ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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失敗したくない若者たち。映画も倍速試聴する「タイパ至上主義」の裏にあるもの(稲田 豊史) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

 

個性的でありたい。しかし、無駄な回り道をして失敗したくない。

タイパ至上主義=タイムパフォーマンス至上主義。わかる。時間は大事。時間は平等である。時間を有効活用すること。それがタイパのいい生き方。オタクであることを求められる。オタクであることは個性を勝ち取ることだ。個性的でありたい、は、つまり心の拠り所を得ることである。わかる。わかりすぎる。ネタバレを恐れる一方で、大体のあらすじを知りたいと言う。テレビの番組表なんかがそうだろう。大体のあらすじがわかる。なんなら、翌週のあらすじもわかる。それで大体の内容を把握できる。それで観るか観ないかを判断できる。私の家には全録がある。3日前までのほぼ全ての番組を録画している。Twitterのトレンド、まとめサイトYouTubeのまとめ等で面白いと話題になったものはすぐにチェックする。それは話題を逃したくない気持ちもあるが、どうだろう。どちらかと言えば外したくないからだ。面白くないものを観て時間を無駄にしたくない。面白いと確信が持てるなら観たい。まさにここにタイパの考え方がある。映画館も同じだろう。誰かが面白いと言っている。まとめサイトを見ても面白そうだ。だから見に行ってみようと思う。誰よりもいち早くみたいというニーズはもはやそこには無い。わたしが好きでやっているファイナルファンタジー14はどうだろう。ゲームを始める時、マイディさんのドラマを見てからやろうと決めた、わけではない。ドラマをやると聞く前に始めた。それは面白いかどうかわからないけど、無料なら挑戦してみたいという好奇心である。もしかしたら壮大な無駄に終わるかもしれないというリスクより、なにか新しい発見や出会いがあるかもしれないというワクワク感が勝ったのだ。事実その予感は的中。今に至る。わたしもエオルゼアのおかげで心の拠り所を見つけられたと言っていい。そういう意味ではタイパの話を聞いて激しく同意しかない。わたしには昔から好きなファイナルファンタジーというゲームがあり、リアルでは好きな音楽に囲まれれば「わたし」という個性になれる。即ち、それが音楽という意味を持つ「MUSICA」である。わたしは好きな物の融合に、私の心の拠り所を見出した。ついでにTwitterという場所にもわたしの居場所を作ることができた。それはわたしの心の安息地となっている。つまり、ゲームを出発点としながら、大好きな音楽を楽しむわたしを経由して、そのどちらも両方をTwitterというSNSで表現する。それが私の個性である。そういった個性をどこで手に入れればいい?という質問を質問箱でもらったことがある。好きなことが見つかりません。どうしたらいいですか?という質問だ。わたしも好きなことを見つけるのに時間がかかったほうだ。なぜなら、好きなことを見つけるという行為は、自分を発見することだからだ。