ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

ムジカのキオク。♪note:https://note.com/ryoushitsumusica ◆YouTube: https://www.youtube.com/channel/UCWvTBOe1O9GICLtyreUu-6Q

49歳で会社を辞めたら、月収20万円のバイトに転落。独立も転職も厳しい現実とは? « 日刊SPA!



だから45歳を過ぎた転職は危険である。

という記事だった。この件について私の意見を述べたい。わたしはアラフォーで転職した。その時思ったのは、この歳の転職活動は思った以上にキツい戦いだという感想である。前職である程度認められていた……という部分もこの記事と同様だ。また、前職を辞めるきっかけもほぼ同じである。その結果どうなったか?新たな世界で1から出直しを迫られることになり、収入は減った。その分精神的な開放感は得られた訳だがその分生活は余裕が持てているとは言い難い。この記事の方は飲食業で独立したわけだが、マネジメントが上手くいかず事業撤退となったとある。おそらく、今のコロナ禍の影響も少なくないに違いない。そして50を過ぎて改めて職を探すという結果となったとある。ここは他人事とは思えないほどのリアルが感じられて戦慄した。いまの会社で出世はできなくともある程度の地位を確立しているのであれば、それは何ものにも変え難い財産である。特にサラリーマンとしてこれからも生きるのであればそれは偶然が味方して運良く手に入れたゴールドチケットである。そのことを十分に、いや、十二分に理解しておいた方がいいだろう。ましてや、上司や他のスタッフと反りが合わない程度でドブに捨てていいものではないはずである。万が一そこから這い上がることが出来たとして、ゴールドチケットを持っていた頃の自分には到底叶わない世界で生きることとなるからだ。それを承知の上で荒野を目指すのであれば、それ以上何も言うまい。私自身もそうやって全てを捨てる覚悟で荒野を目指した1人だ。結論はさっき言った通りだが、給与面での減額は避けられない。その上で厳しい社会の目に晒されることを覚悟した方が良いだろう。よしんぼ、雰囲気のいい会社に拾ってもらえたところで、生活出来なければそれは地獄であることと代わりがないからだ。私自身、特別なスキルを持っていたかと言えば全くそうでは無い。だから給与面は新人レベルになるだろうことは想像していたので、前職を退職するまでにしたことと言えば、それは生活レベルを下げることだった。もっと直接的にいえば支出を極限まで減らして生活出来るルーティンを構築したと言っていい。それでよく生活できるねといわれたことすらある。ミニマリストと言えば聞こえはいいだろう。だが内実は質素な生活を余儀なくされているだけである。だが、わたしはそれを予測出来ていた。その点においてはまだマシだったに違いない。以前と同等の生活レベルを維持できると夢見て、転職という荒野を目指す人がいれば、わたしは全力で引き止めたい。なぜならそれは不可能だからだ。万が一高い給与でヘッドハンティングされたとしても、新しい職場に馴染めなくてまた辞めていくという人をこれまでも沢山見てきた。有名な都市銀行から出向してきたAさんもそういう人生をたどった1人である。今はどうしているのだろう……。わからない。それぐらい、転職とはある種のギャンブルであり、さらにそれが未来永劫続くかどうかという別のリスクもかなり高い確率で存在する。それでもなお、転職という荒野を目指すというならば、得られるのは精神的な自由だけと思った方がいい。それすら得られないことも有り得るからだ。私の場合はそこだけは得ることが出来た。そういう意味で最悪を逃れている。ある意味でラッキーだったのである。

 

それでもあなたは転職しますか?

