ムジカのぶろぐ。By @ryoushitsu

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誰かの役に立ちたいと思う心理

お久しぶりです。

さて、今日は、「誰かの役に立ちたいと思う心理」についてです。

A君がB君の役に立ちたいと思った場合、

それがA君にとってどういうことになるのでしょうか。

まず、A君はB君を敬っています。

尊敬するB君に「お前は役に立つ奴だ」といってもらえることを

期待しています。

それが、自分の存在価値に直結すると信じているからです。

「B君に役に立つこと=A君が存在していい理由」となります。

こういう立場をわかりやすい図式に当てはめてみると、

召使いとご主人様です。

召使いはご主人様の手となり足となり働くことを

無常の喜びとし、それが自分自身の存在理由なのだと

信じてやみません。

「尊敬するご主人様のもとでお手伝いできることを嬉しく思います」とか。

しかし、ここにはある種の危険性を孕んでいます。

それは、ご主人様の人柄によって大きく状況が変わることです。

ご主人様が良心的で周囲に感謝を惜しまない人格者の場合、

召使いはより大きな喜びをもってもっとご主人様に仕えようと思うでしょう。

これはお互いにとって、幸福な人間関係のひとつです。

召使いは使われたいわけだし、ご主人様は召使いを使いたい

でも、ご主人様は召使いに感謝している

だから召使いはもっとご主人様のために頑張って働く。

幸福の相乗効果が期待できます。

しかし、そうでなかった場合。

召使いを召し使うことはひどく当然のこととしてのみ感知し、

それ以上にも、それ以下にも感じないご主人様。

当然、感謝しませんし、役に立たないといつも非難してばかり。

これではいくら、召使いがご主人様に尊敬の念をもって接していたとしても

よっぽどのM気質の方でない限り、または共依存になっていない限り、

関係は破綻します。

破綻までいかなくても、その前に精神は崩壊するでしょう。

これは、召使いだけの話ではありません。

ご主人様もより醜く、より傲慢になり、ついには非人道的な行為に

手を染める日が来てもおかしくないでしょう。

このように、ご主人様次第で、主人に依存する側の召使いは

運命がわかれてしまいます。

それは、一見、生き方について受身のようで、

自分自信に芯のない、ふがいない生き方のように見えます。

しかし、召使いが、そのことについて自覚的であったなら

話はどう変わるでしょう。

つまり、自分の置かれている状況を積極的に理解し、

全体を俯瞰して客観的に状況を把握している状況です。

召し使われている自分を、どのように召し使われているか、

理解したうえで、あえて召し使われる立ち居地に身を置いているとしたら。

この召使いは、表向きにはすべてをご主人にゆだねた

受身の人生そのものに見えますが、

それが、自覚的となると

そういう環境にいったん自分を泳がせておくことで、

主人の器量を推し量っている、または、

自分の次の身の振り方を、まるで石橋をたたいて渡るがごとく、

慎重にひとつずつ可能性を試している真っ最中であるかもしれないのです。

そうなると、ご主人の器量や人柄に関係なく、

今度は召使いが、自覚的なのか、無自覚的なのか

の問題になってくるように思えるのです。

つまり、結局は自分次第ということ。

なぜ、冒頭で「誰かの役に立ちたいと思う心理」と銘打ったかというと、

誰かの役に立ちたいという意思で動くことは

とてもシンプルだからです。

シンプルだから、あれこれ悩まずにすむ。

結果、楽なんです。

ただでさえ、頭の中はどう生きるべきかという命題について

思案をめぐらせていて忙しいというのに

他人との関係性において、

いちいち損得を図って行動していたのでは、

疲れるし、それだけで人生を使い果たしてしまいます。

僕は、僕自身が一番理解したいことを理解するために

この頭脳を使い切りたいわけです。

この人生のすべてを使い切りたいわけです。

ほかのどの真理も必要としない、

ただ必要なのは、自分という存在の現象と原因と結論。

これを理解したいだけなんです。

そのための、他人との一番楽な接し方が、

誰かの役に立ちたいという心理を持っておくこと

そうすれば、0が1になるように

サクサクと人生の無限の選択肢を選んでいくことができます。

選択は大切ですが、あまり力を注がなくてもいい選択に

必要以上に力を使いたくないですからね。

ともかく、今回は誰かの役に立ちたいという心理というテーマでしたが、

別にこれに限ったことではない気がしています。

何かを思ったり、行動したり、信念に掲げるときは、

表の意味のほかに、

かならずそれとは反対の、もしくはまったく別ベクトルの意味が

付随してくる、ということ。

そこを理解しないといけません。

ものごとは、ひとつの側面からだけ見ていては理解できません。

多方面からも見て、多角的に捕らえることで

初めて正確に物事の位置関係を理解することができるのですから。

なんちゃって。

あー、すっきりした。

今日のグダグダは終わり!

おやすみなさい。