ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

ムジカのキオク。♪note:https://note.com/ryoushitsumusica ◆YouTube: https://www.youtube.com/channel/UCWvTBOe1O9GICLtyreUu-6Q

素晴らしいパートナーというのは、不満のない相手じゃない | 精神科医Tomyが教える 1秒で元気が湧き出る言葉 | ダイヤモンド・オンライン



素晴らしいパートナーとは。

まずはパートナーの定義から。恋人、配偶者、仕事上の仲間。親友を指す。素晴らしいパートナーは不満がない訳では無い。あれもこれも目につく。嫌な面もある。でもいつも隣にいてくれる人。何だかんだ一緒にいてくれる人は素晴らしいパートナーとしての第1候補。その上で、素晴らしいパートナーの軸は不満が多い少ないじゃなく、そもそもが不満を伝えられる人と説く。不満を伝える。これはどういうことか?これが嫌。あれが嫌。これを直して欲しい。そう言ったことを思ったとき。それを伝えているかどうか。褒めたり、ちやほやしたりするだけで会話が終わっていないだろうか?不満をちゃんと伝えているか?この指摘を受けてあなたならどう思うだろう。わたし?わたしはドキッとした。配偶者には確かに言えているかもしれない。だが、親友となる人や、仕事上の仲間には言えていない。いや、絶対に言えるわけない。それはなぜなのか。私が不満を言ったところで改善されるわけが無いと思っている?YES 私が何か言っても無意味だと思っている。だから不満や直して欲しいところなんて言わない。究極的には他人だとココロの距離を広めに取っている。それで親友だ、仲間だと胸を張って言えるだろうか? 何故そうなのか?について考えてみる。フラットな関係で、あくまで上辺だけの都合の良い関係でいたいという気持ちがあることに気づく。そうだ。わたしは本心から仲良くなろうなどと思っていないのかもしれない。仲良くなり過ぎて不満が噴出でもしたら長い付き合いをして行けないかもしれないと思っている。もちろん、苦手だから避けてるとかそういうことはない。現に、仲間だとか親友だとか表現したいと思っている時点でわたしのそれは否定的なそれではないと理解して欲しい。だが、やはりまだ、心の距離は開いたままだ。それはわたしが歩み寄っていないから?YES もしも仲良くなり過ぎてわたしの嫌な部分をさらけ出してしまい、険悪なムードにでもなったら後々面倒だ。これもYES。わたしはあくまで感覚が似通った仲間、親友との細く長い関係を戻ているのであって、一緒に酒を酌み交わすようなディープな関係を求めている訳では無い。それは私の中の他人に対する警戒心の高さがそうさせている。もしも私ということ個人と関係がこじれたら面倒だという不安感だ。だからある程度の距離感を保つことで、ほらだから距離取っておいてよかったじゃん?と言い訳ができるようにしておいている部分もある。わたしは自分が傷つくことを極端に恐れている傾向があるらしい。つまり相手が誰であれ、わたしは一定の距離を保ったままでいたいと思う傾向にある。問題はわたしの方にあるのであって職場の仲間や親友となる人ではない。これは私の問題なのだ……。相手を信じることはすなわち、自分を信じること。自分を信じることができて、初めて私を好きでいてくれる相手を信じることが出来る。まずは自信を持たねば。素晴らしいパートナーはもう居るのだから。あとはわたしがちゃんと自分を信じること。それがなかなか出来ていない。でも、相手を信じることでわたしを信じられるというメリットもまた存在する。ありがとうございます(*´ω`*)持ちつ持たれつ。

 

それじゃぁまたね(了)


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快適な車中、映画鑑賞 ドライブインシアターウィーク開始(岐阜新聞Web) - Yahoo!ニュース



ドライブインシアターは何が楽しいのか?【初体験レポ】

 