 

それじゃぁまたね(了)


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人脈ってねえ



わたしは人脈がない。

もう一度言おう。わたしは人脈がない。それはずっと、わたしのコンプレックスだった。なぜ、人脈を広げよ、と説くのかと大いにわたしを悩ませた。だってよく考えてほしい。大して仲良くもない人達とのうっすい関係(主に飲み会とかいう時間の浪費以外の何物でもない地獄の会合)をなぜ、続けなくてはならないのか?あまりにも理不尽だし、あまりにも不毛である。もしも100歩譲ってその人との関係が私にとってメリットがあるのなら、わたしは続けても良い。だがどうだ。わたしが心の友と書いて心友と思っていた男性は、配偶者に煙たがれいまとなっては音信不通である。つまり、わたしは誰とも深く付き合う資格のない底辺なのだと痛感したわたしだ。だからこそ、いわゆる人脈はない。1本もない。あってもなにそれというレベルの仕事上の関係だけである。それ以上わたしに関わって欲しくないとすら思って生きてきた。だから、冒頭のように、わたしにはまったく人脈が、ない。無くていいと思って生きてきた。しかし、確かにそれはそうでない方が良かったのだと時々思う。相談相手がいないというのは長い人生で不自由以外の何物でもない。両親と仲が良い場合でも、自分が歳を取れば当然居なくなる。結婚相手を相談相手にしたわたしであるが、しかし、やはりと言うか、家族には余計な心配をかけたくないことの方が増えてきた。相談したくないわけでは無いが、答えのない不安感だけが共有されてはたまったものではないからである。そこで、私は、詰んだ。人生の人脈を発掘してこなかったわたし。誰にも相談できず、ひとりで苦悶する日々。そして、後一歩のところで心が壊れそうになった。そのときにオンラインゲームに逃げ場を求めたわけである。人脈を作るというとどうもしっくり来なかったわたし。しかし、最近になっていい言葉を見つけたので紹介したい。それはなにか。一言で言えば、株式会社自分という組織の社長として、人材確保をするという脳内設定の有用性である。株式会社自分では、常に人材を募集している。それは雇うために探すと言うより、人生における尊敬できる人を集めるという感覚に近い。わたしという会社で仲のいい仲間だけですきに会社を起こすとしたら誰がいいのか。そんな選定基準である。そうすると、それは恋人ではないことはわかるだろう。友達。それも、特に気持ちの良い関係が結べる相手しか選びたくない。それが、株式会社自分で共に働く相手を選ぶという行為を正当化してくれる。友達、特に心友を選ぶ基準をわたしはそこに定めた。わたしは女性の方が気楽に話せる。男性は苦手だ。だから女性がいい。でも、恋人感覚のある人だとつらい。なにせ心友になって欲しいからだ。わたしの姉に近い存在がいい。わたしの最初の心友は紛れもなくわたしの姉であった。

わたしに人脈はない。だけど、人脈を探しに見にゆこう。星のかけらを探しに行こう。福耳がそう言っている。つくづくわたしも歳をとったものだ。

 

それじゃあまたね(了)


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『FF14』ネタバレ全開の『漆黒のヴィランズ』秘話を吉田P/Dが赤裸々に語る(前編)。構想時には『覚醒エオルゼア ...