自分は何が好きで、何が嫌いか。恋人に例えるとわかりやすい。沢山いる異性の中で1人だけ誰かを選ぶとすれば誰を選ぶかというのは、逆説的に言うと誰を選ばないのかという問いである。あれもこれも、と選んでいるうちは自分を発見したことにはならない。あの子もいい、この子もいいと言っているうちは恋人を得ることは出来ないのである。つまり、誰でもいい、は、誰でも良くないということであり、選べない人は選ばれないのだ。好きなこと、いわゆる趣味も同じである。個性的であるために必要な趣味。自分だけの趣味のことをマイブームと呼び始めた頃から、オタクという文化が世の中に大きく拡がって言った。メインストームがあって、サブカルチャーがあった。あえてサブカルチャーを選ぶことが個性であった。今思えばわかりやすい。メインストームを否定すればいいからだ。いまはそのメインストームが、ない。無数にサブカルチャーが拡がってそれぞれが深く、重い。少し見かじった程度では「ニワカ」と蔑まされ、かなりの深度で理解しなければオタクではないとすら、言われる。失敗してもいいからとにかくやってみろ。はいまや失敗したくない人からすると失敗そのものという指摘はわかりみが強い。自分だけ失敗したら、時間のロス、人生の損だからだ。それなら先人たちの意見や経験談を聞いたり見たりして学習ないし、予習した方が何倍も有意義である。だがそうやってスマートに生きる人達に決定的に欠けているものがある。それは「自分という尺度は他人と同じでは無い」という事実だ。つまり、他人が面白いと思った部分を自分が面白いと感じるとは「限らない」。それはそう感じないことを「感性が足らない」とか「知識が足らない」と表現してしまう風潮が邪魔している。本来、作品から受け取る面白さをどの要素で受け取るか?は自由だ。例えば例をあげれば、皆が良いと言っている曲を好きになれなかったとする。そんな時に、なんで私はその曲を好きになれないんだろう?という疑問が頭をよぎる。その疑問を逃さないことである。たまたまかな、とかなんとなく。で済ましてはいけない。なぜなら、そこにこそ、私を発見するヒントが隠されているからだ。そうして、いいと思うもの(ここでは曲でイメージしている)を、たくさん聴く。たくさん並べてみる。たくさん選んでみる。その中から共通項を見出していく。そうすると、あぁわたしはこういうものが好きなのかとわかる。それが、自分を発見するということだ。まれに誰か友人や家族に指摘されて「私とはこういうものだ」とわかる時もある。しかし気をつけなければならないのは「誰かに言われたからわたしはこれが好きなのだ」と決めつけてしまうことだ。理由が分からないままに好きだと思い込むと、ふとした時に「なんで好きなんだっけ」という虚無に襲われてしまう。そのときに確固たる理由を言えるようになるためには、やはりなぜ好きなのかという疑問からは逃げてはいけないのである。個性的であろうとする者は、その問いから逃げなかった者のことを言う。好きな人。好きな映画。好きな音楽。好きなアニメ。好きなキャラクター。なぜ好きなのか。なぜほかの物ではダメなのか。その問いにこそ、自分を発見させる手がかりが隠されている。その答えを見つけ出した時、あなたは気づくだろう。わたしは何者なのかという壮大な問に対する答えは自分の内面にこそあるのだ。