わたしは映画館で映画を見るのは好きかと言われれば好きと答える。その理由はふたつある。1つは大スクリーンで綺麗な映像を見られる体験ができること。100インチを超えるスクリーンに高画質の映像を流すことは日本の小ぢんまりした家屋に住んでいる私たちにとっては無理な話である。もう1つの理由は音響だ。オーケストラコンサートさながらの音楽と、迫力ある衝撃音、重低音を響かせながら迫り来るアクションシーンの数々は映画館ならではの映像体験である。では、話をドライブインシアターはどうか?わたしはドライブインシアターを経験したことがなかった。なぜなら単純にそれを開催している場所が無かったからである。それは地方に住む私にとってなぜそれを開催するのか意味がわからないものだったからだ。車の中で映画を見ることになんのメリットがあるのかがわからない。そもそも映画館で映画を見ることのメリットは先にあげた通りだ。そのメリットをそのままドライブインシアターに当てはめてみる。1つ目のメリットはどうだろう。大きなスクリーンで美麗な映像を楽しめるか?この点についてはYESといっていいか微妙なラインだ。確かに大スクリーンではある。家にあるどのテレビよりも大きいだろう。しかし、綺麗か?と言われればそれなりである。まあまあ見れるレベルと言えばそうなのだろう。また、車の中から見るのでどうしても視界が狭い。わたしは運良く真ん中、一番前の場所を陣取ることができたわけだが、それでも見上げる形になったそのドライブインシアターのスクリーンは後部座席のわたしからは非常に見づらいと言わざるを得ない。これがオープンカーであれば見えたかもしれないが。如何せん夏である。冬であってもそうだが、どうしてもエンジンはかけっぱなしとなる。アイドリングストップが叫ばれている昨今で、2時間……いや、待ち時間も入れて4時間近くアイドリングし続けているという状況はあまり褒められたものでは無い。かといって、映画館のような空調が完備された設備の中で鑑賞するのとは訳が違う。屋外であり、また駐車場である。外気温の高さに影響され、カーエアコン無しではそこに居られない。もはやあれはキャンプと言っていい。さながら大自然の中で車中泊しているようなものだ。およそ、4時間くらいわたしは自動車の中から1歩も出ないという特殊環境に身を置くこととなった。ここまでわたしはどちらかと言えば苦言を呈してきたドライブインシアターだが、楽しめなかったのか?と言われればそんなことはない。むしろ、自宅で観るのとは違う、ましてや映画館で観るのともまるで異なる体験だった。あれはドライブインシアターという全く別の未知の体験だったと言っていい。つまり、ドライブインシアターとは、なんぞや?という疑問点を解消するべく挑戦するものだ。一見すると何にも特別感のない体験に思われるのだが、作品を楽しもうとするスタイルがドライブインシアターという形になっただけでまるで体験したことの無い体験が出来たと思う。それは確かに映画館には劣るだろう。しかし自宅で見る映画の何倍もの臨場感があったし、映画館で見るような整った環境でないからこそ、そこに映し出される映像世界に食い入るようにして入り込めた。そしてなにより、映画を見ながら大声で笑ったり叫んだり解説したりしたのはこれが初めてである。そうやって目の前で流れている映画というコンテンツにあーでもないこーでもないと文句を言いながら楽しめるというのはとても新鮮な体験であった。え?それなら自宅で観た方がマシだって?涼しい快適な環境で、時間を気にせずじっくり見れる?そのとおりである。言うなればこれは、不便を楽しむ娯楽と言っていい。そして重要なのは、これがコロナ禍における、3密を避けたエンタメであるということだ。同乗者との密を避けられる訳では無いが少なくとも他の観覧者とは完全に隔離されている。おかげでコロナ禍を気にすることなくでかけられたわけだし、少なくとも私たちはこのドライブインシアターを楽しめた。それでいい。未体験を経験するという最大のメリットを得ることには十分に成功したと言えるだろう。そしてフードやドリンクの注文もLINEでお店に直接オーダーできる点も素晴らしい。オーダーしてしばらく待つと、注文したものを直接車まで持ってきてくれる。これはありがたい。売店まで歩いて行く必要が無いのだ。支払いは現金だけだったことが少し残念ではあったが逆を言えば不満はそれだけである。事実、出来たてを味わうことができ、とても価格に見合った素晴らしいサービスだったとただただ驚くばかりだった。そろそろ結論。ドライブインシアターは子どもと一緒にわいわい見るのも良し、カップルで楽しむも良いだろう。マンネリ気味なデートを打破したいなら、十分に楽しめるはずだ。つまり、1度は経験したほうがいい映画体験。それがドライブインシアターである。ただし一つだけ注意があるとすれば、それはやはり映画館同様、作品の善し悪しに影響されてしまうということである。わたしは子ども向けのCGアニメ作品にしたので見栄えも良く、テンポよく楽しめるドリームワークスの「トロールズ」をチョイスして正解だった。身終わったあと、子どものお気に入りのタコのぬいぐるみを落としてしまい、後日担当の人に拾ってもらって郵送してもらえるという微笑ましいエピソード付きだ(岐阜新聞社さんありがとう)。まだ体験したことの無いあなた。恋人同士、または家族でこの夏ドライブインシアターを体験してみてはいかがだろうか。