主人公は自分である。

ファイナルファンタジー14のプロデューサー兼ディレクターの吉田直樹さんはそう言った。言い切っていた。そしてこう続けた。吉田直樹さんの好きなドラゴンクエスト3もそうだから、と。そして、世界を救う主人公は自分でなければならないと言う考え方は、ドラゴンクエストの生みの親である、堀井雄二さんから受け継いだという。それを聞いた時、わたしはファイナルファンタジー14の漆黒のヴィランズが名作であることを語っているはずの記事だったことをすっかり忘れ、吉田直樹さんがここまでファイナルファンタジーの地位を地球規模の高い次元まで高めたのはまさにそこにこそあるのかもしれないと思った。ドラゴンクエスト3の良さと、ファイナルファンタジー3の良さの融合、そしてそこにインターネットの力によるオンラインゲームならではの新しいコミュニケーションの可能性をミックスしたのがファイナルファンタジー14である。味付けは当時を知っている大人向けである。大人はコミュニケーションに飢えている。社会で散々楽しくもない毎日を送っている大人にとって、このコミュニケーションは心のオアシスそのものだ。そして、オンラインゲームは果てがない。また、昨今の出かけられないという世情も上向きに作用していることは言うまでもないだろう。つまり、ありとあらゆるニーズがこのエオルゼアに集結している。そしてその味付けはドラゴンクエストファイナルファンタジーの魅力を知り尽くし、さらにオンラインゲームの醍醐味もすべて熟知したマエストロ吉田直樹さんだ。面白くないわけが無いのだ。今回の漆黒のヴィランズが名作となったのは、吉田直樹さんが敷いた鉄壁のインフラの上に、ナツコイシカワさんのエモーショナルなストーリーテリングが炸裂したことに起因する。ハイデリンゾディアーク編のサーガとしてのフィナーレを迎える前日祭のような盛り上がりのそれは当時を知る人からは熱狂的に支持され、当時を知らない人達(わたしもそのひとり)には後追いでその完成度の波が押し寄せるという波状攻撃が作用した。これこそがここまで長期間に渡ってこの漆黒のヴィランズの人気を押し上げてきた理由である。今聞いても胸が熱くなるほどの人間愛、家族愛、それぞれの愛に満ちた幸せな時空がここに広がっているのだ。わたしが漆黒のヴィランズに対して感じたある種の既視感の正体は、世界設定の鏡像世界に説明されてしまう。ストーリーテリングのいい意味での濃い味付けは、当時を知る人達へのファンサービスであるからの味付けであると説明できよう。グラハの人気は元々から高かったが、そこにダークホース的にエメトセルクというキャラクターを配置したことがいい意味で対比になった。光と闇の対比を分かりやすく絵にした形である。世界を救うのは自分であって、他の誰かではない。その当たり前のように思えるけれどなかなかゲームの中に落とし込むことが出来ない要素(特に今のような高クオリティゲームなら余計に)をうまくゲームの中核に組み込むことが出来たことが要因である。ファイナルファンタジー以外では、モンスターハンターがそれに当たるかもしれない。ドラゴンクエスト11の主人公は、自分とは言い難い。ドラゴンクエスト10は……まぁいい線いっていたと思う。個人的にはオンラインゲームとしての完成度がイマイチだったと思うのだけれど。子どもっぽいというか。エオルゼアは大人っぽい?いや、厳密に言えばドラゴンクエストを学生向けとするなら、ファイナルファンタジーは……んー、20代前半向け?大人向けであるとは言い難いけど。いわゆる一般人向けになると、洋ゲーとかになってしまうので、よほど日本人向けにはならない気がする。特に女性人気は期待できまい。よほどゲームが好きな大人女子ならいいかもだけど。わたしみたいに、ライトユーザーはやはりどこか可愛らしさとか子どもっぽさがほしい。子ども過ぎると良くない。世界設定が幼すぎると、心の底から主人公になることが難しくなってしまうからだ。

ここまでファイナルファンタジー14における吉田直樹さんの成功の理由を考察し、改めて納得した私であるが、最後に少し不安なことを明記しておきたい。それはファイナルファンタジーの最新作、すなわちファイナルファンタジー16に対する不安だ。もし、ファイナルファンタジー14の成功の理由が上記のことなのであれば、そのすべての成功の理由を期待できそうにないゲーム。それが、ファイナルファンタジー16だからである。ゲームの主人公は私ではない。よく分からない中年のオジサンだ。ゲーム全体に漂う味付けこそ大人向けであるそれは、さっき私が言った洋ゲーのそれである。つまりよほどのゲーム好きな男性ゲーマーか、1部の女性ゲーマーには響くかもしれない。けれど、その声に答えるにはファイナルファンタジーというブランドでは子どもっぽすぎる。つまりアンバランスなのだ。ドラゴンクエスト3と、ファイナルファンタジー3という過去の名作を下敷きにすることは出来ないだろう。それをやるとファイナルファンタジー14になってしまうからだ。そして、極めつけはオンラインゲームではないということである。オンラインゲームの伝道師である吉田直樹さんは現代におけるオフラインゲームをどのようにデザインするのだろう。つまり、今まで誰にも出来なかったオフラインゲームを高クオリティで表現しつつ、さらにゲームとしての遊び心地をそれぞれ高水準で融合させることを求められている。しかし、オンラインゲームユーザーの吉田直樹さんにそれは荷が重すぎるのではなかろうか。もちろん期待はする。けれど、最近高評価されているオフラインゲームはアニメを多用したようなゲームだ。天穂のサクナヒメがそのいい例になるだろう。もしくはあつまれどうぶつの森のような手触りである。しかし、そのどちらにも属さないファイナルファンタジーでは、あまりにも部が悪すぎる。つまり、どんなに頭をひねっても、ファイナルファンタジー16が大成功するという未来を描くことがわたしは出来ないのである。未来を悲観してはいけない。だが同時に未来に多すぎる期待をしてはいけないと思う。すくなくとも、吉田直樹さんにはファイナルファンタジー14の制作を今後もしてもらいたいのだ。余力を残しておいてほしいファン心理でもある。そして、ファイナルファンタジー14ユーザーであるところのわたしにとって、ファイナルファンタジー14を止めてまでやるファイナルファンタジー16は、ファイナルファンタジー同士で食い合う共食いになってしまうのではないかというそもそもの危惧もあるのだ。ファイナルファンタジー7で感じたある種の不安感が的中しなければいいけれど……。もう少し説明しておくと、ファイナルファンタジー7リメイクの不安感とは、高クオリティで作ったが故に分作という未完成品をリリースせざるを得なかったという事実を指している。果たして。