 

それじゃあまたね(了)


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27歳パチプロ男性が「経営者目線」で語る違和感 | ボクらは「貧困強制社会」を生きている | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準



社会との接点が失われるんじゃないか。

この一言がもっとも重い。記事内で、履歴書に書けない、とあった。パチプロでした、とは言えないというのだ。パチプロとして働くことは不安定な状態。いつ仕事が無くなるのかわからない。社会保険……なんてものはあるのだろうか。ローンを組むことも難しい。まして結婚もよほど相手の両親に反対されるだろう。社会的な地位を失うということがどれほどセーフティネットを失うことになるのかということを感じさせる。この話を政治家は認識しているのだろうか。認識していてもどうしようもないというのが現実ではないだろうか。わたしも似た経験を持つ。パチプロではないが、最初に就職した先は何の手当も無く、社会保険も一切入っていない職場。休日の考え方も適当で、劣悪な労働環境であったと言っていい。そのとき、わたしの中にはある言葉があった。それが、「どんな結果になろうとも納得する。それは全ての選択の責任はわたしにあるからだ」という考え方であった。だからそんな環境であっても「給料が貰えるだけマシ」だったし、休みがなくて忙殺されていても「殺されないだけマシ」だったのである。しかし5年続けた。余りにも辛いと感じ、これ以上耐えられないと判断「できた」。今考えるとそれが普通の感覚。そのとき感じたのはこのままだと結婚できないという不安感だった。まず、収入が少なすぎた。そして休みがないので出会いがない。そのふたつに気づいたわたしは転職することを決意する。そしてインターネットが普及しだした当時にわたしは転職サイトなるものに縋ることにしたのだ。そして次の転職先を見つけることに成功した。それは今思えばかなりラッキーだったと思う。自分にそれだけの能力があったのだと当時は思った。今思えば単に若かったのだ。若くて伸び代があるから採用された。そのとき履歴書にはあらゆる全国紙に携わった経歴を華々しく書くことが出来た。そしてもう1つ良かったのが経歴に穴が無かった。ただそれだけ。ただそれだけで、2つ目の職場は社会保険を完備しており、休日もちゃんとある。残業もない。素晴らしく生活は改善された。そして人生初の恋人もできたのである。そのまま私の人生は好転すると思った。だが、わたしの中の能力に対する驕りが職場不和を引き起こした。そして結局、1年も経たずに辞めてしまった。わたしは役員室に呼ばれ、ずらりと並んだ役員……(確か5、6人はいた)に詰め寄られた。その場で何か咎められた記憶がある。なぜだろう?なにか大きなミスをしたのだろうか。単に職場不和を引き起こした害悪として裁判を受けたような印象であった。その後も私以外に採用された人もいたが同じように職場に慣れず私よりも早く退職した。程なくしてわたしは総務に呼ばれた。その時の言葉が忘れられない。アルバイトとして再雇用する。と言われたのである。つまり、辞めるかアルバイトか選べと言われたのである。今思うとあれはどうなんだろう。普通のことなのだろうか。その言葉にわたしは内心激高し、それなら辞めますとはっきり言った。そのとき総務の人がなんか慌てていたのは何だったのだろう。そして次の春までに退職することが決まった。あれは確か秋のことだったので、転職して約半年でさらに転職決意だった。退職を決めてから5ヶ月位先に退職が決まったのである。ちなみに退職金は貰っていない。そしてすぐにまた転職サイトに登録。同じように転職先を探した。当時の恋人の意見から職場の場所を絞ることになったが。今思えば都会以外でもいいと条件を弛めたのはその時が初めてだった。……ここまで書いてきて、余りに綱渡りだったと思わされる。私自身は自分の能力を過信して自分の力で渡り歩いてきたという自信があった。だが、この記事の、パチプロの方の話を聞いて思った。パチプロの方と同じような気持ちだったのだ。ギリギリのところで社会との接点を持っていたことが、セーフティネットとなった。ある意味でハッタリのような転職を繰り返した。それが出来たのはキャリアイメージを持って履歴書を華々しく書けるような仕事を選んできたから「だけ」である。実際は能力など、ない。だから職場不和を引き起こして退職した。わたしはそのことをトラウマ、と呼んでしばらく引きづった。ここまで他人に拒絶されることがあるのか、と思った。そしてもう二度とそんな気持ちになりたくないと思った。そしてその次の職場で決意する。「嫌われないように振舞おう」と。自分のキャラクターを封印し、好かれる努力をする。それがわたしの新たな人生のテーマだった……。そのおかげで今がある。今という奇跡がある。結局はその当時の職場も10年で退職。いまの職場にたどり着いた。今の仕事は、最初に就職した劣悪な職場ほど悪くは無い。だが給料は安い。2つ目の職場のような、職場不和を引き起こしそうになった。つまり、前職の反動である。前職ではキャラクターを封印しすぎて自分がわからなくなった。年齢もあり脆さもあったのだと思う。今はもう無理をしても難しい。だから2つ目の職場のような職場不和を引き起こしかけた。だが、すんででわたしは思い直した。それは過去の失敗から学んだことだ。それにもう歳だ。あまりカッカしても意味が無い。そう思えた。そうしてわたしはようやく普通になったのだろう。わたしという労働力を買ってくれる職場に出会えたのだ。社会保険もある。休みもちゃんとある。これ以上望むとバチが当たるくらいに……。この考え方はおかしいだろうか。わからない。だが、この記事の人に同情してしまった。わたしもそうだったかもしれない。また、貧困はすぐ近くに来ている。いつ私がそうなってもおかしくはない。それは不幸だろうか。わからないけれど、私の中には今も「全ての選択と結果はわたしの責任である」という矜持がある。

 

それじゃぁまたね(了)


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論破王ひろゆき「妻や上司を論破してはいけない」これだけの理由(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース



お久しぶりです。

なんか久しぶりになっちゃいました。書きたいことがないというより、書く暇がないと言うのが正直なところかも。私のブログを楽しみにしてくれている人入るのかな?と思ったりします。それでも読んでくれているあなたのために、今日はこんな時間から書いてみました。恩着せがましいですね。はい。

ニュースを読んで記事にするというわたしのブログですが、2年近くやって分かったのが、ニュースで気づきを得ることは少ない。むひろそれほどないということかもしれません。ニュースというか、コラムというかそういったものを見て読んで考えを述べる。そうすると、自分の中になかった考え方が生まれたり、そもそもあった考え方が変質したりします。それを、ただ何となくそう感じるだけに留めていると何も気づきがないのですが、こうして文字に起こしておくと、後で見返した時に絶対にその違いがわかる。ほら、よく言うじゃないですか。絵が上手くなりたかったら毎日絵を書けばいいという。あれです。わたしも成長できたのかなぁ。私の内面にある言葉を綴ることでわたしの輪郭をハッキリとさせることを主眼に置いて続けています。これがいつまで続くのかわかりませんが、やれるだけやってみたいと思います。こうして、アイドル時間って退屈です。音楽を聴いたり動画を見たりするにはイヤホンが要ります。しかも動画の場合、後ろを気にする必要もあるでしょう。Twitterもそうですが。別にやましいものを見ているつもりはなくても、そういった動画を何となく見てしまうことがあります。私の中の感覚がある意味で麻痺していて、通常では感じられなくなってしまった時に強い刺激を自分に与えると自分が生きているという実感を取り戻すことができるからだ、とわたしは思っているのですけれど。まぁいいことばかりではないので程々にではあります。たまに戻って来れなくなったりしますから。

成功するのに何がに必要でしょうか。努力?運?行動量?わたしはそれらすべてだとおもいます。でも、それを組み合わせることが必要です。行動量を増やす努力を続けるためには楽しまなくてはいけません。それを続けていく先にふとチャンスが舞い降りる。それこそが運を味方につけるということではないでしょうか。毎日何時間やる!とか、毎日ブログを書く!とか、30件アポをとる!とか、そういう数字でモチベーションが上がる人ならそれもありです。わたし?わたしはそうではありません。人に決められるのがとても嫌です。かといって自分で自分を律することも出来ません。なのでわたしはある意味で感覚を麻痺させて自分をドレイのように動かします。自分を楽しく操縦するには感覚を麻痺させてZONEに入らせることがベストでしょう。もちろん楽しいZONEですよ?そういったことをこの記事は言っているのだなとわたしは思います。上司や伴侶を論破してはいけない。まさにその通りです。また、こうでなければならないというルールに縛られていてはZONEに入って超人的な働きをすることは難しいでしょう。なので自分をコントロールする(操縦する)方法は人それぞれあるのです。それはサボればいいということではありませんし、ガツガツやればいいと言うことでもありません。やはり自分なりのタスク管理を持ってやりきる。やれなくても自分を責めない。やれないときは明日やる。やれないままにしなければいい。そういった具合でしょうか。妥協していい、とは、裏を返せば、80点じゃなくても65点を下回らなければいいという考え方。0点でもいいとは言っていないところがひろゆきさんらしいなと感じました。リアルですね。私たちはやれることをやる。やれないことをやれと言われているわけじゃないから。やれる範囲でやれるだけやる。それが仕事で上手くやる方法なんだろうなーと思ったりします。別に上手くやって出世したい訳じゃない。そこそこ頑張ってそこそこお金を貰えればそこそこ幸せなんです。日本人が目指すべき国のあり方は、そこそこ幸せな日本でいいんじゃないかなーと思います。世界一!アジア1!とかそーゆーのはもう辞めたほうがいいです。もちろん日本一!も。せいぜい市内で1番くらいでいいじゃないですか。私はそれでも十分すごいと思います。あなたはどう思いますか?それじゃあまたね(了)


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人生の折り返し、47歳「中年の危機」の向き合い方 | 映画・音楽 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準