 

それじゃぁまたね(了)


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ひろゆき「仕事にするなら"好きなこと"より"そんなに好きじゃないこと"のほうが絶対いい」 毎日やっているとさすがに飽きる | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)



好きを仕事にするな。やりたいことをそこそこやれる仕事がいい。

ひろゆき氏の発言を端的に言えば、好きなことを仕事にすると好きなことが嫌いになってしまう。趣味はあくまで趣味であって、仕事とは切り離した方がいい。そのいい例が、ゲームが好きな人がゲームを作る会社で働くとゲームをする時間が無くなるという事実だ。最悪、ゲームがそれほど好きではなくなってしまう人もいるかもしれない。音楽もしかり。私の趣味は前からゲームと音楽だと言っているけれど、結論からいえばどちらも仕事にしていない。強いていえば、音楽に携わる人と少し関わったことがある程度で、ゲームに関しては皆無に等しい。つまり、私にとっての好きであるところの「ゲーム」と「音楽」はどちらも趣味であって仕事では無いのである。そして、ひろゆき氏の言葉を借りれば、「その方が幸せ」なのだ。ここを深く掘り下げたい。趣味とはなんだろう。そのことをやり続けても苦ではないこと。暇さえあれば続けている事柄である。このことから分かるように趣味は無意識であり、習慣である。習慣化された趣味は時間的余裕がなければならない。短い時間をやりくりして行う趣味でもいいのだが、やはり仕事とは区別して考える方が自然である。なぜなら、趣味は仕事の疲れや悩みを消す効果のある行為だ。それなのに、仕事と趣味の境界線が曖昧だとどうなる?それは趣味として捉えることができなくなるだろう。そうなると、また別の趣味を探してこなければならなくなるからだ。また、趣味は自己鍛錬である。仕事では得られなかったスキルを得られる。そのことで、仕事が上手くいかなかったとしても、別世界で趣味というスキルを持つことで精神的な充足感を高い数値で維持できるようになるのだ。私の場合、ゲームはわたしの自己実現のひとつとなっている。自己表現の一環として存在しており、それは、わたしにコミュニケーションの鍛錬を促してくれる。それは仕事では絶対に手に入らない心の充足感である。そしてもうひとつの「音楽」。これは特に最近ではTikTokの発表と密接に関わっている。つまりどういうことかと言えば、私は常日頃から心に響く名曲を探している。それは心の中を浄化させる力があるからだ。しかし音楽に期待することはそれだけではない。若い感性の獲得や、若い人たちとの接点を作り出す機会創造がそれだ。我々大人は死に向かって毎日衰えていく定め。その事は誰にも止められない。しかし、若い人たちとの会話で得られる自分にない知識や考え方、感じる事等は私の中に存在するそれらとは全く違っている。異なっている。だからこそ、得られる物があるし、私の中の何かを日々アップデートしてくれるのだ。まさにこの事こそ、わたしの趣味である。話が逸れたか?そろそろ結論といこう。仕事はお金を稼ぐために必要な行為である。一方の趣味は自己実現のための修練であり、習慣である。それらは似ているようで異なっており、本来は重複するものではない。なぜなら、仕事はお金を稼ぐことに主眼が置かれており自己鍛錬の側面はあるものの、長く続けなくてはならないベーシックな行為だからだ。生きるためにするのであって、そこに好きも嫌いもないのである。一方の趣味は、その真逆の属性を持つ。好きかどうかだけに主眼を置いた行為であり、自己実現そのものである。それはお金では替えられない経験を積むためのものだ。それは心の充足感そのものを目的とする行為である。お金をもらえればそれに超したことはないが、心を満足させることが出来るか?という点が最も重要である。すなわち、趣味と仕事には明らかな相違点があるのであって、やはり同じに考えることは難しいらしい。ひろゆき氏の言うように別に考えてまずは日々の暮らしを立てた方がいくぶんか幸せになれるようである。わたし?幸せですよ?

