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スピン経済の歩き方:「我慢の3連休」だったのに、なぜ人は「経済」を優先したのか (1/5) - ITmedia ビジネスオンライン

 

我慢をすればコロナは防げても、我慢がもたらす心の病は防げない。

なぜ、三連休を我慢しない人が多かったのか?という疑問。コロナに対しては、あらゆる行動制限(我慢)をすることで感染者を抑えられることは嫌という程わかっているのに、だ。人々は自分のしたいこと(仲の良い友達とでかけたり、買い物したり、集まってわいわいしたり。)をやることの方を優先した。それは、そのことが自分に与える内なる影響がとてつもなく大きいと、わかっているからだ。内なる影響。それが自己肯定感であり、自信であり、希望であり、内なる力である。内なる力を信じて行動することを人間らしく生きることだと仮定するならば、それらを抑制させることはなんだろう。それは我慢を通り過ぎた自己犠牲になったに違いない。国を上げて我慢や自粛を是とする風潮が起こったとき、この国に起きたこと。それが自殺の助長だったのかもしれない。ニュース等で見た。20代、40代の女性の自殺者が増えていると言う。去年の同時期と比べて2倍となっている年代もある。なぜ女性が自殺してしまうのか。生活苦。経済的な不安。それらがあった事は想像に固くはない。けれども、男性が経済的な苦を理由に自殺しているということはあっても、男性以上に女性が自ら死を選んでいるという事実は説明できない。それを説明するひとつの理由が鬱。コロナ鬱と呼ばれるものにあるのではないかと薄々感じていた。それが、裏付けられるようなニュース。そしてこの記事である。わたし個人的にはコロナに対する抑圧された自粛ムードはとても苦手だった。それはどこかで鬱を彷彿させるなにかを感じていたに違いない。緊急事態宣言を経ていきなり在宅ワークに切りかえた際には特にそう思った。これはヤバイ。息抜きが必要だ。それも意識的な息抜きが。怖いのは、家にいるとサボっていると思われること。時間が過ぎるのが恐ろしく遅い。募る焦燥感。なにかをしていないと落ち着かないのに全く何も手につかない感覚。わたしは直感でそれは鬱になりかけていると感じた。そしてすぐにわたしはわたしにそれまでの責任感や使命感を与え続けるのを即座にやめた。意識的に息抜きを入れた。コーヒーを飲んだり、当たりをウロウロした。それははたから見たらサボっているということかもしれない。また、自動車に乗って適当に走ったりもした。それらはすべて、私がしたいことをするという、人として当たり前の感情を取り戻すためのリハビリだった。やりたいことを禁止されるとストレスが溜まる。それらを発散したいと思っても、自粛ムードがそれを阻む。自粛警察が取り締まるような社会は息が詰まってしまう。その苦しみから逃れるようにして人はもしかすると命を絶つのかもしれない。わたしはそう思った。だから9月の連休もそう。昨日までの三連休も、人々は我慢することを辞めた(ように見えた)。それは、政府の言うことを聞かないで、自分勝手に振る舞う人々が増えたと言えば悪いことのように見えてしまうが、それは単に正しくバランスよくコロナを怖がり、適度な緊張感を持ってコロナと付き合っていくしかないのだという達観による行動だと思う。ニュースでも、土曜の人出はあまり増えていないのだが、連休中日の日曜日は人手がかなり増えたらしい。人々は土曜日に一旦は政府の言う我慢をした。しかしニュースで観光地が人だかりということを知ると、それならば私も、という形で出かけて行ったのかもしれない。わたしも同じく日曜日にショッピングにでかけ、夜はクリスマスイルミネーションを楽しんだ。もちろん施設内にいる時はマスクをしたし、手の消毒はしっかりと入店時に行って。それらの対策をしなくていいという訳では無い。対策をした上で、自分が心地よく過ごすこと。人は病気にならないように生きているわけではない。そんなフレーズが今私の心にとてもよく響くのだ。

 

それじゃぁまたね(了)