人生はながい。しかし、折り返し地点は、ある。

ミッドライフ・クライシスは、中年の危機と訳される。中年を何歳からに定義するかは諸説ありそうだが、少なくともそういった感情に支配され、気力や体力がみるみる衰えて元気だった頃の自分と比べて自信を失ったり、周りの友人たちがすごい人ばかりに見えて自分が過ごしてきた人生は何だか味気ない惨めな人生だったのではないかと疑念に取り憑かれてしまうこともある。それをミッドライフ・クライシスと言うのであればそれはそうなのだろう。人間、30歳の中盤に差し掛かると目に見えて衰え始める。気分が落ち込みやすくなり、自分はまだやれる、と思っているアクティブな人ほど、その心にかかるダメージの深さは比例して大きくなってしまう。どうやら、人は寿命を迎える前に社会的な死を迎えてしまう人が一定数いそうである。それがあくまで社会での死を意味していて現実には何不自由なく悠々自適に暮らせていた時代ならそれもまたよいだろう。単に悲哀に満ちた背中を晒すくらいで害はない。そんな伴侶を持つ奥様はいたたまれないだろうけれど。それにしたってそうやってステレオタイプな悩みを多くの人たちが共感できていたことは、今考えれば横暴であるし、幾分かはまだマシな世の中でなかったか。社会的な死を肯定的にとらえ、自らを霞を食べて生きる仙人と見なし、あらゆる欲から開放された生き方。だがそれは少なくとも安定した生活が出来るという大前提によって支えられた1種の幻想である。安定した生活の保証という幻が見せた蜃気楼のようなそれは平成の終わりと共に消えてなくなった。いや、2011年頃からそれらのまやかしはまやかしとして認識された。人々はどこか今までに感じたことのない違和感と不安に苛まれつつ、どこかでそうじゃないと心の中で否定した。つまり、自分だけは大丈夫というプラスのレッテルを貼ることで不安から逃れようとした。だがどうだ。そんな方法論ではまるで歯が立たないどころか、現状は悪くなる一方である。コロナ禍がいまの日本をダメにした訳では無いという共通認識は持っていはいるものの、それはリーマンショックで決定されたのか、東日本大震災で確定したのか。少なくとも消費税増税という出来事がそれに拍車をかけたことは間違いがなさそうである。ミッドライフ・クライシスと言えば何だか懐かしい響きすらある。それは中年の危機は誰しも訪れる普遍的なものだという指摘は、その中年の危機が訪れるまでの20年間は安泰であるという前提で成り立つ。または、20代は貧乏になる権利を持ち、苦労はするもののそれなりに充実した日々を送るものだという前提だ。だがどうだ。いまその若い世代が充実していると誰が言えるのだろう。どの世代もそれなりに苦労はあるし、どの世代が1番大変かと言われれば、いまや若い人たちと言っていい。職場の先輩方は参考にならないし、隣を見てもみな一様に迷っている。誰も答えを教えてくれないばかりか、逆に答えを求めれられているのがいまの若い世代。若い世代の感性が時代にあっているからという理屈では、彼らを納得させることは出来やしないだろう。彼らもまた時代に翻弄されている。わたしたち中年の危機は確かにある。だがそれによって気づきを得、先に進む(ドリブンさせる)力を内側に秘めている世代こそ、中年ではないだろうか。若ければ若いほどいいと言われた時代ではない。年齢では無いのだ。気づくか気づかないか。努力を続けられるのか。そうでないのか。その2つの差によってのみ、私たちは評価されるといっていい。がむしゃらに走り回ればいい訳では無い。面談すらはばかれる現代において、時間的コスト、工数を減らしつつ、マルチタスクで日々のスケジュールをこなして行く事は若い人たちの得意とする分野ではない。彼ら彼女らは自分にとっての正解を導く力に秀でている。しかし、集団における正解。国家における答え。民族が向かうべき未来の選定。これら次々に噴出する新たな課題解決にわたしたち中年は、力を使うべきなのだ。それはマスメディアが用意した答えをキャッチするという意味ではない。マスメディアの壁を乗り越えて見える景色を自分の目と耳と足で体感出来る者だけがこのさきのルール変更における勝利の鍵を手にすることが出来る唯一の存在。それこそが日本の未来をしょって立つ新たなリーダーの選出であり、そのためにはトライアンドエラーを繰り返すものだけが真実の答えに1歩ずつ着実に近づいていくと信じて。なんてね。

