことはない。私たちのファイナルファンタジーは担保された。あの頃の7もリメイクされていく。それならば16とは何なのか。16とはどうあるべきなのか。15までのすべてのファイナルファンタジーを含んで背負って成功したファイナルファンタジー14。そのプロデューサー、吉田直樹さんだからこそ、次の16を作るにふさわしい。全てを背負い、そしてこれまでの文脈を理解した吉田直樹さんが最後に生み出す新作RPG。その名もファイナルファンタジー16。わたしはファイナルファンタジーはここで終わってもいいとすら思える。私たちには14があればいいからだ。17、18と続いたところでもはや私たちはついていけるだろうか。ゲームに当てることのできる時間は年々減っている。しかも14で忙しい。据え置き型で、オンラインゲームでないゲームとしてのファイナルファンタジーに今後どんな役割りがあるのだろう。新作ナンバリングタイトルがなければ14はつまらないだろうか。そんなことは無い。14で新たなファイナルファンタジーを作ってくれればいい。それこそ、よしPが散々言っているように、ファイナルファンタジー14を、ファイナルファンタジーオンラインと変えてもいい。それくらいに、ナンバリングタイトルはもはや時代遅れになりつつある。16で終わって欲しくないと思うのは、おそらく、SONYの思惑だろう。PlayStationが今後も羽ばたくためのキラータイトルである。PS5の売上に大きく貢献が期待されているからだ。そう考えれば、たぶん、あるな。17以降も。SONYPlayStationを諦めない限り。いや、7リメイクだけでもキラータイトルになるか?いや、あっちはまだまだ時間かかりそうだな……。そういう意味で、7リメイクの発表までのお楽しみとしての、ナンバリングタイトルが続くと考えた方がいいのかもしれない。もはやナンバリングタイトルとはその程度のものとなりつつあるのかもしれない。いや、16やるよ?絶対買うよ?そしてたぶん大絶賛するよ?17出たら買うよ?やるよ?そして大絶賛するよ?それでも。それが時代に寄り添うファイナルファンタジーであるかどうかは疑問である。ファンをつなぎ止めて会社として売上を作るためだけなら、もはや14で十分なのである。ファイナルファンタジーとは何かという命題からはややズレてしまった感があるけれど。ファイナルファンタジーは特定の世代のゲーマー達の夢である。無理やり言うとね。

 

それじゃぁまたね(了)

Lead Shadowbringers Writer Natsuko Ishikawa Returns for FFXIV: Endwalker



英語版インタビューで、かなり答えてます。

ナツコイシカワさんによるメインストーリー。FF14の人気エピソードを数多く手がけてきた素晴らしいストーリーテラーだと言われている。わたしは彼女が手がけるストーリーには独特のイシカワ節と呼ぶべき魅力があると感じている。子どもの頃に忘れられたような、置き去りにしてきたようなあの頃のキモチ。それを今も持ち続けている。その闇にフォーカスしたような言葉選び。そして、あらゆる伏線を丁寧に回収しつつ、ラストに向かって畳み込むように盛り上げていくそのストーリーテリング。細かくは詳しい人に委ねよう。わたしも、暗黒剣士のジョブクエが持つ、あの独特の空気感は特別だと感じる。フレイとは一体なんなのか。その答えは実際にジョブクエをプレイして確かめて欲しいのでここでは敢えて何も言わないでおこう。そこから紡がれた闇と光の関係性。光があるところに闇ができる。だが、光が溢れて氾濫してしまった世界としての第一世界では、光こそが人に仇なす人類の敵となっている。光を希望のそれではなく、停滞のそれとして、描ききった漆黒のヴィランズ。メインストーリーに絡む登場人物はもちろんのこと、脇を固めるサブキャラクターまでが世界を救う重要人物として描かれるその世界の緻密さ。そして、光が悪となり、主人公たちが闇の戦士として停滞の光に立ち向かうとき、これまで紡いできた光の戦士としての壮大な戦いの日々そのすべてが、異世界の、それも、全ての始まりの英雄、光の戦士そのものとの戦いへとなだれ込んでいく見事な対比。漆黒のヴィランズで用意されたボスキャラクターはボスではなかった。ある意味で友であり、立場こそ違えど、目指すべきものがあった。実現したい夢があった。それは、光とか闇とかいうファイナルファンタジーを構成する二大要素を単なる属性の隔たりに変換してしまった。そして、その過程の中で、そこに関わる人の思い。意志の強さ、それらを浮き彫りにするという側面もあったように思う。ファンタジー小説をベースとした世界観であるファイナルファンタジーにおいて、人の意識、人の願い、意地と意地のせめぎ合いを、泥臭く、生々しく、そして最後まで描ききったのは、後にも先にもファイナルファンタジー14漆黒のヴィランズだけではないだろうか。そこに真新しさや奇を衒うような物はまるで存在せず、ただ真っ直ぐに願いの力の強さだけが勝敗を別ける結末。シンプルに、そして、力強く描き切ったメインクエストの潔さは、文句なしの最高傑作である。その続きがさらにあるとして。新生エオルゼアから続く戦いの日々に終止符を打つのだという強い意志を持って紡がれる最終章。それが、暁月のフィナーレである。これは、成長の物語である。私たちの分身である主人公は、そういう意味ではメインストーリーの主役ではない。主役は別にいる。それこそが、アルフィノとアリゼーであった。エオルゼアで紡がれるメインストーリーは極論をいえば、彼等2人それぞれの成長の物語である。彼と彼女がこのエオルゼアの地で学び、時に挫折し、それでも運命に抗ったその成長の記録だ。そして。その旅路も終盤を迎える。それこそが、アシエンたちの世界がなぜ滅んでしまったのかという核心に迫る確信へと繋がっていく。ルイゾワ、パパリモ、そして。新生エオルゼアの誕生とともに消えた、無数の名も無き光の戦士たち。それらすべての大団円に向けて、フィナーレの合図は鳴り響く。暁月の終末は、近い。暁の血盟は、その名が示す月へと向かう。戦いの果てに彼や彼女らは、何を見るのか。月といえば、魔導船。魔導船といえば、ファイナルファンタジー4である。私の好きなファイナルファンタジーの中でもトップ3に入る名作だ。漆黒のヴィランズがファイナルファンタジー3をリメイクしてくれた名作なら、今回はまさにファイナルファンタジー4の再演である。あぁもう。楽しみで仕方がない。ルナタイタン、ルナシヴァ、ルナイフリート…そして、ルナバハムート。ゼロムス。わたしの子どもの頃に味わったあの冒険譚が、2021年の秋に再び蘇るのだ。はやく次のトレーラーが見たいぞ。吉田ぁああ!!