 

それじゃあまたね(了)


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斜めにだって歩けます―ついに発売『FF』ピクセルリマスター!その実態に迫るとくれせんたぼーび【特集】 | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト



ピクセルリマスターという新ジャンル。しかし

 

ついにファイナルファンタジーの過去作をドットで再現した「ファイナルファンタジーピクセルリマスター」が各種アプリサイトから発売された。発売されたのだが、どうも買う気になれないのはわたしだけだろうか。ファイナルファンタジーの初期の作品は好きだ。特にファミコン時代のファイナルファンタジーは神と言っていい。素晴らしい作品群だ。システムが完璧で、ストーリーもばっちり。そして音楽も見事だ。それを、ドットで味付けを統一してリメイクするというプロジェクトである。この事についてファンとして真面目に検討したい。まずはそのピクセルリマスターというコンセプトの是非についてだ。ピクセルリマスターとは何か。ファミコン当時の世界観を残しつつ、ドットで再現され世界観という認識であっているだろうか。おそらく間違いはないだろう。まずこのドットで再現された、という点だが、はっきり言って何が違うのか説明に苦しい。過去のリメイク作もドットだったからだ。特に1と2はそうだろう。3を3Dリメイクと呼ぶらしいが、まあそれはよい。ファミコン時代のファイナルファンタジーをなぜ再度作り直す必要があったのか?少なくとも1、2にはその必要はなかったはずである。強いて言うなら5、6も要らないだろう。3、4はその意義は大きいことは分かる。あのリメイクはたしかに微妙だった。オープニングムービーを追加したという点だけしか利点がなかった(辛口すみません)。ファミコン時代のファイナルファンタジーをDSでプレイできるという点にメリットが集中していたといっていいくらいである。そして今回はファイナルファンタジー3が買いという風潮がある。確かにそうなのだが、私達当時のファンからすると、あらためてファイナルファンタジー3をプレイする理由はなんだろう?当時のプレイフィールを求めて、だろうか。当時の空気感に浸りたいユーザは少なくない。なぜなら最新のゲームはあまりにも美麗で、そして操作が難解だからである。つまり当時のファンのある一定数は最新のファイナルファンタジーについて行くだけのスキルを持ち合わせていない。それが7リメイクのときに盛んに言われていた問題だ。クラッシックモードと呼ばれるそれはやはり往年のユーザが操作に難色を示していることを如実に表している。そういう意味では、このピクセルリマスターは必然のように見える。少なくとも過去の作品に触れてきたライトユーザーには響きそうである。最近のゲームはよくわからない。ソシャゲもなんだかハマらないという中高年には打って付けだろう。事実、それなりには売れているようだ。そして、海外のプレーヤーにもその魅力を再発見させることにも、ある一定の成功を収めている。ならばなにがわたしは不満なのか? 端的に言えば、当時の空気感を大切にするならば、やって欲しくないことがあるからである。それは大きくわけて3つある。まず1つ目、これはわりと許容できることではあるのだが、それは音楽のリマスターである。当時の音源をそのまま使ってくれなければ意味が無いのだ。あのえ8bitサウンドを再現してもらわなければ、ノスタルジーに浸ることは難しい。そして2つ目。これは感覚的な話になるのだが、今回のピクセルリマスターは、ドットが売りとなっているが、当時のドットをそのまま使っていない。ドットすら現代風にリマスターしている。それが……嫌なのだ。本家による正式なリマスターにも関わらず、なぜか漂う偽物感。リマスターされた画面から感じられるのはコレジャナイ感であった……。やれば楽しいと思いたい……。そして最後の3つ目。これが一番許せないのだが、魔法や敵ビジュアル、そして各種エフェクトを現代風にアレンジしているところだ。そんなことで?と思われるかもしれない。だが、思い出してほしい。このゲームのメインターゲットは誰か?当時の思い出に浸りたいユーザではなかったか。そうなると現代風アレンジは余計である。蛇足と言っていい。そんなもの、誰も求めていないのである。ただし、これがノスタルジーを喚起させることを目的にしたゲームデザインでないとしたらどうだろう。つまり、ノスタルジーに浸りたい層をメインターゲットにしていないという可能性である。それは何か?それこそが、海外ユーザである。7リメイクで改めてファイナルファンタジーに注目があつまるなか、次の続編もまだまだ先。頼みのFF16は早くても来年の冬だ。そんな中、あらためて過去作に触れてもらおうという場繋ぎ的なコンテンツだとしたら?つまり、ファイナルファンタジーは知っていたけどファミコン時代のソフトは触れたことがないという層である。それは?主にファイナルファンタジー7で初めてファイナルファンタジーに触れた海外勢である。そう考えるとツジツマが合う。つまり、そういうことなのだ。メインターゲットは海外勢。日本の往年のファンはメインターゲットではない。過去作のリメイクに興味ある人はどうぞというスタンスである。悲しいが、このリマスターは私たち往年のファンに100%向いていない。本当に。それは、ある意味で悲しいことだが。そろそろ結論。わたしはファイナルファンタジー3が好きだ。5も最高だったが、やはり3は別格と言っていい。だからこそ、今回のリマスターにどのように向き合うべきか真剣に考えたわけだが、残念ながら現時点でわたしとリマスターとの接点を見出すことは難しいと言わざるを得ない。もしかすると、その往年のファンに100%向き合っているのは数あるファイナルファンタジー作品の中で、ファイナルファンタジー14だけかもしれない。過去作へのオマージュ、BGMの効果的な再利用。キャラクターの再登場。これらは全て過去を知る往年のユーザ(私たち)に向いている。だからこそ、今回のピクセルリマスターにわたしは心の底から期待することは叶わないのである。あなたはどう思う?