 

それじゃぁまたね(了)


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【論破王】ひろゆきが「スマホ脳はヤバイ」と語るワケ | 1%の努力 | ダイヤモンド・オンライン



どうでもいいけど、論破王なんだ……。どうでもいいけど。

スマホ脳という言葉もよくわからない。スマホ至上主義とでも言った方がよいのではないか。スマートフォンは、パソコンの進化じゃない。モバイルデバイスは、パソコンからマウスを無くしてキーボードも省略した簡易版である。いや、特化型である。持ち運べるという利点に特価するがあまり、効率化という名の合理主義に彩られた自動消費促進ツール。利益の最大化と、人間の行動のデータ化によるビッグデータビジネスのマネタイズを飛躍的に加速させたツール。利用している本人よりツールを提供した側にとてつもない利益を生み出した夢のアイテム。それが、スマートフォンと呼ばれたデバイスというだけだ。登場した頃はその「なんでもあり」な利便性にみんな飛びついた。音楽もゲームも電話もカメラもビジネスツールもこれ一つで賄える。そんな多機能なパソコンを持ち運べるようにしたモノ。それがスマートフォンの最大の存在理由である。ところが、それはビジネスで活用するには簡略化されすぎていた。閲覧に特化するがあまり、新しい価値を生み出す源泉にはなれなかった。唯一の価値は「アプリ」という可能性と、「アプリストア」という利益の集約性だけである。何度も言うが、その場を与えるプラットフォーマーに利益が集中するだけで、そこに新規参入しようとする者はすべて搾取される側になっていった。個人の発信において、ブログがいいと言うひろゆき氏は意外であった。独自の視点はコンテンツになりうるという指摘も独創的で納得のいく結論であるように思う。SNSとは自分の知らない世界との窓口であるべきだ。そこから知見や見聞を広げることこそ、このリモートワークが常習化しているいまの世相を表している。なんてね。

 

それじゃぁまたね(了)


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ゲオ、6月上旬入荷予定のPS5抽選販売が実施決定



やはりGEOを信じてよかった。

わたしはGEOというお店に縁がある。昔、姉が働いていたアルバイト先だ。その後、姉の紹介で私も働くことになったのが、GEOである。ゲーム、音楽、映画、漫画。およそ、エンタメの全てが詰まっていると言って過言でない夢空間。それがGEOである。企業案件ではないよ?なぜ、わたしがまた、GEOを持ち上げるような記事を書いているのか?の理由は明白である。当たったのだ。PS5が。そう。GEOで。PS5を買おうと決めたのは、ファイナルファンタジー16の発売が決まったからではない。ファイナルファンタジー7リメイクのインターグレードがやりたかったからでもない。ファイナルファンタジー14がPS5に対応するとアナウンスしたからである。あ、インターグレードはやりたいけど。っていうか、ユフィのDLCね。

PS4でゲーマーとして現役にカムバックしたわたし。素晴らしい映像美に感激し様々なゲーム体験を私にもたらしてくれた素晴らしいハードPS4。だが、ゲームの高画質化が進むにつれ、読み込みスピードに難ありとなってしまっていた。ファイナルファンタジー14であればそれほど気にならない程度ではある読み込みスピードは、ファイナルファンタジー15となると凄まじい読み込み速度の遅さであった。いや、ファイナルファンタジー14でもテレポしてから移動するまでの時間かなり待たされますけど。画質も良くなるし、音楽も迫力増すと言われる最新ハードPS5。いまもまだなかなか手に入らないと言われるPS5を、争奪戦の末、こうして手にすることが出来るわけだから感慨深い。今日メールで当選のお知らせを受けた私。受け取り期限は驚きの5月31日。今日入れて3日である。決して安くはない6万円弱という大金をすぐに払えとは中々に強気である。わたしは自身の誕生日プレゼントとしてPS5を予定していたので、誕生日プレゼントを前借りする形でわたしは明日、最寄りのGEOに立ち寄って購入してこようと思う。またブログなどでインプレッションなどを記したいと思うわけだけれど。