 

それじゃあまたね(了)


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ブッダの教え「絶対に付き合ってはいけない4種類の人、付き合うべき4種類の人」 言葉ではなく、その人の行為を見よ | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

 

悪友を避けて善友と付き合いなさい。さもなくば

1人であゆみなさい。これがブッダの教えだという。初耳だった。誰とでも仲良く、という教えかどうかすら、わたしは知らなかったのだから、仏教、ブッダの教えについては皆無に等しい。しかし、いま、この、言葉はとても心に響く金言であると言わざるを得ない。誰とでも仲良くなれる、は、昔、特技かのようにもてはやされた。いや、むしろ推奨すべきコミュニケーション技術であったように思える。つまり、どんなに気が合わない人とでも仲良くすることが推奨された社会だ。そのため、そのルールから少しでもハズレようなら強力な同調圧力によって抹殺されたのである。それは和を尊ぶ日本社会らしい発想であった。この論述が正しいのであれば(正しい?いや、そういう説があるのであれば)、日本人の考え方を根本から覆す考え方を、ブッダは昔からしてきたのであって、間違った解釈をしてきたのは日本人のほうと言えるのである。自慢ではないが私は友達がいない。いや、むかしはいた。小学生の頃は。でも、それも今思えば甚だ疑問であると言わざるを得ない。というのも、その彼らが友達だったか?という質問にわたしは明確に答えることが出来ないからだ。ただなんとなく一緒にいた、と表現した方が適切であるとすら私は思う。というのも、このブッダの教えからすると、私が辛い時に励ましてくれたり、嬉しいことを一緒に喜んでくれた記憶がない。確かに何度か一緒に遊びに行ったりもした。しかしそれはどちらかと言えばほかに行くやつがいなかったからであったように思う。そして、助け合うということを一切してこなかった。だから、ただなんとなく、一緒にいたというだけだ。彼らを悪友だとはわたしは思わない。しかし、良くもなかった。そのため、このブッダの言葉で言うところの善友であったとはとても言い難い。その後、高校で別れてしまい、それっきりではある彼ら。彼等を友達と今更言えるだろうか?わたしは首を横に振りたい。その後もたくさんの人がわたしを認識してくれた。中にはわたしを毛嫌いしてくる厄介な人もいた。当たり障りのない関係でどこかへ消えていった人もたくさんいた。しかしそのどれもがわたしが心から友達だと呼べる人は一人もいない。そして思った。わたしには友達はいないのだ、と。社会に出るとその傾向は益々強くなった。会社の仲間はいる。けれど友達ではない。週末にどこか出かけるときもあった。けれど、それはどこかわたしという奇人変人をイジって遊ぶようなオモチャみたいな存在であった。わたしはますます人が信用できなくなり、私に友達はいないのだという孤独感だけを強くした。そしてわたしは少しでもわたしのことを馬鹿にしない人を大切にしたいと思うようになる。それは性別に関係なくごく稀にいた。中には誰にでも優しいというやっかいな存在もいたので、判別することは遂にできなかったけれど。それでもわたしを特別に大切に思ってくれる人を追い求める中でいろんな経験をしたし、わたしもそれに応えるように努力した。今思えば受け入れてもらえないことに慣れきったわたしが、誰でもいいから受け入れて!と叫びながら走り回る子どものようだったように思う。事実、わたしを受け入れてくれる人などほんの少数だったからだ。そして今。わたしはオンラインゲームを第2の人生として歩んでいる。その中でも同じようにわたしという奇人変人を遠巻きに見る人達で溢れていた。ここでもか……と思っていたとき、わたしはようやく運命のメッセンジャーに出会うこととなる。それはほかのブログでも沢山書いているので割愛するが、わたしはようやく、わたしという個性をそのまま包み込んでくれる人に出会ったように思えてならない。それは、運命のパートナーである。何度も言うがそれは結婚相手ではない。恋人でもない。わたしが心から渇望してきた、真の友達なのだ。どうしてそう思うか?それは直感ではあるのだが、過去から続くわたしと君とで作る空気と言っていい。それはまさしく、私が生まれてからずっと探してきた空気だ。まさにこのブッダの教えの言うところの、善友であったのである。