 

それじゃあまたね(´▽`)ノ(了)


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グーグル銀行がコンビニ銀行を脅かしかねない訳 | 野口悠紀雄「経済最前線の先を見る」 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース



Googleが銀行業に参入することの変化

難しいことはよくわからない。詳しいことは専門家に任せるとして、わたしはこの記事から次のことを学んだ。Google等の巨大IT企業が金融に参入することは、銀行を淘汰するのではない。彼らが進めているのは銀行との協業である。つまり銀行と手と手を取り合い、あらゆるサービスの効率化を図るものだ。その2社が目指すもの。それはスマホで送金ができるサービスの構築であり、送金等にかかる銀行間の手数料の減額ないし無料化であるということだ。それは何を意味するのかこの記事を見るまでよく分かっていなかった。しかし、それはハッキリしたらしい。どうやらそれは銀行のなかでも、銀行ATMで収益を上げている銀行に限定される。つまり、イオン銀行セブン銀行ローソン銀行等の全国のコンビニATMを運営する銀行がそれにあたる。それらはATMの手数料で成り立つ銀行だ。Googleの金融参入によりもしもATMを使う人が激減することがあれば、これらのビジネスモデルは崩壊する。つまり、コンビニ銀行は大打撃となる……ということらしい。そうすると今回の参入で困りそうなのは一般の銀行ではなく、コンビニ銀行だけになるかもしれない。イオン銀行セブン銀行と聞けば、銀行の中でも特に売上の好調だった2社らしい。だがそのどちらも今後の成長期が望めないのなら、最近のイオンの没落ぶりを目の当たりにしている地方住みのわたしからすると目も当てられない状況が容易に想像できる。さらにセブンイレブンについてもコンビニの中では勢いはあるものの、一昨年のセブンpayの大失敗からこちら大きな新サービスを軌道に乗せることは出来ていないように見受けられる。簡単に言えばジリ貧のような体裁だ。次の打つ手がない。ローソンやファミリーマートに関してはもはや同じコンビニ業とはいえあまりにも大きな差をつけられているようにも感じられる。つまりデパートやスーパーの凋落と同じように泥舟に乗ったコンビニ業界と、それに同じく同席するコンビニ銀行業界がどんな風に沈んでしまうのだろう。どこかで起死回生!をするのだろうか。これだけキャッシュレス、スマート決済が定番化する中、この分野を総取りする企業は分かりやすく巨大IT企業たちとなりそうである。それは一見日本企業が世界の企業に負けないように予め日本にも同じ土俵を整備したように見える政府の見え方が一変する。つまり、海外企業の付け入る隙を与えたのである。同じ土俵に上がれば、資本力で海外企業に勝てるわけなどあるまい。つまり、海外企業が日本を席巻するためのお膳立てという見立てだ。別に政治家を責めるつもりはないが、どうしたって中途半端に規制緩和したり、海外のルールに従うような政策は、日本企業を育てるというよりもむしろわかりやすく弱体化させ、転落させる。そこに潤沢な資本力を持つ海外企業が参入しやすい土壌を整備しておき、あとはまるで爆撃機の絨毯爆撃のように日本を焼け野原にしていくのだ。悲観論を言って尊皇攘夷を述べている訳では無いが、あまりにもわかりやすく滑稽な状況に、わたしたち日本人はなすすべもなく、このまま海外企業に飲み込まれていく選択肢しか、いまのところはない。それは悲観論でもなければ、願望でもない、ただの事実として私たちに訪れる近い未来のようである。便利だからGoogle使おう〜!とはもはや言いたくないし言うべきではないのだと、わたしたち日本人はそろそろ気づくべきだ。