遅くともファイナルファンタジー7リメイクのインターグレードの発売までに手に入れるというわたしの今年の目標はこうして5月末というギリギリのタイミングで叶ったというわけだ。SONYとしても、せっかくキラーコンテンツファイナルファンタジー7のリメイクのPS5版をスクウェア・エニックスに用意してもらったのだ。この土壇場でかなりの数を用意してきたに違いない。そのSONYの読みは当たっているだろう。事実、バイオハザードビレッジはそこそこ売れているという。まあ他のバイオハザードに比べるとやや売れていない部類らしいけれど。個人的には最新ハードPS5を手に入れることが出来ていちばん嬉しいのがSSの画質が向上するということなのですけれど☆これでおはららが捗る〜〜

ま!ファイナルファンタジー14と7しかやりませんけどね!

 

それじゃぁまたね(了)


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『ファイナルファンタジーXIV 光のお父さん』の元ブログを書いた男が2020年にがんで逝去するまでに遺した生き様(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース



ならば覚えていてほしい。マイディーさんは確かに生きていたんだ。

マイディーさんのことを語れるほど私は深くは知らない。マイディーさんの存在を初めて知ったのはやはり光のお父さんのTVドラマが始まるときだったからだ。その頃にはもうブログが話題となっており、彼のTwitterは凄まじい更新頻度でタイムラインを賑わせていた。何度か、彼のツイートに反応したことがある。そんな間柄である。彼は別にFF14しかやらない人ではなかった。最初は専任プレーヤーかと私は思った。しかし、更新されるブログの中に他のゲームもあったし、プラモデルの記事なども含まれていた。彼の操る、マイドオーキニさんこと、マイディーさんは、猫の耳をつけた女性キャラだ。大きな猫目がギョロりとこちらを凝視してくるかと思いきや、爽やかなブラウンのおかっぱヘアーがとにかくチャーミング。服装もモンクらしく、胴は帝国の服。脚はスパッツと、動きやすいスポーティな装いで統一されていた。頭にはカチューシャが印象的であった(これはデフォルトかな?ミコッテ♀はキャラクリしたことないから不明)。そんな有名人が住まうサーバーは、グングニル(通称槍鯖)。エレメンタルDCであるため、わたしの住まうイフリートはガイアDCということもあり、おいそれと会いに行ける世界ではなかった。しかも、気づいた時にはGLAYのTERUさんが、同じくグングニルに降臨しており、グングニルサーバーはGLAYファンで沸き立つ人気サーバーであったと記憶する。わたしも隙を見て人気のない夜中にこっそりグングニルにララフェル♂を作っておいたのだが、終ぞそれを活用することはなかった。近くて遠い国。それがグングニルであった。だから聞こえてくるツイート、例えば、「マイディーさんに会ったよ!」とか「ムッキーちゃんに会えたあ!」とか言うのは、私からすると「吉ララに会えた!!」と同じくらいに「有り得ない」出来事であり、わたしは彼や彼らの活動を主にTwitterで知るだけということになっていた。特に印象に残っているのは、モグステーションのメンテが予告されると必ずメンテ開け前にポスト前に正座待機するというあの儀式だろう。彼は新しいアイテムを購入することを至上の喜びとしていたし、欲しいものがあれば買って大喜び。欲しいものが無ければ吉田コールで嘆きを表すという一連のお約束を必ずと言っていいほどやっていた。それが本当に楽しんでいるんだなと感じられ、見ていて微笑ましかった。彼が手がけていた新人育成の一環として、YouTubeで展開されたあのチャンネル(光のお姉さんだっけ)もいくつか見ていた記憶がある。マイディーさんの後輩思いの優しい指導は、誰も置いていかないぞという兄貴肌を感じていたし、何度失敗しても優しい口調でアドバイスをする彼の物腰の柔らかな姿勢には同じ年代特有の何か近しい感覚を感じていた。