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オリラジの吉本退社、小林賢太郎の引退から考える「テレビ芸能界」の終焉。“テレビからネットの時代”の行く末とは?(QJWeb クイック・ジャパン ウェブ) - Yahoo!ニュース


 

トランスローカルという真実に近づく未来へ。

 

寡聞にして知らない言葉だ。全く初耳である。だから調べた。それで雲をつかむような言葉であるという認識が変わった。これは、私が感じていたひとつの真実であるように思う。トランスローカルとは何か?という問については各自で調べてもらいたい。ここでわたしがなにか答えを持っていると思われてもやや困惑してしまう。今知ったばかりなのだ。許してほしい。けれどローカルメディアを愛し、ローカルこそこれからの生きる道だと信じている、というとやや大袈裟だろうか。わたしは都会的なカルチャーに憧れを持つわかりやすい人間だった。都会には全てがある。感度の高い人達が集まり、先進的なサービスがあちこちにある。すべての革命的な出来事は都会で行われる、そう思っていた。そう言うと今でもそうだと言う人もいるだろう。今住んでいる田舎では何も生まれないから、と。確かにそういう側面もある。というか、目に見えて衰退している田舎社会にどんな希望や未来が残っているというのだと嘆く人もいるだろう。その通りだ。何度も言うがわたしは何か確信的な証拠を持っている訳では無い。ただ、なんというか、そう、一言で言えば、「感じる。」のだ。都会的な魅力というのはさらに都会的な何かに影響されている。さらに都会的な何かは、かつて、外国にあった。アメリカであり、西海岸であった。現地の人からすればそれこそが都会的な何かであり、それ以外の街、例えばかつての都会的な何か。ニューヨークシティは都会であった。つまり都会的な何かはさらに別の都会的な何かに強く影響された存在でしかなく、それ自体に魅力がある訳では無いのではないか?という仮説だ。それは人であったり、カルチャーであったりする。何となく、ブームと呼ばれるようなものだ。それはかつて街に依存していた。ところが今はネットに依存している。そうなると、街や地域に特定の都会的な何かがあるのではなく、概念的な都会的な何かがネット空間に存在するようになる。そうなると、逆に巨大なネットワークからある意味で距離を置いている、ローカルネットワークに価値が生まれる。そこに希少性があるからだ。特異性と言ってもいい。ローカルに根ざす人は頭ではネットワークに繋がりつつも、敢えてローカルネットワークであろうとする傾向にある。かつてそれはなんらかの弱みや金銭的な弱小チームであるが故の選択であったが今は違う。あらゆる選択肢の中から選ばれた強烈な意味を持ったひとつの答えなのだ。そこに意味があってローカルであろうとする姿勢だ。トランスローカルとは、そういう側面を指摘したものであるとわたしは理解した。違うかもしれないけれど、このふたつの記事を見た時。わたしはあぁやはりそうかと思った。トランスローカルであろうとして作る現代の最新ムラ社会。そして、オンラインサロン。その2つは本当の意味で救世主となり得るか。……わからない。しかし、興味はある。ローカルメディアとして、媒体化されるひとつの答えとして。それは雑誌や、新聞、フリーマガジンといったオールドメディアの復権(というと急にチープに聞こえるだろうけど)を意味している?わからない。でも。無くなりはしないだろう。トランスローカルとはまさに、そういうものだと私は思う。技術やテクノロジーが発達したところで、変わらないものはある。そのひとつにローカルという存在が必ずあると信じている。

 

それじゃぁまたね(了)