 

それじゃぁまたね(了)


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『ファンタジアン』植松伸夫氏ロングインタビュー。ゲーム音楽を作ること、音楽への想い、そして“これから”の話にまで展開したファン必読のテキストをお届け!【サウンドトラック先行配信記念】(ファミ通.com) - Yahoo!ニュース



ぼくが植松伸夫先生を愛してやまない理由。

AppleMusicに音源がリリースされたと聞き、早速聴きながらこのブログを書いている。わたしが植松伸夫先生を知った(認識した)のは、ファイナルファンタジー3だった。その後、4、5と彼の作る瑞々しい音楽に打ちのめされ、音楽を聴くためにゲームを起動することもよくした。あの頃、ドラゴンクエストの音楽と、ファイナルファンタジーの音楽はそれぞれとんでもなくエッジが立っていて、ゲームの中だけで考えるにはあまりにも「はみ出していた」。わたしは子どもの頃から音楽が好きになれるかどうかはゲームを好きになれるかどうかとほぼ一致していたし、好きな音楽があるか?という期待感はわたしを新作FFに駆り立てたのである。もちろんドラゴンクエストもまた同じであった。他には?ロックマンコナミの和風BGM、任天堂のマリオ系だろう。ゲームをやるためのモチベーションに音楽はかなりの部分担っていた。わたしが植松伸夫先生を愛してやまない理由だが、大きくわけて3つある。ひとつはインタビューでも言っていたが彼の引き出しの豊富さだ。あらゆるジャンルの音楽を、植松伸夫というフィルタを通して噛み砕いてもらえる。それは植松伸夫という敏腕シェフのいるレストランののうに安心感があった。だから安心して耳を傾けられたし、期待を上回る何かを期待してきたのである。当時子どもだった私は音楽と接する機会が少なく、それこそ映画館のジブリ作品かゲームくらいだった。だから冒険心をくすぐる植松伸夫先生の愛すべき音楽はわたしの求める音にドンピシャであった。そしてファンタジアンである。ファンタジアンはとても素晴らしいゲームだと断言できる。それだけのクオリティを備えている。しかし、何かが足らず、わたしはもうプレイしていない。それはなにか。ふたつある。ひとつは単純にわたしがオフゲーをやれるだけの時間や情熱がないこと。もうひとつはiPhoneというデバイスとテレビとの相性の悪さが際立った点だろう。後者は大人の事情がかなりありそうではあるのでどうしようもないのだが、あれだけAppleが革新性を持って世界を席巻したのは、テレビを駆逐できるデバイスを世に生み出したからである。だが、我々が求めているゲーム環境というのはどうしてもテレビとセットである。または、パソコンである。そのどちらとも親和性のないApplearcadeでは、もはや、期待するだけ無駄だ(MacBookでは出来るのかもしれないけど残念ながらわたしは持っていない)。つまり、ゲームとして完成度が高いことは認めるがゲーム環境としてはけして良いとは言えないのである。月額課金というスタイルもまた奇抜である。過去の名作を定額で、なら話は分かるが、新作を定額でという考えはいささかまだ時代が追いついていないと言わざるを得ない。前者についても同じでわたしは人間である。人間であれば歳をとるのだ。他人とのコミュニケーションの場としてゲームを再定義している私にとって今更オフゲーをやる理由など皆無に等しい。いまのエオルゼアのようにやることが無さすぎて別ゲーに手を出すようなことでもなければ長続きはしまい。事実モチベーションを保てなかった。