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失敗したくない若者たち。映画も倍速試聴する「タイパ至上主義」の裏にあるもの(稲田 豊史) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

 

個性的でありたい。しかし、無駄な回り道をして失敗したくない。

タイパ至上主義=タイムパフォーマンス至上主義。わかる。時間は大事。時間は平等である。時間を有効活用すること。それがタイパのいい生き方。オタクであることを求められる。オタクであることは個性を勝ち取ることだ。個性的でありたい、は、つまり心の拠り所を得ることである。わかる。わかりすぎる。ネタバレを恐れる一方で、大体のあらすじを知りたいと言う。テレビの番組表なんかがそうだろう。大体のあらすじがわかる。なんなら、翌週のあらすじもわかる。それで大体の内容を把握できる。それで観るか観ないかを判断できる。私の家には全録がある。3日前までのほぼ全ての番組を録画している。Twitterのトレンド、まとめサイトYouTubeのまとめ等で面白いと話題になったものはすぐにチェックする。それは話題を逃したくない気持ちもあるが、どうだろう。どちらかと言えば外したくないからだ。面白くないものを観て時間を無駄にしたくない。面白いと確信が持てるなら観たい。まさにここにタイパの考え方がある。映画館も同じだろう。誰かが面白いと言っている。まとめサイトを見ても面白そうだ。だから見に行ってみようと思う。誰よりもいち早くみたいというニーズはもはやそこには無い。わたしが好きでやっているファイナルファンタジー14はどうだろう。ゲームを始める時、マイディさんのドラマを見てからやろうと決めた、わけではない。ドラマをやると聞く前に始めた。それは面白いかどうかわからないけど、無料なら挑戦してみたいという好奇心である。もしかしたら壮大な無駄に終わるかもしれないというリスクより、なにか新しい発見や出会いがあるかもしれないというワクワク感が勝ったのだ。事実その予感は的中。今に至る。わたしもエオルゼアのおかげで心の拠り所を見つけられたと言っていい。そういう意味ではタイパの話を聞いて激しく同意しかない。わたしには昔から好きなファイナルファンタジーというゲームがあり、リアルでは好きな音楽に囲まれれば「わたし」という個性になれる。即ち、それが音楽という意味を持つ「MUSICA」である。わたしは好きな物の融合に、私の心の拠り所を見出した。ついでにTwitterという場所にもわたしの居場所を作ることができた。それはわたしの心の安息地となっている。つまり、ゲームを出発点としながら、大好きな音楽を楽しむわたしを経由して、そのどちらも両方をTwitterというSNSで表現する。それが私の個性である。そういった個性をどこで手に入れればいい?という質問を質問箱でもらったことがある。好きなことが見つかりません。どうしたらいいですか?という質問だ。わたしも好きなことを見つけるのに時間がかかったほうだ。なぜなら、好きなことを見つけるという行為は、自分を発見することだからだ。自分は何が好きで、何が嫌いか。恋人に例えるとわかりやすい。沢山いる異性の中で1人だけ誰かを選ぶとすれば誰を選ぶかというのは、逆説的に言うと誰を選ばないのかという問いである。あれもこれも、と選んでいるうちは自分を発見したことにはならない。あの子もいい、この子もいいと言っているうちは恋人を得ることは出来ないのである。つまり、誰でもいい、は、誰でも良くないということであり、選べない人は選ばれないのだ。好きなこと、いわゆる趣味も同じである。個性的であるために必要な趣味。自分だけの趣味のことをマイブームと呼び始めた頃から、オタクという文化が世の中に大きく拡がって言った。メインストームがあって、サブカルチャーがあった。あえてサブカルチャーを選ぶことが個性であった。今思えばわかりやすい。メインストームを否定すればいいからだ。いまはそのメインストームが、ない。無数にサブカルチャーが拡がってそれぞれが深く、重い。少し見かじった程度では「ニワカ」と蔑まされ、かなりの深度で理解しなければオタクではないとすら、言われる。失敗してもいいからとにかくやってみろ。はいまや失敗したくない人からすると失敗そのものという指摘はわかりみが強い。自分だけ失敗したら、時間のロス、人生の損だからだ。それなら先人たちの意見や経験談を聞いたり見たりして学習ないし、予習した方が何倍も有意義である。だがそうやってスマートに生きる人達に決定的に欠けているものがある。それは「自分という尺度は他人と同じでは無い」という事実だ。つまり、他人が面白いと思った部分を自分が面白いと感じるとは「限らない」。それはそう感じないことを「感性が足らない」とか「知識が足らない」と表現してしまう風潮が邪魔している。本来、作品から受け取る面白さをどの要素で受け取るか?は自由だ。例えば例をあげれば、皆が良いと言っている曲を好きになれなかったとする。そんな時に、なんで私はその曲を好きになれないんだろう?という疑問が頭をよぎる。その疑問を逃さないことである。たまたまかな、とかなんとなく。で済ましてはいけない。なぜなら、そこにこそ、私を発見するヒントが隠されているからだ。そうして、いいと思うもの(ここでは曲でイメージしている)を、たくさん聴く。たくさん並べてみる。たくさん選んでみる。その中から共通項を見出していく。そうすると、あぁわたしはこういうものが好きなのかとわかる。それが、自分を発見するということだ。まれに誰か友人や家族に指摘されて「私とはこういうものだ」とわかる時もある。しかし気をつけなければならないのは「誰かに言われたからわたしはこれが好きなのだ」と決めつけてしまうことだ。理由が分からないままに好きだと思い込むと、ふとした時に「なんで好きなんだっけ」という虚無に襲われてしまう。そのときに確固たる理由を言えるようになるためには、やはりなぜ好きなのかという疑問からは逃げてはいけないのである。個性的であろうとする者は、その問いから逃げなかった者のことを言う。好きな人。好きな映画。好きな音楽。好きなアニメ。好きなキャラクター。なぜ好きなのか。なぜほかの物ではダメなのか。その問いにこそ、自分を発見させる手がかりが隠されている。その答えを見つけ出した時、あなたは気づくだろう。わたしは何者なのかという壮大な問に対する答えは自分の内面にこそあるのだ。

 

それじゃあまたね(了)


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