 

それじゃあまたね(了)


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『FF』を脱してオリジナルRPGへと変貌を遂げた『ファンタジアン』が面白すぎたのでちょっと解説してみた。『ファイナルファンタジー』生みの親の坂口博信氏が牙をむく



ファンタジアンを大ヒットさせる唯一の方法。

タイトル回収をしよう。それはふたつある。1つはファンタジアンを全てのプラットフォームで遊べるようにすること。もしくは、Appleアーケードをすべてのプラットフォームで解放すること。このどちらかだ。

 

この記事が指摘していることは正しいのだろう。わたしも前半をプレイして感じたのはあの頃のFFが遂に獲得できなかった欠点の克服をやってのけたという点であった。それはストーリー、キャラクターデザイン、音楽、システム、全てにおいて感じられた。これがもしファイナルファンタジーの亜種としてスクウェア・エニックスから発売されたら?相当なヒット作になったと確信できる。わかり安くいえば、同じく亜種の、クロノ・トリガーや、聖剣伝説サガシリーズを凌駕する新たなIPになり得ただろうことは容易に想像できるからだ。なぜそう思うのか?について触れると、理由の一つに、ファイナルファンタジーを知り尽くしている人が、ファイナルファンタジーを超える様に作ったからという事が上げられる。それなら、ミストウォーカー社が他にも出しているだろう。だが、あれら亜種はまさに習作であった。つまりファイナルファンタジーという呪縛から抜けるだけの助走期間である。しかし、ミストウォーカー社も売上を上げなければ会社として存続できない問題から、坂口博信さんは100パーセントファイナルファンタジーに挑むことがで来ていたか?という質問には首を横に振るに違いない。予算の問題、ハードの問題、諸々だ。今回、ここの問題にメスを入れたのが、Appleという会社である。外資の会社にその解決策を提示してれもらうことで、これまで越えられなかった壁を超えた。それは恐らく、予算の問題であり、任天堂ソニーに対するそれぞれの会社間の問題であったように思う。それを、日本ではなく、アメリカの一流企業のApple社が予算の問題を解決した。そして、売上を気にしなくてはならないというゲームクリエイターの問題をもきれいさっぱり消し去ったと言っていい。それは坂口博信さんがそれだけ素晴らしいクリエーターだからであるが、それにしたっておそらくかなり破格の好条件で開発は進められたに違いない。それはAppleアーケードを売り込むためのキラーコンテンツであるという理由に直結する。だが、冒頭でも言ったように、このAppleアーケード独占タイトルという売り出し方に、そもそもの問題点があるように思えて仕方がない。