なので、ここで提案なのだが、植松伸夫先生の生み出す音楽を、かつての子どもだった私たちに100%届けるにはもはやゲームだと弱い。せめてドラマか、アニメ、もしくはあのジブリのような映画にして欲しい。それくらいのポテンシャルがある。このファンタジアンにはある。かつての子どもだったわたしたちに送るファンタジー冒険活劇としての劇場版としてこの作品を世に出して欲しい。その際の曲として、これら珠玉の名曲は十分に機能するだろう。ゲームの中だけで聞くにはもったいなすぎるほどに、「はみ出している」。これは植松伸夫先生が無類の音楽好きであることが雄弁に物語っている。ゲームのストーリーパートを映画という形に再構築して音楽を生かしてはもらえないだろうか。Appleの専売特許にしたい気持ちは痛いほどわかるが、この作品はそんな小さな会社のエゴに収まる作品ではなさそうである。おほん。植松伸夫先生を愛してやまない理由。2つ目。それは植松伸夫先生が音楽を好きだということが伝わってくるところだ。つまり、音楽に対する愛が伝わるところ。それが魅力である。音楽に対する愛のかけ方には2通りある。ひとつは自己表現として使える道具としての愛着。もう1つは音楽が与える無限の可能性に対する尊敬の念。植松伸夫先生の愛は圧倒的に後者である。わたしが音楽に期待するところもまさに同じだ。音楽が、メロディが、和音が、聞き手に与える感動という波を操作するその様はまるで魔法のようであるかのように美しく、そして可憐に舞う。その見事なメッセージに気づいた時。私たち受けては涙するのだ。この曲に出会えて本当に良かった、と。歌詞のある曲はメッセージを、文字に載せられるが、ゲーム音楽は歌詞がないことの方が多い。そのサウンドに込められた愛、恋、喜び、悲しみ、それらを汲み取るとき。まるでそれまで気に求めていなかった異性からのラブレターを受け取って恋に落ちるかのようなドキドキがある。この音は私に何を伝えたいのか?それを探ることは物語の行間を読むことに等しい。それができるのは世界はひろしといえど植松伸夫先生を超える人はまずいないだろう。そのくらい、音楽に物語性を盛り込んでくるのだ、植松伸夫先生という人は。植松伸夫先生を愛してやまない理由。3つ目。最後のひとつはずばり、植松伸夫先生の人柄だと思う。彼の可愛らしさ、彼の人間ぽさ。坂口博信さんに簡単に口説かれる人の良さ(笑)。そのどれをとっても可愛い。可愛いがすぎる。その可愛さを求めてわたしはこうして彼の生みだした音楽を聴くのだ。今回はわたしが植松伸夫先生を愛してやまない理由を説明した。全ての曲を好きなわけではない。だが必ずと言っていいほど、1曲は好きになる曲がある。1曲じゃないことの方が多い。それはその作品のテーマとなる曲である。今回のファンタジアンで言えばやはり、「キーナ」である。あれは本当に名曲だ。このゲームはまだ完結していないようだが、やはり1ファンとしてはしっかりプレイしたい。それにはまず、Appleさん。専売特許を辞めていただきたい。プレイステーション、ないし、NintendoSwitchにて再リリースしてほしい。そうすればわたしは必ずやるだろう。どんなに時間が無くとも、コミュニケーションにならなくても。あ、でも。今回AppleMusicに全曲出してくれたのは良かったね。Appleらしい戦略だと思います。AppleMusicユーザーとして全面的に支持します!植松伸夫先生のコンサートで先生に直接話しかけちゃったわたし。うふふ。しかもタッチしちゃった。あれはわたしの最高の思い出です。FF14のオケコンでも会えたし♡ 植松伸夫先生の博物館を建てましょう?