 

それじゃぁまたね(了)

バルミューダの家電はなぜ独り勝ちするのか? “市場調査”に頼った商品開発が失敗するワケ(文春オンライン) - Yahoo!ニュース



マーケティングとセールスは真逆の考え方。

バミューダが一人勝ちしているかどうかは定かではない。だが、この記事の言わんとすることは一理あると感じる。いま、あらゆる業界で成功しているのは、いかにセールスするかというテクニックでは勝負していないと思う。いや、言い過ぎか。セールスに対するノウハウはかなり揃えていてそれをスマートにこなしている。そのうえで、マーケティングをとことんやっているという印象。つまり、消費者の我々が、「これ考えた人うまいなー」とつい感心してしまう売り方。そして、商品。どれだけセールスが上手くてもいまやあらゆる情報が、正直ベースで溢れる時代には通用しなくなる。つまり、商品としての価値がダイレクトに問われている。その商品の良さはどこにあるのか?それをしっかりと考えた上でそれを商品化出来ているのか?それがまさに売れるコンテンツの出発点だろう。そういう意味で、個人的にうまいなーと思うのは、あらゆるコラボを実施するビックリマンと、任天堂Switchである。エンタメだから当たり前と思うかもしれない。しかし、ロッテのビックマンと、任天堂Switchはとことんユーザーの目線に立って売られていると感じる。だから多少高くても喜んで支払うことができる。それを手にした時に支払額を上回るPleasureを強くイメージできるからだ。それはこれを手にした時の幸福感がデザインされており、それを手にすることでどんな幸福感が味わえるのか?という点においてのプレゼンテーションがごくごく自然にしかも納得感を伴ってユーザーの私たちに伝わってくるからだ。そういう意味では鬼滅の刃も、そうだったのかもしれない。先日の鬼滅の刃祭オンラインも大成功だったのではないか。そのオンライン番組に集客するために、4つのショートアニメが用意された。それらは、朝、昼、夕方と3話放送され、最終話を鬼滅の刃祭オンラインで放送という流れであった。かつて、鬼滅の刃祭は、幕張メッセで盛大に開催される予定のリアルイベントとして計画されたが、コロナ禍のイベント自粛に伴い、実施を断念。オンライン開催へと切り替えた形だ。しかし、入場料収入は無くなってしまったにも関わらず、オンライン開催にしたことで、あらゆるユーザー(おそらく入場者数を超えるだろう数)が、鬼滅の刃祭にアクセスすることが出来たに違いない。鬼滅の刃の新作テレビアニメシリーズがスタートするというこの上ないニュースを世界中のファンに届けることが出来たという意味でも凄まじいコスパをたたき出したことだろう。そして、その中で紹介されたオリジナルグッズや音源、映像作品などの商品が見事にプロモーションされ、それらの商品をカートに入れたファンは大勢居たはずである。会場の熱気にやられてついつい買いすぎてしまうという相乗効果はもちろん期待できないにせよ、受注生産体制だ。少なかったとしてもしっかりと利益を確保できたに違いない。むしろ、一時的に殺到してソールドアウトを連発し、買えないならいいやーとファンが離れてしまうことを考えればかなりクレバーな選択ではないだろうか。これは売り手の都合を最大化したセールスであると同時に、買い手のことを考えたマーケティングの戦略として機能する。だから、「うまいなー」となって結局は購入してしまうのだ。いや、買わせていただきます。つまり、セールスの追求は利益の最大化である。マーケティングは商品価値の最大化である。セールスは商品価値を前提にして行われ、マーケティング顧客満足度を優先する。そのどちらもが高い水準で保たれた時、モノやサービスは飛ぶように売れる。それこそが、現代のヒット商品のあり方だろう。売れる商品を作るだけでもダメ。売れるセールスを追求するだけでもダメ。その両方が合わさらなければ。営業を仕事にする私たちはYESを言わせるスキルを磨くこともテクニックとしては大事だ。しかしそれ以上に大切なのはその商品がどれだけマーケティングされているか?である。なにもプロダクトを生み出せないからと言って諦めることは無いのかもしれない。わたしの会社で販売するものは多岐にわたる。そして、その根底にあるものは広告のそれだ。しかし、そこにマーケティングの発想が入ったとき、その商品価値がガラリと変わることがある。今日の会議でそれを感じた。クライアントが求めているものを生み出そうとする発想さえあれば。あとは形と価格決めである。それをできる上司であれば。実働部隊のわたしたちはそれを1人でも多くのクライアントに足を使って説いて回ればいい。泥くさくて、古めかしい手法かもしれない。けれど、とてもシンプルで、とてもユーザー目線に立った、マーケティング戦略であると感じる。この視点で進めば、間違いなく上手くいく。わたしはそう思う。顧客が限られている地方における正解はなにもDXだけがやり方ではないはずだ。

 

それじゃぁまたね(了)