とは言っても私はそういった事かできない人で、どちらかと言えば手のかかるわがままな新人であったので、尊敬の念と言った方がより正しいのだけれど。でもそんな私でも、真剣に人と向き合い様々な問題を解決していくマイディーさんが、自身の父親との距離を埋めようと決めたことはとても凄いことだと改めて思う。私自身、両親とはあまり仲がいいとは言えない。特に父親とはほとんど口を聞かない関係である。それを改善しようと思ったことも無いし、こんなこと言うといけないのだろうが、正直に言ってしまえば、父親から何かを学べることがあるとは思えないのである。私の父親は多芸な人だ。そして多趣味である。あらゆる趣味を極めており、それを鼻にかけるところがあるからか、友達が居ないという偏屈者だ。技も知識もあるのに友人がいないとはまさに宝の持ち腐れ。かくゆうわたしも、友達はいない。リアルには一人もいない。エオルゼアにはいるよ?エオルゼアをきっかけに、Twitterを通じて知り合った彼ら、彼女らはわたしの友達だ。だが、わたしはどうも友達というものを避けてきたように思う。それはつまり、わたしが他人を下に見ていたから?いやいや。逆だ。あまりにも私がダメすぎて自分自身を惨めに感じてしまうので、人と交わりたくないという理由である。それなら自己研鑽でもして自分に自信を持てば良かったのであるが、根っからのインドア派のわたしは、つい最近まで人に誇れるような趣味はひとつも無かった。最近はゲームや音楽を趣味とすることが立派な趣味として認知されているが、インターネットのない昔はオタクは蔑まされ、疎まれる存在であった。だからひたすらに隠して生きていかなければならなかったのである。だから趣味が合う人など見つかりにくいばかりか、いつしか話が合わないと決めつけ、交流自体を避けてしまったのである。話しても理解されない。他人を理解もできない。一人がいい。誰かに否定されたり、誰かを無理やり理解しようとするなんて、疲れるだけだもの。この1人でいいという感覚も、ぼっち○○という言葉が生まれる前までは、恥ずかしいことだったのである。今は1人で楽しむことの何が悪いのかという風潮だ。あの頃の私が現代に生きていればもっと生きやすかったのかもしれないとも思うのだけれど。まぁそれにしたって、未完成のまま、未熟なツイートをして炎上しなくて済んだことは不幸中の幸いである。数々の失敗を経てわたしもそれなりに処世術を身に付けた。そのお陰で変に炎上してしまうような事態は今のところないし、今後もないと願いたい(何か失礼があればすみません)。話が逸れたので戻そう。マイディーさんの新人を守ろうとする姿勢はわたしたち当時の新人からするととても助かった。わたしのような超初心者がいてもいいんだという安心感は彼からもらったと言っていい。実際にはかなりキツめの洗礼を受けた私であるが、その直後のとあるFCの先輩方、そして、今も尚わたしを認識してくれている良き兄のキート君が、やめないで続けてほしいと言ってくれたおかげで、今の私がいる。それはマイディーさんのようなドラマティックな物語とはまるで違うのだけれど、それでも、私は心から救われたと断言出来るリアルなエピソードとして、十分すぎるほどにわたしの人生に彩りを与えてくれたのだった。会えなくなった人がいる。元気にプレイしているあの人たちもいる。そして。ムジカとなった私がいる。ムジカが表現する世界はゲームを飛び出して、TwitterYouTube、AppleMusic、TikTok、そして、note、はてなブログにいまや様々な顔を持つまでになった。ネットの海は広大である。しかし、知見は洪水に飲まれ、消えゆく微かな灯火だ。ならばわたしが、私たちが覚えておこう。彼、マイディーさんがいたことを。マイディーさんはこのエオルゼアの世界を存分に、心から楽しんでいたのだ。それは今も私たちの心の中にあって、輝く光のクリスタルとしてそばにいる。

 

それじゃぁまたね(了)


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