 

それじゃぁまたね(了)


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「スポティファイを作ったのはアーティストのためではない」元幹部が発言(BUSINESS INSIDER JAPAN) - Yahoo!ニュース

 

誤解を招く言い方である。

アーティストのためではないとは何事か。言い換えると、アーティストにお金を払うためにあるのではないとも取れる。それは大問題だ。なぜならSpotifyは音楽を誰よりも愛し、素晴らしい音楽を作るアーティストを応援するために運営していると自社のCMで明言しているからだ。つまり、応援はするけどお金は払いたくないということになる。応援はアーティストの音楽を宣伝することであり、人々の耳に触れさせることである。それが巡り巡ってアーティストの認知度を高め、アーティストを応援することになる。Spotifyが目指すのは応援であり、金銭提供ではないという。有料サービスであるAppleMusicと比べると1再生で0.01ドル支払われるのに対し、Spotifyは250再生してやっと1ドルらしい。単純に1再生あたり0.004ドルだ。Spotifyが無料サービスであることを考えてもかなり安い。お金が好循環しないサービスはサステナブルなのか。そもそもSpotifyは儲ける気がないのか。たしかにSpotifyには広告がほとんどない。あるのは自社の有料サービスへの誘導だけ。サブスクリプションサービスは乱立している。ほかのサービスと差別化を図りユーザーを囲い込むことでサービスの継続を促すことが必要だ。だが、その差別化の中でアーティストの利益が損なわれているのであれば、アーティストのためでないのであれば、何のためのSpotifyだろう。聞く人のため。会社が儲けるため。そのために楽曲を提供するアーティストはひもじくても良い?三方よしでないサービスを今後も続けていくことは出来るのだろうか。この記事の意図するところはなんだろう。下げ記事といえばそうかもしれない。しかし、ひとりのSpotifyユーザーとしてちょっと残念。朝によく聴く人なので余計だ。……昔の話をしよう。昔、音楽がiTunesで販売されるようになり始めた頃、世の中では音源の無断アップロードが蔓延り、CDが売れなくなった。あまり大きい声で言えないが借りたCDを空のCDに焼けば買う必要は無い。そんなふうにCDはどんどん売れなくなった。Winnyというファイル交換ソフトも摘発された。そんなとき、わたしはアーティストを応援するつもりでCDアルバムを買った。なるべくたくさん買うように務めた。アーティストを応援することは突き詰めればお金を払うことである。わたしはそう思っていた。その気持ちに今も変わりはない。たしかに当時よりは払うお金は減ってしまった。CDも買わなくなった。CDプレーヤーすら今の私の家には存在しない。すべてAppleMusicに取って代わった。AppleMusicは月額制の有料サービスだ。だから例え1再生0.01ドルでもアーティストに入るのであればわたしは繰り返し繰り返し再生してアーティストにお金を払おう。もっともっとたくさん聴きたいから。アーティストにお金が回ればもっと新曲を聞くことができる。そうやって巡り巡ってわたしの好きなものが生きていける。そんな世界こそわたしのすきをすきと言える世界だ。最近、パラリンピックのテーマソングの件で小山田圭吾さんが槍玉に上がっている。実はわたし、彼の大ファンだ。いや、だった。学生の頃に聞き狂った1人である。それは、現実に対するカウンターパンチのような、現実を打破するような力を当時の楽曲からもらったのである。そこに、小山田圭吾さんはたくさんの力を注いでいた。たしかに褒められた人格ではない。そもそも人格者ではない。アナーキーな人だ。アナーキーであればなんでもやっていいという訳でもない。過去のやんちゃを暴露され、そのことについて謝罪することは当然だろう。それでいい。彼もいい大人になったのだ。自らの矜恃を守るよりもっと大切なものを守ったのだ。わたしは彼は辞退してもいいのでは……と思った。昔の彼ならなんの迷いもなくそうしたに違いない。だが現時点ではそうしていない。それをしたということは、もう音楽で勝負するしかない。万人の琴線に触れる音楽を作ってきた人ではない小山田圭吾さん。人選ミスだろう。デザインあの曲もかなり危ういバランスで成り立っていた。ファンタズマのあの作り物のデザイン性の上に成り立っている。その後のdropの延長にある。確かにそれはひとつの方向性だった。彼の中にある音をシンプルに鳴らした結果だった。だが同時にそれはかなり利己的でポピュラリティからはかけ離れていた。その後、彼はずっとひとりで自分の中にある音を時折鳴らす人になった。そんな人にデザインあはスポットライトを当てた。ただそれだけだ。彼は変わろうとしない人だ。その彼が今回の件で少し「変わった」のかもしれない。攻殻機動隊ARISEの楽曲も、わたしは聴いていない。今回はどうだろう。おそらくスターフルーツサーフライダーのような楽曲だろう。デザインあのような物だろう。当たり障りのない空気のような音楽に違いない。わたしはそれが寂しくもあり、切なくなるのだ。どっちに転んでも、今の世の中は、彼のような歪なキャラクターを、空気を読めない人を、徹底的に排除する。わたしも弾かれるひとりだ。だからひっそりと目立たないように過ごしてきた。こうしてブログやTwitterでもわたしの意見を広めようとは思っていない。むしろ私の本心などどれぐらい発信しただろう。人と違うことを忌み嫌う世の中でありつつ、心の底では個性を求めているいまの時代。僻み、つらみ、妬み、そんな負の感情に流されず、人それぞれがそのまま生きられる時代になってほしいと切に願う。

 

それじゃあまたね(了)


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