 

卵が先か鶏が先かという議論に発展させるつもりは無いが、やはり、Appleアーケードというハードは、全てのゲーマーにとってユーザーライクであるか?という問に、それはかなり疑問詞せざるを得ない環境だからである。それはAppleiPhoneにしても、iPadにしても、他のモニターとの接続を推奨していないからに他ならない。Appleアーケードが坂口博信さんとタッグを組み、ファンタジアンを作り上げている中、世のゲーマー達の殆どが、パソコンユーザーへと転換していった。PS5ですら及ばないほどにパソコンでゲームをする人口は増えているのではないかと思うほどである。彼らが望むのは高性能のパソコンと、美麗なグラフィックを余すところなく表現出来る4Kモニターである。そして。コントローラーだ。Appleは、その点を理解していてPS4のコントローラーを整備したつもりらしいが、まだ足りない。それこそが4Kモニターとの接続である。

 

AppleTVを使えばミラーリングできる?ノンノン。それじゃあせっかくの画質が落ちてしまう。反応速度だって、期待できないだろう。それなら、と、lightningケーブルとHDMIケーブルの変換ケーブルを使って有線接続をすればいい?OK。そのとおりだ。だが、待って欲しい。そこまでして、このファンタジアンだけをやるためだけにその環境を用意する人がいるだろうか?それに、4Kモニターはテレビとは限らない。パソコンのモニターである場合もある。わざわざあのモバイルに特化したiPhoneiPadで起動しなくてはならないAppleアーケードにどんな優位性があるのだろう?それなら、AppleMacユーザーならいいか?それこそ世界広しといえどもAppleアーケードをプレイするためにMacを買うユーザがどれほど居るというのだろうか。

 

結論。……はもう言った。Appleアーケードの独占タイトルであることを諦めて欲しい。そして、Steam版なり、PS5版なり、Switch版なり出せばいい。だが、ゲームも賞味期限がある。最初に勢いよくプレイされなければ、後からほかのプラットフォームでリリースしたところで後の祭りだろう。だから、わたしは最後にこう付け加えたい。期間限定でいいから、Appleアーケードを無料解放してもらえませんか? もしくは期限付きでいいからファンタジアンの前半だけ、SteamかPS5でリリースしてください。この名作をApple独占にしておくのはあまりにも機会損失過ぎると思うのです。

 

それじゃあまたね(了)


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コーネリアスでマラソンを走ってみようと思う。(「太陽は僕の敵-The Sun is My Enemy」('93年)のみ): kenzee観光第二レジャービル



少し前の記事になるが。

あらためて振り返っておこうと思う。そう、コーネリアスこと、小山田圭吾さんのことだ。いや、なにも、例の件をぶり返す気などさらさらない。彼は悪いことをしたのだ。それは当時でもかなり批判されるべきものだったが、サブカル特有のカモフラ効果によって世間の目にいい意味でも悪い意味でもとまらなかった。それが今回のようなハレの舞台に立つ時にクローズアップされてしまったのだ。出る杭は打たれるというが、今回のケースはどうだったのだろう。因果応報と言えばいいのか。いずれにせよ、彼は裁かれたわけである。

何度も言うが私はその話を蒸し返したい訳では無い。私程度の小粒のブロガーが何を言ったところでまるで意味をなさないことは自分でもよくわかっている。だからではないが、わたしはこの件については一貫して「仕方がない」と思うようにしているのだ。では、いまさらなんの話しをしたいのか?と言われれば、もちろん別にある。そう、彼が私たちに与えたある種の希望(のようなもの)のことだ。

 

