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マスとネットの広告費逆転の裏側で進行する、「広告」という行為の変化(徳力基彦) - 個人 - Yahoo!ニュース



広告は悪なのか。

   わたしは小さい頃、テレビをよく見る子どもだった。ラジオもよく聞いた。その中で印象に残ったことと言えば、番組の内容や流行りの歌謡曲ではなかった。今も強く記憶に残っているそれは、番組と番組の間に流れる、とんちの効いたコマーシャルである。

 

   コマーシャルとは、TVCMやラジオCMなどのことを言う。これらは主に新作のお知らせとして機能した。そんな中、私の耳とココロを鷲掴みにしたコマーシャルは、そうではなかった。端的に言えば、「変なCM」であり、「その発想はなかった!」という驚きであった。もちろん、コマーシャルを構成する要素に、音楽はある。音楽をメインとするCMもあったし、ナレーションが秀逸なCMもあった。だがそれらはひとつの要素であって全てではない。1番大切なことは、いかにCMを見た人が気持ちよくお金を払いたくなるか?という実効にこそある。

 

    お金を使うことが罪悪となって久しい。お金は使うものではなく、貯めるものだという風潮は根強い。老後に必要な資金として2000万だの、4000万だのと言われて久しい日本において、ミニマリストや節約家は美徳とされた。その結果、日本はデフレから抜け出せなくなっていると言っていい。お金は使うものである。お金は経済の血液であり、潤滑油である。お金を何処かタンスにしまっておいてはお金は錆びてしまい、経済という血管に流れるはずの血液は途絶える。それが今の日本ではないだろうか。

 

    日本は日本人向けにビジネスをすることを諦めた。日本人向けに作ったところで儲からないからだ。そればかりか、文句ばかり言われて炎上するばかりである。それならば、と海外に目を向け、グローバリズムの名のもとに、世界各国に向けてローカライズしたサービスを展開した。いや、しようとして出来なかった。それは、英語圏という大きな市場におけるイニシアチブを、日本語圏というマイナー中のマイナー言語を操る国民性では、ナショナリズムなど相手に太刀打ち出来るはずあろうもなく、あえなく撃沈した。そして頼みの綱である補給線すら、母艦(日本本社)から途絶えたのである。日本が目指したフロンティアは、すでに欧米各国に占領されたレッドオーシャンであり、日本人など太刀打ちできる隙間は最初から用意されてなど居なかったのである。

 

    話を広告に戻そう。わたしは広告が好きだ。好きな広告を挙げよ、と言われればすぐに5つは浮かぶ。主にTVCMではあるが、ラジオでも、紙媒体でも好きなものを挙げよ、と言われれば喜んで浮かぶ方である。CMを悪だとする人は、ではどうやって無料サービスがこれだけ世の中にあるのか考えたことはあるのだろうか。

 

    お金を儲けることを悪だとする人は、貧乏を嘆いてはいけない。なぜなら、貧乏を打破する方法は節約ではなく、お金を多く儲けることだからである。「節約」という「美徳」を得るために、無料サービスを使う。それが今の日本がデフレから抜け出せない理由だ。100円ショップ、回転寿しなどに群がり、そこそこ美味しくてそこそこ値段のいいお店に行かないこともまた、それに拍車をかけている。無料(タダ)より怖いものは無い。その言葉こそが真理であり、現実であることに気づく人はもはやいない。

 

   

    広告を悪とする人は、無料サービスを使うことでステルスマーケティングにかけられていることを気づかない。ステルスマーケティングだと気づいた時にはすでに多額の利益を差し出した後である。辞めようにももはや辞められないほどに力が衰えてしまい、立つこともままならない国民性、それがいまの日本だ。

 

   わたしは広告の力を信じている。広告とは、人生を変えうる可能性を持つ現代における魔法だ。それはイメージであり、戦略であり、これまで見た事もない未来を指し示すコンパスである。しかもそれは人の手に委ねられている。誰かひとりの強力な指導者が先導するものでもなければ、カリスマアイドルが目指す世界でもない。それらは宗教であり、コマーシャルではない。儲けるために仕掛けられる戦略は、より豊かで、より幸せな未来を想像する尊い行為だ。それが、いつしか、悪とされてしまった背景には、テレビというメディアが持つ、事実を歪曲して伝える演出にあったとわたしは思っている。

 

    嘘も方便という。それを真面目に仕事にしたのが、テレビが先導した演出という世界観だ。その嘘で固められた嘘に嫌気が指した人達が目指した世界こそ、インターネットである。だが、そのフロンティアは正しいかどうかを判断する事はできない無法地帯であることを自覚している人は少ない。自分が感じたこと、自分が見たこと、それらを「真実」とした人達は、それが「作られた真実」であると知ると、激高し、炎上させていった。テレビに散々騙された人々は皆こういうだろう。「せっかくテレビから逃げてきて、自由な真実のインターネットに来たのに、また私たちを騙すのか」、と。私から言わせてもらえば、インターネットほど見る人を騙しやすいメディアはないのではないかとすら思っているのだけれど。

 

  広告は世界を変える力だ。iPhoneだって、あのカッコ良いCMが無ければ誰もその存在を知りえなかったのである。アプリ、ゲーム、音楽、それら全て、クチコミというメディアだけを信じている傾向は今もなお強い。それにしたって、クチコミの最初はテレビやCM、雑誌やフリーペーパー、フリーマガジンから始まっていることが多いとも知らずに。アーリーアダプターはそうではない。だが多くのマスメディアに属する人達はアーリーアダプターではない。アーリーアダプター向けだけに告知すれば単価を抑えられるという意見は正しい。だが同時にマスメディアを置いてけぼりにするという側面もあり、結果として最も大きいパイであるマスメディア向けの広告を使うことになるのである。広告は人の夢だ。希望だ。願いだ。広告が悪なのではなく、いい人も悪い人もどちらも居るように、悪い広告もある、というだけである。それらを見分ける審美眼さえ持つことが出来れば、それらは恐れるに足らない些末な問題なのだ。

 

それじゃぁまたね*˙︶˙*)ノ"


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