彼をはじめて知ったのはわたしは姉の影響であった。当時、学生たちの間ではメインストリームを愛する一般層のほかに、まだ誰も知らないようなものを深く愛するオタク層が存在した。彼らは深く闇に潜み、彼らの崇拝する偶像を見つけては密かに愛でるという行為を主な活動としていた。そこには、誰かに分かってもらおうとか、この良質な音楽を世の中に広めようなどという外向きの気持ちは皆無に等しかったと言っていいと思う。つまり自分だけが見つけた宝物を誰の目にも触れないところで密かに取り出して目いっぱい愛情を注ぐような。そんな秘匿めいた愛し方だったように思う。それはなぜそうなっていたのかは諸説あるだろうが、ひとつは、誰にも理解されない芸術をわたしだけは理解出来ているのだ(だからわたしはオシャレだ)という考察が存在していた。それは誰にも理解されないわたしをその偶像に見出して、自分自身の存在意義を見出そうとする試みであった。つまり、友達からも理解されない趣味を持っている私は、現実では迫害されているような酷い扱いを受けているものの、自分と同じような境遇でかつ、才能を開花させているアーティストが居た場合、それは自らの境遇を重ね合わることで自らを美化、ないし肯定できる唯一無二の解決策であり、それをもたらす唯一の存在だったのである。つまり端的に言えば、わたしはわたしのままでいいという自己肯定感そのものであった。

 

私たちのような日陰者は、今もいるだろう。しかし、当時はそう言った環境にいる人同士で繋がることは稀であった。奇跡であったと言っていい。だからこそ、自分自身の内面と向き合うことが義務付けられた。しかし、いくら内省しても答えがでないのである。不安は不安を産むばかりで、ちっとも救われる気配などなかったのだ。そして私達は彼らに出会った。そう。フリッパーズ・ギターピチカート・ファイヴオリジナル・ラブらに代表される音楽。通称、渋谷系である。

 

もう少し私を定義する。私は片田舎の地方住みで流行りの音楽など触れることはほとんどない街で育った。流行りの音楽を聞こうとするなら、電車で片道1時間半の都会にでないと行けなかったし、それらの情報を事前に知ることは不可能であったのである。つまり、最新のオシャレを知るには自ら都会に出向き、自らの力で情報収集することが必要だったのである。以上回想終わり。

 

そんなわたしにとって、音楽とは、わかりやすいオシャレそのものであった。昔から母に連れられて向かったスーパーで気になっていたのは目の前のお菓子よりも、店内でかかっていたBGMの方だったし(ボーカルなしのやつね)、ラジオを捻っては流れてくる往年のヒット曲の中で本物の音楽(主にビートルズディスコサウンド)に感動して曲名とアーティスト名をひたすらメモする子どもだった。そんな私からすると、本物=手の届かないもの=夢という図式だったのである。そして、わたしは彼ら渋谷系の人達がしていることを、即座に理解した。あぁ、この人たちは本物を理解している、と。そして、こう思ったのだ。本物を再現しようとしているのだ、と。

 

小山田圭吾さんは、小沢健二さんとコンビを組んでいた(最初は5人)。それがフリッパーズ・ギターである。その彼らから本物を知る喜びを得た私は彼らを天才かのように崇拝した。誰も理解できないでいたのは彼らが劣っていたわけではなく、聴く人の審美眼が鈍っていたからであるとさえ思っていたのである。その後、解散して、小山田圭吾さんはコーネリアスと名乗った。それは彼の好きな映画から取った名前だが、1人ユニットという形式すらわたしには理解の範疇を超えてカッコよく映った。分かりやすくいえば、一人でいることの肯定であったように思う。彼が一人でいるにも関わらずカッコ良さを提示できていることにわたしはむせび泣くほどの高揚感を得た。彼のように1人でもカッコよく生きたい。そう思ったわたしは地元を飛び出して一人暮らしを都会で始めることとなったのである……。

 

今回のオチと言うかまとめ。彼の音楽は確かに今聴くと限りなく本物に近いニセモノだった。それを、良しとしている雰囲気すらあったように思う。つまり、嘘で塗り固められた虚構のHERO。それが小山田圭吾さんであった。そこには努力なんてかっこ悪いというマイナスの側面もあったことはここで明記したい。わたしは彼のそう言う悪い所を真似てしまって大変に苦労してしまった。しかし、何度も言うが後悔はしていない。そして、感謝しているのである。彼は、あの当時、紛れもなく私たちのような日陰者のHEROだった。田舎者のHEROだった。彼の粗暴が悪かったとしても、それはアンチヒーローとしてカッコよく映った。そんな有り得ないほどのブラックヒーローがいてもいい。そういう事実は私たちを勇気づけた。その事は今でも変わらない。間違いなく、93年当時の彼はヒーローだったのである。特に田舎者の私たちにとっては。それだけはここに明記しておきたい。

 

それじゃあまたね(了)


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【吉田輝和の絵日記】宝箱多すぎじゃ?飛空艇が序盤でゲット?初見プレイで驚く『FF3 ピクセルリマスター』 | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト

 

ゲームに求めるもの。

人それぞれでいいので敢えてハッキリと言いたい。ゲームは息抜きという人がいる。そしてゲームはもうひとりの私という人がいる。わたしは圧倒的後者である。しかし、前者のいうこともわかるつもりだ。いやハッキリと言おう。激しく同意だと……!息抜きにはまたこれもいろいろなジャンルが存在する。延々と同じことを繰り返してえられる息抜きと、新しい発見をしていく息抜きだ。前者はレベリングをすることを指す。後者はクリアするまでの初見プレイを楽しむのが王道だろう。昔みたいに周回プレイをすることがほとんど無くなった私。クリア後のお楽しみでさらに強化していく遊びも有るだろうが、いかんせん、モチベーションが続かない。ストーリーに終わりが見えたところで、どうしても冒険を終えたくなる。終わってしまった世界を旅するよりも、新しい冒険に出たくなるのだ。だから次々に新しいゲームを買うことになる。そういう息抜きの点で改めてこの、ピクセルリマスター版のファイナルファンタジー3を考えてみたい。先程も述べた通り、わたしは終わったストーリーにまるで興味が無い。したがって追加ストーリーの存在しないピクセルリマスターになんのストーリー面での魅力を感じない。せいぜい延々と同じことをするという繰り返しの楽しみ、すなわちレベリングを極めるという方向性だがそれにしたってたかが知れている。今日もした所でそれに見合った裏ボスがいなければ強くする理由すらないからだ。全部のジョブをマスターすることで、たまねぎ剣士の強化を図れると言うのならまだ楽しめたかもしれない。しかしそうなると、今後リリースを予定しているファイナルファンタジー5の魅力を損なってしまう可能性がある。あくまで今回のはそれをしない旧態依然としたファイナルファンタジー3であって、やはりこのピクセルリマスターの目指すところは、昔少しだけファミコンを齧ったことのあるライトユーザー向けである。それも我々のような中年向けだ。普段はスマホゲーでガチャを回すだけの人達に寝転びながらプレイしてもらって、ゲームを楽しんでいた頃を思い出してもらう。それが、このピクセルリマスターの真の目的に違いない。あとは過去のリマスターがずいぶん古くなってしまって、当時のリマスターではそのゲームとしての価値がほとんどなくなってきたことも要因である。いずれにせよ、ピクセルリマスターはあくまでライトユーザーの掘り起こしであることを思えばこの中途半端なリメイクも合点が行く。しかし、だ。何度も言うがわたしはピクセルリマスターに魅力を感じていない。レベリングをするだけに3000円も出してオフゲーをやりたいと思わない。未プレイの他のゲームの方が断然マシだからである。ピクセルリマスター自体を駄作だか、大コケだとか言うつもりはない。戦略的にはそこそこ成功しているといっていい。ファイナルファンタジーというブランドにあまり触れて来なかったライトユーザーを取り込めるからだ。しかし。わたしはそんな古い世代の初期メンの1人でありながら、最新型のオンラインゲームという広大かつ無限に広がる冒険の楽しさを知ってしまった。ピクセルリマスターによって提供されるであろう数々の醍醐味はエオルゼアのそれで十分すぎるそど賄われているのだ。だから……買わない。でも、5はやりたいかも。5のリメイクは確かに面白かった。追加ジョブも全部やり切ったし、やり込んだという意味ではファイナルファンタジー5の方がわたしにとっては感慨深い作品なのだから。

 

それじゃあまたね(了)


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